(reset#26読了推奨)
――最近はあまり、夜中に目を覚ますことも無かったのに。
ベッドシーツを滑るように流れる衣擦れの音に、赤井の意識は敏感に還る。程なくして夜目に慣れると、床に脚を伸ばす律の背が見えた。
冷えているであろうフローリングに座り込み、一口、ペットボトルの水を飲み込んだと思えば、ベッドに戻るわけでもない。何も無いはずの暗闇に視線を投げて物思いに耽る姿を少しの間眺めていたが、いつまで待っても自分に掛からない一声には赤井の方が辛抱ならなかった。
「あ、起こしてしまいました?」
「……起こしてしまいました?じゃないだろう」
君の夢見が心配でこうして共に寝ているのに、俺が隣でぐうすか眠りこけていたら意味がないだろう。
思いながらまだ寝惚け半分に起こした身体は、ベッドからずり落ちる。その様を律はケラケラと笑っているものだから、赤井は肩透かしを食らってポカンとした。
飲みますかと差し出されたペットボトルを言われるがままに受け取って、同じように一口、ぬるい水を嚥下する。寄せ合った肩から伸びた細い腕が赤井のそれと僅かに触れ合って、柔らかな体温がじわりと肌に浸透する心地がした。傍らの時計は、午前二時を示していた。
「すみません。悪夢を見たのではなくて、ただ目が覚めてしまって」
安堵して、長く吐息した。要らぬ心配をさせた事に気付いた律は、眉を下げてもう一度謝る。
彼女の不眠を織枝葉子の口から聞かされたのは、二週間前の事であった。言われてみればもう随分と前の梅雨の夜、さめざめと泣いていた事が確かに一度だけあったが、それがまさか今も尾を引いているとは赤井は寝耳に水であった。
なぜ自分に伝えてはくれなかったのだろう、なぜ自分に相談のひとつもなかったのだろうと、赤井は花火に燥ぐ律が急に空元気を出しているだけに見えて困惑した。同時に、理解した。距離が近付いたような気でいるのは自分ばかりで、律は少しも赤井秀一という人間を信頼してはいない。事実、他人に窘められるまで、心の陰りなど解消されたものだとばかり思っていた男に、その繊細な心を開示できるわけもない。
「でも、少し変わった夢を見ました」
「……変わった夢?」
「パンケーキの夢です」
パンケーキ?と、再び鸚鵡返しをした赤井には、律は可笑しそうに口許を緩めている。上機嫌で良く舌の回る、珍しいその様を横目に赤井はまた一口水を飲む。
昔、交際をしていた恋人に「人を好きになった事はあるのか?」と聞かれたことがある。三か月も付き合いのある恋人に向かって聞く質問ではないだろうと分かっていながら、「分からない」と率直な答えには平手打ちの返事が戻った。
望み通りの言葉を言ってやったところで君は納得しないだろうと不要な付言をして、わざわざ叩かれてやったのはそれが初めてではなかった。自ら渇望しないせいだろう、赤井の周りには自己愛の強く勝手な女ばかり集まるから、うっすら赤く腫れた頬を指差して同僚のジョディは腹を抱えて何度も笑った。
程度の差はあれど女という生き物は皆そういうものなのだろうと思っていたから、沈黙は順調の証だと誤解した。少しでも考えたならそうではない事が分かったはずなのに、あまりに不甲斐ない自分を省みるしかなかった。
「パンケーキを作って欲しいって強請るんです」
「……誰に?」
「さあ。顔は分からないんですけど、多分少し年上の男性だと思います」
「男に?君が作った方が美味いだろう?」
律に、主張が無いわけではない。ただし、それが表面化する事は極僅かのように思う。
あの日、東都環状線の車両内で言葉を交わした律は、自分の事を良く話していた。記憶の喪失がその人格に影響を及ぼしているのかどうか赤井には定かではないが、律が赤井との間に確かに引いた見えない境界線の原因は、紛れもなく自分の手落ちであることを赤井は自覚している。
会話を重ねた数が関係性の向上に比例すると思うわけではないが、それでも相互理解の一助にはなるだろうと、赤井は最近やたらと律との時間を優先している。テレビから垂れ流れる事件のニュースよりも、律の話を聞きたかった。平凡に繰り返される、日常の話を聞くのが次第に好きになった。変わり映えの無い話を毎日聞いていて楽しいですか?と時折怪訝な顔をして尋ねる律には、楽しいよと、赤井はいつも決まってそう答えた。
「その人が、料理上手な事は良く覚えているのに」
律はまた、可笑しそうに笑った。暗闇に静かに溶ける美しい横顔に、胸の端が絞られたように苦しくなる。
罪悪感、庇護欲――それとも、愛か。月並みな言葉で整理するには赤井の胸の内は複雑で、そう断定できる程に赤井は己の感情と向き合って生きてはきていない。
――彼女を、失った夜は辛いだろう。
確かな想いを提示するとするならそればかりで、喉に詰まった不安を赤井はまた水で流し込む。
もしかしたらこの世界の何処かに、同じ想いに嘆いた男がいるのかもしれない。存在すら知らない本物の恋人のような誰かが、自分には受け入れ難い悲劇を被っているのかもしれない。
「何かもっと、大切な事を忘れている気がします」
しかし今は、どうしようもなく、喉元を過ぎたはずの液体から嫉妬の味が染みる。俺には可愛くおねだりをした事など一度も無い癖にと、ついペットボトルの口先を噛んだ。
もっとも、律にパンケーキを焼けと言われた所で赤井にはそれを実現する技術は無い。単純にパンケーキが食べたいという話ならどうにでもなるが、それが誰かの手料理を食べたいという願望ならば赤井はお手上げだ。
それでも、望みがあるなら言って欲しかった。スマホの手配の一件で敬遠されているのかもしれないが、その記憶に纏わるものでない限り赤井は律の願いを叶えてやりたいと思っている。夢の中の幻影にではなくて、今を共に生きている自分に甘えてくれたらいいのに。
「……眠りたく、ない。目が覚めたら、また、」
全部忘れてしまうから。吸い込まれるように消えた言葉と一緒に、律の頭はゆらりと傾き赤井の左肩にもたれた。
さらりとした髪が揺れて、良い匂いがする。この腕の中に彼女の存在を確かめるだけで、邪な感情が薄らいで何とも言えぬ幸福に書き換わる。
「……君は、料理の出来る男が好きなのか?」
ひとつ意識の消えた部屋の片隅で、答えのない穏やかな問いばかりが哀しい響きを孕んで浮遊している。
望みを叶えてやりたい。その想いは確かのはずなのに、皮肉にも律は赤井が堰き止めている過去ばかりを探している気がする。
律が、過去を全て棄てて、俺の隣にいる事ばかりを望んでくれたらどれ程いいだろう。身勝手に都合の良い事ばかりを考える己を嗤いながら、また幸せな夢の中へ戻ったのであろう律の髪を優しく梳き続けた。今は、律がただ幸福であるのならば、これ以上の悦びはないだろうと言い聞かせる。
おやすみ。良い夢を。静かに胸の中へ引き寄せた律の耳元で囁いた言葉は、恋人に語り掛ける時よりもずっと優しい。