#81

「まあ、単純な事さ。花井さんが寄越した外交日程が大統領補佐官のスケジュールと食い違っていた」

 蟀谷のあたりの刺さるような鈍痛は還った意識の中でより鮮明に尖るのに、見慣れない遠い天井は薄暗い闇の中で靄がかり、夢か現かを曖昧にさせたままでいる。重力を奪われて深海の底をゆらゆらとただ泳いでいるかのような、妙な心地の良さと確かな心地の悪さが共存していた。
 何処からか細く伸びる明りの柱は、不規則に伸縮を繰り返す。消えた瞬間にまた戻るそれをじっと見つめていると、やがてそれは何か論理を携えたような幾何学模様の集合体に姿を変えて、次にはばらばらのテキストベースで律を目掛けて飛んでくる。どうしてここで眠りについていたのかそればかりを思い出せないのに、今ならば世の理を全て掌握できるのではないだろうかと過信する程に頭が冴えてくる。

「あなたはやはりジョーカーだった」

 壁を隔てた向こうから聞こえる誰かの声に、乱暴な雨が建物を叩く音が響いて混じっていた。少し湿った衣服はどうやら雨を浴びたのだろう、冷え切った律の身体にぴったりと張り付いて離れない。
 ――ああ、そうだ、今日は雨が降っていた。
 お気に入りの淡いグレーのレインブーツが、雨溜まりを蹴った感触が蘇る。雨の日には決まって駅前広場の壁画を眺めに出かける律に、せめてもと降谷零が買い与えた靴。律の傘の色に良く映えるからと誕生日に渡されたその贈り物は、律が雨の日を愛した理由のひとつでもある。
 あの傘とあの靴を、どこに忘れてきてしまったのだろう。裸足のつま先を少し伸ばせば、拘束具の無い二本の脚は自由に動くのが分かる。ガサリ。足の甲に当たった空き箱は床を擦れて、存外に大きな音を鳴らした。

「……待て。娘に手を出すな」
「やあね、丁重に扱うわよ。大事な人質だもの」

 その瞬間、まるで走馬灯のように映像化した記憶が息を吹き返す。あまりに急速に溢れる夥しい情報量に、全身の血が沸いたように熱い。捌け口を持たない熱が律の華奢な身体を何度も循環してゆく。雨と壁画、悪意と暴力。あの時誰かに呼ばれた名に律は振り返った。
 床を叩くハイヒールの振動が肌に響く。まるでダンスホールを跳ねるように、大胆で無遠慮なそれ。必死の思いで持ち上げた上半身はしかし脱力し、彼女が扉を開けた瞬間にぐしゃりと惨めに崩れ落ちる。腰の辺りまで伸びた金髪が湿気にだれて膨らんでいるのが、逆さまの視界の端に見えた。――ミモザ。父さんが彼女をそう呼んだ。

「お姫様はようやくお目覚めね」

 気味悪く撓る、口許。やたらと発色の良い艶やかな紅は、色素の薄い整った目鼻立ちに強烈に映える。
 ひとつ、またひとつと鳴るヒールの音が大きくなるにつれて、芳しい花と発泡性の酒を想起させる刺激的な香水の匂いがきつくなる。咽返る程のその女の香りの中に、埃と塵の混じるペトリコールの匂いが滲んでいた。
 助けて、父さん。叫び出したくなるのに、姿すら見えない誠一郎の声は壁を隔てて遠い。生まれて初めてにじり寄る脅威の塊は、律を見下ろして不気味に慈しんだままでいる。

「望みの情報を手に入れたのなら、俺達に用は無いはずだろう」
「ハハ、最後の仕事が残っているよ。アダムは大統領暗殺計画を白紙に戻したと、あなたの報告を待っている上司に今ここで連絡してくれ」

