樋から流れる雨は滝のように破壊的に、石畳の角を穿ち続けている。低い位置に取り付けられた形ばかりの萎びたビニール屋根でも粗方の風雨は凌げているが、不規則に撥ねた飛沫は赤井秀一の左肩ばかりに落果するように落ちて来る。咽返るような粘い夏の湿気を含んで、やけに重たいような気がする。
遅れて通用口の扉を開けたジョディは、雨の中待ちぼうけることないでしょうと、傘を傾けながら赤井を窘めた。言われてみればその通りであるのだが、続けて何か気休めのような言葉をかけるジョディに渡す適当な返事が思い付かず、早早に考える事すらやめてしまった。
結露したような視界とは裏腹に、赤井の心は焦土のように乾いている。長年培った経験や技術が育てた自負は少しの弾みで灰色の焼け野原に変わり、今もまだその地を彷徨う宮野明美や諸伏景光の魂を思い出させた。赤井は時折不具合のように起こるそれを気の散漫と位置付けて強靭な精神で抑え込むが、今日ばかりは支障を来たしたままでいる。
「状況は」
見慣れたスポーツカーが荒荒しい運転で駐車場内に現れたのは、それから数分後の事だった。滑るコンクリートにタイヤを擦らせ数メートル先に停車したかと思えば、ひとつの躊躇もなく運転席の扉は開かれる。グレースーツの彼は雨に打たれながら、脇目も振らずに真っ直ぐ足早にこちらへ向かってきた。すぐに助手席から飛び出した風見裕也は一度その名を呼び、傘を片手に慌てて追いかけて来るが構う様子はない。
手を伸ばせばナイフの刃が届くだろう距離に足を踏み入れられた時、傘の柄を持つジョディの指先が震えた。凡て動物が強大な敵を前に無条件に抱く、畏怖に似ていた。
短気で過激なその性格を思い赤井は出会い頭の怒号と暴力を覚悟していたが、彼は珍しく、そして不気味な程に静かだ。――状況は。降谷零は、情味の欠けた低音で短くそう問うただけだった。
「……監視カメラのデータだ。君の所で検めれば車両の詳細も分かるだろう」
思えば電話口での彼の指示も、冷静かつ迅速な判断によるものだった。
赤井とジョディは降谷と風見の現着までの間に、犯行現場である花井律の部屋の調査と監視カメラ映像の精査を終えたが、これは降谷の協力無しにはとてもではないが成立し得ない事である。誘拐や拉致といった類の事件では時間の経過に比例して被害者の生存率が下がるため初動が重要であるが、この点を加味したとしても、誰よりも自分達を敵対視しているはずの降谷に大変な葛藤が生じたであろうことは想像に難くない。
もっとも、降谷の対応方針から赤井はあまり順調とは言えない現状に気が付いている。そもそも赤井が降谷に連絡を入れたのは、捜査を行うためというよりはむしろ、降谷が彼女に持たせていた追跡装置の作動を期待したからである。降谷が一連の事件の核心にどれ程迫っているのか赤井には定かではないが、こうして自分達と同じく現場に赴いている時点でそれ以上の情報には乏しいのだろう。
「この雨で車線規制や渋滞が多い。運が良ければ押さえられる」
読み取れた車両のナンバーは第一報として既に降谷にメッセージ済みだが、遡って特段のコメントは無い。赤井はそれでも取り急ぎ伝えるべき現場状況に考察を二、三付言して、データの入ったフラッシュメモリを降谷に手渡したが、降谷はそれを無言で風見に手渡しただけだった。
降谷は、始終ただ静かに報告を聞いていた。必死に耳を傾けているというよりは、想定内の事実を確認する傍らで別の思考と突合させているような片手落ちの態度に、赤井はどうにも歯痒く発言を催促しそうになる。
こちらの持つ情報を絞れるだけ絞り出して、降谷自身にはなにひとつ開示する気は無いのだろう。分かっていながらも、赤井には駆け引きをする余地などない。
