#79

 高架橋を潜り抜けると、再び雨のカーテンが降谷零の前にはためく。傘を差す程でもないような春の霧雨に、それでも降谷は行き交う通行人に倣って閉じたばかりのビニール傘をまた広げた。不快な雨から逃れようと幾分足早に動くその群れの中で、降谷の足取りばかりがいつもと変わらず穏やかだ。

「本当にすまない。今度何かの形で返させてくれ」

 憂鬱な梅雨入りの気配に人々の心がさざめき始めた頃、花井誠一郎は例の如く緊急会議の招集により、随分と前から打診していた定時退勤を断念せざるを得なかった。
 どうやら今日が彼の愛娘の誕生日であったことを、降谷は先輩職員から又聞きしている。大切な家族と大切な日を共に過ごす数時間くらい用意してやりたいものだが、まだ配属されて間もない研修生扱いの降谷に代わって執り行える職務などあるわけもない。
 降谷は早早に袖机の施錠を終えると、鞄を掴み席を立った。控え目な挨拶をひとつ、誠一郎のデスクの前を通り過ぎる――通り過ぎたはずだった。
 降谷。呼び止められて反射的に振り返ったその先で、縋るようなふたつの瞳に捕まった。

「構いませんよ。お嬢さんは無事に家まで送り届けますので」

 ああいう時の嫌な予感というものは、やけに良く当たるような気がする。
 携帯を取り出そうと手を伸ばした胸ポケットの中で、指に絡んだ二枚のチケットを降谷は引っ張り出した。トロピカルランドのアフターファイブ入場券。無言でその文字列を見つめた後で嘆息し、この手に託されたそれをまた深く仕舞い込む。
 俺は女子大生の保護者として遊園地でナイトパレードを見るために公安になったわけではないと、喉の辺りで肥大化した言葉を降谷はあの時呑み込んだ。言わずとも誠一郎はそれを承知の上だろうし、たったひとりの家族である娘の誕生日をもう何年も仕事を理由に不意にしていた事情も知っていた。数多いる部下の中からその役目を降谷に任せたのは、多少なりとも彼の中で自分が信用の置ける人間だということだろう。対価として積もる上司の得難き信頼を思えば、たったの数時間小娘を接待してやるくらいわけはない。

『ごめん。急な都合で、会えなくなった。この埋め合わせは必ず』

 既読マークの無言の抵抗を確かめて、降谷は携帯のメッセージアプリを落とす。先約である恋人との二か月ぶりのデートの約束は、必然的に断らざるを得なくなった。
 今まで何度となく約束を反故にしても返事くらいは寄越したが、今日のようなうら寂しい雨の日には特別彼女の癇に障ったのかもしれない。下手をすれば次に顔を合わせた時には別れ話でも切り出されそうだと、つい先程まで想像していた恋人との甘い夜など霧散して、降谷は革靴で雨溜まりを蹴る。

「――まあ、それもいいか」

 投げやりな諦めに似た感情が、胸の内に育っていた。それが俄かに生まれたものではないことを、降谷は随分と前から自覚している。
 付き合いのあった恋人達を徒に蔑ろにした事など無いし、愛を注がなかったわけでもない。しかしその関係に永遠を見る彼女達と、遅かれ早かれ終わりを決め込む降谷とでは望む姿が食い違う。降谷はいつだって、愛の始まりに終わりを見据えた。何物にも代えがたい正義に身を捧げた降谷にとって、それはあまりにも容易なことだった。
 誠一郎の娘――名は律と言っただろうか――との待ち合わせ場所である南口広場には、定刻の少しばかり前に到着した。

「ピー、エー、アール……」

 目印のブルーグレーの傘は、すぐに見つかった。広場を彩るパブリックアートを前に、品の良いネイビーのワンピースから華奢な白い脚が頼りなげに伸びている。
 降谷は静かに律に近付くと、人ひとり分の間を空けて隣に立った。何か呪文のようなものを真剣に唱えながら手元の電子辞書を操作する姿に、思わず声を掛ける事を躊躇ってその様子を横目に盗み見る。
 その瞬間、降谷は何か得体の知れない惧れに絡め取られたのが分かった。
 とても十九の誕生日を迎えたとは思えない、たった今咲いたばかりの花のような楚楚とした清らかさと脆さ。人目を引く分かり易い華やかさがあるわけではないのに、瞬けば消えてしまいそうな魅力に目を離せなくなる。初心な美しさの輝きに胸が惹かれるというよりは、もっと鋭利なもので心臓の奥の方を涼しく刺されたような、そういう類の衝撃に近い。
 なぜ……、だろう。降谷には分からない。あらかじめ毒薬だと教えられて差し出されたそれは、降谷の目には無害に見えた。触れたところで、呑み込んだところで、何に脅かされるわけでもなくいずれ知らぬ内に体外に排出されるのだろう。そう思うのにどうして、降谷は律の名を呼べない。
 小動物のような小振りな頭が、ゆっくりと持ち上がる様をただ眺めていた。細長く密度の低い睫毛が一度、上下する。美しいものばかりを映して色付いてきたような透明度の高い瞳がそうして、降谷零を映す。