 怯えないで、取っ手食いやしないわ。本心か冗談か知れない言葉遊びのように、異国の言語を流暢に転がして彼女は言う。
 ――ちかよらないで、ふれないで、……ころさないで。
 迫る現実に膨れる想像が織り交ざり暴風雨のように律に打ち付けるから、裸のままの懇願ばかりが言葉になる。
 音になり損ねた声の唇の動きを読み取って、ミモザは切れ長の眦を細くした。その瞳は美しいが慈悲は無い。律個人に向かう明確な殺意を感じるわけではないが、殺生に対する道徳的観念というものが欠落しているように見える。何かひとつ彼女の機嫌を損ねれば、彼女は私を殺意無く殺めるだろう。そういう予感がする。

「父親の事は諦めなさい」

 雨を吸って束になった律の髪を甲斐甲斐しく耳にかけると、ミモザは囁いた。
 毛束の先から零れた雫か首許に落ちて、まるでナイフを入れられたように冷ややかな熱が伝っていく。

「花井は傾いた形勢を覆せそうにない。当初の予定通り私は綾瀬を始末するけれど、そうなれば『私』を知った花井も生かしてはおけない」

 ミモザはまるで、知性を持たない生物にでも語り掛けるように話し続けた。理解出来ない事を分かっている癖に、それを厭う様子は無かった。
 一体何のために、彼女は自分に人殺しの算段をしているのだろう。麗しい見目の女が吐いた残酷な未来の結末が、上手くみ合わないまま律は考え続けている。それでも解法にはたどり着けない。
 ――花井誠一郎は、娘の命を棄てられず正義に背いた絶望に呑まれながら、そうして最期は惨めに死ぬのか。
 ただそればかりが、ゆらゆらと律の思考回路を往復した。律を守るために道を踏み外せば、誠一郎は死をもっても償えない重い罪を背負う事になるだろう。その場凌ぎに人質を守ってやったところで、その命はまたいつ脅かされるとも定かではない。分かっていながら、しかし今の誠一郎には悪に与する他手立てが無い。

「……して、」
「え?」
「……わたし、を、ころして」

 律は、正義を愛した誠一郎をもうずっと理解できないままでいる。
 警察官の娘として生を受けた律だが、不特定多数の人間を悪から守りたいという高潔な欲望が芽生えた事は無い。国民を守るために身体を鍛え日夜を問わず犯罪者や事件に立ち向かう彼等に尊敬や感謝の気持ちはあるが、律には同じように生きる動機が無い。
 生きるために漫然と生きている自分とは違う、崇高な志を抱き何か渇望して生きる人生はどのような心地がするのだろう。たとえその何にも代えられない使命感や充足感を手放したとしても、周囲の大切なものばかりを守って生きていけたならそれだけで良かったのに。

「……っ、……おね、がい、」

 死にたくない、どうして、分からない、怖い。律を四方から襲う感覚の波に晒されながら、しかし選択すべき答えばかりが論理の道筋を失った向こうで律を俯瞰している。
 私が消えて無くなれば誠一郎はせめてその正義を守れるのだ、せめてその矜持を胸に抱いたまま死ねるのだ。先行した言葉の意味をそうして律は遅れて結びつけて、殺さないでと願ったはずの言葉を上塗りした矛盾を受け入れる。
 覚束ない両腕を伸ばして床を押し半身を持ち上げると幾分と自由の戻った身体は平衡感覚を思い出してゆくが、ミモザが無言で放り投げた律のスマートホンに伸ばした右手は空を切った。カタカタを音を立てて床を鳴らしたそれはすぐに沈黙し、見慣れたメッセージ通知画面もブラックアウトした。

「――父親を殺さないでとは、言わないのね」

 もう一度伸ばした右手の指の先が、端末に触れる。
 ひやりとした。まるで器だけに成り果てた人間の遺体に触れた時のように。

「私と同じ。あなたも特別な人間ではないから、運命を弑虐することなど出来ないと分かっている」

 声が、出なかった。何かを訴えたいような衝動に確かに駆られているのに、興奮する激情が何に感応しているのか律にはそれが分からない。
 律は切り返されて初めて、ミモザの尤もな指摘を理解した。脅威へ抗う思考を持たず、命乞いのための言葉すら持たず、あるがままの完全な敗北。新たな道を切り拓く力の無い律には、目の前の女の機嫌を少し損ねる事すら出来ない。
 長年をかけて整えた花井律という穏やかで美しかったはずの湖面に、ミモザが投じた一石はあまりに深く沈み込み大きな波紋を広げてゆく。

