#84

 高く昇った朝陽は街の隅隅までを照らすように輝いて、海面を反射する光の粒が目に痛い程に眩しい。昨晩の幻想的な夜がまるで嘘のように消失してしまうようだから、花井律は少しばかり後ろ髪が引かれるような思いを抱えながら、それでも穏やかな潮風に背を押されるように歩みを止めることはない。発色の美しい白いリネンのワンピースの裾が、一歩を踏み出す度にひらりと靡く。
 海岸線沿いを進む道端ですれ違いざまに、年端も行かぬ少女は思わずその姿を振り返った。伸びた背筋に迷いの無い足取りは力強く、飾り気の失われた装いは清廉さを引き立てている。何よりもあのすべてを具に見つめるような澄み切ったふたつの瞳があまりに魅力的だから、あえかな彼女の存在感をとても大きくしているように思えた。
 ――きれいな、ひと。囁くように呟いた言葉はさざめく波の音に攫われていく。遠くなる律のその手首に嵌められた唯一の装飾品が陽光を受けて眩く、少女の瞳に最後まで煌めきを残している。

《荷物を纏めて、昨夜花火を見た海岸へ》

 セーフハウスに訪れた静かな最後の朝を、律は初めてひとりで迎えた。
 寝覚めに髪を撫でたあの大きな手の温もりも、幾度となく夢見を気遣ったあの吐息混じりの柔らかな声も、伸ばした手の先でただ冷たいだけのシーツの感触がすべてを塗り替えてしまう。本当は初めから隣になど誰も居なかったかのように。
 律は平坦な心それだけを守り抜けるよう、淡淡と支度を整えた。ふと立ち止まれば溢れて止まない幸福な記憶の数々を思い起こさないように、最初の記憶に刻まれたまま消えないあの香りを探さないように。その深い愛を自らの手で跳ね除けておいて、恋しがってはいけない。

《P.S. 悔しいが君にとても良く似合う》

 リビングルームに残された書き置きに、だから涙を堪えられなかった自分を律は酷く窘めた。
 ペーパーウェイト代わりに置かれていたのは、降谷零から与えられたステンレス製の腕時計。破損したままのそれを処分出来ずに大事にしまい込んでいた律を、彼は一度として責めたりしなかった。
 赤井秀一。私に似た弱さと狡さ、そして私には無い揺らがない強さを持つ人。
 堰き止めていたはずの記憶が眦から玉のように零れる涙に変わるから、律は誰も居ない部屋で声を上げてひとしきり泣いた。手の中に握り締めた腕時計の文字盤は綺麗に修繕されて、あの日から止まったままの時を新しく刻み始めていた。

『お掛けになった電話は、電源が入っていないか電波の届かない場所に――……』

 海岸へと繋がる細い勾配を下りながら赤井の電話を鳴らすが、珍しく自動応答のメッセージが返る。東都に戻るための車を手配すると昨晩話していたが、それ以上の詳細を聞かされてはいなかった。そもそも待ち合わせ時刻も何も無いあの書き置きに、最後まで出発の時は律に委ねられていたように思う。
 近くなる潮の匂いは夜の湿りを掻き消して、明るい陽射しを浴びた軽やかな気配がした。
 海辺に見えた人影は背を向けて座り込んでいるから、律は繋がらない通話を切ると走り出す。しかしその刹那、風が遊ぶように揺らした金髪に、この瞳と記憶に焼き付いたグレイの背広に、白い砂を蹴ったはずの律の脚は勢いを失う。
 彼は、降谷零は、そうしてこちらを振り返った。反射的に立ち止まった律とは対照的に、酷く落ち着き払った動作で立ち上がるとこの名を呼ぶ。凪いだ様子でいるのに、その声色ばかりが少しほろ苦い。この邂逅が誰の手引きによるものなのか、律に分かるのはただそれだけだ。

