#80

『至急、横須賀に向かってシュウを回収して。私はまだ警視庁から動けそうにないの』

 アンドレ・キャメルは小雨の東名高速を緩やかに南下しながら、時折頭上の道路案内標識を一瞥しては前方の光るテールランプに視線を戻す。豪雨の影響で広範囲に発生していた交通渋滞は次第に解消されているようで、ナビゲーションシステムの到着予定時刻は見るたびに時間を削っていた。気持ちばかりが急いた所で何が出来るわけでもないのに、キャメルは集中力の欠いた様子で頻りに視線ばかりを辺りに散らしている。
 通話中のまま誰かに呼ばれて席を外してしまったジョディは一向に戻る気配が無く、少し迷った末にスピーカーを切ってしまった。粗方の事情は把握できたものの、彼女にはまだまだ聞きたい事が山積みであるのだから、もどかしい。何せキャメルは、自分の周囲を取り巻いていたであろう数奇な運命をひとつも知らないままでいた。

 "秘密にしているだけです。それが本当に、私のためだと思っているから"
 "君の心を容易く奪ったあの男が、妬ましくて堪らないんだ"

 ジェイムズには私から報告しておくからと、ふたりを東都のホテルへ送り届けた帰り道、助手席で沈黙を貫いていたジョディは抑揚無くそう言った。
 既に赤井が報告しているのではと返そうとして、キャメルは思い直し口を噤む。それが決して本心ではなくて、赤井を庇うためだけの、ジョディの機嫌を取るためだけの、上辺を取り繕った発言に成り下がる事が分かってしまったせいだった。
 赤井の単独行動には随分と慣れたものであり、彼はそうして自由に遊ばせておいた方が良いパフォーマンスを反すことも周知の事実だが、今回ばかりはどうにも雲行きが怪しい。名も知らぬ彼女の手を取ったまま何処か遠くへ行ってしまいそうな、そのまま共に溺れてゆく事すら厭わないような、確かな不安がキャメルの胸の内に掠めてゆくから結局何も言葉を返せなかった。
 今は静まり返る後部座席に鮮やかにこびりついたままの赤井の秘密が、ようやくキャメルの目にも見える形で溶け出してゆく。

「花井律ねえ……」 

 追越し車線に入ると器用にスピードを上げながら、車体の間を縫うような走行を繰り返す。思えば自分は仕事で何か失敗をした日には、決まって当ても無く気が済むまでハンドル操作に明け暮れている。
 まだ赤井秀一が組織でライの名を騙っていたあの日、キャメルは捜査官として取り返しのつかない致命的な失敗を犯した。組織の重要人物である幹部確保への道筋を断ち、長年に渡る潜入生活で確固たる地位を築いた赤井に裏切り者の烙印を押した。そうして組織を延命させてしまったがために失われた命が数えきれない程あるのだと思うと、何度自分を詰っても足りなかった。拳の中で肌に馴染むハンドルの皮は、キャメルの懺悔と覚悟が染み込んで随分と柔らかい。
 もしもアンドレ・キャメルとしての過去を手放す権利が与えられたとしても、自分は決して望まないだろう。それでは結局、自殺と同じだ。それで事態が好転するのならばキャメルはとうの昔に自ら命を絶っている。

 ――ではもしも、アンドレ・キャメルとしての過去を突然取り上げられたら?

 キャメルは思っていた以上に詰まった車間距離に気付いて、アクセルから足を浮かせる。
 その命題の答えを考えたいはずなのに、キャメルの脳裏には赤井と律の、誤魔化しの無い切り付け合いのような会話が痛痛しく蘇るばかりだった。想像を絶するような苦悩と葛藤が、ふたりの間でどれだけ交わされていたのか定かではない。
 わたしにあの人を裏切らせないで。そう訴えた、熱を帯びた律の眼差しは煌めいていた。彼女があの降谷零の腹心の部下でさえなければ事態はここまで拗れる事は無かっただろうが、そうでなければ降谷と赤井はその確執を超えた場所で互いに手を取り合ってはいないのだからこれは酷い皮肉を孕んだ命運だ。
 彼等は一体これから、何処へ向かうと言うのだろう。とてもではないが同盟を結んだ降谷と赤井の姿など想像出来ずに、本当は現場で戦争でも繰り広げているのではないだろうかと未だに肝を冷やしたままキャメルは車を走らせ続ける。既に着火した導火線のその先を、キャメルは傍観する事しか叶わない。
 
