#09

「今朝は卵、どうします?」
「スクランブルエッグ!」
「出し巻き玉子」
「はあ。話し合って決めてくださいね」

 すっかり冷えてしまった味噌汁の鍋を再び火にかけながら、律は示し合わせたように同時刻に起き出してきた二人の男に向かってやや投げやりにそう言った。時刻は午前九時を少しばかり過ぎ、忙しない世間一般から見れば大幅な寝坊である。二、三時間前までは確かに腹の減っていた律も、既にその峠を越えてしまったようで最早朝食という気分ではなかった。先に済ませてしまっても良かったのだが、居候という身ではなかなか丁度いい塩梅の身の振り方が分からない。
 律は銀のボウルに卵を割り入れくるくると菜箸でかき混ぜながら、結論を待つ。それぞれの要求を飲んでやるつもりなどはさらさらない。

「出し巻き玉子になった」
「……話し合ってないでしょう?」
「俺は君の作る出し巻きが好きなんだ」
「永倉さんって、そう言っとけば何でも思い通りになると思ってません?」

 キッチンへ足を踏み入れたのは、永倉、もとい赤井秀一である。寝ぐせのついた髪で律の隣に立った赤井は、特に手伝う素振りもなくその手元を物珍しそうに眺めている。
 蕪木家で迎える三日目の朝は、律に多少の慣れを与え悟りを開かせた。思い出せぬものは思い出せないし、悲観してみたところで今後の人生が転がっていくわけでもない。いくら不可解な荒波に揉まれたとしても、できることをひとつひとつこなして生きていくしかないのだ。律は溶き卵にミルクを注ぎ、その工程にこてんと首を傾げた赤井を他所に、そのまま熱したフライパンに流し込んだ。
 幸運だったことは、律は誰に教わるでもなく、料理ができたことだろう。箸やフォークも問題なく扱い、食事をすることができる。味覚の記憶はないため何が好物だったかを思い出すことはできないが、特段困ってはいない。他にも風呂や着替え、歯磨きといった日常生活を送る上での動作は全て覚えていたし、スマホですら操作することができた。

「やった。スクランブルエッグだ」

 遅れて顔を出した蕪木は、フライパンの中で無造作にかき混ぜられる卵を一瞥して、満足したようにダイニングへ戻っていく。
 当然の選択だろう。ここは蕪木の自宅であり、蕪木の出資のもとで購入した食材で律は調理をしている。意見の不一致を見た場合は自動的に権力者に軍配が上がるものだ。持たざる自分は権力の奴隷なのだと言って、熱の入った卵を皿に移し終えたところで赤井と目が合った。

「ホォー。妬けるな」

 本心かどうかも判断のつかない赤井の言葉は、律をずっと惑わせている。注文通りではないはずの皿を、それでも嬉しそうに顔を綻ばせてダイニングへ運んでいく赤井の背から、律はどうにも目が離せない。
 赤井は、律に対してとても献身的だ。記憶を失い当初茫然自失としていた律の傍を赤井はひと時も離れることはなかったし、君は何も心配しなくていいからと優しく頭を撫ぜた赤井に律は間もなくして心を開いた。いくら恋人とは言え、もしも自分が逆の立場だったとしたら同じことをしてやれる自信が律には無かった。永倉圭という男にとって、律は確かに律であるが、律ではないのだ。それでも永倉はあるがままの律を受け入れたし、過去の関係を遡って律に強制することも、ましてや否定することもない。律は過去の自分がどういった人間だったのかすら分かりはしないが、永倉という男を恋人に選んだ自分自身のことは褒めてやりたいと、そう思っていた。はずだった。
 カタカタと踊り始めた味噌汁の鍋の蓋に、律は現実に引き戻される。どうしたものだろうかと、ガスを止めて三人分の椀に味噌汁をよそいながら、律は深く息を吐く。

「あ」
「うん?」
「このアナウンサー、永倉さんと同姓同名ですよ」
「ゲホッ」

 ようやく揃って席に着き食事を始めると、テレビは情報番組に切り替わり、永倉圭という名の若い男が慣れた様子で原稿を読み始めた。
 味噌汁を啜っていたはずの蕪木は律の指摘に何故か大袈裟にむせ返り、律は慌ててボックスティッシュを差し出す。匙加減を間違えただろうかと一口、汁を啜るが別段味に問題はない。同じくして味噌汁の椀を傾けた赤井は、テレビを見るでも蕪木に声を掛けるでもなく、至極冷静に切り返す。

「別に珍しい名前でもないからな」

 そうしてごくりと嚥下した喉に、まあそれもそうかと律自身も大した感想はなく、未だに咳き込んでいる蕪木を横目に料理に箸を伸ばした。
 永倉圭。年齢は聞いてはいないが三十代前半といったところだろうか、聞いたところで自分の正確な年齢すら分からない律には比較のしようもないのだが。職業はフリーのライターと言っていたが、確かに彼は時折リビングでPCを弄っていたし、こうして通勤電車を憂うことなく優雅な朝を迎えていることからも一応の納得はいく。一応の納得と、そう律が一線を引き見解を担保するのは、だから赤井の口から説明された事の経緯が、律にはどうにも鵜呑みにはできないものだったからだ。

