#07

 降谷は慣れた手付きでマンションの鍵を差し込み、オートロックの扉を潜っていく。慣れた手付きでとは言うものの、実際降谷がそれを開錠したのは、今日でまだ二度目であった。
 律が自分を部屋に招いたのは、彼女がこのマンションに引っ越してきた当初のたった一度きりだ。何も春めかしい特別な理由があったわけでは決してなくて、ただの引っ越しの手伝い要員である。よくよく考えれば招かれてなどいないし、これといった持て成しを受けた覚えも全くない。
 エレベーターに鍵を翳して乗り込めば、該当階が自動で点灯する。複製の困難なタイプの鍵を眺めながら、残りのロックは二つだったなと降谷は遥か昔の記憶を掘り起こした。律のマンションは降谷の自宅よりもセキュリティが厳しい。全く良い物件を見つけたものだと、到達したフロアを歩きながら降谷は改めて過去の自分を褒めてやる。

 "このマンションじゃないと駄目ですか?"
 "どうして?"
 "向こうの、米花町のマンションのデザインがお洒落で、"
 "ここに決めます。契約書を"

 ふざけるな、あそこは東都一の犯罪都市だぞと、不動産屋で降谷は律の意向を無視して勝手に契約を決めた。お前こそふざけるな、契約し居住するのは私だぞと、口にこそ出しはしなかったがひしひしと伝わってきた律の心の声を降谷は今でも思い出すことができる。関係が険悪化した今この時点であったならば、律は降谷の意向など一蹴し住居などもちろん独断で決めていたことだろう。まだ言うことの聞く内に事を済ませておいて正解だったと、降谷は心の底から思う。
 厳重なロックを解除し、律の家の扉を引けば、ふわりと石鹸のような清潔な香りが鼻腔をくすぐった。

「律?」

 人気は微塵も感じられないが、降谷は一応そう声を張った。
 それこそ呼び慣れた名前であったが、もう随分とその名を口にしていないような気がする。プライベートで会う暇などないし、会おうとする適当な切っ掛けすらもない。零君、零君と自分を呼んでくれていた頃の可愛らしい律の声が脳内で木霊する。相当遠くなった心の距離に、最早彼女はプライベートですら自分をそう呼んではくれない気もするが。

「入るぞ」

 誰に聞かせるわけでもないが、やはり降谷は一応そう断った。
 しんとした廊下を突っ切り、ダイニングの扉を開ける。律の姿はない。リビングと、続けて寝室も同じように確かめるが、やはり室内はどこも静まり返っている。再びリビングに戻った降谷は、閉まり切った遮光カーテンを捲ると、カラカラと音を鳴らして窓を開いた。心地良い風が降谷の髪を揺らしていく。
 そこからは通りをひとつ挟んだ先に、自宅のある高層マンションが見えた。降谷がどうしても譲れなかったのは、高い防犯性と、自分の住まいに近いこの立地である。職務上の都合などない。むしろ近いからとて顔を合わせることもなければ、おそらく互いにその距離感にメリットを感じたことすらない。降谷はそれを承知の上で、それでも律を、自分の目の届く範囲に置いておきたかった。

「……安室透、か」

 ボソリと呟いた言葉は、風に攫われ辺りを浮遊する。記憶したばかりのここからは遠く離れた仮住まいの住所を、降谷はふと思い出していた。
 律とは、しばらく会えなくなるだろう。良くて二、三週間に一度、もしかすると月に一度もその姿を見ることすらなくなるかもしれない。それ程までに、例の案件は切羽詰まってきていたし、降谷の業務の比重を増してきている。核心に近付けば近付く程に、降谷でさえ身の危険を間近に感じることが多くなった。一歩でも道を誤れば、犠牲になるのは己の命ばかりでは済まされないだろう。そうであるからこそ、降谷は律を、この案件から外した。

 "どうもお世話様でしたッ!"

 憎しみの籠った瞳で投げつけられた律の警察手帳を再び開き眺めながら、降谷はリビングのソファに沈み込む。
 律の部屋は、とても綺麗に片付けられているようでいて、別段そうではない。ただ散らかす暇がないだけだと、降谷は自分の経験則からそう思う。
 一体何故彼女は、こんな仕事へ就いたのだろう。深夜残業当たり前、休日出勤当たり前、徹夜が明けたらまた徹夜。食事や睡眠の時間すら儘ならず、不摂生が祟り心身を壊す同僚も数多いる。まだまだ遊びたい年頃のくせに、遣り甲斐のその気持ちだけで続けられる仕事ではないのに。
 降谷はひとつ深い溜息を吐くと、手帳をまた内ポケットに戻して、その手で机上に置き去りにされたままの食べかけのパンの袋を引き寄せた。

 "は?警察?"
 "うん。試験も合格したから"
 "……パン屋の、売り子になるって……言ってなかった?"
 "あはは。まさか、それ信じてたの?"