「……、協力には礼を言うが、ここで起きた事は互いに忘れよう」
案の定、降谷の言葉は排他的だった。数える程にしか交わらない視線に、赤井の渇いた心はより一層色味を失っていくような気がする。
風見。激しい雨の音の中でやけに明瞭に響いた名は、もちろん自分ではなくて、彼の腹心の部下である男のもの。眼鏡の奥で鋭い三白眼は一度だけ赤井を見たが何を言うわけでもなく、直ぐに意識は雨の中を歩き始めた男に奪われ、倣って踵を返してしまう。
ふたつの背とひとつの傘が、泡沫のように白んだ世界の中に消えてしまいそうになる。
「待て……待ってくれ、降谷君!」
しとどに濡れたアスファルトを、蹴る。鼓膜の内側で掻き鳴らされているような雨の音が煩くて、何かに憤るように顔に打ち付ける雨粒が痛い。
後ろ髪を引かれるように振り返ったのは風見の方で、この声が届いているはずの降谷は歩みを止めないから、赤井は思わず強引にその左肩を掴んだ。
「……Nを使える状況か?」
じっとりと濡れた背広は斑な粒状の染みが拡がり、色付いている。
まるで鴉の羽のように変わったその色が、振り向いてはくれない降谷の顔を曖昧にしてゆく。
「あれを使えば管区に情報が回る。アダムの顧客リストに君たち日本警察上層部の名があるのは知れた話、……っ、」
焦りに任せてまくし立てた言葉には、弾かれるように、この腕が振り落とされた。反動で右足は一歩退く。水溜まりを突き破り、バシャリと音を立てる。
体勢を立て直して持ち上げた視線の先で、初めてまともに降谷との視線が交わった。初めて、その表情が動く。凍てついたように見える眼差しはそれでも、雨の微熱よりもはっきりとした熱が宿っている。
赤井は決して、降谷を侮辱するつもりなどはなかった。情報の端くれを掴みたい一心で、花井律の無事ばかりを確かめたい一心で、ただそれだけの心で口にした事実であったが、降谷はまるで酷く侮辱された時のように全身に憎悪を走らせた。
「……聞こえただろう。死人のお前を見逃してやると言ったんだ」
唇の先が、興奮を堪えるように微かに震える。喉元を抑え付けられたように唸る声は、より一層不自由な身を嘆くようだった。
降り注ぐ雨に濯がれても剥がれないその面が、いくつもの他の顔を持つ彼の本当の素顔。他のどれよりも攻撃的で、抑圧的で、そしておそらく他のどれよりも脆く繊細だ。
忘れていたわけではなかったのに、赤井はその時、己の降谷への仕打ちの数数を思い出した。まるで神が袂を分かつ命運を授けたように生まれる前から不調和に造られてしまったようで、赤井はいつも降谷から大切なものを奪ってばかりだった。
「冗談は止せ。……守るべき人間が誰か、分からないわけではないだろう」
骸ばかりの自分が何を言えばその心を打つのか考えを巡らせてみたが、今度はあからさまに彼を詰る言葉しか思いつかないのだから、こういう時自分の低俗さに嫌気が差す。
傷付ける事でしか状況を好転させられない自分とは違って、他人ならばもっと上手く事を運ぶのではないだろうか。例えば降谷が逆の立場だとすれば、どうするだろう。例えば隣に居たのが律だとすれば、何と言うだろう。降谷が律を見殺しにしたいわけがない。赤井だってその程度の事は分かっているのに。
降谷は瞬間、カッと目を開いた。丸められ振り上がった拳に咄嗟に奥歯を噛むが、衝撃は落ちない。
雨の刺激ばかりが途切れないまま、時間が痺れる。程なくして、理性を馴染ませた拳は行き場を失くして赤井の心臓の辺りを力無く叩いた。重さは無いのに、深部を刺すような痛みがあった。
「俺は……、お前とは違う。ひとりの善人よりも、茫漠とした必要悪を守ってやらなければならない時がある」
刺胞動物が触れた場所から毒を注ぎ込むように、その呪いにも似た強烈な自己暗示が拳の先から赤井の胸元に染み出してくるようだった。
この男はきっといつかこの国のために死ぬのだろうという予感がする一方、その危うく致死量とも思える信念が、降谷零を降谷零たらしめているのかもしれないとも思わされる。
「最善は尽くすと約束する。――頼むから、消えてくれ」
赤井は、赤井秀一は、同じ捜査官でありながら降谷のような国家への忠誠心は無い。利他的な生き方を否定するわけではないが、もしもそれが自分に強制されるとしたら途端にその性質は唾棄すべきものに成り下がる気すらする。
自己を棄てた境地に、自己の幸福があるとは到底思えない。世界中を敵に回したとしても、右と左の腕で抱えられる分だけの大切なものを、この手で守り抜くべきだと思っている。
しかし今までもその互いの正義に、本当は正しさや誤りのその議論だけは無かったのかもしれない。手段も方法も組織も違えど、心の底に打ち込んだ決定的な願いは、もしかしたらずっと変わらなかったのではないだろうか。
その高邁な精神に触れて、初めて向き合おうと思える。素顔の彼と真正面から向き合って、初めて理解できる。
「……律を失いたくない。その想いだけは、君も同じだろう」
刺さった拳を、赤井は解くように引き剥がした。抵抗は無いから、確信すら過った。
――そうだ。君も同じだよ。俺達は結局、同じ穴の貉だ。
不思議とその時、砂の塊で誂えた虚勢が身体から消えていくのを感じた。
「俺を使え。そうでなければ勝手に動く」
赦しを与えるにはあまりに過去の業が深いから、この先もずっと心を通わせることはできないだろう。それで良いのかもしれない。彼とはそれが良いのかもしれない。
途切れた会話の隙間を、変わらない雨の音ばかりが埋めてゆく。
半ば脅迫めいた牽制に、合理的な結論がひとつしか無い事実を聡明な降谷は既に分かっているはずだった。瞬きを忘れたその瞳が孕む感情は数えきれない程多く、そして複雑だ。
「……あなた達、喧嘩している時間は無いでしょう。全員で解決策を考えるべきよ」
痺れを切らしたようにハイヒールで水を散らしながら間に割って入ったジョディは、高く傘を掲げると、濁った空気を換気するような声で言う。
律を助けたいこと、捜査活動の指揮は全て委ねることを、赤井よりもずっと的確な言葉と協力的な態度で伝え、降谷はその様を見定めるように注意深く観察していた。
ジョディは降谷を前に今度は気圧される事無く、堂堂としている。降谷が撒き散らしている息の詰まるような緊張感が、あまりにも高潔な正義の産物であることを人知れず理解したせいだろう。もともと正義を愛する彼女の思想は、自分よりも降谷と近く隣り合わせている。
傍目には魅力的な進言をひととおり聞き終えると、降谷は、分かりましたと言葉を置くように言った。一度、息を吐く。
そうして腹を決めたように再び唇は開いたが、刹那、風見裕也の力強い語勢がそれを遮った。
「花井のGPSが起動しました」
血が湧いたように勇み立ち、性急に降谷に向けて傾けた端末の画面には、赤いランプが点っている。
風見は安堵の声を漏らし、ジョディは仰いで吐息した。降谷は――彼女よりも大切なものがあると言ったはずの降谷は――正義を下すためだけに磨いた拳を開いて、隠すようにその顔を覆う。まるで、硝子細工が音無く砕けるように乱れたその表情を、誰にも悟らせないように。
己に課した禁忌をそれでも愛してしまった男の成れの果てが、雨に滲む赤井の瞳のすぐ近くで色濃く焼き付いたまま離れない。消えない残像から今この時だけでも逃れたくて、消し込むようにきつく瞼を閉じた。
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