#72

『安室さんならポアロにはいないよ。昨日も急用でバイトを早退していたけど』

 スピーカーホンから車内に響く江戸川コナン少年の言葉尻は、こちらの質問の意図を計りかねてやや不審めいている。途端の沈黙に、しかしながら反射的に追及をしては来ないあたり、電話向こうの彼にすらこちらの切迫した状況というものが読み取れるに違いない。
 運転席でハンドルを握るジョディ・スターリングは、フロントガラスを往復するワイパーの速度を神経質に調整し直した。普段はさして気にならないその動きが、眼前をちらちらと過ぎる度にどうにも鬱陶しくて堪らない。
 ――落ち着きなさいよ、ジョディ。あなたがしっかりしなくて、どうするの。
 言い聞かせながら、助手席に目を走らせる。

『……何か事件なんだね。僕に手伝えることはある?』

 赤井秀一は、冷静を欠いている。
 手元のラップトップを操作する手を止めたまま、不揃いな雨粒が車窓を叩く様ばかりに集中力を奪われて、時折思い出したように口の端をゆがめて見せるばかり。目深に被ったキャップと色の濃いサングラスが細かな表情の揺らぎを覆い隠してはいるが、その表面下で腫れあがった激情がジョディには分かる。
 ジョディはそのまま、車内のデジタル時計に目を滑らせた。花井律の拉致の発覚から、既に十五分以上が経過していた。先程から何度も遠くの信号は青く変わるのに、豪雨のもたらした交通渋滞の影響で車両の列は一向に前進しない。

「花井律さんの居たホテルを特定したいの。何かアイディアはある?」
『それなら無楽町のアザミ東都だと思うよ』

 理由を聞き返す傍ら、ナビゲーションシステムを片手で操作した。このまま大通りを南下するよりは、裏道を回った方が到着はやや早そうである。
 一昨日の晩、律は話をするためにジョディの車に乗車したものの、仮住まいであるホテルまでの送迎は頑なに拒んでいる。所在を秘匿しなければならないそれなりの理由があるのだろうと、誰かに何やら定時連絡のようなものをする彼女を横目に見ていたが、その居場所を赤井ですら知らされていなかった事にはジョディは驚いた。
 とどのつまり、何者かに襲われた花井律の居場所が二人には分からなかったのである。事件の発覚時、偶然にも工藤邸で赤井と捜査の議論を重ねていたジョディは、彼女と接触をしておきながらひとつの心当たりも提示できぬ自分の不甲斐なさを呪った。

『あの系列で採用されているアロマの香りが、律さんから微かにしたから』

 もともと門限までに帰るつもりでいただろうから、タクシーで十分圏内の無楽町しかないよ。そう淀みなく正答を口にする少年の、何と洞察の深い事だろう。
 ジョディは僅かに動き出そうとする車列の間に隙間を見つけると、車体を寄せて強引に割り込んでゆく。既に初動は大幅な遅れをとってはいるが、異国の地で自由に動ける身ではない以上、確実な彼女の痕跡を追う他は無い。
 本来ならば現段階で日本警察に連携を取るべきだろうが、花井律という人間の立場上、そして恐らく巻き込まれた事件の性質上、一概にそう決するのは早計である。過去の花井律の捜査日記から赤井とジョディは概ね当時の真実に辿り着いてはいるが、それでも尚、律の身に迫った脅威の正体は不透明なままだ。あの降谷零が一連の事件を関知していないとは考えられないし、焦りに任せてむやみやたらに捏ね繰り回しては過去と同じ轍を踏む事になるだろう。

「流石ね、クールキッド。助かったわ」
『ううん、それより律さんに何かあったの?それなら僕も一緒に、』
「いいえ。少し事情が込み入っているの。私達で対処するわ。……ねえ、シュウ?」

 降谷零。ジョディはまだ、その男に対する信頼を育めてはいない。澁谷夏子の殺人未遂事件において邂逅を果たしてからというものそれきりの関係ではあるが、赤井との間に尋常ではない確執があることも相俟って、距離感は遠くなるばかりである。
 だから一昨日の晩に花井律に会えた事は、ジョディにとって幸運だった。律は意を決するとジョディを蔑ろにする事無くその懸念に良く耳を傾け、誤解を払拭するために何度でもこれまでの経緯を繰り返し説明し、こちら側との将来的な協力関係の構築にまで提言した。記憶障害という命運に翻弄されながらも実直に自分や周囲の人間に向き合い、進むべき道を見つけようと葛藤し続けている。真っ新な心で見つめた花井律という人間は、極めて善良で魅力的だ。
 ああ、だから赤井秀一は、彼女を愛したのだろうか。自分にはとうに失われてしまった何かが彼女を輝かせているようで、それを羨む一方で、その非力な両手を守ってやらなければと思った。その律が絶対的な信頼を寄せているのであれば、降谷という男を信じても良いのかもしれないと、そう思った。

「シュウ、」
「……ああ、すまない。考え事をしていた」

 諫めるような声で呼ぶと、赤井はまた、口の端を少し歪めた。
 責めたいわけではなかった。しかし今ここで最愛の人を失うかもしれない恐怖に完全に絡め取られたなら、正常な判断が下せなくなるだろうという確信もあった。

「問題は無いよ、ボウヤ。必ず彼女を無事に連れて帰るさ」

 己の心を鎮めるための物言いを、ジョディは良く知っている。
 シュウは死になどしない、死ぬわけがない。どれ程正しいエビデンスを突きつけられようと、それはたとえまさに目の前で赤井が息を引き取ろうとも、ジョディは事実を拒絶したのだろう。それは決して受け入れ難い現実からの逃避ではなくて、そうではなくて、それを呑み込んでしまえばきっと、砕けたように地に崩れた両足を立ち上がらせる術が分からなくなってしまいそうだったから。
 往来の疎らな街路地を縫うように車を前進させながら、ジョディはハンドルを握り直す。コナンはそれ以上の追及を止めると、赤井への信頼の言葉を最後に電話を切電した。再び還った喉の詰まりそうな静寂に、降谷零からの折り返しの連絡は、まだ無い。

「彼女を攫ったのは、アダムの連中かしら」
「……さあな。奴等が真実とやらを探していたのは確からしいが」

 そもそも、ジョディが架電した降谷の番号というのは、赤井が律のスマホを盗み見た際に勝手に控えた番号に過ぎない。律の端末本体からの着電ならともかく、宛先不明のジョディの端末からの突然の着信に、あの用心深い男が見境なく折り返しをくれる確率など限りなく低いように思う。
 目的は同じはずなのに、どうして私達は手を取り合えないのだろう。
 誰もが目を逸らし続けている昏い闇に、向き合うのはいつもこうして事態が悪化した時だけだ。その疑問は尤もであるが、尤もであるがゆえに、誰もがそれを今更どうこう出来るとは思わない。組織の垣根を越えられないまま時には互いにいがみ合って、負の連鎖が続いたまま歴史は今日も繰り返されている。

「――真実、ね」

 ひときわ激しくなった雨脚がフロントガラスを頻りに叩く。
 雨の日は犯罪の発生率が高いと、誰かに教わった事をふと思い出した。

「あの時、本当は作戦の中止が上手く伝達しなかった。……ダラスは、発砲してしまった」

 突然通信の途切れてしまった赤井の回線。予定時刻に忠実に唱え始めた静かなテンカウント。ポイントにひとり潜むダラスとの通信ばかりが感度良好で、背後からジェイムズの怒号に似た作戦中止の声が響いたのは、ラスト二秒の瞬間だった。
 空気が硬直したあの一瞬に、ジョディの通信機はジェイムズに取り上げられるように奪われる。早口で何かを口走ったジェイムズに、ダラスが何を答えたのかは周囲の人間には分からない。開始時刻を三十秒程過ぎたあたりで「No problem.」と無表情で呟いたジェイムズの言葉ばかりを拾って、ジョディは問題なく作戦が中断されたと理解した。

「でも、弾丸は彼等に命中せずに窓硝子を突き破っただけ。私達は手を下したわけではないのよ」

 温度無くするすると唇から流れる言葉に、ジョディは、ああこれも己の心を鎮めるためだけの言葉なのだと気付き、心が揺らぐ。
 ジョディはもちろん、誰も知らなかった。ミモザの入り込んだテロ組織アダムで日本警察が秘密裡に潜入調査を行っていた事も、うち一名は警察官でありながらアダムのテロリズムに傾倒してしまった落伍者であった事も。
 何も知らないまま、それが正義の執行である事を疑わず放たれた一発の弾丸は、それから起きた事を全て昏い闇の中に葬り去った。事件を明るみには出来ない日本警察と、失態を公にはしたくはないFBIの上層部同士で利害は一致した。その後体調不良を理由に仕事を辞めたダラスを、誰も疑いなどしなかった。

「混乱の引き金になったのは俺達の銃弾だろう。責任は免れない」

 逃げ道を用意しない声音は、地を這うような重たさがある。間接的であれ律の父親である誠一郎の死へ関与した事実は、赤井の強靭な心臓を抉っただろう。ジョディは真実を伝えた時のあの、こちらの胸が引き裂かれるような痛切な赤井の表情を思い出して、助手席を直視することを憚った。
 そうだとしても、現場にすら到着していなかったあなたには関係の無い話じゃない。
 ただの正論だけのフォローは、赤井を傷つける諸刃の刃だと分かるから、口を噤む。あの時もしも、スナイパーが予定通り赤井秀一であったのならば、確かに結末は違っていただろう。

 "貴女がシュウに近付いたのは任務のため?それとも父親の事件の事で私達FBIを恨んでいるから?"
 "どちらでもありませんよ"

 もしも彼女が真実を知ったのならば、あの言葉も塗り替わるのだろうか。私達を、いや、赤井秀一を、恨むだろうか。

「……知らない方が幸せな事もあるわ」

 やはり赤井を直視出来ずに、ジョディはフロントガラスの一点をただ見つめて言った。
 すぐに返事は戻らず、そもそも返事をする気すらあるのかどうかも分からず、何かが晴れないままの視界の隅でどうやら信号は既に青に変わっていたらしい。後ろから鳴らされたクラクションはやけにはっきりとジョディを現実に引き摺り戻すから、慌ててブレーキから右足を離した。
 ――お前らしくもない。同時に少しばかり柔らかく綻びた赤井の言葉が、届く。指摘された対象がどうにも分からず、ジョディは言葉に詰まる。

「律は知りたがるよ。後戻り出来ない場所まで足を踏み入れたからな」
「……、そうだとしても、わざわざシュウが恨まれるような伝え方をしなくても、」
「ハハ。あの娘には、もう随分と前から恨まれてばかりさ……それに、」

 その自嘲に堪らず一瞥した先で、赤井は窓越しに歩道を行き交う傘の花を眺めていた。行き先すら分からず車に乗り込んだあの時から、些か冷静を取り戻しているようだった。
 お前らしくもない。不思議な響きを孕んだその言葉が、何度か後頭部のあたりを旋回した。
 もしもジョディが律の立場だとすれば、どれ程不都合な結果をもたらすとしても真実を強請っただろう。元来の生真面目な性格もあって、ジョディはルールの逸脱や不当な手段による物事の解決が嫌いだ。それが最終的に全く同一の結末に辿り着くとしても、見えない手垢がついているような気分になる。言葉をかけた相手が赤井秀一でさえなかったのだとしたら、確かにジョディはいつも通りの正反対の考えを伝えていたのだろうと思う。

「この先もう二度と、律に嘘をつきたくはないんだ」

 今まで何度もその想いの丈に触れていたような気がするのに、ジョディは今ほど赤井秀一の花井律への愛情を感じた事は無くて、思わず意識を奪われる。
 赤井はジョディとは対照的に過程の正しさなど顧みない性質であるから、成果の獲得のためには捜査手段を問わない事が多かった。日本警察とのラインを繋ぐためとは言え、記憶喪失の花井律に恋人だと偽って近付いたエピソードなどその人間性を如実に表していると言える。嘘を吐く事が癖になって、それがいつの間にか日常生活に染みだしてしまっていたくせに。
 らしくもないのはあなたの方よと、言いそうになった時にまたその言葉が頭の中をぐるりと回った。ああ、彼はとうに承知の上ということだったのだろうと、その時、ようやく分かった。決意に似たその言葉が、しばらく耳から離れなかった。

「……不思議なものだな。今までずっと番号を思い出せなかったのに」

 雨脚は相も変わらず強いのに、裏通りを抜けると少し視界が展けた気がする。碁盤目の小路に沿って建つ老舗百貨店や個性的な路面店の並ぶ通りを抜けて、ふたつ先の角を右折した先が、無楽町のアザミ東都である。
 脈絡無く呟いた赤井を見遣れば、徐に取り出したスマホの画面をタップし始めていたから、誰に連絡をと、アクセルを倒しながらジョディは聞いた。

「いけ好かない昔のチームメイトさ」

 考えの読めないその横顔に、もう迷いや焦燥だけが滲まない。
 ジョディは然程気にならなくなったワイパーの速度をまた上げ直すと、頭に過ったあの日のひとひらの記憶に気を引き締める。軟禁され錯乱した状態の花井律を現場で最初に見つけたのは、他の誰でもないジョディ・スターリングだった。
 ――同じ過ちは決して繰り返さない。今度はあなたを必ず助けるわ。
 雨の音に混じって聞こえた呼び出し音が途切れて、今、赤井秀一の唇が開く。


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