 賞味期限が二日程切れたレーズンブレッドは、美味くも何ともなくて、ただ降谷の口内の水分を奪っていく。
 降谷はあの時、人生で初めて、頭が真っ白になるという体験をした。パン屋の売り子の一体何がいけないというのだろう。まだ律の父親が生きていた頃、降谷はよく花井家の近くのパン屋で律にパンを買ってやった。レーズンブレッドが甚くお気に入りで、私も将来はパンを売ると降谷に意気込んでいた。珍しく愚直にも降谷はそれを信じていたし、何なら多少の無理をしてでも彼女が売るパンを毎日買い求めてやりたいとすら思っていた。一笑に付すだけとは、あまりに酷い裏切りである。

「花井さんもそう思うだろう?」

 降谷は、サイドテーブルに立てかけられた花井親子の写真に向かって、返事など貰えぬことを知りながら訊ねた。
 律が力不足であるなどと、降谷は決して思っていない。風見が教え、自分が育ててきたのだ。しかしどうしても、一心同体となり巨悪に立ち向かうには、降谷零にとって花井律の存在は重すぎた。ただ、それだけの理由であった。

 ――プルルルル、プルルルル。

 着信したのは、降谷のスマホである。
 残り一片のパンを無理やり飲み込んで、通話ボタンをタップした。

「風見か?早かったな」
『恐縮です』

 律の尻尾を掴んだであろう優秀な部下の言葉に安堵し、既に用の無くなった律の自宅を出ようと、降谷は立ち上がる。
 ここまできたからには本人が自ら出頭する前に、自分でその所在を突き止めてやろうと妙な熱に侵された降谷は、その時、床に転がっていた手帳を蹴っ飛ばした。適当に開かれたページは網戸から吹く風にパラパラと捲れる。びっしりと何かが書き込まれたその手帳を、降谷は徐に拾い上げた。

『降谷さん、東都環状線です』

 風見の報告を聞きながら、降谷の目は手帳の文字を追っている。
 一見、身辺雑記のようでいて、実際はそのほとんどが自分の理不尽な仕打ちの詳細なメモである。あの馬鹿は、まさかこれをネタに俺を訴えるつもりでもいるのだろうかと、降谷の額に分かり易く青筋が浮かんだ。一体誰のために自分の貴重な時間を費やしているのか、一体何のために憎まれ役を買って出ているのだろうか。降谷の心を、律は知らない。

『あの、降谷さん?』
「……聞こえたよ。東都環状線か」
『はい。それで、』
「夏葉原リセットマン事件だな?」
『えっ』

 どうしてそれをと、驚く風見の言葉を受けながら、降谷は律の手帳を乱暴に放り投げる。窓を施錠しカーテンを閉めると、足早に玄関へ向かった。
 道中、降谷は昨日の近隣の路線状況を調べていた。それは僅かな電車の遅延や、トラブルの有無、果ては飛び込みに至るまで。それぞれの状況を勘案しながら、やはり夏葉原の事件は降谷の目にも悪目立ちしていた。そうでなければいいと思っていたのに、彼女はどうにも運が悪い。

「負傷者の搬送先は?」
『夏葉原総合病院です。ただ、負傷者のリストに花井の名前はありませんでした』

 爆破未遂事件に巻き込まれ、負傷し病院へ搬送されていたのだとすれば、律が昨日戻らなかった理由にも納得がいく。
 しかし、と、降谷は靴を履きながら思案する。事件発生当時から、時間が経ち過ぎている。大きく報道されたとは言え、死人が出たような凄惨な事件ではない。だからこそ降谷は律の生死を案じるようなことはないし、また、そうであるからこそ律は早ければ昨晩の内にでも一報を入れることくらいできたはずで。
 風見の言葉を鵜呑みにするのならば、彼女は負傷などしなかったのだろうか、しかしそうなれば負傷し病院へ搬送されたために帰れなかったという帰結が狂う。ならば、律は本名を名乗りはしなかったと仮定しよう。公安職員が身分を偽ることは珍しくない。しかし、それこそ、一体何のために。

「直接確認したい。夏葉原総合病院へ向かう。事件の詳細をメールで送っておいてくれ」
『承知しました』

 何かが腑に落ちないまま、風見との通話を切った降谷は律の自宅を後にして、夏葉原総合病院へ車を走らせた。
 再びしんと静まり返った律の部屋のリビングで、降谷が無造作に放った手帳のページが、ゆっくりと捲れていく。《どうしたら降谷さんの役に立てるだろう》と、そう走り書きされた文字は、再び捲れたページですぐに見えなくなる。
 降谷は知る由もない。降谷の心を律が知らぬように、律の心も、降谷は知らない。



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