「奪われる事を受け入れないで、憎みなさい。あの女に何年も飼い殺しにされた私のようには、決してならないで」

 淡淡と言葉を紡ぐだけのミモザの物言いは、最後まで変わることは無い。
 肩にかかったその名の花に似た色の金髪を無造作に払うと、踵を返した彼女はもう律を振り返る事なく敷かれた命運の道を辿ってゆく。心が騒いだ。突如胸の内で膨らむ焦慮は、振りほどけないもどかしさとなって律を責め立てている。
 馬鹿にして。あなたが私から全てを奪おうとしている癖に。灯った炎はしかしまだ淡く果敢ない。
 
「花井さん、選んでくれ。どちらを選んだとしても、それは正義だろう?」

 開いた扉の向こうで交わされる言葉がまた聞こえて、閉まり切らない隙間から伸びた光の柱は当初のように律に真っ直ぐ伸びた。主導権を握っているのが誰なのか、明確に分かる声だった。カツン、カツンと、無情なミモザの足音は一定のリズムを保って遠くなる。
 力の加減が分からない右手で握り締めた端末に、律は指先を何度も滑らせた。上手く反応しない画面に髪の先から落ちた雨の粒が潰れて拡がる。冷たく重たいだけのこんな機械にしか縋れない、瞬けない瞳の奥から涙が染みだす。
 花井誠一郎は還らない。ミモザが律に安易に連絡手段を返したのは、それが決して覆らないからだ。

「……っ、はやく、」

 誰でもいい、何でもいい、どうかこの命運をねじ曲げて。
 痺れたように脱力していた脚を殴る。すぐに痛みが戻る。鉛のようだった身体がやっと持ち上がる。

「俺が今ここで君に屈しても、俺の遺志を継ぐ者が君の謀を必ず穿つだろう。たとえ君の主張が正しくても、手段を誤れば誰も君を認めはしない。綾瀬、君がやろうとしている事は、正義という偽りの冠を被せたただの殺戮だ」
「……残念だな、この正義を讃えた花井さんはもう居ない」
「綾瀬、君はどうして、」
「日本警察の闇を知ってなお、それでも正義を気取るあなた達の方が俺にはよっぽど怪物に見える。――俺は、……俺は、この国の警察官である事を心から恥じている」

 扉の向こうで、誰かの喉が鳴る音がした。同時にミモザのハイヒールが鳴らす音が大きく反響して――そうして、聞こえなくなる。
 一瞬、一瞬の静寂。まるでその時を待ち望んだかのように、窓硝子が砕け散る。破片と破片がぶつかりあい、乱数のような大小の音が耳を劈く。続いて誠一郎の怒声は地を這い、誰のものとも分からぬ呻き声は腹の底を絞ったように醜く、音の高低の違う発砲音は玩具花火の破裂のように鳴る。
 花井律は、その時、何も目にしてはいない。誠一郎との間を隔てる薄い扉は、紛れも無い死線だった。殺せと息巻いてみても、死を受け入れる心などひとつも用意できてはいない。足の裏から這い上がる畏れは律の身体をいとも簡単にその場に縫い付けて、律はその場を動けなかった。今動かなければ大切なものを失う事を分かっていながら、それでも律は動けなかった。
 薄く開いた扉の隙間から、硝煙の匂いが漏れ出て拡がる。静か、だった。全てが手遅れであることが、その時分かった。割れた窓硝子の向こうから聞こえる穏やかな雨の音ばかりが、指弾するように律の心を切り裂いている。

