#78

 ――シアター内には居ない。フロアを降りたのか?
 ――まさか。昇降口には見張りがいる。もっと目を凝らして探せ。

 砕けた硝子戸の隅から辛うじて漏れ出した会話と遠くなる足音を、花井律は息を殺して聞いていた。
 もしもその戸が押し開けられようものならと右手に握っていた鋭利な硝子の破片を下げて、恐る恐る僅かの隙間から内部の様子に目を走らせる。人影は消えた。どうやら探索場所を変えたらしい。
 律はひとつ息を吐き出して呼吸の乱れを整えると向き直り、簡易な鉄柵から頭だけを傾けて現状を確かめる。咄嗟に逃げ込んだ非常階段の踊り場は、畳二枚程と狭く屋根も無い開放的な造りだから身を隠す所か風雨すら凌げない。彼等の言葉通りモール内部の昇降口には人気があるようだったからこの場所へ辿り着いたものの、ステップの大部分は腐食し底が抜けとてもではないがまともに下れる状態では無い。道理で監視の人間も置かず、施錠すらされていないわけである。
 地上までの距離を目測すると、律はあまり迷わず決心を固めて立ち上がった。いずれ炙り出されると分かっている場所に留まるためには、それに見合う勝機というものが今の律には不足していた。
 鉄柵を両の手で掴み、三度揺らして強度を確かめる。痺れで感覚の曖昧な左前腕の傷口からは、溢れた血液が雨に流されて滴り続けていた。

 "あるいは、君が綾瀬を殺したのか?"

 イヴの言葉を真に受けたのは、律よりもネオの方だと言って差し支えないだろう。実際その真偽がどうであれ、花井律が綾瀬明を殺めた可能性そればかりの不確定要素が、ネオの心に思わぬ程度で作用してしまった。綾瀬明への透き通った信仰――彼の瞳の奥に棲むものは、どうやらそれに近い。
 唸る刃は、躊躇い無く律の急所を狙った。交渉の余地無く、脅しの駆け引き無く、己の絶対的な神を奪った人間への剥き出しの怒りと憎悪がひとひらの理性すら染めてしまったようだった。イヴは掠れた声で彼の名を叫び、律を押し退ける。ナイフはイヴの左腹部の肉を割いて、拉げたような呻き声が小さく上がったかと思えば、それはすぐに彼の怒声に掻き消えた。確かに飛び交った言葉の数数を、律は良く覚えてはいない。律の心はその時、千載一遇の逃走の好機にただ衝き動かされていた。

「……っ、……痛、」

 踊り場から乗り出しぶら下がるようにして伸ばした両脚の先は、辛うじて下階の手すりにぶつかる。せめて落下の衝撃を和らげようと二度三度とその感触を確かめている内に、無理を強いた傷口が広がり反射的に手が離れてしまった。
 着地点を探した両脚は空ぶるが、しかし幸運にも胸部が支柱にぶつかり多少勢いを殺して、そのまま滑るようにひとつ下のフロアへと到達した。身悶えるような痛みに裂けた皮膚は熱を帯びて焼けるようだから、律は声にならない叫びをあげて蹲る。
 激しく降り頻る雨の音を思い出す頃、律は血の気の引いた顔をゆっくりと持ち上げた。瓦礫の粒を踏んで傷付いた素足を力無く引き摺り、細い鉄柵の間から顔を出す。少しばかり近付いたはずの地上が、まだ遠い。
 あと二度も同じ事を繰り返さなければならないと思うと、途端に心が怖気づいた。鉄柵を握り締める両手ばかりは勇んで震えるのに、痛みを覚えた半身は重く麻痺したように動かない。多少のリスクを覚悟してでもここで助けを待っても良いのではと、過った考えがあまりに恥ずかしく惨めで涙が浮かんだ。皮肉にもその屈辱と劣等感は、律の恐怖心を穿った。

「……どうして、」

 程なくして泥濘んだ地面を踏みしめた律の脚は、建物の外壁伝いに進むと行き当たった渡り廊下を駆けていた。水捌けの悪いコンクリートは滑り、見えない指の先で弾くように律の身体を転がす。頬に撥ねた冷たい雨の温度すら分からない程に、全身が火照っている事に気付いた。
 自分の弱さに、情けなさに、腹が立つ。悔しさにひとり顔を突っ伏したまま、力無く丸めた拳で何度もコンクリートを叩いた。
 律が警察官としての自覚を持ちもっと訓練に励んでいたのなら、逃げの一手を選択せずとも良かっただろう。律が失われた記憶ときちんと向き合い続けていたのなら、過去への説明責任を果たすことができたのかもしれない。律が以前の花井律であれば、ではなくて、花井律としてただ今を真摯に生きていたとしたら、違う結末があったのかもしれない。
 律は気怠い身体を引き摺るようにして立ち上がると、再び歩き出す。幸い隣の建物までに移る間に、律の姿は誰の目にも留まる事は無かった。

 ――シアターコートを見張らなければ。

 ウエストサイド内でフロアマップを前にした律は、だから冷えた頭でそう考えるに至った。
 ショッピングモールはイーストサイドを唯一の玄関口として、袋状にぐるりと周囲を雑木林が茂っている。もしもイーストサイドを抑えられた時に備えて最奥であるシアターコート側には、地図上には書かれない逃走経路を用意している可能性があった。この豪雨でただでさえ視界不良の中、土地勘の無い山の中へ逃げ込まれたら確保は困難を極めるだろう。彼等と直接対峙することは出来ずとも、その足跡を追跡する程度の余力は律にも残っている。
 律はウエストサイドの一角に身を隠しながら、渡り廊下の先で大胆にも口を広げている扉を凝視していた。せめてこの現状を誰かに伝えられたら良いのだが、シアターコートから逃げる際に連絡手段であるスマホを取り返すまでの機転がきかなかった。

 "全ては彼女の記憶の中にしか残っていない"
 "君だけが知る真相を話して欲しい"

 聞こえるのは、止まない雨の音と、それに混じる自分の呼吸音だけ。そのはずなのに、耳のずっと奥にこびりついたように木霊するイヴの言葉が消えないままでいる。
 真実に拘るイヴと、復讐に囚われたネオ、そして彼等の諍いを止める術を持たない非力なキキ。渦中に居た綾瀬明は既に命を落とし、おそらく公安の捜査官として事件に関わった花井誠一郎も五年以上も前にこの世を去っている。当時の花井律と言えば、まだ警察採用試験も受ける前のただの学生に過ぎないはずだった。
 花井律。あなたは何を知っていたの、あなたは何を隠していたの。胸の中で呼び掛ける言葉に、応えは返らない。

 ――もしもこのまま、永遠に花井律の記憶が戻らないとしたら。

 髪を滴った雨の雫が、太腿のあたりに落ちて流れてゆく。
 もしもこの記憶が戻らず、そして本当に花井律だけが知る真実があるとすれば、それは初めから存在しなかった事になるのだろうか。真実をこの手で握り潰して、誰かの命運までも捻じ曲げるのだろうか。
 過去に囚われて苦しむ姿を見たくはないと言った、あの時の赤井秀一の鈍色の眼が蘇った。そうして幾度となく律が過去に浸食されそうになっても、赤井は何度でもその広い胸の中にこの身を匿ってくれるのだろう。君だけではないよ、人は皆与り知らぬ所で誰かの運命を良くも悪くも捻じ曲げているのだよと、彼ならこの涙が枯れるまで優しくそう説くのかもしれない。
 では、降谷零ならば。律は僅かに目を細めると、脳裏に焼き付く降谷の姿をひとつひとつ思い返す。
 しかしどれだけそうして考えた所で、律には降谷の心が分からなかった。律が過去に囚われているように、降谷もまた過去に囚われたままでいる。それを知りながら大切な事にばかり踏み込まずにいたのは、律の方だ。

 ――ガラッ、

 反射的に、身体が慄え強張る。見えない圧迫感に全身の血が冷えわたり、動悸の音ばかりが耳に煩い。
 足音などひとつも聞こえなかったのに、どうして。乾いた喉に僅かの唾液を押しやると、律はそれきり呼吸を止めた。内臓の底からせり上がって来る吐き気がそれで少しマシになり、感覚の確かな右手で足許のアンカーボルトを音無く拾い上げる。
 お願い、私を、見つけないで。祈るような心地とは裏腹に、態勢を低くした律は遭遇の瞬間に備えた。一瞬の迷いが生死を分ける。パキリと、扉を開けた侵入者の靴が瓦礫の欠片を小さく踏む音が、今度は分かった。

「……きゃっ、」

 先制して不意を突いた、つもりだった。
 視界の端にその二本の脚が映り込んだ瞬間、律は踵を蹴って跳ねるように飛び出した。膝の辺りを狙って体当たりし、勢い任せに瓦礫の残骸の中へ共にダイブする。そうして怯んだ隙を突いて武器を奪い、仲間を呼ばれる前に主導権を握らなければ。勝算が少しも無かったわけではなくて、むしろこの身体は律がシミュレートした以上に躊躇い無く良く動いた。
 しかし突然のその襲撃に、相手の反応が律を優に上回る。傾いたはずの身体は何故か途中で反転し、返された手首を強く振られると反動で開いた拳の中から律の武器が滑り落ちた。あまりにも一瞬の出来事、あまりにも鮮やかな手腕。
 ――殺される。
 ネオの感情的な剥き出しの殺意とは違った、理性的で無感動な詰め。意義無く、それでも確かに獲物を狙う銃口が蟀谷に当たる感触がして、律は本能的に瞼を閉じる。

「――律?」

 しかし刹那、無機質な金属の塊が、死を見据えて凍り付いた皮膚の上から逃げるように離れた。
 同時に抑え付けられるようにこの身を圧迫していた彼の身体は少しだけ持ち上がり、自然と膨らむ肺は呼吸を思い出す。俄かには信じ難いその声に、しかし律の固く閉じた瞼はまるで何かに導かれるように持ち上がる。
 どうしてこの瞳に、殺められるなどと一度でも思えたのだろう。少しの秘密ですら暴かれそうなこの距離で、何かを犠牲にしたとしてでもその双眸を見つめ返さずにはいられない。つっと重力に引かれた雨粒の滴が、その髪の束の先から律の頬に落ちる。瞬きひとつ、出来やしない。
 律。胸のあたりがざわめいた。二度目はまるで、世界で最も大切な人を呼ぶ時のように囁いた。

「……降谷さん、」

 まさか本当にここに居るとはなと、少しの呆れと、少しの安堵を馴染ませた声で降谷は続けると、立ち上がり律に手を差し伸べた。温かい。久方ぶりに触れたその手の温度は、離れていた時の長さを忘れさせる程に不思議と近く感じる。
 それでも、律は知らなかった。こうしていつも誰かを掬いあげるその指先が、一方でまた誰かを殺すための引鉄を引く事に慣れているだろうことを。こうして今も同じ空間で息をしているはずなのに、なぜか本当は別の世界で生きているような冷然とした錯覚にあてられることを。近いはずなのに、遠い。あまりにも遠い。
 しかしその絶望に似た感覚の中で泳ぎながら、律は吐き出しそうな不安と恐怖の塊が、何時の間にか溶け出していることにその時気が付いた。あの時確かに穿ったはずの屈辱と劣等感が、目に余る速さで息を吹き返してゆく。
 降谷は、ただ優しいだけの手付きで律の乱れた髪を耳にかけた。そのまま目に付いた肩の泥汚れを払うから、律は思わず、切り付けられた腕の先を緩慢な動作で背に隠す。降谷の瞳が、僅かに細められた。

「怪我をしているだろう。見せて」
「……いえ、大した傷ではないので。大丈夫です」
「いいから。早くその左腕を出せ。なぜ隠すんだ」

 有無を言わさぬその物言いに、律は不承不承に腕を差し出す。その態度が気に食わなかったのだろう、心配を掛けたくないのは分かるけど隠されると余計に心配になるだろうと、降谷は口を尖らせる。
 そうではなくてと、言いかけてやめた。自分はいつも降谷を相手取ると、大丈夫です、平気です、何でもありませんと、そればかりを繰り返して困らせているような気がする。降谷が呆れ返るのももっともだろうと、包帯代わりに腕に巻かれていくその群青色のネクタイを、じっと見つめていた。
 傷を隠したいのはみっともないからで、頼りたくないのは役立たずだと失望されたくないからだ。しかし、降谷はそれを望まない。降谷は律が籠鳥のまま、安全の約束された場所で大人しく守られていてくれた方が幸福なのだろう。彼のそのあまりにも小さな幸福を取り上げる権利が、本当に私にあるのだろうか。
 キュッと結び目を作る音がして、押し黙ったままの律に、降谷は視線を持ち上げた。熱くなった目頭からは気を抜けば涙がこぼれてしまいそうで、震えそうになる唇を強く噛む。痛むのかと尋ねられたから、首を左右に振って目を逸らした。ひとつ沈黙が降りた後で、降谷の温かい手のひらが壊れ物でも触るように頬に触れた。

「来るのが遅くなってごめん。怖かったよな」

 降谷を知れば知るほどに近付きたくなるのに、近付けば近付くほどにこの胸は苦しくなる。
 その苦しみを手放す方法は分かるのに、律はやはりそればかりを選べない。選べば最後、その代償に律は降谷と共に生きていく機会を永遠に失ってしまう予感がする。たとえその選択が、降谷の望まぬ選択だとしても。

「……主犯格と思われる三人は、シアターコート四階の手前の管理室に居ます」

 戸惑いに僅かに力を失った指先が、静かに離れてゆく。ひどく名残惜しいのに、そうとは言えない。
 聞かれてもいないのに、律はその瞳で記憶した現場の情報を続けて話した。掻き乱れた心を抑え付けて、抑揚を除して一息で。透徹したその瞳に何かを見透かされているとしても、決して付け入られる隙が無いように。

