#08

「花井が自殺したって?」
「死体が見つからないらしいから」
「でも、ホームに脱ぎ捨てられた靴がさ」
「え?花井が過労死?」

 自殺でも過労死でもなくただの行方不明だ勝手に殺してくれるなと、同僚達の迂闊な噂話に口を挟む余裕もなく、風見は上司の待つ一室を目指し庁舎を大股で歩いていく。
 律が消息を絶ってから早二日が経過し、風見はこれ以上隠し通せるものでもないと、直属の上長に事の顛末を報告した。もちろん律と降谷の間で繰り広げられた大喧嘩のくだりには少しばかりの脚色はさせてもらったが、それでも降谷の責任が問われることは免れないだろう。
 尾ひれ羽ひれを付けて噂は直ぐに広まるし、降谷の機嫌は風見史上最高に悪いし、風見の胃はキリキリと高い悲鳴をあげて痛んだままだ。

「降谷さん。入ります」

 性急なノックをふたつばかりして、風見はモニター室に入室した。
 降谷は振り返りもせず、返事すら寄越さず、ただただ夏葉原駅の事件当時の監視カメラ映像に魅入っている。風見ですらもう五十回は繰り返し確認したであろう映像に、見つけることのできない部下の手がかりを、それでも探し続けている。
 風見は食堂で購入したばかりの降谷の分の弁当を、差し出そうとして、やめた。仮眠くらいは取った方がいいのではないかと、風見はそれすら言い出せない。

「目撃者からは、有力な情報は得られませんでした」

 せめて役に立つ情報のひとつでもあれば良かったのだがと、風見は悔しそうに唇を噛む。風見はこの、無能ぶりを露呈する価値のない報告をしなければならない瞬間が一番嫌いだ。自分の存在意義は、降谷への貢献をもってしか量ることができないのに、今までにも度度こういった報告をして、いつも奈落の底に突き落とされたような気分になった。

「申し訳ありません」

 しかし、今、実際に奈落の底に落とされた気分でいるのは降谷の方だろうと、風見はその気持ちを慮る。手の届くかに見えた花井の消息は、夏葉原リセットマン事件を機に、靄にでも包まれたように消失してしまった。
 結論から言えば、降谷は夏葉原総合病院で何の手がかりも掴めなかった。もとより、搬送された患者は皆その日中に帰宅を許されており、もちろん律の姿など残ってはいない。降谷は病院側と警察側の記録に齟齬が無い事を確かめた上で、病院関係者に直接話を聞いて回った。分かったことは、花井律も、花井律と思われる人物も、病院に運び込まれてはいないというその事実ばかりである。しかし一方で、律が東都環状線に乗車したその事実も動かない。降谷の予測通り東都駅近くのコンビニで傘を購入した律は、その足で東都駅十四番線のホームに向かい、事件車両に乗車したことを監視カメラから風見はその目で確かめている。

「風見」
「はい」
「車内で男がナイフを振り回していたら、君ならどうする?」
「はい?」

 しかも、それを裏付けるように、律のパンプスは車両の座席下に転がっていたのを発見された。部内に蔓延る噂では何故かホームに脱ぎ捨てられていたことに話がすり替わってしまっているが、実際はそうではない。彼女は事件の起きた車両で、明確な意図を持って己の靴を脱いだのだ。
 再生が終わった映像をリモコンで再び巻き戻しながら、降谷はやはり風見を振り返ることなく、静かに問う。

「……お、応戦しますが」
「なら、その男が爆弾を所持していると騒いだら?」
「……、爆発物の回収が、優先です」
「そうだな。彼女もきっとそう思っただろう」

 頭出しした映像が、再びモニターに映し出された。
 律が東都駅から夏葉原駅までの駅で途中下車をしていないことを、風見はもう嫌という程確認している。しかし、だからと言って夏葉原駅で降車した確かな証拠があるわけでもない。乗客により爆弾魔が乗車しているとの状況が運転士に伝えられると、間の悪い事に車両は夏葉原駅の目前で緊急停車してしまった。問題の車両はホームに届かぬ位置で止まり、監視カメラの映像には映らない。パニックを起こした乗客は車内に留まってくれるわけもなく、手動で扉を押し開け線路にすら飛び出し一目散に車両を離れようとした。
 当時は酷い雨でただでさえ映像が不鮮明である。尚且つ、命からがらホームに這いあがって来る乗客には所どころで開かれた傘が差しだされ、彼等を上手く隠してしまっていた。律の姿など、どう足掻いたって見つけ出すことは出来ない。

「ただその爆弾はブラフだ。危険性は無い。そうしたら?」
「男を拘束します」
「その後は」
「最寄りの駅で下車して、連行するでしょうか」
「ああ。だが花井はそれをしなかった……いや、できなかったのか?」

 風見は降谷の思考を邪魔せぬように、言葉を選び適切な間を持って返答を繰り返す。
 律の足取りを追うため、降谷と風見は夏葉原リセットマン事件の詳細を一から洗った。真相への足掛かり足りえる、公には報道されていない細微な情報が二点ある。一つは、実行犯の男は鉄道警察が到着する以前に何者かによって伸されていたこと。もう一つは、夏葉原駅到着直前で粉砕した窓ガラスの破損原因が特定できないこと。前者は緊急停車による偶然の事故とされ、後者もまた偶然の自然劣化として一応片付けられてはいるが、これがどうにも杜撰だ。急停車による衝撃で両肩の関節は外れないし、破損直前に響いたピストルの発砲音に似た音を聞いた乗客は一人や二人ではない。

