#06


「秀一。彼女が目を覚ましたようだよ」

 蕪木医師は、赤井秀一の古くからの個人的な知り合いであり、夏葉原駅付近に医院を構えている。
 眠り込んだままなかなかに目を覚まさなかった律に痺れを切らし蕪木家の縁側で一服していた赤井に、蕪木はにこやかにそう声を掛けた。ようやくお目覚めかと、煙草の火を消して赤井は白んできた空を眺める。夏葉原爆破未遂事件から、既に一夜が明けようとしていた。

「しかし驚いたな。君が偶然あの事件に巻き込まれたなんて」

 蕪木家の長い廊下を並んで歩きながら、蕪木は腕に掛けていた白衣に袖を通していく。
 赤井と付き合いの長くその素性までをも熟知している蕪木は、赤井が意識の朦朧とした女性を抱えて門を叩いた時もあまり動揺はしなかった。ナイフで一突きされた腸を目の当たりにした際や、何発もの銃弾を食らった肢体を披露された過去を思えば、ああその程度かと容易く現実を受け入れてしまった。
 蕪木は、もう何度も、普通の病院には行けないような赤井の傷を治療してきている。もっとも、彼が経験を積みとても優秀な捜査官として成熟してしまってからは、そのような秘密裏の治療を施すこともなくなってきていたし、そもそも赤井はてっきりまだアメリカにいるものだと思い込んでいたのだが。

「日本にはいつから?」
「少し前から。挨拶に来れなくて悪かった」
「いや、そんなことは構わないけれど」

 蕪木と赤井は、テレビがついたままの居間を通り過ぎる。どこの局でも、夏葉原爆破未遂事件、もとい、夏葉原リセットマン事件についての報道がなされている。
 休診日であった昨日、蕪木は事件発生のまさにその時、自宅でスマホの電車遅延通知を受け取っていた。どうやら爆弾騒ぎがあったようだとネットから情報を得て、徒歩二分の場所で起きた惨事に蕪木は医院を開けた方がいいのだろうかと思案した。しかし次第にSNSに流れてきた軽症者数名の文字に思い直し安堵して、うかうか電車にも乗れない世になったのかと、拡散している関連動画をタップする。
 自宅のチャイムが連打されたのは、まさにその瞬間だった。

「彼女、君の恋人かい?」
「……そう見えるか?」
「いいや、全然」

 その返答に、赤井は何故か、可笑しそうに笑って見せる。
 蕪木は確かに赤井個人との親交は深いが、赤井の交友関係については一切見聞きしたことがない。赤井自身が話したがりはしないし、医院の外では赤井の姿すら目にしたこともない。話したいこともあるのだろうが、その職務上話せないことも多いのだろうと、蕪木はこれまで赤井に訊ねることもしてはこなかった。
 だが、どうにも腑に落ちない。彼女はとても赤井の同僚には見えないし、たまたま乗り合わせた一般客なのだとすれば、何故彼女一人をわざわざその手で自分の許へ運ぶ必要があったのだろう。大して重症というわけでもないし、他の負傷者は皆近くの総合病院へ搬送されたようである。

「少々訳アリでな」

 蕪木の疑問を見透かしたように、赤井は答えを包み隠す。
 その言葉とは裏腹に、どうにも上機嫌な赤井の企みが余計に分からぬまま、蕪木は彼女を寝かせている客間の前に到着してしまった。

「少し、混乱しているようなんだ」
「混乱?」
「ああ。まあ、突然病院でもない知らない人間の家で起きたら、そうなるだろうけど」

 話しながらノックを二つ叩くと、室内からは小さな返事が返って来る。
 扉を開けば、中央に敷かれた布団から半身を起き上がらせて、律はぴくりとも動作しない。少しの怯えを孕んだその瞳は、まず始めに蕪木を見て、そうして赤井に移動する。初対面の自分ではなく顔見知りの赤井相手であればその緊張もすぐに和らぐのだろうと思っていたのだが、しかし蕪木の思惑は早々に打ち砕かれた。律は、何故か赤井にすら、少しも心を開く様子がない。

「気分はどうだ?」

 赤井が気を遣って優しく言葉をかけるが、やはり、彼女は固く唇を結んだままだ。
 弱ったなと、蕪木は思う。赤井に引き合わせる前に、蕪木は彼女にこれまでの経緯を一通り説明した。始終ぼうっと視線を彷徨わせて、聞いているのか否か分かったものではなかったが、神経系の診断もCT撮影の結果も問題は無く、脳自体に損傷はない。典型的な脳震盪だろうが、せめてまともな会話で診察程度はさせてもらいたかった。

「そう剥れてくれるな。勝手に連れてきたことについては謝ろう」

 困ったようでいて、やはり何処か楽しげに、赤井は話しかける。
 蕪木は赤井の言葉から、二人の関係を推し量ろうとして、そうして結局何も分からずに、事の成り行きを見守ることしかできない。
 律はその瞼を一度ゆっくりと瞬いて、赤井を真っ直ぐに見つめていた。不安、懐疑、怯懦。多くの色に揺れる瞳が、何故か、一度、蕪木を見た。しかしすぐにその視線は赤井を捉えて、その口は初めて、確かな意思を持って開かれる。

「……すみません。貴方は、誰ですか?」

 刹那、赤井は、目を見張った。
 律はその反応に、やや後ろめたそうに眉を下げる。今にも泣き出しそうなその様子に、蕪木も赤井も、その言葉が程度の低い冗談などではないことを、分かってしまった。
 蕪木は赤井の動向を伺うように、そっと目配せをする。しかし赤井と自分との視線は交差することなく、赤井は何かに導かれるようにゆっくりと歩み出し、身体を強張らせる彼女のすぐ傍に膝をついた。赤井は彼女を真っ直ぐに見つめたまま、そっとその左手を彼女の頬に添える。その指先の冷めた体温のせいだろうか、それとも赤井が醸す独特の空気感のせいだろうか、びくりとその小さな身体を震わせた。

「俺が誰か、分からないのか?」

 ひとつひとつを噛みしめるように、その声色ばかりは、酷く落ち着いている。
 まるで時が止まってしまったのではないかと錯覚する程に、赤井と律は長い時間、見つめ合ったままだった。

「分かりません」

 その一言に、赤井の左手が、急に重力を思い出したかのように、ふっと離れて布団に落ちていく。
 蕪木には赤井の思考を正確に読み取れたことなどない。それは、動揺を隠しきれぬであろう今この瞬間ですら変わらない。その憂いを帯びた眼差しで、暗く影の差す横顔が、果たして何を思考しているかなど、微塵も感じ取れはしない。
 蕪木は赤井の向こう側に回り込み、同じように律と目線を合わせる。

「自分の名前を言う事は出来るかい?」
「……名前、」

 蕪木の言葉を繰り返し、律はしばし、思案する。
 しかしその片鱗すら掴めないことに気付くと早々に、その細い首を左右に数度振った。
 脳震盪による記憶障害は珍しいことではない。記憶力の低下は数週間続くこともあるが、問題なく回復する。しかし健忘症状は衝撃の前後の記憶が曖昧になることはあっても、自分の名を忘れる程の重度なケースは稀であった。しばらくは経過観察が必要だが、さて、どうしたものかと、蕪木は赤井に相談しようと口を開く。
 秀一と、いつもの通り呼び掛けようとした寸前、しかし赤井は、静かに己の人差し指をそっとその唇に当てた。そのアクションに、蕪木は発声を思い留まる。果たして何故と、わけの分からぬ蕪木に説明のないまま、既に赤井の意識は律に向いていた。

「俺の名前は、永倉圭という」

 え?と思わず声に出てしまいそうになったのを、蕪木は自分の手で慌てて口を塞いで防いだ。
 誰だよ、それはと。お前は赤井秀一だろうと。目の前で繰り広げられている珍妙なやり取りに、しかし迂闊に口を出すことも出来ずに蕪木は困惑する。

「聞き覚えはあるか?」
「……いいえ」

 何故か、胡散臭い程に優しい笑みすら浮かべて、赤井は律を騙くらかしている。
 聞き覚えなどあるわけがない。蕪木は赤井と律の関係など露ほども知らないが、彼女が今まさに、旧知の間柄である男に詐称されている事実だけはまざまざと分かる。この男は見ない内に連邦局の捜査官を辞めて、詐欺師にでもなったのではないだろうかと、蕪木の胸の内に邪な妄想が膨らんでいく。
 申し訳なさそうに謝る律に、赤井の口角が持ち上がったのを、蕪木は見逃さなかった。

「君の恋人だよ」

 蕩けそうな程に甘ったるい動作で、赤井は律の髪を優しく撫ぜた。
 ゾッとした。それは非人道的すぎやしないかと、言葉を失い絶句する蕪木の前で、ひとひらの恥じらいも滲ませずに、それはそれは堂堂と言ってのけた赤井の真意が分からずに。
 律は何を想っているのだろうか、ぼんやりと、ただただ赤井を見つめていた。


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