「スペイン語だよ。だから英和辞典には載っていない」

 律の唇が開く気配がしたから、咄嗟にそう遮った。咥内がやけに乾いている。理由も無いのに、会話の優位を握らなければならないような気がした。
 拒絶も、警戒も何も無い。はっと見張る瞳のかたちばかりが、誠一郎のそれと酷似している。突然声を掛けられたことに驚いたのか、唐突に突きつけられた答えに驚いたのか、あるいはその両方だろう。バランスを失った傘の銀の中棒が、華奢なその肩の上を転がってゆく。それに気付いたのも手を伸ばしたのも、降谷の方が早かった。

「向こうの東屋に居たら雨に当たらずに済んだのに」
 
 遅れて慌てて伸びた律の手に傘を預けると、降谷はスーツのポケットから取り出したハンカチで濡れたその袖口を拭いてやる。ああ、ええと、そう口淀む彼女から結局すみませんとだけ上滑りするように漏れた声は鈴の鳴るように可憐で小さい。主導権がこちらにあることをそうして確かめると、酷く心が落ち着いていった。
 だからこうして次から次へと、世話を焼きたくなるのだろうか。降谷はそれでもまだ幾分不思議な心地のまま、律の手の中で再び傾いていく傘の角度を正してやる。しかしどうにも、無言の降谷の訴えを従順に守ろうとする律の様子はいじらしい。善も悪も、教えられたことを全て丸呑みしてしまいそうな危うさがある。
 雨の日は特別だから近くで見たくて――。そう話す律に釣られて降谷は傘を持ち上げた。印象的にはにかむ。まるで内緒話を打ち明ける子どものように。

「あのあたり。多分、水に反応して色が変わる塗料を使っているんだと思います」

 降谷はその時初めて、青灰色のコンクリートに描かれた壁画が雨に光る様子を捉えた。寂れた街角に冷たく降る雨と、傘も差さずにその空を見上げる独りの人間。
 星が輝いているみたいと、律は隣で呟いた。雲翳に覆われた空の中で雨水に反応した塗料が光るその様は、確かに雲に銀の裏地でも付いているようだ。しかし、降谷の眼差しばかりは壁画の中に描かれた人間のそれと同じように次第に鋭くなっていく。
 雲の主成分は水だ。しかしそこには微量ながら水以外の成分、たとえば土壌成分や火山噴出物、塵埃からなる微粒子が混ざっている。雲の中で星が輝けばそれはたいそう幻想的だが、それは目を凝らして初めて見える宙を漂う屑だと説明された方が降谷は納得する。
 制服を着用する警察官は、傘を差す事が許されていない。片手が塞がり視界が遮られた状態では、業務の遂行に支障が出るためだ。だからいつも薄ぺっらい雨合羽ばかりを一枚羽織って、正義の執行のために風に吹かれて雨に打ち付けられている。たとえ悪条件の中でも見逃してはならない、悪の種を見つけるために。
 著名な芸術家が何を意図してこの壁画を描いたのかは、明らかにされていない。いずれにせよ劣化の早いその塗料は数年と持たずにその煌めきを失うだろう。走り書きされたタイトルの英字と共に。

「雨の日が待ち遠しくなる仕掛けだなって」

 降谷の意識は既に壁画それ自体よりも、壁画に魅了された律の横顔に移ろいでいる。悪など知らない横顔、悪などに染まらない心。その瞳を借りて世界を見ればどれ程美しく映るのだろうと思うが、その瞬間降谷は立ち向かうべき相手を上手く判別出来なくなるような予感がする。
 あまりにも劣悪な犯罪と対峙していると、時折自分は悪を刈り取るためだけに必死に生きているのではないだろうかと錯誤する時があるが、そうではない。守らなければならない人間が、ここに居る。彼女のような清廉な心を持った人間が、この国には数多いる。
 しかしどれほど清く美しい苗床にも、悪種は育つ。必ず育ってしまう。そうであればそれを人知れず排除するのは、降谷のような力を持って生まれた人間の義務だろう。降谷は愛するこの国の美しさを守り続けるために、この国の最も汚れた闇の中でこれからも刃を研ぎ続けなければならない。

