#82

 黄昏の空は水平線の向こうに引き摺られて、海の向こうでは繁華街の人工的な明かりを含んで独特な煌めきを放ち始めている。
 毎年多くの海水浴客を集めるビーチが大橋を渡ってすぐ近いようだが、手前の岩礁を隔てた東側は展けた海岸が少なく歩道も整備されていないため滅多に人は立ち入らない。砕けた貝殻混じりの白い砂には人の足跡ひとつ見つけられず、何処からか流れ着いた漂流物や朽ち木も手付かずのままでいる。
 律は物珍しそうに寄せては返す波を眺めていたかと思うと、恐る恐る波打ち際に直立して、足首が海水に浸かるのを待っていた。数度繰り返すと引いた波を今度は自ら追いかけて、返り討ちに合うように膝の辺りまでを濡らしている。
 浅瀬に居るようにと声を掛けると、律はくるりと振り返って手を差し出した。冷たくて気持ちが良いですよと、久方ぶりの弾けるような笑みで言う。
 赤井秀一はその様に絆されるように、咥えようとしていた煙草を紙箱に捩じ戻すと律の手を取った。仄かな律の手の温もりと、足先に浸食する冷たい海水。今にも太陽を完全に呑み込もうとする海は、群青色に染められていく。

「泳ぐのは得意ですか?」
「そうだな、君が溺れても問題ない程度には」
「良かった。ふたりとも金槌だったら困るので」

 赤井の切り返しに律は可笑しそうにまた笑って、繋いでいない方の手を海面に伸ばし遊ばせた。パシャリと跳ねるような水音に、律の手の平から零れ落ちた雫がまた海の膜に還って同化する。掬っては落ちて、掬っては落ちるその単純な動作を見ていても、不思議と飽きる事は無い。
 綺麗、だった。ふたりだけのこの聖域で繰り広げられるあまりに幸福なその瞬間を、どうしたら永遠というフレームの中に仕舞い込めるのだろうかとそればかり考えてしまう程に。

「でも海は少しも怖くないので、私も泳げると思いますよ」

 やや誇らしげな様子で続けた律にはだから赤井は上手く相槌が打てずに、興ざめた表情を気取られないよう昏い海に目を傾けた。
 真昼の海とは違う、見る者を誘うようににじり寄る深度の暗闇。寄せる波の音もゆらゆらと揺らぐ水面の律動も一緒くたに最後は同じ闇に溶け出して、生と死の境界線までもが曖昧になる気がする。これが永遠の在り方なのだと教われば、それもいいのかもしれないと妙な凪いだ気分になる。
 ひとりで遠くに行こうとしないでくれよ、俺は君とこのままこの海で溺れても構わないのに。
 喉の奥で焦げ付いた科白を、詰って飲み込む。抒情的な言葉で惑わしたいわけではない事を思い出す。

「――考え直してくれないか」

 パシャリとまた落ちた水音を合図に、視線が再び交わった。とても近い場所で、まやかしが許されない距離で。
 律の表情からふっと笑みの色ばかりが消えるが、それ以上の動揺は見て取れない。まるで赤井がそう言い出す事を分かっていたかのように、冷静を添えた声が返る。

「何度も考えて決めた事です。気持ちは変わりません」

 淀みの無い物言いには、迷いだけが無い。迂闊に踏み荒らそうとすれば、圧倒的な意志の力で排除さえ厭わないような響きがある。もはや自分の言葉がその心を揺さぶるだけの影響力を失ってしまっている事に赤井は気付いているのに、ふたりの間に輪郭の滲みだした終止符を受け入れることが出来ない。
 赤井の知り得る花井律の全てを知った律は、「明日、東都に帰ります」と、ある種の決意に磨かれた清清しさで言い切った。そしてそれはどうせ全てを開示する前から決断していた事なのだろうと、根拠も無いのにうらぶれた確信が赤井を包んだ。

「言いたくはないが、降谷君は君の復帰を望んではいない」
「分かっています」
「……分かっていないよ」
「……、分かっていないのは、あなたの方でしょう?」

 あまりに淡く、穏やかに、律の言葉が無防備な胸を刺す。消えない苦しさばかりを残してゆく。
 こういう時の彼女は途端に大人びて、赤井はいつも導いているつもりでいるその手を見失うから、思わず繋いだままの手を先を確かめた。絡めた指のひとつでも剥がせば簡単に解けて、そうしてすぐに繋いでいたことすら忘れてしまうのだろう。
 この手を離したくはないと思えば思う程に浮かぶ言葉は意に反して取り繕われていくから、何度も何度も消し込んで赤井は本当の言葉だけを探す。その決断を挿げ替えたいわけではないことを知って欲しいのに、伝えたいことの半分も伝わっていないような気がする。

