#83

 枕元で音を立てて振動し始めた端末に降谷零は遅滞なく覚醒すると、暗闇の中で鈍く光るその表示を頼りに腕を伸ばした。
 着信、非通知。画面右上の数字の羅列を眺めながら、既に冴えた頭で端末を鳴らしたままでいる。
 降谷は緩慢な動作で滑るように簡易ベッドから降りると、裸足のまま壁伝いに歩き窓辺に凭れかかった。あれから一週間、雨は降ってはいない。喧騒を忘れた夜空を横目に、降谷はようやく手元の画面をスワイプすると、そのまま端末を耳元に押し当てる。
 ――やあ、降谷君。それはまるで、気の置けない友人にでも語り掛けるような声の装いだった。

「あと二日連絡が遅ければお前を指名手配するところだった」

 彼の向こう側に嫌でも想像させられる花井律の姿を思えば、その態度に妙な優越や余裕を感じるから降谷の言葉は冷える。それでもその言い草に威嚇は無いから、君も偶にはジョークを言うのかと赤井秀一は可笑しそうに短く笑っただけだった。
 長い時間をかけて彼のために磨き続けた矛先が砕けたとしても、その燻ぶった記憶が途端に消化されるわけではない。罪悪感に似た遠慮と少しの違和感が生理的な感覚でまだ蟠っている。電話の向こうで笑う赤井秀一のように降谷が笑い返せるようになるには、まだまだ長い年月が必要だろう。
 窓硝子に薄く反射する自分の横顔を確かめて、降谷は小さく吐息した。それでもその表情はあの頃よりもずっと穏やかだった。

「ブラック捜査官から招集通知は受け取っているだろう?キックオフミーティングは三日後だ」
『ああ、そういえば返事をし忘れていたな』

 白白しく返った言葉を降谷は聞き流しながら、スピーカーに切り替えた端末を窓の桟に立てかける。衣紋掛けに乱暴に放り投げてあったワイシャツと背広に腕を通しながら、どうせろくに目を通していないであろう議題に触れた。
 皮肉にも花井律誘拐事件を機に公安警察と距離を詰めたFBIは、ジョディ・スターリングを筆頭に日本での正式な捜査権の獲得と合同捜査の展開を打診した。強気な姿勢ではあったもののその実はどちらか一方に有利な内容というわけでもなく、完全に平等な協力体制の構築に重きがある。元を辿ればそれは花井律の提案だとジョディは強調したから、抜かりの無い女だと思う傍らで降谷はその主張をそのまま上司に口添えた。彼等との合同捜査は成功と前進をもたらすだろう確信があったのはもちろん、それをもう二度とはこの仕事に戻らない花井律の功績として残したかった。

『全く君も忙しないな。アダムの残党狩りはまだ仕掛中だと聞いたよ』

 降谷は一瞬、スラックスのベルトを締める手を止める。花井律と赤井秀一の行方には完全黙秘を貫いたまま、こちらの捜査情報は都度横流ししていたであろうアンドレ・キャメルの顔がまざまざと浮かんだ。
 事実、アダム関連の事件はまだ幕を閉じてはいない。三吉彩花の逮捕により喫緊の脅威は取り除かれた格好であるが、彼女自身は組織の単なる枝葉であり根幹ではない。イヴ、ネオ、キキと呼称される今般の事件の首謀者三名は赤井秀一により現場で制圧されたが、いずれも沈黙を守り司法取引に応じる姿勢も見せないようである。上層部の専らの関心事であったカスタマーリストだけが既に降谷の手を離れ、数多の犠牲の元に何人の権力者の日常を守ったのか定かではない。
 火種は蔓延る。この街で何千もの犯罪が無くならないように。

『ミモザ事件の過失はこちらにもある。解決に向けた協力は惜しまない』
「それならスターリング捜査官から最新のレポートの提供を受けたよ。充分だ」
『それもあるが、……いや、そうだな。解決というよりは清算と呼ぶべきだろうな。――降谷零と花井律の話だよ』

 赤井はこちらの反応を窺うように、その名をやけに重たく置いた。
 身構えていたはずなのにそれでも動揺したこの心を悟られたくはなくて、毅然とした態度で肯定でも否定でもない言葉を短く返す。たった二文字だけのそれに、隠しておきたいはずの想いが簡単に染み出してしまっているような気がする。赤井は次の言葉を決め兼ねている。
 降谷は右手に残ったネクタイを首許で結ぶ気が削がれて、「清算」という言葉の意味をただ考えていた。それは今まで積み上げてきたふたりの関係を解消することを意味する。「きれいにすること」、「整理すること」、「きまりをつけること」、そうして、「白紙に戻すこと」。あまりに残酷で美しい意味合いばかりにどうしようもなく可笑しくなる。律も俺も確かにそれだけが望みのはずなのに。

『彼女がなぜ警察官を志したか知っていたか?』

 あの鬱陶しい雨の止んだ日、あの狭い病室の片隅で、降谷零と花井律の関係は静かに狂ってしまった。
 何も覚えていないと話した律の言葉をただいつものように優しく鵜呑みにしてやるだけで良かったのに、降谷が与えたのは疑惑のまなざしと毒に満ちた誘惑だけだ。律は自分にだけは真を語るだろうという打算と、そうしてその結果として律の自分に対する信頼がより積もるのだろうという打算が同時に働いた。一線を引いていたつもりがどこかで律との深い繋がりを求めてしまった降谷の傲慢であり、それを見抜く事が出来なかった誠一郎の誤算だ。
 零君、どうして。律はそれきり降谷をその名では呼ばない。修復の出来ない亀裂の窪みの底で、それでも降谷と律は偽りに汚れた手だけを離す事が出来なかった。

「降谷零という人間に対する不信だろう。確かめた事は無いが、分かるよ」

 公安に配属されてからというもの律が何度も降谷の目を盗んで――盗んだつもりで――父親の事件に纏わる資料を密かに集めていた事を知っていた。
 しばらくの間は注視していたが、情報は秘匿されておりどれだけ足掻こうが隠された記録には辿り着けない。そもそも現場でのただひとりの生存者である律の目にこそ誰も知らない記録が焼き付いているわけで、私刑に走る様子も無い事が分かればようやく降谷は諒解した。
 律は、自分の知る「ほんとうのこと」と、降谷が誂えた「ほんとうではないこと」の不整合を測っている。なぜ降谷は偽るのか、偽りの先で降谷は何を守るのか、誰の言葉も受け入れずただひとり自問自答を繰り返して、降谷零という人間を天秤にかけて見定めている。
 律はいつまでも降谷には尋ねないし、降谷もいつまでも知らぬ振りをする。最も近しい関係で、最も不健全な関係だった。

『ならば彼女がその気持ちを払拭したことも知っていたはずだろう。花井律の手記を君も見たはずだ』

 夏葉原で事件があった日の東都環状線内で、花井律と赤井秀一が何と言葉を交わしていたのか降谷は知らない。それでもあの不幸な事故さえなければ、花井律がその記憶さえ失わなければ、彼女は間違いなく自分の許に戻るだろうという自信は揺らがなかった。
 花井律の心に限って言えば、他の誰よりも、あるいは律自身よりも降谷零が深く理解していた。
 風見裕也の推薦により律が降谷と仕事を共にするようになると、次第に父親の事件に費やす時間が失われた。それは決して多忙に感けて疎かにしたわけではなくて、当時の事件の中で生きる降谷零よりも、この国を守るために誇りを持って職務にあたる現実の降谷零の姿に律が目を向けるようになったからだ。降谷零という人間に対する理解と敬愛が、その胸の中で燻ぶっていた不整合を少しずつ溶かして、塵と化した信頼がまた別の色で積み重なっていく様子が降谷には手に取るように分かっていた。そしてそれがどうしようもなく――嫌だった。

『その時に君達は腹を割って話し合うべきだった。それ以上の軋轢を恐れるあまりに、有耶無耶にして呑み込もうとしたものをすべて』

 その亀裂はある意味では、当時のふたりの関係性を証明する側面があった。
 決して修復の出来ない亀裂を降谷は形ばかりでも修復しようとしていたし、降谷の生きる世界とは切り離された小さな箱庭の中にだけ存在しているあの穏やかで美しいだけの日常を取り戻すつもりでいた。律も当然それを望んでいるものと思っていたし、彼女にはその時をただ静かに待っていて欲しかった。
 しかし降谷の意に反して、律は絶対に超えてはならない境界線を跨いでこちら側へ足を踏み入れる。確かに異質なものとしてふたりの間に存在していた亀裂に無理やり膠灰を流し込み、同じ捜査官として生きなければならない世界線にもう二度とあの陽だまりのような関係は戻らなかった。

「――過ぎた話だ。今更清算も何もないだろう。律はもう戻らない」

 降谷は感情の抑えた声で言い放つと少しだけ冷静が返り、遊ばせていたネクタイを手早く結ぶと姿見の前で支度を整えた。少しだけマシになった目の下の隈を指の腹でなぞり、二、三度まばたく。
 いつまでも本題を切り出そうとしない赤井にささやかな苛立ちが募るものの、いつまでも本題に踏み込めないのは降谷もまた同じだった。言葉を重ねなければならないのは律の過去の話よりも律の未来の話であることを理解しているが、それはつまり自分との決別の示唆である。
 降谷は肌の上を滑らせた指で強引に口角だけを上げる。不貞腐れた顔に口許だけが不自然に笑みを食む。近いうちに降谷に別れの言葉を告げるであろう律を降谷は未練を殺した笑顔で送り出してやらなければならないのに、得意の道化がどうにも上手く機能しない。
 ピッ、ガチャリ。端末の向こうから聞こえたのは何故かこの耳に馴染んだ操作音と解錠音だった。

『律のしたいようにしろと言ったのは、君だろう』

 声の反響の具合が変化して、赤井の声がやけに近く聞こえる。
 何か小さな違和感が降谷の身体にシグナルのように走り抜けるのに、赤井の科白が降谷の意識を先に攫って行く。

『彼女は帰るよ。君がただそこで手を拱いていたとしても』

 まるで既に彼の中ではその結論に折り合いがついているかのように、声調だけがあまりに穏やかだから、降谷の判断は余計に鈍る。
 含意を汲み取り下手な比喩はやめろと吐き棄てたいのに、その言葉に託された意味だけが分からない。何十もの仮説が途端に頭の中で熱を帯びて駆け巡り、再び永い眠りから覚めたような心地がする。数多の言葉の絡まる舌先でようやく降谷が赤井を追及しようとした瞬間、低く唸るようなエンジンの起動音が響いた。
 反射的に、違和感が融解する。端末を乱暴に掴むと、降谷は弾かれたように駆け出し仮眠室を飛び出した。

「……っ、そこを動くな、二分で着く」

 薄らとしみたれた蛍光灯の照らす長い廊下を、目も止まらぬ速さで駆けてゆく。一陣の風が吹いては跡形も無く消えるように、余韻すら残さない。
 降谷は、赤井と顔を合わせた所で何を訴えるべきか、明確な答えを持ち合わせてはいなかった。何を説明させたいのか、何を受け入れさせたいのか、それすら分からないまま自分がとても大切な分岐点に無理やり引きずり出された事だけを理解している。
 心臓が跳ねる。全身に血を巡らせるためというよりも、降谷の張り裂けそうな精神の揺らぎを敏感に捕えて。

『それでは意味が無いんだ、降谷君。また同じ事を繰り返してしまう』

 ――すまない、緊急だ。譲ってくれ。
 ポーンと間抜けな音を鳴らして丁度到着した突き当りのエレベーターに、今にも乗り込もうとしていた職員を制して飛び乗った。
 小さく聞こえた悪態はしかし、その相手が降谷零であることを視認すると途端に言葉を訂正する。恐縮して頭を下げた男の視線はそのまま降谷の足許に落ち、素足のままで走り回っているその様にぎょっとして目を剥いた。
 ひとつの弁解をしている暇も無い。降谷は滑る指先で地下二階のボタンを押下すると、やけにもたついた動作で閉まる扉に舌打ちする。既に降下を始めた事が分かるのに、クローズのボタンをガチャガチャと音を立てて押し込む。