「……とりあえず戦争はしていないな」

 指定されたショッピングモールの玄関口に車を横付けすると、程なくして硝子扉の向こうに人影が動いた。
 降谷零。後れて花井律に付き添うように、赤井秀一は隣を歩いて来る。
 キャメルは急いでシートベルトを外して車を降りると、後部座席の扉を開けて待ち構えた。花井律は全身を雨と泥で汚して傷ましくどうやら片腕を負傷しているようで、包帯代わりに巻き付いた血の染みたネクタイをぎゅっと手の平で抑えている。

「すまない。協力に感謝するよ」

 綿のように軽い霧雨が降り頻る中、降谷はキャメルの瞳を捕えて落ち着いた様子でそう告げた。
 雨に濡れたスーツはくたりと湿り光沢までも流されて、いつも新品のような身形をしている隙の無いバーボンの面影は無い。感情の走らない表情は読めずすっと平らに見えるばかりで、いつもその起伏の激しい安室透の残像を忘れさせる。
 過去に彼から受けた重たい屈辱を決して忘れたわけではないのに、とてもではないがそれを責め立てるような気分にはならない。とても、不思議な心地だ。

「ふたりを此処へ。この名で話を通してある」

 手渡された小さな四方形のメモには、走り書きされたホテル名の英字とカザミの文字。
 赤井に促されて後部座席に腰を下ろした律は、その言葉に反応するとハッとして顔を上げて、扉を閉めようと伸ばされた赤井の腕を掴んで止める。

「……降谷さんは?」
「俺は後始末がある。東都に戻ってやらなければならないことも」
「それなら私も一緒に、」

 瞬間彼女の名を呼んで窘めたのは、顔を顰めた赤井だった。それでも食い下がらずに車を降りようとする律には、降谷が車内を覗き込むように身を屈めて、その肩を優しく押し戻す。
 律は何かを訴えようと唇を開くのに、降谷を前にすると言葉にすることは出来ずに押し黙る。誰を待つでもない沈黙に、律を見つめる降谷の横顔が僅かに揺らぐ。まるでふたりにしか分からない秘密の言語で、音無く言葉を交わしたように。

「休暇の申請をしておくから、しらばく身体を休めるといい」

 花井律は現場には居なかった――。降谷はこの事件をそう処理する算段だろうし、そもそも事件として取り扱うつもりすら無いのかもしれない。
 警察官として国に尽くしたはずの綾瀬明が主導したテロリズムは、日本警察の不祥事として世に公表されること無く秘密裡に闇に葬られた。今更掘り起こす事など出来ないし、掘り起こした所で当人は更に深い闇へとその身を落とされるだけだろう。あまりに強大な力を持つ組織の許では、ひとりの掲げる正義など塵に等しいのだから。
 キャメルは再び、自分を謀った食えない男の横顔を盗み見る。もっとも、これから先の未来に彼がその組織の闇に一太刀浴びせる可能性は否定できない。それは偏に降谷零という特別な人間に備わった責務ではなくて、涼しく見える顔の下で燃えるような正義の激情が染み出しているような気がするからだ。

「次に会う時は、これから律がどうしたいのかを教えてくれ」

 理性的で静かな降谷の瞳と、感情的に赤く腫れた律の瞳が対照的に交差する。
 それが実際どのような性質のものであれ、彼等が単なる職場の上司と部下であるという説明では形容に乏しいように思う。

「知りたいことがあるなら全て話すし、知りたくないことは知らないままでもいいよ」

 降谷はまるで、模範解答の前置きを話すように言う。
 彼女の進むべき道を分かっていて、自分の進むべき道が重ならないことを分かっていて、彼女に正しい答えを選ばせようとしている。そう、聞こえる。想像を絶するような苦悩と葛藤は、律と降谷の間にも生まれていたに違いないと分かる。
 
「とても大切なことだから、俺が決めたり、話し合って決めたりしないで、律のしたいようにしよう」

 あべこべの物言いを、彼等に降る霧雨ばかりが穏やかに聞いている。
 律は言葉を返さない。返したくないのかもしれない。その心などひとつも見透かせない癖にキャメルはそう思い至り、何故だろう、あの日と同じように何か苦いものが喉の奥を落ちてゆく。
 花井律にばかりくれていた視線をゆったりと持ち上げて、赤井秀一はその横顔に降谷の真意を探ろうとする。しかし、降谷は動かない。その双眸は彼女を映すためだけに存在しているかのように、花井律を一心に見つめたままでいる。

「この先まだ君を追い詰める過去があるのなら、俺が全部ケリをつけてやる。だから何も心配せずに――君には、これからを自由に幸せに生きて欲しい」

 ああこれは、あまりに美しいささやかな願いに書き換えられた、彼等にしか分からない決別の言葉なのだ。失われた記憶に囚われたままでいた花井律と、記憶の中の花井律に縛り付けられたままでいた降谷零の、全てを終わらせようとする言葉。何とも言えぬ物悲しさと、堪らない寂しさで満ちている。
 何も告げられないままでいる律は俯き、降谷は困ったように僅かに眉を下げた。伸ばした腕は彼女の細い身体を抱こうとするのを躊躇って、頭を二度だけ撫ぜるとすぐに離れてゆく。律は、やはり何も言えない。
 降谷は手元の時計で時刻を確かめると、キャメルに車を出すように指示をした。彼は事後処理のための捜査員を既に派遣しているようだから、キャメルは律と赤井を連れて一刻も早くこの場を立ち去らなければならなかった。降谷は思い出したように最後に、律に向かって左手の平を差し出す。

「腕時計を。何かの衝撃で壊れたんだろう。もう必要ないだろうから、処分しておくよ」

 言われて初めて気付いたように、律は手首を返した。細い腕に良く馴染んだステンレス時計は追跡機能付きの特注品でありどうやら降谷が彼女に携帯させていたようだが、文字盤には罅が入り時刻は一時間前で止まっている。
 何を考えていたのだろう、律はじっとそれを見つめた後で、小さく首を左右に振った。

「……いえ、自分で処分しておきます」

 明確な意思表示に、降谷がそれ以上踏み込む事は無い。大して気にも留めない様子で相槌を打つと、律の乗った後部座席の扉を躊躇い無く閉める。
 雨で曇る窓硝子の向こうの律が下唇をぎゅっと噛んで衝動に堪える姿を、捉えたのはキャメルばかりだったのかもしれない。腕時計ごと握り締めた右手の爪は細い手首に容赦なく食い込んで、声にならない悲鳴が聞こえるようだった。
 降谷は連絡先を書いたメモを赤井に差し出しながら、律を頼むよと、存外に穏やかな調子で言う。赤井は憮然とした態度で、君に頼まれる筋合いはないと言い切ると、踵を返した。行き場の無いメモを片手に降谷はもう一度その名を呼び掛けるが、番号ならもう覚えたよと、赤井は振り向きすらせずそのまま乗車してしまった。

「……、悪いが何かあれば連絡をくれ。君等もあの男には手を焼いているだろう?」

 降谷は溜息交じりに言いながら、キャメルに無理やりにメモを握らせる。肯定するわけではないし降谷の肩を持つわけでもないが、ようやく互いの組織の間に掛かった橋を自分の手でたたき壊すメリットも無いだろうとキャメルはその紙片をポケットに押し込む。
 彼等は一体これから、何処へ向かうと言うのだろう。またキャメルの頭の中で反芻する問の答えが、分からないままでいる。今回の事件で協力関係を結んだ事が不思議な程に、赤井と降谷の関係は修復されていないように見えるし、上辺だけのそれがこの先もスライドしていく保証は無い。
 先に乗車した赤井の様子が気掛かりで急いで乗車しようとしたキャメルの肩を、降谷が掴み遮る。
 
「あの時、君を陥れた事を謝罪するよ。捜査のためとは言え、不愉快な思いをさせて悪かった」

 驚いて振り返ったキャメルに降谷は苦く口許をゆがめる。花井律には見せなかった感情を露わに、そうしてキャメルの返事を拒むように乗車を促した。
 その言葉が彼女を守りたいがための即席の甘言だと思うのに、そう割り切れないのは彼の巧みな言葉の技術によるのだろうか。釈然としないままシートベルトを付け直して、バックミラーに映る赤井と律のふたりの姿を確かめる。
 最後にもう一度だけ窓の外の降谷に目を遣ると、彼は軽く右手をあげて応えた。あの時は捜査官として易易と罠に嵌った自分に落ち度があったのだと、そう言ってやれば良かったのだと、その時思った。

「赤井さん」

 ギアを入れ替えて動き出した車体に、キャメルの目にはもう降谷は映らなくなる。
 車窓の向こうに消えたその姿を探したまま、律が尋ねる。

「綾瀬明という名の人を、知っていますか」

 エンジン音に掻き消えてしまいそうな小さな声は哀しい響きで揺らいでいるのに、薄く拡がる夜の闇を切り裂くような鋭さがあった。
 それは彼女が失った過去の中に在り、彼女が捨て置く事を許された選択肢のひとつであり、そうして降谷零が全てを引き受けると約束をした未来の話だ。
 赤井は律を見遣るが、律は車窓の向こうを眺めたままでいる。あの時は確かに真っ直ぐ互いに交わっていたふたりのその視線は、今はもう別の方向を向いてしまっているように見える。

「――知っているよ」

 その瞬間錨の巻き付いた言葉は、ただただ重く深く海の底に沈んでゆく。
 知らないよと、たったひとつの嘘で選択できたであろう心地良い未来が消えて無くなる。赤井はそれ以上を答えずに、律もそれ以上を尋ねない。
 仮屋瀬ハルと永倉圭として嘘塗れの日常をふたりが愛していたのならば、花井律と赤井秀一として嘘の無い日常を愛し共に歩んでいく事だって出来るだろう。過去を全て受け入れて生きる花井律を、赤井秀一は変わらず心から愛するだろう。
 そう思うのに何故、彼女の心は別の場所で息衝いている。戻らない視線に焦れて宙を仰いだ赤井の視線が、鏡越しにキャメルのそれとぶつかった。

「キャメル、葉山のセーフハウスへ向かってくれ。降谷君には俺から連絡しておくから」

 十中八九連絡など入れないだろうという確信と、何かあれば連絡が欲しいと言った降谷の言葉が入り混じって、キャメルの眉間の皺は深くなる。
 しかしいつも通りの強引な決定が今日ばかりは少し違って聞こえるから、キャメルは黙って目的地を変えた。その言葉に初めて反応を見せた律には、赤井は安心させるように穏やかに笑いかけて見せる。

「海の見える静かで安全な場所だ。君もきっと気に入るよ」

 律の表情の端に確かに滲む後ろめたさに似た色を、赤井も、そしてキャメルも視認できていた。
 それきりふたりが言葉を交わす事は無くて、しんと底冷えしたように冷え切った車内の空気が苦いから、キャメルはカーラジオのスイッチを切り替える。雑音のようにスピーカーから流れ出した一昔前のラブソングは誰の耳にも懐かしくは蘇らずに、ただ美しいだけの愛の言葉は命を吹き込まれた瞬間に色あせてゆく。


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