「君を彼に渡したくないからそう言っているわけじゃない。君たちの関係は……、花井律と降谷零の関係はどうしたって互いに傷付け合う」

 律のしたいようにしようと諭しておきながら、あの時確かに降谷は律を見限った。互いに別の道を歩むことが互いのためであり、そしてそれが律の望みだと信じ、あるいはそう自分に信じ込ませていた。
 花井律と降谷零の関係は、近い未来に必ず毒を生む。還らない花井律の幻影を降谷は手の届く距離に置いたまま、律はいつまでも彼に苦悩を与え続ける存在にならなければならない。それでも彼を追って生きるということは、その未来を避けようと重い葛藤の末に彼女を手放す事を決めた降谷の決断を、踏み躙る事にもなるだろう。

「分かっています。降谷さんに残酷な仕打ちをしてしまうことも、赤井さんが心から私を想って引き留めてくれていることも」

 誰の幸せにもならない、その結末。誰よりも幸せになっていいはずの君が、どうして自ら地獄の門を叩くのだろう。
 君は全てを見通して、そう言う。花井律が望めば降谷零は決して拒めないことも、花井律が願えば赤井秀一はその背を押してやらなければならないことも、全てを見通していて。

「それでも、この道を行きたいです。誰が決めたのでもない、私が決めた道だから」

 凛としたその顔に、赤と青の混じった光が照らされて駆ける。何処からともなく響く空に飛びあがる口笛じみた音は、一瞬消えて、次には炸裂するような轟音を轟かせる。反射的に夜空を見上げた律のふたつの瞳の中で、火花の残滓がきらきらと輝いている。
 赤井が遅れて視線をくれてやると暗闇のキャンバスを彩る光の粒は視野を覆い、残像は雨のように垂れてこちらへ降りかかって来る。夢のように儚い、一瞬の輝き。消えた後はしんと静まり返って、空の闇がずっと黒黒と深くなる。
 それを少し怖がるように、律の繋ぐ手の力が強くなった。来年は打ち上げ花火を見に行こうとそう約束した、あの夜を思い出した。

「……君を愛しているんだ、律。君が不幸になる未来を知りながら、俺がどうしてこの手を離せると思う」

 赤井秀一は、花井律を恣意的に利用するために嘘塗れの甘言で彼女に取り入った。
 記憶障害を抱えて生きる律から都合の悪いものは全て遠ざけ取り上げて、そうして自分の身分までも偽り仮初の恋人ごっこで時間を稼いだ。罪悪感など無かった。目的のために全てを犠牲にして生きていた赤井にとって、今更罪悪感を抱く事の方が罪深かった。
 症状に回復の兆しの無い律には、赤井は案外と早い段階で今後の算段を考え始めた。これ以上彼女にコストを投入したところでリターンの回収は望めない、どこかで諦めて損切りするべきだろうと頭では分かっていたはずなのに、その機会は次第に遠ざかってゆく。赤井秀一として痛みの多い人生を歩んできた赤井にとって、その過去をひとつも知らない永倉圭として仮屋瀬ハルの隣に拵えた居場所は心地良く、まるで麻薬のように赤井の理性を蝕んだ。

「私の幸せのかたちは、私が決めます」

 そうして自分に鎮静剤を与えることばかりを考えていた頃は、花井律への好意をどこか隠れ蓑にする節があったように思う。
 仕事のために彼女をあの小さな部屋に閉じ込めて、縛り付けた。運命に釣られて歩みを進めるその身体ごと引き戻して、懐柔しようとした。彼女が欲しくて堪らずに、そのためなら卑怯な手段でも何でも講じようとさえ考えていた。それを愛だと暴力的に片づけて、何度も彼女を振り回した。
 これまでに幾度となく好意を言葉にしてきたはずなのに、そのどれもが今心からその幸福だけを願って吐き出す言葉とは違っている。もしも出会った頃からそうして深い愛情で律と生きる器量が自分に備わっていたのならば、律はその道を選んだとしてもこの手を離す事は無かったのかもしれない。過ぎた時間は二度と巻き戻らない。

「彼と共に生きる未来が痛みであふれていたとしても、名ばかりの幸福よりも充たされるものがあると思うから」

 また夜空に上がった花火が鮮やかな閃光を散らして、泳ぐ水母のように空に馴染んで見えなくなる。
 今度はもう律は何も怖がることなく、ゆっくりとした動作で解けた指先は次第に遠くなった。せめて彼女を自分に繋ぎとめておくための気の利いた言葉すら、何も思い付かない内に。

「――赤井さん」

 律の声が、重く静かに、波の音に溶けてゆく。少しだけ頬を震わせると、言葉を躊躇うように唇の端が引き締まる。
 一瞬の静寂と、一瞬の思考の停止。ひときわ強く吹いた風が、赤井と律の間を吹き抜けてその長い髪を揺らした。

「私もあなたを愛しています」

 ふつりと瞼の淵に盛り上がった涙が、音無く滑らかな頬の上を流れ落ちていく。愛を語る言葉とは重ならない拒絶の示唆に、赤井は何も言えずに、動けない。ならば何故とその細い肩を揺らして尋ねたいのに、律の涙が赤井の心を堰き止めている。
 その理由に耳を塞いだまま彼女の手を取って、誰も知らないこの暗い海の底まで沈み込めたらいいのに、海水を吸った砂は重たく足に纏わりついたままだ。思わず目を閉じる。瞼の裏に、彼女を見つめる降谷零の亡霊が浮かぶ。

「何を偽られても、どれだけ嘘を重ねられても、あなたを嫌いになる事だけが出来なかった。あなたが私を大切にしてくれるように、私もあなたが大切です。私と生きることがあなたの幸せだと言うのなら、あなたの幸せのために隣を歩いていたい。……だけど、」

 喉から手が出る程に欲しがったはずの言葉たちに、嘘だけが無い。
 それでも彼女のほんとうの言葉は決別の響きばかりで色付いてゆく。

「今どうしようもなく、降谷さんに会いたい。私はきっとこの先、他の誰よりも彼を深く愛してしまう」

 両の頬を包むように触れた律の小さな手の平に、驚いて目を開いた。
 律が真っ直ぐに俺を見ている。俺だけを見ている。その舌先は他の男の名前を紡ぐ癖に、彼女は俺を確かに愛している。
 またひとつ鮮やかな光線を散らしながら暗闇に火花が上がって、遅れて空を鳴らした。薄い背に回した腕を引く。ふたりの距離が重なる。
 赤井は静かに顔を寄せるとあまりにやさしく、そうして穏やかに、少しつめたい律の唇に口付けた。頬に沿う指の先が僅かに震えたのが分かるが、拒みはしない。未来を失った何処に行く宛もない口付けであることを理解しながら、儚いただこのひとときにしがみついたままでいる。
 あかし、のようなものなのだろう。彼女と俺が、心から深く愛し合っていたのだという、そのあかし。何の意味もない、心を満たすのかどうかも分からない、いつか砕けると知れている記憶の中に無意識のうちに刻み込もうとしている。――ああ、俺は、間違いなく降谷零よりも深く彼女を愛している。

「……必ず証明してくれ。彼と共に生きる未来で、君が誰よりも幸福になることを」

 律は瞳の淵に堪らない寂しさを残したまま、微かに苦い笑みを口許のあたりに含ませて、はい、と消え入るような声で確かに返事をかえした。
 ひときわ大きな波が打ち寄せて、足許がぐらりと漂い感覚が曖昧になる。身体の一部を鋭利な何かで削り取られたかのような消失感に、何度も何度も視点が泳いだ。せっかくだから最後まで見ていきましょうかと、空に咲く光の花に目を逃がした律の声が随分と遠く聞こえた。
 あとどれだけの時間、ここでこうして彼女とふたり、この煌めきを眺めていられるのだろう。数十分と経たぬ内に花火は打ち止めて、空はまた全てをのみこむような静かな闇を思い出すのだろう。人の想いも記憶もそうして全て、最後は波の立たない海のような静けさに還ってゆく。唇に残る仄かなあの温度を思い出せなくなる頃に、花井律への身を焦がすような恋心も忘れられるのだろうか。
 降谷零と共に生きる未来で律が幸せに生きてゆくために、俺に出来る事は何が残されているのだろう。愛した人ただひとりを忘れる術すら見つけられないまま、赤井秀一は考え続けている。


prev next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -