#75

 不幸中の幸いであったのは、外出に備えて発信機付きの腕時計を身に着けたこと、そして後ろ手に縛られた手首の結束バンドがその操作を阻害する強度では無かったことである。
 目が醒めると、視界は遮光カーテンのような不自然な暗闇に遮られていた。息苦しさは口許を覆ったテープか何かのせいで、鼻先が擦れた生地はシャラリとポリエステル特有の音を鳴らすから、律は突如襲った混乱に呻き声も出なかった。
 程なくして、僅かの揺れ。何かの引力に捕まり前に転がりそうになる身体にはなす術も無く、しかしまたしばらくすると元に戻る。寄せては返す波のように不規則に何度か繰り返される内に、律はようやく、自分が輸送中の車内に寝転がされている事に気が付いた。意識を手放してから数分と経たぬような気がしていたのに、目尻に貼り付いた涙の痕は長い時間をかけて乾いた絵の具みたいにひび割れていた。

 ――彼女からはまだ連絡が?
 ――ああ。こりゃあいよいよ、パクられた可能性もあるなあ。
 ――潜伏先が知れたのか?だから情報屋は選べと言っただろう。
 ――仕方ないだろ、女帝が隠居しちまったんだから。

 辛うじて拾える声と気配はふたつ、曖昧ではあるが律の居たホテルの部屋に押し入ってきたのも男二人組だったような覚えがある。妙に威厳を備えたしゃがれ声に対比して、張りある若い声はやたらと軽やかだ。
 咄嗟の事で律はふたりの相貌を少しも記憶できていないが、そうでなくともその声の持ち主に心当たりは無い。明らかに無差別というわけではなく自分を狙った犯行のようであったが、知り得る過去を振り返った所で答えは無い。何故あの時軽率に扉を開けてしまったのだろうと後悔に苛まれるが、それは一過性のもののようですぐに消えて無くなった。今は過ぎた事を嘆くよりも、見透かせない犯人等の動機を思うよりも、この危機的状況から脱する手段を第一に考えるべきだ。
 今しがた発したばかりの緊急信号を降谷や風見が直ぐに検知できるとは限らないし、時間経過すら分からない律には現場からどれだけ離れてしまったのかも分からない。まさに電話中であった赤井は異変に気付き何かしらの対処はしてくれたかもしれないが、赤井はそもそも律の居場所すら知らないし、その事実を直に降谷に連携できる確率は絶望的だ。

 ――起訴はされないにしても、勾留が長引けばこちらに不利だ。
 ――この取引、案外高く付いたかもな。
 ――癪、だな。私達はまたこうして、花井に阻まれるのか。

 花井。不意に口走ったその名を律は掬い上げ、口許を渋く歪める。男達はそれきり言葉を交わす事を止めてしまったが、その原因が確かな憎しみを込めて吐き棄てた己の姓にあることばかりは明白だった。
 律は、拘束された手足を静かに擦り合わせるようにして考えている。
 最初から殺しが目的であったのならば、律は既にホテルの一室で冷たい死体になっているはずである。僅かでも花井律自身に交渉の余地があるのだとすれば、大人しく彼等に従う振りをして時間を稼ぐという方法も賢いのかもしれない。しかし一方で、人目に触れる公道を走る今がアクションを起こす最大の好機とも言える。彼等の領域に足を踏み入れれば退路は限りなく断たれるだろうし、頼みの綱とも言える追跡装置の電波が届く場所である保証は無い。ただし時速四十キロは超えているであろう車内から運良く転がり出せたとして、周囲を巻き込み凄惨な事故を引き起こす可能性は計り知れない。
 頭の中の見えない天秤に分銅を重ねる作業を続けていると、それは限りなく等しい値に近付いていく。爪を噛む癖など無いのに、酷くそうしたい衝動に駆られる。
 どう、すべきだろう。赤井や降谷ならば、ジョディや風見ならば、この窮地をどう切り抜けるだろう。考えた所で、律は彼等ではない。彼等にならば出来る事が、律にも同じように出来るわけではない。結局、律は選択権すら放棄したまま、ただ無情に過ぎる時間の音ばかりに耳を欹てるしかなかった。

「――よお。お目覚めかい」

 ジッパーの下がる音と共に、薄明かりが目に刺すように降って来る。数分前に停車したかと思えば後部座席の扉はすぐに開いて、律の入ったスポーツバッグのようなものは乱暴に持ち上げられた。ザアザアと降る雨の音が途端に聞こえたが、それよりも律は頼りない人の手にばかり担保された浮遊感に、いつこの身体ごと地面に叩きつけられるのだろうかと肝を冷やした。結果不安は杞憂に終わったが、階段の昇降を繰り返し同じ所をぐるぐると歩き回ったような錯覚に、記憶していた方向感覚を失ってしまった。
 男の薄く開いた唇の隙間から覗く矮小歯は、ヤニで酷く汚れて見える。小動物のような不似合いな動作で傾けた頭から、ひとつに束ねられた女のように長いベージュの髪が垂れていた。まるであどけない少年のようにも見えるが、醸し出す厭世的な空気は二十歳をとうに超えている。

「叫ぶなよ。うるせえだけだから」

 強引に剥がされたテープに、肌の薄い皮膚細胞が破れたように痛む。案の定口の中に溶け出した血の味を舐めて、下唇が切れた事が分かった。
 起き上がろうにも手足は拘束されたまま、仕方なし上半身を使って這い出る様を男は芋虫みたいだと嫌味だけが無い笑みでからりと嗤う。

「ネオ、足首のバンドを切ってやれ」
「ええ?面白いのに」
「なら私がやろう。ナイフを貸せ」

 こちらへ近付いてくる二本の脚ばかりが視野の端に映った。靴は人を表す鏡だとさえ言われるが、その革靴は雨の日にも関わらず磨かれて艶がかっている。なぞるようにして持ち上げた視線の先に見えたのは、白髪混じりの品の良さそうな初老の男性だった。整えられた髪と仕立ての良い洋服。格式張った靴屋の職人だと紹介されたら、それを信じてしまうだろう。
 不貞腐れたように言葉を返してネオと呼ばれた男が足首にナイフを宛がうのに、しかし律はそれよりも、自分を見下ろす男の瞳に棲む闇に気付いて慄いた。――私達はまたこうして、花井に阻まれるのか。あの時聞こえた台詞がものを言わぬ窪んだ目から滲み出て、その心臓部で息衝いている深い悪意を感じる。それは俗世に紛れる人の殺意よりも重たい気がして、彼が背を向けて離れるまで律は自由の戻った足を動かす事が出来なかった。

「イヴは昔から偏屈なんだ」

 書き慣れたペンでも回すように、小型ナイフを手持無沙汰に弄ぶ。――それで、キキは極度の人見知りだから、イヴ以外の人間とは口をきかない。離れた場所にふたりの姿を視認した律に、そう愚痴のように零しながらその動作を止めない。
 キキと呼ばれた人物の操作するパソコンの小さな画面を、覗き込んでいるイヴの背が見えた。彼女とも彼とも分からないキキは野暮ったいパーカーのフードを深く被り、猫のように椅子の上で身を丸めて小さくしている。まだ年端もいかない少女のようにも見えるし、酷く背骨の曲がった老婆のようにも見える。
 ネオ、キキ、そしてイヴ。傍目には不釣り合いな三人の人間が、きらびやかな現実世界の谷間のような煤汚れた空間に、妙な結び付きを持って馴染んでいる。
 律は隣に居るネオに気取られぬように、深く息を吸って、吐いた。一度瞼を閉じて視界を遮断し、そうしてゆっくりとまた、持ち上げる。

「……、ここは、どこですか」
「横須賀。結構前に潰れたショピングモール」

 答えが返るのが早かった。歯牙にもかけない様子には、律も表情を崩さないままでいる。
 所所に抜けた天井は破けたように剥がれ落ち、無数の鉄線に似た資材が垂れていた。等間隔に並んだ円形の支柱がかろうじて上階を支えているようだが、剥き出しの骨組みが今にも崩れ落ちて来そうな程に風化している。資金化のため利権者の持ち出しが相次いだのだろう、電線や配管までもが取り尽くされており、代わりにどうにもならない廃材や瓦礫の屑が掃き溜めのように疎らに寄せ集められている。
 文明の死を、目にしているようだった。骨の髄まで食い散らかされたまま、それでも人々の記憶に残るのは開業当時の輝かしい姿だけだろう。人は美しくないものから目を背け、遠くの悲劇を忘れ易い。

「このソファ、いいだろ。持ち込むのに苦労したんだ」

 パチンと音を鳴らしてナイフの刃をしまうと、赤錆色の腰掛けに凭れながらネオは話した。点在している簡易な家具は真新しいわけでも統一性があるわけでもなく、どうやらこの場所を彼等は長らく根城にしていたらしい。
 律はネオの心を刺激しないよう細心の注意を払いながら、ニ、三の世間話のような言葉を交わした。彼はやはり即答し、ひとつの駆け引きも生み出す事は無かった。

 "気を付けて帰って"
 "万が一巻き込まれた場合の対処法は教えたよな"

 監禁中、被害者が実行すべきは犯人との間に人間関係を構築することだ。ただし、思想、宗教、政治については議論してはいけない。彼等の知り得ない律個人の情報を、極力与えてはいけない。
 東都大学爆破事件が発生した頃、記憶を失って使い物にならなくなった律に降谷は取り急ぎの緊急時の対応策を授けた。街で暴漢に襲われた場合、強盗に人質にされた場合、爆破事件に遭遇した場合、監禁された場合と、次第に現実離れする内容を当時の律は話半分に聞いていたが、真剣な顔をして何度も復唱を迫られた律がそれを諳んじることは容易い。
 律は、踵を返しこちらに向かって来るイヴの姿に、両の拳をぎゅっと握った。手首の結束バンドが、律のひ弱な腕力でもいとも簡単に外れる方法を知っていた。それも、当時降谷が律に教えたことのひとつだった。

「……何か出た?」
「いいや。過去のデータはひとつもないよ。――不自然な程に」

 隣に転がっていたパイプイスを立てると、イヴは浅く腰掛けた。
 高い金切り音が一瞬鳴って、すぐに消える。戻った静寂が、少しずつあたため始めた空気をまた変えてしまったような気がした。

「全ては彼女の記憶の中にしか残っていない」

 その時、律の中に僅かに生まれかけていた目論みが砕けた。あれ程冷静に取り出せた降谷の言葉が嘘のように霧散して、知識で塗り固めた自負までもが融け出してゆく。
 イヴから手渡されたスマホをネオは不服そうに受け取るが、それは、赤井と通話中であった律の端末である。調べた、のだろう。おそらくその能力に長けた沈黙のままの人物を見遣ると、傍らには数少ない所持品が収まっているハンドバッグが持ち主の手を離れて鎮座している。
 奈落の底に落とされたような気分だった。どうして、彼等と交渉の余地があると誤信したのだろう。どうして、あの時無理やりにでも車中から逃げ出さなかったのだろう。彼等の望みは花井律の過去の中にある。律ですら知り得ない、花井律の記憶にあるのだ。地面にへばりついた両脚は、神経が切り落とされたかのように動かない。

「あまり悠長にもしていられない。手短に済ませよう」

 カンと音を立てて、イヴの放ったICレコーダーが律の前に落ちた。
 何かを吐露しなければ永遠に逃れられない予感と、そう遠くはない未来に彼等に嬲り殺されるだろう予感が、同時にした。

「誰が綾瀬明を殺したのか?……君だけが知る真相を話して欲しい」

 これは、罰なのかもしれない。人が皆等しく背負うべき過去を葬り去ろうとした事への、報復なのかもしれない。

 "再起動が始まる。私達はアヤセの遺志を継いでいる"
 "花井さん、綾瀬明についてお話しできますか?"

 忘れていた呼吸に額の上のあたりが眩んで、肺に浅く酸素を挿し入れる。
 サインはあったはずなのに、見過ごしたのか、それとも見ない振りをしたのか、それは確かに律自身の事のはずなのに良く思い出せない。

「……覚えて、いません」

 平静を装った声は、少し震える。今この時ばかりは、小さなまばたきひとつでさえ偽りの証拠になりそうで、人形の仮面を被ったように表情を強張らせた。
 なぜ、綾瀬明は殺されたのか。なぜ、綾瀬明の死を花井律が知っていたのか。なぜ、三吉彩花は花井律に綾瀬明の話を持ち掛けたのか。そうして綾瀬明とは何者なのか――彼女は、彩花は、無事だろうか。蘇りはしない記憶の海の中で溺れてしまいそうになる。
 イヴは、顔色をひとつも変えなかった。予想通りの切り返しであったせいだろうが、それが律にはかえって不気味に映った。
 何も覚えてはいない。それはどうしようもない真実であり、あまりにも拙い嘘である。
 ギッと金属の鳴る音に、律の身体は委縮する。イヴは静かにこちらへ歩み寄ると、跪き、すぐに顔の形が変わりそうになる程の強い力で律の下顎を掴んだ。

「良く、似ている。羊の皮を被り私達を内側から腐らせたあの男の顔に」

 年月を感じさせる固く乾燥した手のひらの先、冷ややかな鋭い爪は律への尊厳など忘れ皮膚に深く食い込んでゆく。
 静かに昂る感情に当てられても、痛みによる刺激を与えられ続けても、それでも律の記憶の箱は固く扉を閉ざしたままだ。何か少しの手掛かりすら思い出せたのならこの状況を変える活路が見つかるかもしれないのに、どれだけ願おうと律は思い出せない。自分は本当は花井律という人間では無かったのかもしれないと絶望が巡る程、空白のそれはあまりにも真っ新で残酷に美しいままだ。
 イヴはしばらくそうしてこちらをじっと見ていた。その内にふっと右手の拘束を緩めたかと思えば、そのまま頬の辺りを滑って、徐に止まる。

「――あるいは、君が綾瀬を殺したのか?」

 思いもよらぬ言葉に、律の頬が微かに動く。その微細な振動は指先からイヴに伝播して、無感動な瞳の奥で何かが蠢いた。
 記憶の担保さえあったのならば、律はその問い掛けを毅然とした態度で一蹴できただろう。しかしながら今この場に、その心の動揺の真偽を判断できる人間だけが居ない。

 ――花井律、
 ――あなたは、人を殺したの?

 夢の中で幾度と目にした男の亡骸は、あれは本当は、本当はこの手で殺した男の姿だったのかもしれない。曖昧にぼやけてしまう男の顔を思い出せずに、胸の底で生まれた蟠りは、律の疑心を食って育ってゆく。
 パチンと、近くでまたあの音が鳴った。徐に立ち上がりにじり寄る彼に、目を上げる。
 背筋を上った薄ら寒い空気が、襟元を突き破り針のように首許を刺すようだった。茫洋としたその眼差しは、失意に研がれて爛と輝いていた。


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