「何故?負傷はしていない。何故、現場から消えた?」

 しかし、それが律の仕業であったとしても、律が消えたその原因が分からねば意味が無い。降谷と風見が探しているのは既に解決した事件の真相ではなくて、そうではなくて、花井律の居所それだけである。
 やはり目撃情報が欲しかったと、風見は思った。実行犯の男は気が触れてしまっており、とてもではないがまともに話を聞けるような状態ではない。事情聴取に応じた人達は当初の様子こそ情報を提供してくれたが、爆弾騒ぎとなってからは自分の身を護る事で精一杯、誰も男の周辺の動向など気に掛けている余裕などない。ましてやそれまでただの同乗者であっただろう律の顔など、誰も覚えてはいない。

「何かを見逃している。外的要因が必ずある」

 降谷は再び、映像を巻き戻す。
 一体、この男はいつまでその行為を続けるつもりだろう。風見の顔が思わず引き攣る。
 実際、降谷はもう映像など見ていないのかもしれない。ただ己の思考の整理のために、切り替えのために、その単純な動作を繰り返しているのかもしれない。しかしそうだとしても、風見の目には降谷のその執着が異常に映る。もしも行方知れずになったのが律ではなくて自分だったとしても、それでも降谷は今と同じように自分を探しただろうか。

「風見」
「はい」
「律儀に付き合わなくていい」
「えっ?」
「他にも仕事を抱えているだろう?」

 まるで自分の思考を見透かされたかのようで、風見はぎょっとする。言い終わってようやく振り返った降谷と、今日初めて視線が交わった。
 他にも仕事を抱えているのは、風見よりもむしろ降谷の方と言える。実際降谷はこの二日間、ありとあらゆる予定を端からキャンセルし、一切の業務を先送りにしている。風見にフォローが出来れば良いのだが、降谷の仕事は安易に誰かが取って代われるものでもない。そうして山積みになっていく仕事は、確実に降谷の首を絞めることになるだろう。
 もしもこのまま律が見つからなかったらと、風見の脳裏に俄かにそんな不安が過ぎった。いつも風見の二歩も三歩も先の無数の可能性を考えつくしているはずの降谷は、今その仮定を僅かでも想定しているのだろうか。風見にはその潜考をくみ取る術がない。

「いえ、問題ありません」
「目の下の隈がひどいぞ」
「う、生まれつきです」
「ハハ」

 乾いた笑いをひとつ吐き出すと、降谷は再びモニターに振り返りそれ以上風見に意識を向けることはない。

 "俺の命令が聞けないのなら、公安を辞めたらいい"

 あの日、あの発言がなかったとしたら、律は今も風見と共に職務に励んでいたことだろう。だとすれば今、降谷をそこまで追い詰め駆り立てているのは、上司としての責任を感じてばかりのことなのだろうか。いや、そればかりではないと、風見は思う。

 "父の知り合いの方です"
 "知り合いの娘さんだよ"

 二人を初めて引き合わせた時のことを、風見はとてもよく覚えている。知り合いという単語をやけに強調したのが、どうにも互いに他人行儀を貫く宣戦布告のようにさえ聞こえて、状況の分からない風見の前で二人の間に火花が散ったからである。ああ、采配を間違えたと、風見のモチベーションはその時一度死んだ。今後の円滑な業務の遂行を諦める程度には、二人の関係は険悪に思えた。しかし、実際に業務を共にし始めると、風見の不安は一気に霧散することとなる。仕事は驚く程に良く回った。あれ程いがみ合っていたかに見えたはずの二人は、それを業務に持ち込むようなことは決してない。降谷は良く教え、律は良く学ぶ。何故仲だけが悪いのだろうかと不思議なくらい、二人の仕事の相性はパズルのピースのようにカチリと嵌った。
 プライベートへの干渉は良くないと控えていたが、どうにもその間柄が気になってしまい、風見は降谷に律の父との関係を遠回しに尋ねたことがある。降谷はしばし思案した後で、花井律の父親が降谷と同じ、警察庁警備局警備企画課の職員であったことを風見に教えた。あったとそう過去形で語るのは、風見がその話を聞かされた頃には既に、彼は殉職してしまっていたからである。律は幼い頃に母親にも先立たれており、父親の死をもって家族というものを失った。花井父と深く親交のあった降谷は、残されたその娘である律の世話を何かと焼く機会があったらしい。それもあるのだろう、どうにも自分は父親のような気で花井に接してしまう時があるとぼやく降谷に、風見はそれ以上何も聞けはしなかった。

 "この案件は彼女には携わらせるな"

 風見は、知っている。ある一定の水準を境に、降谷が律の登用を嫌がる理由を。
 危険な仕事だからと避けて歩かせていては、いつまでたっても彼女はこれ以上は育たない。そんな事は降谷が一番分かっている。しかし分かっていても、たとえ律に嫌われ疎まれようとも、それでも降谷は律を危険に晒す事に耐えられない。風見が知り得る、冷静で理知的なはずの上司の、たったひとつのエゴである。
 ふと、風見は、端のモニターに反射している降谷の横顔に気付いた。公安の降谷零とはまた違った、その男の憂いを帯びた表情に、風見は不意に思う。そうだ、あれは娘を心配する父親というよりは、むしろ、と。そこまで考えてハッとした風見は、大袈裟にかぶりを振る。彼等の逆鱗に触れるであろうその言葉は、口が裂けても言ってはならない。剥き出しの地雷をわざわざ踏みに行く程、まだ自分の目は腐ってはいない。風見は思考を切り替えて、再び律の行方について模索し始める。
 しかし、事件性のない案件を手放さざるを得ないのは、降谷とて例外ではない。その数日後、花井律の捜索は、無慈悲にも、打ち切られた。



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