「ハル」

 仮屋瀬ハル。それが律の名前だと、赤井は教えた。
 律はまさしく着の身着のまま、財布やスマホなどは一切持たずに蕪木の自宅で寝かされていた。身分証明書の類はもちろん、名刺の一枚すら持ち合わせていなかった。唯一、スーツスカートのポケットの中からは小銭が数枚発見されたが、その事実はもしや自分は相当に貧困だったのだろうかと律を悲しくさせただけであり、何の手がかりにもなりはしない。しかしそれでも当初の内は、律は赤井の言葉を馬鹿真面目に信頼していた。自分は仮屋瀬ハルという人間で、永倉圭という男の恋人だと信じようとしていた。赤井がそれ以外の事は何も分からないと宣うまでは。

「手頃なアパートを見つけた。食べ終わったら支度をしてここを出よう」
「えっ、また急だな。場所は?」
「俺の自宅の近くだ。君にいつまでも世話になるわけにもいかんよ」
「ああー……まあ、僕は別に、構わないけど」

 赤井は律の名前以外は、何も教えてくれなかった。正確に言えば教えてくれないのではなく、赤井も知りはしないと言っていた。
 生年月日が分からなければ年齢も分からず、住所も最寄り駅すらも定かではない。せめて社会的身分が分かればと思ってみても、勤務先はおろか職業すら不明だと言うのだから律は驚きを通り越して呆れてしまった。そんな恋人があってたまるかと反発してみても、君は秘密主義で何も教えてくれなかったと赤井は言うばかりで、過去の自分に文句を言われても律はお手上げである。
 ならばと記憶を失った直前の出来事を深堀してみても、偶然この近辺で倒れていたところを発見された律は偶然蕪木医院に運ばれて、偶然律が赤井の恋人だと知っていた蕪木が赤井に連絡を寄越したというのである。途中から律は話もろくに聞かずに、偶然、という単語の紡がれる回数を数えていた。結局の所こちらからも自分の動向を探ることはできないし、自分が一体何故道端で靴すら履かずに倒れ込んでいたかなど、あまり考えたくはない。
 いずれにしろ、それが意図的か否かは知らないが、赤井の説明は曖昧な点が多すぎる。彼は本当に永倉圭という名で私の恋人で、私の名前は本当に仮屋瀬ハルなのだろうか。律がそう思うのも無理はない。

「仕事であまり家には帰らないが、なるべく顔を出すようにはする」
「いえ、大丈夫です。お気遣いなく。本当に」
「はは。つれないな。君は」

 しかし、だからと言って、律には自分自身を知る術がない。律は、とりあえず警察に出頭しようと思い立った。然るべき機関の調査を受ければ何か分かることもあるやもしれないし、身元不詳者は何も自分ばかりではないのだ、分からぬなら分からぬなりの保護を受ける方法もある。律に家族や友人がいるのかもまた不明確だが、もしかすると捜索願のようなものが出されているかもしれない。しかしながら、律の思惑を、赤井は何の気なしにスッパリと一刀両断する。

 "君は警察から逃げていたようだったが"

 顔色を変えたのは、律ばかりではなく、蕪木もだった。彼もきっと寝耳に水だったのだろう、今の自分に過失は無いが悪い事をしてしまったような気になる。
 その含意を問うてみても、赤井は相も変わらずはぐらかすばかりで教えてはくれないし、まさか私は犯罪者だったのだろうかと、律は頭を抱えてしまった。よくもそんな危ない女と付き合えていたなと赤井に詰め寄ってみても、そんな君が好きだったと言われてしまえば律はぐうの音も出ない。残念だが今の律はそんなリスク管理さえできない男は願い下げであるが。

「いろいろと有難うございます。蕪木さんも、ご迷惑をおかけしました」

 それでも結局、律は公的機関へこの身を委ねることを諦めてしまった。全くの潔白が証明できない以上、迂闊に警察には出向くべきではない。このまま永遠に記憶が戻らない確証があるならまだしも、うっかり罪を犯した記憶を思い出してしまうこと程の不幸はない。自分は本当に犯罪者であるのか、自首もせずに逃げ回っているような卑怯な人間なのだろうかという問題はまた別個である。
 とどのつまり、律は赤井に頼らざるを得ない。赤井がもしも何かを騙って自分に近付いていたとして、何か別の狙いがあったとして、今赤井を失うことは律にとって不利益が大きい。

「お金は働いてお返ししますので」

 身元不詳は致命傷となり得るが、その証明が出来ずともこの国で生きていくことは不可能ではない。幸い住まいは赤井の名義で用意してもらうことができたし、身分証の提出を求めない働き口などごまんとある。よもや死ぬまでこのままということはないだろうが、もしも長期化するようならば最悪戸籍を買ってもいい。なんて、はたと、何故私はそんな事を知っているのだろうと、律は思った。まるで犯罪者の思考回路ではないか。まさか私は本当にと、そこまで行き着いて、律は考えるのを止めた。今はただ、生きていく方法ばかりを考えるだけで充分だろう。今日明日にでも、全てを思い出す可能性だって捨ててはいない。
 律の言葉に、俺が金の無心をするような男に見えるのかとでも言いたげな瞳は、しかし、ふと思い当ったように柔く撓った。

「なら、しばらく返さなくていい」
「え?」
「君は権力の奴隷なんだろう?夕飯は出し巻きにしてくれないか?」
「……わりと根に持つタイプです?」
「さあ?どうだろうな?」

 またそうしてはぐらかすように笑みを浮かべて最後の一口であるスクランブルエッグを口に放り込と、赤井は空になった食器の前に箸を揃えて置いた。煙草とマッチを片手に縁側へ向かった赤井を眺めながら、そういえば自分は煙草を吸いたくなるような衝動はないと、律は己の嗜好をひとつ明らかにする。
 穏やかな春風が運ぶ癖のある独特の苦い香りは、律の最初の記憶として、既に深く深く刻み込まれている。


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