「あの、日本語の意味を教えてもらえますか?」
「ああ、そうだな……。何だと思う?」
「えっ?……うーん。星空とか」
「残念。ハズレ」

 この先雨が降る度に花井律と出会ったこの日の追憶に耽るのだろうと思うと、降谷は苦笑う。
 たとえ年月を経てこの壁画が跡形も無く消えても、たとえ彼女が交わした言葉をひとつ残らず失ってしまったとしても、この心に爪痕のように残る衝撃を忘れられそうにない。良い意味でも悪い意味でも、否応が無しに。

「続きはタクシーの中で話そう。パレードに間に合わなくなりそうだ」

 いつの間にか、雨の鬱陶しさが気にならなくなっていた。予報通り天気は次第に快方へ向かい、律の楽しみにしているパレードも無事に開催されることだろう。
 腕時計を見ながら時間を逆算する降谷に、しかし律は怪訝そうに眉を寄せる。三度、瞼を瞬かせた後でようやく合点がいったように、その瞳を丸くした。

「もしかして、父の代理で来てくださった方ですか?」
「……冗談だろう?今まで誰と話しているつもりだったんだ?」
「誰と言うか……、まあ、話好きなお兄さんだなあって」

 面を食らうのは、今度は降谷の番だった。父からは誰とは聞いてなくてと律は付け加えるが、問題はそうではなくて彼女自身の迂闊さにある。
 今後知らない人間に話しかけられたら全て不審者だと思え、君にはそれくらいで丁度いい。接待をするつもりがつい説教めいたことを口走った事に気付いたが、律はあまり堪えていない様子だった。悪の存在を身近に感じた事のない彼女には、降谷の言いたいことが実感として分からないのだろう。
 まだ降谷が小さな子供だった頃、親友とふたりで山へ虫を採りに出掛けたことがある。半日駆けまわっては多種多様な小さな生命体を追いかけまわし、陽が落ちる頃になって降谷は木々の間に仕掛けられた蜘蛛の巣に張り付いた、色の綺麗な蝶々を見つけた。動けない蝶と、独特で軽快な足取りでにじり寄る蜘蛛。捕食の瞬間だ。降谷は瞬きもせずに、声を上げることも出来ずに、ただただその様を独り眺めていた。帰り際になって虫籠の中の虫を逃がしたくはないと泣いて喚いて、親友を随分と困らせたことを今でも覚えている。
 あの時と同じ、あの時と同じだ。花井律に感じたあの惧れは、名も無い毒は、降谷零のような性質の人間にだけ特別酷く作用する。

「名前を教えてもらえますか?」

 律は嬉しそうに微笑んだ。
 まるで今ここに新たに築かれるふたりの関係を祝福するように。
 
「答えを当てたら教えるよ。――花井律さん」

 何かを掛け違えた嫌な予感がしたのに、降谷は気付かない振りをした。
 毒を制する手段も心を律する方法も既に持ち合わせているような気がしていたし、事実、降谷零と花井律はそれからしばらく傍目にもとても仲の良い兄妹のように毎日を過ごした。脆く壊れやすい恋心と違って、家族愛は簡単には砕かれない。本当の兄が出来たように自分を慕う律を降谷は可愛がったし、誰かとの関係に終わりばかりを見てきた降谷の心の隙間を律は埋めてくれた。
 だからこれからも律を守るはずだった誠一郎が殉職し、世間知らずの律が警察官になるなどと気の狂った事を言い出すまで、降谷はあの時注入された毒が結局自分を漸次的に蝕んでいた事が分からなかった。

『……君、降谷君。こちらは片付いた。今から向かうよ』

 ノイズに混じる赤井の声が耳元で鳴って、降谷を記憶の海から引き上げる。はっとして我に帰り顔を上げれば、律は今にも泣きだしそうな顔で降谷を見つめていた。
 君が話せと言うから話しているのに、俺の嫌いなその悲しい瞳で俺を見ないでくれよ。優しい言葉を掛けてみたところで涙ひとつ流さずに、この胸の中に引き寄せることすら許してくれない癖に。噛み締めた奥歯が、軋む音がする。
 降谷はただ、花井律との穏やかな日常を取り戻したいだけだった。失われた記憶は全ていつか戻るだろうと思っていたし、たとえ永遠に戻らないとしても律は律だと信じていた。今目の前に居る彼女が花井律ではないことなど知りたくはなかったし、花井律への恋心などこの命が消えるまで自覚したくはなかった。

「あの時、君を花井律にしてしまった事を後悔している」

 記憶を失ってから出会った律の心の中には、いつでも赤井秀一が居る。
 降谷があの雨の日の花井律との記憶をいつまでも忘れられないように、律も仮屋瀬ハルとして彼に恋をしていた頃の記憶を永遠に忘れられない。そうして恐らくそれは、花井律という名を再び与えられたあの日からも。
 結局、物分かりの悪い子どもの頃から何ひとつ成長出来ていないせいで律を振り回していたのだと思うと、降谷は自嘲した。律から思いのままに全てを奪っておいて、今はもう手離してやることだけが律の幸せなのだと思うと、どうにも情けなく遣る瀬無い。

「赤井を愛しているんだろう。俺に気を遣って隠さなくていい」

 胸の奥で長い間閊えていたものが、熱を失って溶け出してゆく。ああ、俺は今この手で花井律を殺めたのだと、かたちばかりが変わらない律の瞳を眺めていた。
 もうこれ以上この心を傷付け苦しむ必要が無いのだと思うと、何かが事切れたかのように降谷を空虚で満たしてゆく。それでも見えない鎖に繋ぎとめられたように彼女に執着していた頃よりは、随分と心が軽い。
 本当は彼女が誰であろうが関係なく、この身体に何年もかけて廻った毒を中和する方法は最初からひとつしか存在していなかったのかもしれない。

「もう花井律の真似をして、生きなくていい」

 律の薄い瞼が、一度だけ無感動に瞬く。その瞬間、耳元から垂れ流れていたノイズも確かに耳障りだった雨の音も消えて、何も、何も聞こえなくなった。
 突然ふたりだけ別の世界に切り出されたかのような空白の隙間で、律の長い髪がさらりと揺れる。降谷の記憶の中で生き続ける律と同じはずの顔が、少しだけ違えて見える。どこをどうというよりかは、もっと根源的に。
 認識を合わせようと思わず律と名を呼ぼうとして、不思議と舌が動かない事に気付く。そうしている内に彼女の口許が、果実にナイフを入れたように歪んで裂ける。

 ――真似をして生きているように、見えますか。

 動いた唇に音は遅れて聞こえて、降谷は狼狽した。小さく吸えた息にどうやら舌は動きそうだが、返す言葉が分からなかった。
 だって、そうだろう。君は花井律が警察官であることを思い出したから、だから逃げずにここで身を潜めていたのだろう。今の君は、花井律ではない君は、この仕事に何の信念も執着も無い癖に。
 言ってしまいたいのに、言えない。張り詰めた空気の中で迂闊にそう責め立てれば、彼女の心が砕けてしまいそうな気がした。解放してやると言っているのに、どうして今更骨を刺すような瞳で初めて自分を見るのか、降谷にはそれが分からなかった。
 どれくらいそうしていただろう、時間感覚の曖昧になった頃に、近い場所で靴がコンクリートを蹴る音がした。その音は次第に速度をはやめて、律はようやく視認した男の姿に意識を奪われる。

「律」

 それはまるで、いつか律とふたりで肩を並べて見たメロドラマのワンシーンのようだった。
 自分に真っ直ぐ駆け寄り差し伸べられた手を、律が拒むはずもない。その腕の中にようやく戻った大切な人の存在を確かめるように、赤井は何度も何度もその名前を呼ぶ。甘く、切なく、とても深い愛で結ばれたふたりがそうするように。
 律のささくれだった心はそうして赤井に優しく撫でつけられて、降谷が何を言っても強がってばかりいた律の嗚咽が程なくして小さく聞こえた。身体を震わせ声を殺して無く律を、赤井は慣れた手付きで宥めては時折その耳元であやすように何かを囁く。
 降谷はそれ以上ふたりの姿をその目に映すことが出来ず、立ち上がると静かにその場を後にした。

「風見。……ああ、全て終わったよ」

 伽藍堂のように殺風景なショッピングモールの廊下の隅で、降谷は現場の状況を簡単に説明すると事後処理の方法を電話口に指示する。風見は三吉彩花の聴取を、ジョディはカスタマーリストの回収を滞りなく終えた旨の報告を受けると、思わず安堵に息が漏れた。 
 律の様子はどうですかと急いた声で尋ねられたから、無事だよと、短く伝える。だから続いた風見の弾んだ声には思わず、ただ彼女はもう警視庁には戻らないと思うと付け加えて、一方的に切電した。終話音を鳴り散らかしたまま、降谷は硝子戸に凭れて幾分弱まった雨の降り注ぐ様に目を泳がせる。
 真似をして生きているように見えますか。耳の奥に残る彼女のその言葉の意味だけを、降谷はひとり考え続けている。


prev next
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -