#73

『お掛けになった電話をお呼び出しいたしましたが、お繋ぎできませんでした』

 花井律と電話越しに軽い口論になったのは、数十分前のことである。
 自分の与り知らぬ所で連邦局の捜査員と接触し、あまつさえ内情を一方的に吹き込まれた様子の律に、普段は穏やかな風見裕也の神経は逆剥けた。一連の事件に巻き込みたくないがために降谷が必死に律を巨悪から遠ざけているというのに、無責任な他人に捏ね繰り回されては全てが水の泡だ。何も語らない自分達よりも全てを開示しているであろうあちらサイドへの信頼が積もるのも、酷い悪循環であると風見は思っている。
 しかしそうした事情を加味したところで、律が風見の着信をいたずらに拒絶するとは思えなかった。診療の予定も無くなり、ホテルでただ時間を持て余しているであろう律の姿を思えば尚更だった。

「あの事件で、カスタマーリストは最後まで見つかりませんでした」

 なぜ、電話に出ないのだろう。風見はやや不安げな眼差しで、取調べを続ける降谷の背を見つめる。
 トークログに書き残された律の名に、花井とは今しがた電話で会話をしたばかりですよと、そう伝えてその動揺を取り除いてやったのは紛れも無い風見だ。事実であるし、風見も律の無事にある程度の確証があったからこその発言ではあったのだが、自分は何か間違いを犯したのではないだろうかと胸に一抹の不審が生まれたまま消えない。

「あなたはそれを、真実を得る対価として利用しようと考えた」

 風見は少し悩んだ後で、手元のスマホに律の一時居住先であるホテルの担当者の番号を呼び出した。情報の漏洩防止のために滅多なことでは他者の介入を避けていたが、今はそれを惜しんだ所で致し方ない。
 今度は、少しも待たずに呼び出し音が途切れた。風見は律の在室を確かめるように伝えるとすぐに切電し、思い出したように追跡アプリを立ち上げる。
 律に発信機付きの腕時計を持たせたのは、二度目の爆破事件が発生した後だった。非常時の備えとして降谷が任意の装置に切り替えたものであり風見にも閲覧権限があるが、今現在を含めてこれまで作動したことはない。危険下に無いことの証明であれば良いのだが、操作すら出来ない程の危機的状況下にあるとも考えらえれる所が厄介だ。

「さぞ喰い付きは良かったでしょう?代わりにあなたに差し出すのは、黴の生えた真実とやらで良かったんだから」

 念のためと律にメッセージを打っていた風見の指が、冷え冷えとした降谷の言葉選びに思わず止まった。じろりと、降谷を睨み上げた彩花の瞳は憎悪と恨みを焚いて、篝火のように暗く揺れている。
 当初、一連の事件はアダムの残党である彩花によるテロリズムとの見立てであったから、これは誤算と言わざるを得ない。第一の事件である東都大学爆破事件では犯行声明文の拡散が話題になったが、これが実は綾瀬事件により散り散りとなったアダム構成員の集結を目的とした陽動である。出回った画像データに埋め込まれた文字情報は、件のオンラインゲームに作成されたトークルームへのアクセスを促していた。当時から非常用として稼働していた連絡媒体であったようだが、これを機に十数名のアカウントがアクティブとなっている。
 無論、全ての構成員が戻ったわけでは決してない。しかし彩花にとっては、綾瀬事件の真相を知るための情報さえ手に入れば良かったし、実際にその目的は花井律の特定という形で結実している。そうしてその事実が、事態を余計に捻じ曲げてしまった。

「真実というのは、それを見つめる人間の数だけあるんですよ。決してひとつではない」

 降谷の言葉を借りるのならば、アダムという組織は一枚岩ではなかった。日本に潜伏している構成員数は諸外国と比すれば見劣りするが、それでも仲間内で思想が違える程度の軋轢があり、かつてそれを束ねていたのが綾瀬明だった。
 今回船頭なくして集められた即席の集団で、諍いが生まれたことは想像に難くない。綾瀬の遺志を継ごうとする者、隠された真実だけを追う者、そして、目的の失われたテロリズムに狂喜する者。端的に言えば、第二の事件以降はそうして想定外に悪に再傾倒した一部の人間による暴走である。三吉彩花の撒いた種は、本人の知らぬ所で手に負えない程育ってしまったわけである。なお、別途逮捕に至った実行部隊は公安監視下にある犯罪闇サイトを通じて彼等と結び付いた第三者等であるが、これは奇しくも夏葉原リセットマン事件の犯人に心酔し結託した連中であったことに既に調べがついており、「リセット」を信条にしていたアダム連中との親和性が高かったためと見られている。

「還らない人の心を知る術はありません。それよりも、彼が遺した事実を受け止めるべきではないですか」

 不思議と、あえて感情を抑えるような言葉の響きがあった。まるで、受け入れられないその言葉を自分自身に言い聞かせるように。
 風見はこういう時、見透かすことのできない上司の心の内を慮る。自分よりもずっと人の死に直面して生きている人間の心を、見つめた真実をその手の中で握り潰し続けなければならない人間の心を。
 降谷がこの国を守るために過去に行使した正義は、結果的に三吉彩花という不正を生み出してしまった。何とそれらしい理由をつけてみたところで、降谷は自責の念から逃れられないだろう。

「……知る者の言い分ね。あなたには、知らされない者の気持ちは分からない」
「僕だって神じゃない。知っているのは事実と結果だけだ」

 綾瀬明の死を契機として、当時のアダム構成員は散開した。ホワイトドット社の摘発を見越しロンダリングされた金はそのほとんどを海外に流され、実際にその企業に籍を置いていた数名以外は――もっとも、意図的に泳がした人間や司法取引に応じた人間もいたが――起訴すら免れている。
 アダムに出資、あるいは取引を行っていた人物や企業は大捕り物になるだろうと期待されたが、結局顧客リストが見つかることはなかった。本来であればアダムに潜入していた花井誠一郎が全てを一掃する計画であったから、それが妨害された時点で望み薄であったと言える。もちろん、警察官であった綾瀬の関与が明らかであり事実の隠蔽をせざるを得ない状況であったため、上層部が最後まで捜査に精力的では無かったことは言うまでもない。

「綾瀬がなぜあなたにリストを託したと思いますか?正義に従順なあなたに、罪の無い人間を殺してまで真実を知って欲しかったのだと、本当にそう思っていますか?」

 彩花は、反論しようと開いた口を結び直すと、下唇を噛む。激情を堪えるように。
 第二の事件は彼女のコントロールから逸脱した事件であるが、それにより同胞である警察官二名が犠牲になったことは重たすぎる過誤である。事件の動機が恋人の死である彩花に、その罪の大きさが分からないわけがない。
 風見は、降谷の沈黙する背を見つめ直した。滑らかな発声器官とそれとが俄かにふたつに分離して、全く別の人間の一部のように見える。これは、一体何故なのだろう。
 
「……あなたこそ、本当に、そう……」

 意図的に言葉を千切って、彩花はそれきり黙ってしまった。降谷は表情を変えぬまま、彩花に時間ばかりを与えたままだ。何か言外に交わされたような言葉があったような気がするのに、風見にはそれが分からない。

 "彼を前に肝に銘じるのさ。俺はアンタのように怪物には成り下がらないってね"

 いくらそうして眺めていた所で風見には、三吉彩花が何か自分とは決定的に違う生物だとは到底思えなかった。それが時折自分の心に生まれる隙であることを風見は十二分に理解しており今更呑み込まれることなどないが、それでも何度でも立ち止まり曖昧な境界線を見定めようとする。正義の限界を知っていながらその信頼が揺らぐことはほどんど無くなったが、それでも己の心に残る良心というやつは未だに足の裏にべったりと張り付いたままだ。普段は地面ばかりを踏ん付けている癖に、ふと迷いが生じ立ち止まった時ばかりゆっくりと顔を見せる。
 降谷零は、そうしてもう何度見ない振りをして歩みを進めてきたのだろう。たとえばいつか不合理に花井律が誰かに殺められたとしても、彼は正義の奴隷のままでいるのだろうか。その姿こそまさに怪物そのものだろうと、糾弾する人間もいるのではないだろうか。

「取引をしましょう」

 ブウンと、小さな振動と共に手中の端末が着信を知らせた。
 花井律ではなくて、先程折り返しを頼んだホテルの担当者からだった。

「要求はふたつです。残りの構成員の情報とリストの引き渡し。……代わりに、僕が知り得る全ての事実をあなたにお話します」

 電話の向こうの声が遠くて、風見は左耳を手のひらで塞ぐ。くぐもった小さな空間の中に、ノイズ混じりの緊迫した彼の声は届いた。

 ――風見さん、最悪の知らせだ。

 現状と要点ばかりを掻い摘んで、言葉を忘れた風見の名を彼はひときわ大きな声で呼んだ。ひゅっと息を吸うと、何かに堰き止められていた汗がどっと額の辺りから噴き出したような感触がして、口の中が途端に酷く乾いてゆく。
 なぜ、どうして。犯人の三吉彩花は今まさに風見の目の前で追い詰められ、降谷は仕上げに取り掛かっている。何よりも風見が、風見自身が、つい数十分前に普段と変わりない律と会話を交わしているのだ。それなのに、どうして。
 
「あなたは応じるべきだ。花井律には、あなたの望むものを与えられない。――彼女は、」

 降谷さん。上司の言葉を遮って絞り出した声が、掠れて震えた。
 緩慢な動作で振り返った降谷の金髪は、さらりと揺れる。そこから覗く懐疑の色に染まった瞳に射抜かれると、動揺に当てられて縋るようにその名を呼んだ事を風見は後悔した。
 取調室という小さな劇場の中には、表面化しない戦略や駆け引きのようなものが引っ切り無しに飛び交っている。結末までの道筋は担当の取調官に粗方委ねられ、外野の迂闊な発言はその破滅へと繋がりかねない。分かっていたのに、風見は発言した。それがこの箱の中で劇薬に似た作用をもたらすことが、これ程明白であったにもかかわらず。

「花井が……、何者かに、連れ去られました……」

 時間が、止まってしまったようだった。確かに発声したはずの言葉を風見は疑って、微動だにしない降谷の顔を眺めたままでいる。
 ちかりと、視界が一瞬暗くまたたいた。反射的に見上げた天井の片隅で、蛍光灯がまた、またたいた。しばらく取り換えていないグローランプが切れたのかもしれないと、一定のサイクルを持って音無く暗転を繰り返す光に、そんな現実逃避のような思考が巡った。
 聴覚を裂くような衝突音が風見を襲ったのは、四度目の暗転の直後であった。

「……吐け、三吉。君の手引きだろう」

 降谷は境界線をいとも簡単に破り、身を乗り出してその胸倉を引っ掴む。彩花の身体は、まるで小さな子供のように持ち上がった。衝撃で倒れた彼女のパイプイスは机の脚に歪に引っ掛かり、再び人間の悲鳴のような金属音を鳴らす。
 すぐに、一瞬の静寂。遅れて状況を認知した彩花は、引きずり込まれる程間近に迫った男の瞳に戦慄した。もうその瞳に、温度だけが無い。まるで義眼のように感情を殺した人工物の何かが、ひとたびも瞬かないままでいる。その剣幕は、風見の知る正義を行使する面構えとは違っていた。時間をかけて隠したはずの兇悪が剥き出したように、それは人が理性で腹の底に押し潰している、殺意に似ていた。
 
 ――プルルルル、プルルルル、

 五度目の暗転。混濁した空気を裂いたのは、無機質な電子音だった。降谷も、彩花も、そして風見も動けぬまま、しつこく鳴り続けるその音を何処か遠くで聞いていた。
 六度目の暗転。少しばかり力の抜けた降谷の右手の拳は、彩花に僅かの自由を与えた。脱力し床に崩れ落ちた彩花の両足の震えはやがて全身に広がって、彼女は頼りない両腕で身を守るように上半身を抱え込む。
 降谷はそのまま導かれるような動作で、パンツスーツのポケットから端末を取り出した。鳴ったのは、業務の都合上彼が唯一常時電源を入れている、潜入捜査用に誂えた端末だった。

「……降谷さん?」

 風見は、その瞬間を見逃さなかった。降谷の瞳にあの美しくも鋭い青が、還った瞬間を。
 端末の画面に名前の表示は無い。代わりに羅列された携帯の電話番号が見えた時、風見までもその男の亡霊に食わされた屈辱を思い出した。
 七度目の暗転。降谷は静かに、通話ボタンをスワイプする。風見の目に剥離していたように見えた降谷零の姿が、その時ようやくひとつに重なり出した。


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