#77

「――少し脅せば、全て話してくれると思ったの」

 薄く開いた唇から零れ落ちた言葉は、牙を抜かれたように後悔の兆しを帯びている。
 風見裕也はようやく再開のできそうな取調べの調書を作成するため、随分と前にブラックアウトしていたパソコンのキーボードに再び手を伸ばした。手元の時計の長針は、アザミ東都の駐車場で上司と別れた時からぐるりと一周してしまっていた。
 格子窓を打つ雨の勢いは衰えず、風見はその音に、彼の激情を想起して内臓を絞られる思いで居る。今日ばかりは是が非でも自分が傍でサポート出来たら良かったのだが、二手に分かれると決まった時点で、捜査権を持たない赤井とジョディではチームを組めない。
 本当に、あのままふたりを共に行かせて良かったのだろうか。降谷からの連絡はまだ、届かない。

「良い同僚だとばかり思っていたから……。彼女が、花井の娘だと知った時は複雑だった」

 取調室にひとり戻った風見を見た彩花は、その視線を泳がせた後で少しばかり緊張の糸を緩めた。降谷を探したのだろうとすぐに思い至ったから、彼なら花井の無事を確かめた後ですぐに戻りますよと伝えれば、露骨に疎ましそうにこちらを睨んだ。
 だからその反応に気を悪くした風見は、花井律に狙いを定めたその犯行が意味のないものであった事実をまず始めに打ち明けることを、躊躇わなかった。
 もしも律が本当に彼女の求める真実を抱えていたのなら、そうでなくとも当時の記憶を失うことが無かったのなら、交渉の余地はあっただろう。しかしそれが当初から破綻していたことを、彼女は知らない。取り返しのつかない運命の悪戯である。

 "ですから、花井律に何を聞いた所で彼女は答えられないんです"
 "……馬鹿にしないで。信じるわけがないでしょう"
 "ええ、構いませんよ。ただし覚えておいた方がいい。あなたはそうしてまた善意の第三者を、殺すかもしれないことを"

 彩花は刹那、化粧っ気の無い青白い頬を一度震わせた。しかし直ぐに、信じないと、風見の目に訴えながらまるで自分に言い聞かせるように呟いた。
 それからというもの、彩花は何を聞いても机上の空を見つめたまま動かない。自分に任されたのは彼女の持つカスタマーリストの回収であり、彼女の糾弾ではないことをその時になって思い出したから、風見は気取られぬように溜息を吐く。もし彼女が二度と口を開かなかったらという不安に、重たい沈黙がまるで永遠のようにも感じられた。

「綾瀬を死に追いやった張本人の娘だけれど、私と同じで、あの事件で大切な人を失った被害者だから」

 風見は、存外に饒舌に語り始めた彩花の言葉を止めぬよう、キーボードをタイプするのを控えた。
 どう舵を取りこちらの欲しい情報を吐き出させようかとばかり考えていたが、彩花は花井律というしこりを喉の奥に堰き止めたまま身動きが取れないようで、画面越しに眺める彼女は変わらず風見を見ようとはしない。
 風見は思わず、解けない命題に出会ってしまった時のように眉間に深く皺を寄せた。降谷同様大抵のことは卒なくこなす風見であるが、取調べにおける被疑者とのコミュニケーションは不得手である。およそ感情的な彼等に論理的武装は意味をなさないし、殊に罪人に対する潔癖さに関して言えば降谷よりも風見の方が上だろう。

「この身を斬られるよりも辛かった。けれど……、けれど私と彼女だけがこの痛みを抱えて生きていると思ったから……、だから、奴等に渡す前に彼女にコンタクトを取った。……でも彼女は、応えてはくれなかった」

 風見はその経緯に、思い当たる節が無い。もしも彩花が律に綾瀬の話を持ち掛けていたとして、律はそれが自分自身に何をもたらすものであるのか、そればかりが分からなかったはずだ。まさかそれがテロ組織アダムに繋がる重要なピースだとは思わず、彩花の言葉を無下にしてしまったとしても不思議ではない。

 "もしもこの一件で律に何かあれば、何も聞かずに助けて欲しい。事情を知る君にしか頼めない"

 風見はまたひとつ捲れ出た己の失敗に、ぎりっと奥歯を噛み締める。
 ホテル生活を余儀なくされた律の安全の管理を任されていたのは、風見だった。もちろんそれはアダム対策ではなく、別件で降谷の住居が危険に晒されたためであるが、それでもあらゆる危険から守らなければならなかった事には変わりない。そうして降谷の代わりに、毎日律と連絡を取っていたのも、風見だ。毎日言葉を交わして、毎日その言動に注意を向けていたにもかかわらず、彩花から受信したメールの話を風見は律から引き出す事が出来なかった。

「その瞬間、憎しみと恐怖のようなものが沸いた。どうして知らない振りをするの?あなたは本当は全て知っていて、監視するために私に近付いたの――?……気が狂いそうだった」

 無様な失敗続きで隣でサポートをしたいなどと、よくも思えたものだなと風見は胸中で己を嘲笑う。
 雨の中で対峙する降谷零と赤井秀一の姿は、とてもではないが他者を寄せ付けないふたりにしか分からないであろう世界があった。何人たりとも寄せ付けないその聖域は、破壊的な空気に満ちていながらどうしてだろう、この胸を酷く震わす情景だった。確かにあの男は、劇物のような魅力で溢れている。降谷の指示の許でしか動けない自分と違って、対等な立場でものを見るその瞳にしか映らない景色もあるのだろう。あれ程彼を忌み嫌っていた降谷がその手を取る選択をしたのだから、それが最良の手段だったのだろう。
 風見は、自分の情けなさに怒りを通り越して惨めになる。自分がもっと優秀であったのならば、降谷に異なる選択肢を提示できたのかもしれない。自分がもっと上手く立ち回れたのなら、降谷にこれ程残酷な形でその命運を突きつけずに済んだのかもしれない。律を、花井律を危険に晒すことなど、無かったのかもしれない。

「だからあなたが私の許に現れた時、確信したの。ああ、やっぱり、あのメールが証拠になってしまった、って」

 そして風見に追い打ちをかけるのは、降谷に任されたはずの任務が暗礁に乗り上げているようなこの予感である。

 "この世で純粋に真実を追い求めるのは、気障な探偵だけさ"
 "三吉が欲しいのは、確証だよ"

 風見には、分からない。降谷が去り際に託した言葉の意味を、紐解けないままでいる。
 もしも自分が彩花の立場で、たとえば不名誉な死を遂げたのが降谷だとするのならば、風見も隠された真実を追求したに違いない。しかしそれは風見が降谷の潔白を信頼し、その名誉を証明すべきだと思っているからである。
 三吉彩花は、テロリズムに傾倒したわけではない。むしろ綾瀬の死後から何年も経過した今ですら、その犯罪行為だけを彩花は許せてはいない。彼女は彼の、汚名を雪ぎたいわけではないのだ。しかしそうであるのならば、薄汚れたその真実を通して見えるものは一体何だと言うのだろう。

「……それは、違います。もしその時点で脅威に気付けたのなら、花井がみすみす攫われる事などあり得ない」

 風見は手元でブラウザを立ち上げると、業界では名の知れたとある闇サイトへアクセスした。
 違法取引のプラットフォームサイトである「ターミナル」は、ありとあらゆる商品やノウハウを匿名の当事者間で売買する。主力は違法薬物であるが、銃器や盗難品、アカウントやクレジットカード等の個人情報はもちろん、果ては売春や殺人依頼までその市場は多岐にわたっている。
 掲示板では毎日雑多なスレッドが次次と立つが、その中でも夏葉原リセットマン事件の信奉者が集っていたそれは、東都大学爆破事件を契機として爆発的な伸びを見せた。参加者の特定を防ぐため原則として入室時に匿名ソフトの利用を促されるが、その危険性を軽視し足跡を残す者は案外と多く居る。

「あなたのアドレスが検知されています」

 その画面を彩花に見せると、彼女は何かを思い起こすように両目を細めた。
 彼女がログを残したのはたったの一度きり、それは新宿での爆破事件の直後、庁内の閲覧室だった。

「……そう。……迂闊だった」

 三吉彩花にとって、第二の事件の発生は想定外であった。事件当日彩花は普段通りに登庁していたが、速報で事件概要を耳にした彩花がアダムの関与を疑ったことは想像に難くない。
 彩花は焦り、閲覧室へ走った。何せ第二の事件では、罪も無い若い警察官二人の命が犠牲になっている。共用PCを利用した「ターミナル」へのアクセス時、彩花は匿名ソフトのインストールが出来なかった。普段は自宅で使用しているそれは、庁内でダウンロードするには管理者の権限が必要になるからだ。
 彩花は止む無く、その手順を割愛した。あえての庁内での閲覧ならば、警察官という立場を盾に言い訳などいくらでも立つと考えたのかもしれない。当日の彩花の目撃証言から推知した事のあらましは、改めて確かめる余地無く明らかである。

「花井は何も知りません。何も知らずに、今でもあなたの無事を願っているかもしれません」

 彩花は、否定せず、そうして言い訳をするわけでもなく、画面からゆっくりと目を離すとようやく風見を見た。
 蝋人形のように表情の無い顔が、張り詰めた空気の中で小さく揺らぐ。眦にふっと盛り上がった涙が、つっと一瞬で音無く落下する。
 何と無垢に泣くのだろうと、風見は思った。今自分の前に居る女が憎むべき犯罪者であることを忘れそうになるほど、その涙ばかりはあまりに清らかだ。

「……もしも、あの子が本当に全てを忘れてしまったとして――。それ自体が、罪でしょう。彼女の記憶は、彼女のためだけにあるのではないでしょう」

 風見はその奥に潜む本懐を探ろうとして、耳を澄ます。
 訴えに、哀願の響きがあった。

「彼にはもうずっと前から、彼女に過去を教える義務があったはずでしょう」

 その時ふっと風見の脳裏に過ったのは、なぜだろう、あの春の日に花井律を失ってからの、降谷零の横顔だった。

 "あれは、律だよ。俺があいつを見間違えるはずがない"
 "記憶を取り戻してやらないといけないだろうか"
 "他にどうやって律を大切にしたらいいのか、手を離してやることが律の幸せなのか"
 "もうずっと、そればかり考えている"

 やけに鮮明に再上映ができるのは、それが風見裕也だけが知る降谷の弱さだったからだろう。完璧を絵に描いたような男の、自信など打ち砕かれたことが無いような男の、たったひとつだけの心の隙間。たったひとつだけの心の拠り所。
 降谷はいつも苦悩の渦中にいた。その腕の中でいつも降谷だけを見ていた少女が外の世界を知って戻ってからはまるで別人のように、以前のような眼差しを向けてはくれない。それでも離れたくはなくて必死でその手を伸ばすのに、強引にその身体を引き戻すことだけが出来ない。
 狂おしい程の、不安の塊。――彼女の心が、分からなくなってしまったから。

「……自分もそう思っていました。すべてを打ち明けて、早く彼女の人生を取り戻してやるべきだと」

 その瞬間、思考の洪水が引いた。それは風見が一度瞬く間に、恐ろしい速度で中央の窪みに流れ落ちてゆく。
 最後にひとつだけ排水溝に引っ掛かったその答えは、あまりに頼りなくこちらを見ていた。思わず手を差し伸べくたくなるような、壊れないようにそっと剥離したくなるような、そんな成りをしている。

「ですが花井は、事故に巻き込まれ過去を知らされないまま、別人として一年近くを過ごしました。それが他人の目にどれだけ歪に見えようと、形無い過去に振り回される花井にとっては、今はそれだけが確かな花井律の記憶です」

 三吉彩花と綾瀬明の関係は、風見裕也と降谷零の関係には当てはまらない。それは彼等が、互いにその背を預けるような職務上の信頼で結び付いていたわけではなく、僅かのすれ違いで脆く崩れ落ちてしまうような不安定な恋人関係だったからだ。
 愛はいつも、気ままに人の心を惑わす。愛する人を想う心が強ければ強い程に、底無しの闇の濃度を濃くしていく。
 もう長い間その様を隣で見守り続けてきた風見の目には、彩花が同じ渦中にいるように見えた。これは名誉の問題などではなくて、初めから愛だけの問題なのだと、そう思う。

「花井律として生きるということ……、普段私達が呼吸をするように出来ていることが、彼女にはとても難しい」

 彩花には、分からなかった。なぜ、アダムの心臓部とも言えるカスタマーリストを綾瀬はその活動に理解の無い彩花に託したのか、その理由だけが分からなかった。
 与り知らぬところで皮と骨だけになってしまった彼からは、遺言は聞けない。迫り来る死の予感に自分の過ちを認め彩花の愛した正義へ敬意を払ったのだろうか、それとも、周囲に知られてはいないこの関係を都合の良い隠れ蓑にされていたのだろうか。公にできない秘密の恋人であった事実は、その疑心を助長したことだろう。彼女の磨き上げた正義を歪める程に、曖昧な真実の中にだけ確かな答えがあると錯覚する程に。

「自分は、花井には過去の放棄を選択する権利があるように思います。これは、彼女の生きる道を左右する重い問いです」

 だから、あの時、降谷は彩花に問い掛けたのだろう。
 その真偽を判断するためではない。彼女が向き合うべきものは、彼女の中に蟠ったままでいることに気付いていたからだ。
 あの時返事に言い淀んだ彩花のその瞳に、また、涙が浮かぶ。堪える間も無いまま、零れ落ちる。

「三吉さん、降谷さんはあの時自分のように、花井の記憶の問題に言及したかったのではないと思いますよ」

 風見は、今も現場で巨悪に立ち向かっているであろう上司の姿を思い浮かべた。この事件に身を投じてからは隣を歩いているような気でいたのに、風見の脳裏に蘇るのはいつも追いかけているあの逞しい広い背ばかりだ。
 どれ程その心の修復に時間がかかろうと、三吉彩花にこれからを強く生きて欲しいと願っていた降谷は遠い。彼にとっては彼女もまた守るべきこの国の人間のひとりであり、それが当時守り切れなかった彼女に対する彼の贖罪でもあるからだ。

「『花井律には、あなたの望むものを与えられない。彼女は、他人の愛の丈を正確に量り取る術など持ち合わせていないのだから』……そう、言いたかったのだと思います」

 三吉彩花はそれから、震える細い両手で顔を覆うと声を上げて泣いた。何かを嘆き悲しむというよりは、咽返りながらまるで自傷行為のように大きな雨粒に似た涙をとめどなく流した。被疑者に同情することはあっても、決して同調はすることがなかった風見の胸が、理由無き痛みに小さく疼いた。

「……、データの入ったフラッシュメモリは、夏葉原駅近くの貸しロッカーの中。……鍵は、隣駅の壁画の前に埋めたわ」

 彼女の涙が枯れた頃、風見は胸ポケットからハンカチを取り出すと机上を滑らせた。反応が返らないから仕方なく捩じ込むようにその右手に握らせると、彩花は何かに堪えるようにぎゅっとそれを手の中で握り締めた。くしゃりと皺だらけになったハンカチを片手に、彩花は腹から絞り出すような声でそう告げた。
 風見は驚いて彩花の表情を窺うが、そこには生気ばかりが無い。彼女の命の灯は、まるでその右手ばかりに残滓が集まっているようだった。
 
「……必ず戻って、出来得る限りの事実をお伝えすることを約束します。――その後で、罪を償いましょう」

 立ち上がり、強引にその固い拳を開かせる。茫洋とした瞳の奥で、僅かの暗い光が揺れる。
 罪の重さに、食い殺させやしない。その一心で風見は、彩花の瞳を間近に見つめた。張り詰めたような空気が、全身の肌の上を微細な刺激と共に伝ってゆくような気がする。三吉彩花は、瞬くような動作で静かに頷いた。約束ですよと、念を押した。
 取調室を出ると丁度、第三の事件の捜査に回していた担当者と鉢合わせた。どうやら彼等の方も粗方片が付いたようで、風見は現状を掻い摘んで伝えると彩花の世話を任せてその場を後にする。ひとりになったところでようやく、ジャケットに通話状態のまま入れておいた端末を静かに耳に当てた。

「……聞こえましたか?」
『ええ。回収に向かっているわ』

 吹かしたエンジン音を背後に、ジョディ・スターリング捜査官の声はようやく自分に巡った役割を受けて心なしか生き生きとしている。
 風見が彩花の取調べを行っている間にジョディに秘密裡に彼女の自宅を調査させていたが、収穫の無い旨の報告を受けてからは、進展があり次第すぐに動けるように近場に待機させていた。取調べ時に何か気になる点があれば遠慮無く指摘が欲しいことは伝えていたが、ジョディはただ静かに風見と彩花のやり取りを聞いていただけだった。
 どうやら追って目的地の指示は不要であることを理解すると、風見は立ち止まり、腕時計の表示を確かめる。何か問題が発生しない限りは、降谷からの連絡が入ってもいい頃だ。

「自分は降谷さんからの指示に備えて手配を始めます。合流地点は後ほど、」
『ねえ、風見捜査官』

 現場の状況は分からないが、それでも最低限の救護班と念のため増援を確保しておきたい。
 会話をしながら次の行動プランを模索する風見を、その時ジョディが遮った。あの時駐車場で降谷と赤井の間に割って入った時とは違う、凛と冴えた響きがある。
 
『降谷があなたを重用する理由が、良く分かったわ』

 風見には、ジョディが何をもってそう判断したのか、それだけが定かではなかった。もしかしたらそれは長い取調べを終えた自分に対する、彼女流の労いの言葉なのではないかと考える程に真意を量り損ねた。
 ――私達、いつか本当に一緒に良い仕事が出来るといいわね。
 しかしそう続けたジョディの声に、世辞や偽りが無い。それだけが無い。
 風見は腹の底の方から喉元に込み上げた感情を飲み込んで、思わず両の瞼を固く瞑った。それは風見の泥に塗れた自尊心を、確かに洗う言葉だった。


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