 "律は律だ。記憶が無いくらいで別人になんてしてやらないよ"

 失くした過去の上澄みに中途半端に足を浸からせたままの律に、差し出された手を躊躇ったままでいた。なぜその手を迷いなく選べないのだろう、なぜこの心地の悪い泥濘にいつまでも留まっていたいのだろうと、律にはその心を上手く言語化することができなかった。
 そうしてある日その泥濘の中に、冷たくなった花井律の溺死体を見つけた。もう記憶を伝える術を持たないその身体をあたたかな地上へ引っ張りあげて綺麗に埋葬してやったら良かったのに、律は人知れず死体をまた泥濘の奥へ隠してしまった。深く、深く、決して誰にも見つからないように。
 顔を上げればその手は相も変わらず、律を待っている。何かが晴れた心で今度はその手を掴もうとして、瞬間、引っ込める。律の両の手の平は、浅黒い泥でひどく汚れていた。どれだけその泥濘の中で手を雪ごうと、その泥は決してこの手から剥がれ落ちない。
 律はその時になって、ようやく気付いた。自分は汚れた手のままで彼の手を取るのが怖いのではなくて、その泥に触れた彼が泥濘に沈めた溺死体の存在に気付く可能性を恐れている。花井律は花井律だと言った降谷に、本当は花井律ではないことを気付かれることがずっと怖かった。

 ――降谷さん。
 ――あの子はもう、還らないの。

 そう伝えたなら、降谷はその表情をどう変えるだろう。
 不文律を破り捨てた私を、赦してくれるのだろうか。

「……ああ、聞こえただろう。好きにしていい。通信は繋げておけ」

 降谷は立ち上がり左耳の通信機を軽く抑えると、口先を素早く動かしてその向こうの誰かに伝えた。風見や捜査員を連れてきているのだろうか、降谷が現場へ加勢する様子は無く、通信機から指を離すと再び律を見遣った。
 何かを言いたげな瞳が一度だけ下方に泳いで、切なく光る。その意図を計り兼ねている内に寒くはないかと尋ねられたから、律はまた、平気ですと返事をした。それは降谷が本当に尋ねたいことではないことが分かるのに、律もそれを指摘できない。迂闊に触れれば脆く崩れ落ちてしまう何かが、降谷と律の間に浮かんだままでいる。
 降谷は律の左隣に、静かに腰を下ろした。背後から聞こえる雨の音が、少しだけ遠く柔らかくなる。

「本当は、巻き込まずに片付けるつもりだった。この事件は、律の知らない過去に関係するものだったから」

 喉を締めるような声は、懺悔と後悔の響きを捩じ込まれてアンバランスに揺れていた。
 降谷が今まで律に詳細な過去を語らなかったのは、それを受け入れる決断を迷っていた律が原因である。しかしその過去ばかりはこうして露呈でもしない限り、降谷は伝える必要の無い過去として切り分けて、その記憶の中に全てを葬ったのかもしれない。確かにそう感じさせる後ろめたさのようなものが、律には分かった。
 会話が途絶えて沈黙が彷徨うから、律はゆっくりと一度、瞼を閉じる。
 もう二度と、何も知らなかった頃の花井律と降谷零には戻れないのだと思うと、胸に込み上げる愛おしさに似た感情があった。

「花井律は、どういう女性でしたか」

 ひび割れた何かが、一瞬で砕け散る。
 その破片は律と降谷の胸に等しく空いた風穴に、ひとつも零れずに突き刺さった。

「知りたいんです。私が私として、これからを生きていくために」

 逃げない視線が、とても近い場所で交じり合う。嘘の許されない距離で、偽りの隠し通せない距離で。
 降谷の瞳がまた、あまりに切なく煌めいた。鏡に映した自分の瞳ではないだろうかと、錯覚して瞬きをする。
 長い時を、雨垂れの音ばかりが刻んでいくのを聞いていた。律はその間ずっと、いつか見た憶えのある降谷の張り詰めたその表情を記憶の中に探していた。僅かでもその残像が見つけられたのなら、言葉にしてもらわなくともその気持ちを汲んでやる事ができるかもしれないのに、どれだけ願おうと律はその日を思い出せない。
 そんな顔をしないでくれ――。まるで永遠の別れでも誓う時のように、降谷は言った。堪らず無理をして笑ったその顔が、胸を絞られるように甘く寂しい。

「彼女は、雨の日が好きだったよ」

 あの日から姿を消したままの花井律の亡霊が、降谷の優しい言葉のひとつひとつに飾られてゆく。
 彼女が完全に色付き蘇った最後を想像して、律は同じように、無理をして笑って見せた。


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