午前6時のジェラシー(赤井)
(午前2時のジェラシーの読了推奨)

 名の奪われた『彼』の姿を夢の中に見つける度に、高揚する律の胸の中心に確かな落胆が駆け下りてゆく。
 ああ、また、あなたなの。お願いよ。少しの時でいいから此処に居て。あなたの名前を思い出したいだけなの。
 両足の先は泥濘に取られたように深く沈み込み、追いかければ追いかける程にその背中が遠ざかる。声帯だけが削ぎ取られてしまったかのように締まる喉に、嗄れた叫び声ばかりが音にならない。

「――いかないで、」

 夢か現か、まだ混沌とする眠りの淵で律の瞼が持ち上がってゆく。泳ぐように動く虹彩はまだ薄暗く青みがかった世界の輪郭を認識すると、また瞼で視界に蓋をした。
 開いた唇の隙間には現実で何かを囁いたような気がするのに、律はその言葉を思い出せなかった。もどかしさと少しの不快。そうしてそれを遥かに上回る、確かな寂寥感。すぐに消えて無くなる事を知っているはずなのに、凝りもせずに幾度となく脅かされている気がする。
 もぞもぞと掛布団に深く潜り込みながら、律は隣で眠る赤井の胸の内へより一層身を寄せた。悪夢を見た夜のようにこの手を繋いで欲しかったのに、その両腕は抱き竦めるように律の背に回っているから、手持無沙汰の右手を仕方なく己の喉元に伸ばした。ようやく機能したはずのその突起を指の腹で撫でている内に、いつの間にか覚えていたはずの夢の内容まで忘れてしまった。

 "だから早く帰って、今夜は一緒に眠ろう"
 "眠るのが怖いなら、一晩中ふたりで話をしていよう"

 あの晩を境にして、赤井はもうずっと律と生活を共にしている。それは言葉通りおはようからおやすみまで、仕事でない限り赤井は必ず家に帰るし、偶の休日ですら友人と――そもそも赤井の友人の有無を律は把握していないのだが――出掛けるという事すら無い。あれだけ悩まされていた不眠は概ね解消されたし、共同生活を営めばそれなりに互いの存在を前提としたルールも出来上がるわけで、律の日常には今や赤井秀一は至極当然の存在として刷り込まれている。
 ほんとうの名前も、ほんとうの目的も、ほんとうの心も、何も教えてくれやしないのに。
 律は僅かに顔を上げると、無防備な男の寝顔をじっと眺めた。企みなどひとつも無いような、あどけない男の寝顔を。

 ――このひとが、急に何処かへ消えてしまったら、どうしよう。

 この関係が適切ではない自覚が、律にはある。女女しい不安が頭を過った所で、絆されているような、飼い慣らされているような、そうした薄っすらとした警戒感を思い出せる内はまだ「正常」だろうとも思っている。
 それでもいつか全てを投げ打って、この体温に沈み込みたくなる日が訪れるかもしれない。ほんとうのことを知るよりも、この男の嘘を信じたいと思うようになるのかもしれない。確信めいた予感に、律はふと怖くなる時がある。企みなどひとつも無い顔。そうではない事を知っている癖に、この瞳にはそう見えるのだから。

 ――ピピ、ピピ、

 癖のある前髪に触れようと思って伸ばしかけた指先は、午前六時を告げるアラームに遮られた。反射的に手を引っ込めると、律は赤井の目覚めを待つ。
 アラームを止めるのはいつもサイドテーブルに近い赤井の役目で、共に起床する日もあるにはあるが大抵赤井は再び眠りに落ちてしまうから、機を見計らってスヌーズ機能を果たすのは律の役目である。
 しかしながら、今朝はどうにも違っていた。規則正しくアラートを繰り返す目覚ましを背に、何が気に入らないのだろうか赤井の眉間の皺は深くなっていく。

「永倉さん、」

 呼び掛けに、応じる事は無い。
 一方で無意識に蔦の様にこの身に絡まる腕の力は増すものだから、律は思わず蛙の潰れたような小さな悲鳴を上げる。それでもやはり赤井は目を覚ます事無く、律を圧迫するように掻き抱くとねじ込むようにして首許に顔を埋めた。柔らかな髪の毛先が肌を擦れる度に擽ったくて、石鹸の香の中で尖る煙草の匂いが肺の奥まで流れ込んでくる。
 この両腕を力任せに伸ばせば楽に逃れられることが分かるのに、しかし律はそうしなかった。赤井は律の抵抗を望んでいないことが伝わるから、つま先ひとつ自由にすることを躊躇って、この呼吸すら殺してやりたくなる。
 これは、やはり、不適切な感覚なのだろう。打ち損ねた終止符が目の前を浮遊していくのを尻目に、律はまた、その髪の先に手を伸ばす。
 重なりあった胸の向こう側が、ひときわ大きく脈打った。

「……いかないでくれ、――あけみ」

 湿った声が耳元から侵入した時、其処からさざ波のような何かが全身を静かに走り抜けた。断線したような神経に身体の感覚が突然分からなくなって、行き場を失った右手が宙で固まる。
 あけみ。縋るように、赤井はまたその名を律に囁いた。女の名、だろうと思う。
 撹拌される意識の縁で、目の前の男が急に知らない人間に成り下がってしまったような気がした。おかしな話だ。最初からこの男のことなど何も知らないのだから。
 何処で掛け違えてしまったのだろうと、頭から冷や水を浴びたような気分で律は考えている。本当はもうとうの昔から、「正常」など失われてしまっていたのではないだろうか。そうでなければ、こうしてひとひらの垣間見えたロマンスに心を動揺させる事など無かっただろう。何に、とも判断のつかない失望の味を、知る事など無かっただろう。

「……永倉さん、」

 ねえ、あなたは一体誰なの。誰がほんとうのあなたなの。
 ほんとうの名前も、ほんとうの目的も、ほんとうの心も、――そしてほんとうの恋人も、何も知らない。

 ――ピピピピ、ピピピピ、

 けたたましい音が鳴り続ける中で、赤井が僅かに身じろいだ。結び目が綻ぶように緩む腕の拘束と同時に、手狭なシングルベッドが軋む音がする。
 律は夢で見ているであろう過去を赤井に話すことはない。話したところでそれは所詮夢に過ぎないという思いもあるが、それ以上に、過去を語らない赤井を公平ではないと感じるからだ。全てを欲しがる程に貪欲ではないつもりでいるが、知りたいことを知りたいと言えないこの関係性は、やはり美しくはないのだろうとそう思う。そうして「異常」である心を上手く認識すると、気分が少しだけ凪いでいった。
 自分はいつもこうして立ち止まっては、互いの間の距離を測ることばかりに気を取られている気がする。なし崩し的に物事を進められないのは、何故なのだろう。目を閉じて耳を塞いで考えることを止めたのなら、楽になれることをどこかで分かっているのに。何かが、いや誰かが、それを仮屋瀬ハルに許さない。

「……、ハル?」

 私は何のためにあなたの隣にいるの、とは聞けないから、律は冷えた手のひらで薄く開いた赤井の両の瞳を覆った。
 ほんとうのことを知りたくて仕方がない癖に、この男の傍に居たいがために大切なことから目を逸らし続けている。惨めなこの姿をその目に映して欲しくはなかった。

「その……、俺は何か、君の気に障ることをしただろうか?」

 困ったように、手のひらの下で数度硬い睫毛が上下する。事切れたかのように聞こえなくなったアラームの音に、冬の庭のような静寂がひっそりと戻った。
 赤井は近頃、毒の抜けた声で律を呼ぶ。偽りの愛ばかり戯れに嘯くことをやめて、言葉での証明によらない慈しみのようなものを感じる時がある。まるで、ほんとうの恋人同士がそうするように。 
 いかないで。不思議と馴染みのある、艶に満ちたその言葉を喉を震わせずに諳んじた。
 近付き過ぎた距離間に確かに存在している透明な境界線が、目に痛い程の色彩で色付いて、もう二度と忘れることの無いように。


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