「……、似合いませんね。砂浜にスーツ」

 言葉が唇の先で微かに震えた。降谷零という人間と対峙する時、花井律は本当はいつも少しだけ恐い。
 一体彼はいつからこの場所で自分を待っていたのだろうか、そしてその無為な時間にどれだけ思いを巡らせ、何を考えていたのだろうか。深い皺の刻まれたスーツを汚す白い砂粒が、零れるように地面に還ってゆく。
 いつか降谷のその口から言い渡されるだろう、決定的な終止符。心の端に棲みついた得体の知れない小さな恐怖がその予感であったことを、律は今この瞬間にようやく理解した。ふたりの未来がいつも不安定で、不確実で、光の当たらない闇の中で彷徨っていたせいだ。

「私を公安部に復職させてください」

 だからもう何も恐れることなど無いのだと思うと、目には見えない枷が外れるような気がする。誰かに何かを赦されたかのような、そんな不思議な心地がする。この結末だけがこの心を救う唯一の道だったのだと、ある種の清清しさがある。
 降谷は随分と長い間、真一文字に口を結んだまま黙っていた。肯定も否定も滲ませない、行き場のない逡巡。おそらくもう何千と繰り返し探し続けたその問答に、彼は未だに答えを用意できてはいないようだった。
 降谷零。誰よりも高潔で気高い心を持ちながら、本当は私よりもずっと繊細で脆い人。
 その苦痛をひとつでも多く取り除いて楽にしてやりたいと思うのに、花井律の存在そのものが降谷零の苦痛の種であるという、どうしようもない矛盾。これから先を共に歩いていくためには、互いに何度でもその背反を乗り越えなければならない。

「――君の過去は、俺が全て背負うと言ったのに」

 ザッと一際大きな音を立てた波が寄せて、また返す。初めて崩れた表情のその端に、力無い笑みが微かに取り残されている。
 受け入れ難い諦めを静かに甘受する顔をさせなければならないことは、声を上げて責め立てられるよりも辛い。それでもこの剥き出しの痛みから、逃げてはいけない。

「私はあなたと一緒に生きていきたいから」

 花井律として生きていくと口先だけで嘯いたあの日から、花井律自身に距離を取ったままでいた。
 降谷の愛した花井律ではない「私」という存在を認めて欲しくて、ふたりの間に生まれたいくつもの綻びに気付いていながら見ない振りをし続けた。いつかそうして、過去のしがらみから解放された先で互いに深く分かり合える日が訪れるのだと盲信していた。――それはとても、愚かな行為だった。

 "彼女は雨の日が好きだったよ"

 もう二度と花井律という人間が還らない事を予感していても、降谷の記憶の中に残る美しい想い出が色あせる事は無い。永遠に止まない雨の中で鮮明に息衝いている花井律の残像に、彼は語り掛け続け、あの特別に優しい眼差しを注ぎ続けるのだろう。
 心から愛した人に先立たれた人が皆、彼らの墓標の前で長い時間を費やしてそうするように。

「花井律が記憶を失ったことと、降谷零が花井律を失ったことは、同じ問題のように見えて本当は違います」

 あまりに痛ましくその瞳が揺らぐから、律は伸ばした手の平で降谷の両頬を包むように触れた。 
 動揺無く、前触れ無く、美しい眦にふつりと涙が盛り上がる。透き通ったふたつの青の瞳が、濡れたまま律ばかりを見つめている。
 もしもこの世に神様が居たとして何でもひとつだけ願いを叶えてくれるのだとしたら、私は永遠にこの人が涙を流せる唯一の居場所でありたいと、迷いなくそう願うのだろう。

「私が負うべき傷まで、あなたが奪わないで」

 しずかに、しずかに、透明な涙が零れ落ちる。距離の無いこの手の中に染みていく。堰を切るように。ああ、何と愛おしいのだろう。
 互いの胸に等しく空いたあの風穴の向こうで腫れあがった傷を、ようやくそうして素手でなぞる。花井律の手にしか触れられない傷と、降谷零にしか触れられない傷。炎症したままでいたそれは、癒える合図のように少しざらつき始める。
 降谷の美しい瞳が、堪え切れずにぐしゃりとゆがむ。

「……彼女を、愛していたんだ。狂おしい程に。引き返せない程に」

 降谷は、長い間喉元に閊えていたその言葉を絞り出すように言った。その愛がすべてこの身に注がれているのではないかと錯覚するほどにとても甘くて、とても切ない。
 律の頼りない左手に覆うように降谷の手の平がゆっくりと重なって、この存在を確かめるように強引に絡まる。その指先がまるで意思を持つように力強く、熱を宿している。
 
「君の向こう側に律を見てしまうのに、俺は君自身もとても好きなんだ。嘘みたいな理屈で、どちらも本当のことだよ」

 降谷零は花井律というこの器の中に在るふたつの存在を眺めはじめた時から、それを認める一方、どこかで抵抗したいようだった。今を生きようとする律の背を押してやりたい思いがあるのに、それが降谷の想い出の中に生きる花井律を葬る行為であることを自覚していたのかもしれない。
 降谷がこの名を呼ぶ時、降谷がこの身体に触れる時、律は何度もその対象が酷く曖昧になることがあったが、「あなたは誰を見ているの」と、今までただそれだけを尋ねることが出来ずにいた。

「決まりをつけるまでに長い時間がかかる。確かな約束もできない。その間ずっと、君を深く傷付け続けるかもしれない」

 彼は、いつもそうだった。降谷零はいつも何よりも花井律が傷付くことを一番に恐れて、自らを盾にすることを厭わなかった。
 今そうして自分自身が律に向ける刃にならなければならない事実は、降谷零の在り様に大きく作用する決断だろう。

「構いません。それは同じように、私が乗り越えなければならない時間だと思うから」

 困ったように、そして少しだけ安堵の混じった複雑な笑みで、吐き出すように笑う。
 絡みついた律の手をそのまま引かれると、僅かの距離が重なり草臥れたシャツの胸元に寄せられる。優しく逞しいその腕に抱きすくめられるその瞬間、「あなたは誰を抱いているの」と、もうその迷いに揺さぶられるようなことはない。
 大丈夫、私とあなたは共に生きていける。大丈夫、私たちはまたここから始められる。想いを乗せた両手をその背に回す。
 もうこれ以上、互いに片目を瞑るようなことはない。もうこれ以上、着地点の不確かな駆け引きなどしなくていい。

「馬鹿だな。楽をして生きる道が他にあるというのに」
「どうでしょう。回り道をするだけで、私は同じ幸せを求めてしまうと思います」
「……これが本当に、君の幸せなのか?」

 縋るように締まる二本の腕が強くて苦しくて、離れがたい程にどうしようもなく心地が良い。
 降谷が記憶の中の花井律と向き合って生きていくように、律もまたこの身の何処かに虚ろいでいるもうひとりの自分に向き合って生きていく。
 
 "戻りたいって気持ちと同じくらい、このまま誰も知らない所へ行ってしまえたらとも思います"

 この世に生きる人間が皆等しく背負っている過去を、決して蔑ろにしてはいけない。誰しもが藻掻き続けている目を逸らしたくような葛藤に、打ち負けてはいけない。
 あの日の彼女がそうであったように、今、私自身がそうでありたいと希うように。

「あなたと生きる不自由な未来さえ選ぶことが許されるなら」

 律は翳りの無い澄み切った双眸で、降谷を見つめる。
 どれほど眩い宝石を集めた所でその輝きに勝ることはなく、どれほどの毒を焼べた所でその輝きを曇らせることなどできない。それは、きっとこの先永遠に。
 だからその確信に、降谷ははっとして息をのむ。身体中を支配していた果ての無い逡巡の糸が今ここで、確かに千切れた音がする。はらはらと零れ落ちるそれは光に透けたように色を失って、空中で溶けていく。

「私はきっと、世界中の誰よりも幸せです」

 花井律の強い決意に満ちた言葉を受け入れるように、降谷は打ち震える己の心ごと律の身体をひときわきつく抱き締めた。
 この先耐え難い苦難がふたりに降りかかったとしても、逃げ出したくなるような苦悩の日が続いたとしても、ともに生きていくと決めて今ここから始まったこの日だけは、決して忘れることのないように。
 律は、潮騒の混じる降谷の胸の鼓動を聞きながら、その肩越しに空を見つめた。
 青い、青い、この晴れやかで柔らかな陽射しのただ中で。


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