「――赤井さん」

 赤井秀一はその呼び声に画面をスクロールしていた手を止めて、顔を上げる。カラカラと音を立ててバルコニーの戸を開けたのは無防備な部屋着姿のままの花井律で、調査記録の中で生き続けている五年前の同じ女の姿を思い浮かべていた赤井は無言で瞼を瞬いた。
 移動性高気圧に覆われた空は雲が少なく、海辺だというのに空気は乾いて爽やかな一日だった。夏の終わりと秋の訪れ。その心地の良い狭間で永遠に揺蕩っていたいような気分になる。花井律誘拐事件のあの日から今日で五度目の夕暮れを迎えるが、あれから雨は一度も降ってはいない。

「良く眠れたようだな。随分と顔色も良い」

 隣で立ち尽くす律の手を引いて、ベンチの隣に座らせた。珍しく空に目を走らせて様子を窺っている。その頬に焼けた空の赤が差す。
 あの日から言葉を失くしたように口数の減った律は、時の流れを蔑ろにして朝から晩までただ物思いに耽っていた。食事を用意してもあまり喉を通らないようで、寝床を整えてやっても僅かの時間すら思考を手放す事が出来ない。リビングの隅で、少しだけ開けた窓とカーテンの間を自分の居場所と決めたようで、赤井が律を見失う時は決まって律はそこで小さく膝を抱えていた。
 何が君をそこまで追い詰め苦しめているのか――答えが分かってしまうから赤井は律に尋ねない。茨の道を歩む決心などしないでくれ、どうかそこで踏み止まってこちらへただ転がり落ちてきてくれ、赤井は静かに律が苦難から身を翻す瞬間を息を潜めて待っている。
 律の視線の向こうではいつもバルコニーの物干しに掛けたままの、降谷零の細身のタイが揺れていた。

「夕飯にクラムチャウダーを作ったんだ。いつか教わった律のレシピ通りだから美味いと思う」

 彼を忘れさせてやる自信が、無いわけではない。
 花井律との過去に決別できないままでいる降谷と違って、赤井は今の花井律と同じ目線でその過去に向き合いあるがままを受け入れる覚悟がある。花井律よりも日本というこの国を守らなければならない降谷と違って、赤井は愛する人ただひとりを守るために全てを敵に回す決断が出来る。誰よりもその幸福のために生きて、誰よりもその幸福だけを願う事が出来る。
 彼を忘れさせてやる自信が、無いわけではない。ただそれが彼女の本当の願いなのだと、そう言い切るだけの確かな自信を赤井秀一は育めないままで居る。

「赤井さん」

 このままこの場所でふたりきり、千の夜でも数えたならあるいはこの不安も掻き消えたのだろうか。
 終わりの瞬間はあまりにも唐突にそうして呆気なく訪れる。花井律の瞳に、もうあの苦しげな光は無い。

「全てを知る覚悟が出来ました」

 真っ直ぐで、誤魔化しの無い、何もかもを見透かされそうになるようなその律の眼差しは、赤井の記憶の中のどれとも上手く結びつかない。わけもなく瞼の裏に、知りもしない記録の中の花井律の姿が鮮やかに映し出される。
 あの時、横須賀のショッピングモールで囚われた律を先に見つけたのは降谷だった。人気の無いサウスサイドでその知らせを受けた時、どうして律が現場に近いウエストサイドに身を潜めていたのか、そうして何故降谷は自分を差し置いてその答えに辿り着けたのか、赤井はそれがどうしても理解出来ないままだった。

 "もう花井律の真似をして、生きなくていい"
 "真似をして生きているように、見えますか"

 人知れず律の中に根付いた職務への誇りと責任を赤井は看過して、それが過去の別人格の人間の真似事だと降谷は見誤った。
 なぜ、君はまた同じ道を進もうとするのか。別人として生きて、他に幾千とある生きる方法を知っていて、そうしてその中からどうしてまた辛く苦しい道を選んでしまうのだろうか。
 律を見つめ返したまま、二の句を継げずに赤井は押し黙る。愛する人の幸せばかりを切望しているだけなのに、彼女を幸せにするための嘘だけが言えない。


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