『君が自ら彼女の手を取り彼女と生きる道を選んで初めて、君達の関係は新しく始まる』

 ひとつ、またひとつ、点滅を繰り返すフロア表示に降谷は小さく呼吸した。何かそうして規則性のある動作を自分に強いる事で、興奮した神経を意識の外に追いやる他ない。
 あとふたつ、あとひとつ。特有の浮遊感を少しだけ残して昇降を止めたエレベーターは、仄暗い地下駐車場の片隅で開口する。

『降谷君、あの娘から逃げてはいけない。――それが君の責任だ』

 夏の夜の底で湿気た空気は少し冷たくて、少し現実味に欠ける。お前は本当はまだ夢の中に居るのだと告げられたら盲信してしまいそうになるのに、穏やかに凪いでいた声は最後に少しだけ尖って、確かなほろ苦い後味を遺していく。
 赤井。腹の底から叫ぶ声は駐車場中に響き渡るのに、応えは返らない。降谷がコンクリートを蹴る音だけが、静かな世界を揺さぶっている。
 こちらの意見など最初から少しも聞く気が無くて、言いたい事だけを言い散らかして当の本人は煙のように消えてしまった。ようやく辿り着いた愛車の前で、為すすべなく肩だけを上下させて立ち尽くす降谷の手に握られた端末からは、虚しく終話音が流れるばかりだ。

「……どうして、」

 わずかに温度の残る運転席のシートには、花井律の顔写真付きのIDカードと車のスペアキーが置かれている。まだ警察に籍の残る律のIDを使用して警視庁に入り込み、以前に律に預けたままのスペアキーで車内に侵入できた事は想像に難くない。
 しかし、それだけだ。それ以上に降谷が現状から読み取れる情報は無く、消えた赤井の行方も隠されたままの花井律の居場所も分からないままだ。まさかご丁寧にこればかりを返却しに来たわけでもあるまいと、手の中で握り締めたIDカードとスペアキーが音を立ててぶつかる。
 ブウンと、その時同時に右手の端末がまだ振動した。すかさず反応して画面表示を確かめるも、それは風見裕也からの着信だった。

『仮眠中に申し訳ありません。アダム事件の残課題の件で、管理官がお呼びです』

 戻らなければならない現実が否応なしに迫って来る。消えた足跡を追いかけている場合ではない事を理解していて、それでも降谷は動けない。
 赤井もそうして自分と電話を繋げて、この地下通路を歩いた。花井律を連れ立たせてはいない。本人から貸し受けたのか、それとも無断で拝借したのか定かではないふたつの鍵で、降谷零の車両にまで辿り着いた。あえて降谷に知らせるかのようにわざわざ車内にまで潜り込み、そうして――そうして、エンジンを回した。
 再び眠りから目覚めた愛車の始動音は、静かで淀みが無い。シフトノブの向こうで同時に起動したカーナビの画面は、辺りを明度の低い光で照らす。

《目的地が設定されました。ナビゲーションを開始します》

 息を、呑む。降谷の瞳に映し出された青白い地図の向かう先を、降谷は知らない。
 それでもその瞬間、赤井秀一の思惑も行動の意味も、そして花井律の居場所も全て、点と点がひとつの線に繋がる。まるでとても難解な事件の真相に辿り着き、ひとり全てを掌握するあの瞬間のように。電話の向こうから聞こえ続ける所在を尋ねる風見の声に、降谷はやはり動けない。

 "彼女は帰るよ。君がただそこで手を拱いていたとしても"
 "知りたいんです。私が私として、これからを生きていくために"

 仰いで、瞳を閉じた。不確定に蠕動する命運の渦中で、降谷零は望まぬ岐路に立たされている。


prev next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -