#71

『夏葉原駅付近で発生した事故により東都環状線は現在運転を見合わせており、再開の目処は立っておりません』

 店内に並んだ液晶テレビに映る夕方のニュース速報を眺めながら、彩花は店員の冗長と思える説明を話半分に聞き流していた。二週間前に修理に出した自宅の型落ちラップトップは、メーカーで交換パーツの生産を既に終了しており唯一その在庫を保管していた夏葉原の専門店にわざわざ持ち込んでいたが、珍しく行動した時に限って不運は舞い込むものである。
 隣駅まで歩いた方が早そうですねえと、申し訳程度に差し込まれた世間話には対岸の火事を決め込んで端から熱心ではないようだから、そうですねえと、彩花もまた会話を横滑りさせただけだった。迂回に都合の良さそうな最寄り駅を手元のスマホで検索しながら、形ばかりの引き取り書類に署名を残した。

「メモリーカードが挿入されておりましたので、こちらは別にお渡ししますね」

 海外製の小さな記録媒体にこれと言った印象は無かったが、彩花は騒ぎ立てずにそのまま引き取っている。店側の手違いを疑った所で、それが自分のものではないという確実な記憶の保証が無かったからだ。クラウドへのデータ保存が主流になったのは最近の事であるし、昔の写真の画像データでも保存し移行していたのかもしれないと思い直した。
 店を出る頃には、雨脚が少し強くなってしまっていた。雨避けのカバーが掛けられた修理品を抱えながら東都中央線からの乗車を決め込み道を行く彩花の耳に、次第に近くなるサイレンの音が喧しく響き出す。――事件、だろうか。単なる身投げにしては騒騒しい駅周辺を遠目に思い至るが、彩花は巻き込まれまいと早早に裏道に順路を変えた。もちろん彩花は正義を守る警察官ではあるが、非番の今日では碌な情報も装備も無いし、そもそも広報課所属の彩花は現場の担当ではない。

「……っと、すまない、」

 ふたつめの角を曲がった所で、誰かと衝突しそうになった。身を引いた反動で彩花の傘が傾くから視界は赤のビニールに覆われて、こちらを振り返ったであろう男の姿を僅かの隙間から視認できない。
 ひらりと宙を舞った紙切れのような何かは雨に叩かれるようにして、彩花の足許に滑り込んだ。切符、だった。東都発、東都着の、環状線一周切符。入場の打刻ばかりがされたそれは、水溜まりに落ちてゆっくりとインクが融けるように滲んでいく。
 
「あ、待って、」

 拾い上げようと身を屈めた時にはもう、男の靴が雨の路上を蹴る音が鳴っていた。慌てて持ち直した傘に上体を持ち上げて呼び掛けたが、如何せん声の届く距離ではない。
 ――やはり、何か事件だろうか。ニット帽を被るすらりとした長身の男は、その腕にスカートスーツの女性を抱えているようだった。安っぽい透明のビニール傘は彼等二人を覆うにはやや足りず、靴すら履かされていない女性の足先は冷えた雨に打たれている。
 ひとつ向こうの通りを西に折れた所で、雨に紛れた後ろ姿は追えなくなった。その先にこの辺りで評判の町医者が医院を構えている事を思い出して、彩花はくるりと踵を返す。水を吸って潤けた切符は、途中のコンビニのクズ籠に棄ててしまった。

 "三吉さんもこの画が好きなの?"

 懐かしい、街並みだった。夏葉原から徒歩二十分の隣駅南口広場では、スペイン出身の画家によって描かれたパブリックアートが存在感を放っている。
 幅十数メートル、高さ八メートルにも及ぶ青地の壁画に浮かぶ薄暗い雨の街角。繊細なタッチと計算により描き込まれた雨の線は所所に白く発光するように鮮やかで、雨溜まりは今にも落下する雨粒の波が同心円状に臨場感のある拡がりを見せている。しかし何よりも印象的なのは、その画の中でただひとり生き続けている少女とも少年とも分からぬ人間の姿だろう。粗末な服では隠しきれない痩躯で空を睨みながら佇むその横顔は、見る者に幾通りもの鮮烈な感傷を与えやすい。
 paraguas――走り書きされたタイトルが不思議だった。ひとつも傘など描かれてなどいない癖に、外国語で雨傘という意味だった。

 "あの子は傘を取り上げられたんだろうな"

 彩花は、別段芸術に通じているわけではないし、正直な所壁画の良さも分からない。それでもその画が美しいことばかりは確かだったから、美しい画だとそう答えた。
 綾瀬明は数多く居る警察学校時代の同期のひとりであるが、それまで深い交流を持った事など無い。せいぜいクラス単位のグループワークで一度、同じチームに割り当てられた事があった程度だろう。同じ日の、同じ時刻に、同じ画の前に偶然居合わせるというのもなかなか奇妙な巡り合わせではあるが、だから彩花は、むしろ綾瀬が自分の名を覚えていた事の方に甚く驚いた。
 同時に、ふと興味が湧く。彩花の瞳にはただ美しいだけのその画が綾瀬の瞳には風刺画に映るのだとすれば、この平坦な毎日は彼にはどれ程鮮やかに見える事だろう。降り注ぐ雨粒よりも透明度の高い瞳を間近にした時、引きずり込まれてしまいそうな錯覚に頭の奥が痺れるようだった。
 
 "付き合っている事は秘密にして欲しい"

 思い出したようにふたりでこの壁画を眺めては、二駅先にある穴場の喫茶店で食事をする事が多かった。赤い屋根が目印のやや手狭な店ではあるが、人当たりの良い女主人と味の良い定食が評判で近所の常連客の心を掴んでいた。
 綾瀬は食事中の他愛もない雑談のような体で、あまりに穏やかな表情で言った事を覚えている。恋人になりたいと切り出したのは彩花の方で、綾瀬もそれを承諾して十日も経たぬ頃だった。その頃は既に互いに配属先も決まり物理的に離れ、そもそも彩花と綾瀬の間には共通の友人なども居なかったものだから、やたらと明るみになる事は無いだろうがどういう了見だろうと困惑した。まるで別れ話でも切り出された気分に表情を暗くした彩花を前に、綾瀬は酷く可笑しそうに、「そうじゃなくて。大切なものは鍵のかかる引き出しにでも仕舞っておきたい性質なんだよ」と、笑った。

 "彩花。話しておきたい事がある"

 交番勤務から所轄の捜査課へ異動した後で、綾瀬にいわゆる反社会組織への加担を打ち明けられた。年齢的にも結婚を意識し出した頃で、それとなく話を持ち掛けた自分の将来を気遣ったのだろうと思う。
 どうしてと尋ねたら、正義のためだと答えた。そうであるならばどうしてと続けたら、少し言葉を迷った後で、彩花の正義とは相容れないからと言い切られた。
 綾瀬は日頃から世の不条理や腐敗を嘆き改革の必要性に言及する節があったが、理想の実現のために腹の底で育っていた過激な思想に彩花は長い間気付けなかった。何年も時を同じくしていたつもりであったが、やはり彼は、あの時と変わらぬまま自分とは違う世界を見つめ続けているのだろう。いつか、綾瀬は本当に取り返しのつかない犯罪に手を染めるかもしれない。確信に似た予感が脳裏に過った。
 幸いであったのは、恋人関係を続けながら彩花は綾瀬の思想に傾倒しなかった事だろう。彩花はそれが罰せられるべき不法行為であることさえ指摘したし、綾瀬は決して同調を求めようとはしなかった。分かり合えない信念の存在にはそれでも互いに別れという選択肢だけが選べずに、それきりその話を蒸し返す事は無かったが、彩花はそれ以降現場で犯罪者に向き合う事が出来なくなった。

「南口広場まで車を回して。気が変わったのよ。あまり待たせないで頂戴ね」

 年月を経て劣化した壁画を眺めていれば、隣のベンチに腰掛けていたブロンドの外国人女性が電話口に文句を垂れていた。大振りのティアドロップタイプのサングラスは彼女の小さな顔をほとんど隠してしまっているが、その見えない素顔のまばゆい美貌というものを確かに想像させる。
 潤沢な髪から肩に羽織った黒のカーディガンまでが、細かな雨の粒子にまみれていた。うらぶれる所か余計に際立つ凛とした風格に、思わず見惚れて目が離せない。
 この雨で凍え死んだらアナタを呪ってやるわと、流暢な日本語で憎たらしそうに言い放ち切電するものだから、彩花はハッとして慌てて鞄の中を弄った。

「折り畳み傘があるので、良かったら」

 差し出した小花柄のそれに、彼女は少し驚いた様子で顔を上げると、あまりにも優美な動作でサングラスを外した。美しい貌だった。目鼻立ちのきりっとした、一切の無駄を削ぎ落したような涼やかな気品が花開く。人間が等しく甘受すべき老いというものを感じさせない魅力にはしかし、彩花は何処かで恐怖に似た感情を覚えて指先が震えた。ハリウッド女優である名の知れた女の顔に似ているような気がしたが、まさか、あり得ないだろう。
 彼女は次には可笑しそうに小刻みに肩を震わせて、日本人は几帳面ねえと、笑いながら言った。

「ジョークよ、ジョーク。雨に打たれるのは嫌いじゃないの」

 湿気を含んで垂れた髪を後ろに掻き上げると、クリスタルガラスのような飛沫が辺りに散った。ニューヨーカーが傘を差さないという話は嘘ではないのかもしれないと、冗談の通じない自分を笑われたのか、神経質な備えを笑われたのか分からないまま彩花は傘を引っ込める。親切心を邪険にされたのに、不思議と嫌な気はしなかった。まるで彼女にばかりは慈悲の雨でも降り注ぐかのようだ――と、何処か上機嫌にすら見える女の横顔を彩花は見つめながら考えている。
 綾瀬明の命が絶えたその日は、酷い雨が降っていたらしい。らしい、というのも、彩花がその事実を知ったのは綾瀬の死から随分と日が経ってからの事だった。偶然職場で顔を合わせた同期のひとりから、彼の二階級特進の話を聞いた。

「貴女は雨に嫌な思い出でもありそうね」

 特殊な職務の都合で連絡が取れない時期はザラにあったが、気付いた時にはもう二度とその声すら聞けなくなってしまっていた。
 綾瀬の属していた反社組織の動向を追えばどうやら東都日米首脳会談をひとつの契機としていたようであるが、彩花にはそれ以上の手掛かりは無い。当時は種種雑多な集団が抗議活動やデモ行為に勤しみ、各地で小競り合いのような事件は多数発生した。それぞれを紐解こうにも、警察官でありながらその立場を利用してテロリストと共謀していた綾瀬に関する記録など閲覧できるはずもないし、調査の手を伸ばす事すら危険だろう。そもそも綾瀬は、それを分かっていたからこうして彩花を自分から切り離していたわけである。
 素知らぬ振りをして生きる事が、きっと綾瀬の望みなのだろう。そう自分に言い聞かせて生きて、五年の歳月が流れた。

「Every cloud has a silver lining.――貴女にもきっと銀の裏地が見つかるわ」

 聞きなれない独特のエンジンのサウンドが近付く気配がして、背後で止まった。彼女の迎えだろう、前照灯に目が眩み点滅を繰り返すハザードランプに、薄白い気取ったスポーツカーである事以上に見て取れる事は無い。下僕のような扱いをしていた割にはまるで恋人にでも会うような軽い足取りで離れていく彼女の姿を横目に、彩花の意識は既に壁画に移ろいでいる。
 あの子は銀の裏地を探していたのだろうか――。今まで何度目にした所で美しい以外の感想を持てなかったというのに、初めてこの心は揺さぶられている。余韻ひとつなく走り去っていった車の騒音が消えた時、ぐらりと傾いた傘は彩花の手をすり抜けて草叢に転がった。

「どうしたら良かったのよ……っ、」

 あの子に降り注ぐのは、恵みの雨か、制裁の雨か。あの子は傘を、取り上げられたのか、棄てたのか。
 綾瀬はなぜ死んだのか、誰にその命をもぎ取られたのか。最期に何を語ったのか、最期に見た景色は何か。彼は、――彼の人生は、幸福だったのか。
 針のように降り頻る冷たい雨を浴びながら、彩花は後悔を叫び続けた。堰を切ったように溢れる感情を一緒くたに、喉が嗄れるまで言葉を吐き出した。傘を取り払った視界に広がる暗雲のどこにも、銀の裏地など見つからなかった。

『本日東都環状線の運行中の車両内にて、刃物を振り回した無職の男を警視庁は傷害の容疑で逮捕し――……』

 一頻り吠え続けると、事切れたように涙は枯れた。決して晴れない心を引き摺りながら結局表通りでタクシーを拾って帰宅すると、既に事件は沈静化したようで、画面の向こうで永倉圭という名のアナウンサーが原稿を読み上げていた。
 犯罪は、今日もこの国のあちらこちらで産声を上げている。人間が生き続ける限り、不正を根絶やしにする術など無いのだろう。
 変わらない毎日の現実をそれでも喉元に抑え付けて生きていたのに、今ばかりは直視する事を躊躇って彩花は早早にテレビの電源を落とした。温かいシャワーを浴びれば幾分気持ちも落ち着いて、店員にラップトップの動作確認をしておくように言われていた事を思い出した。

《ステータスがリセットされました。スタートアップを開始してください》

 無機質な指示に逆らう事なく、彩花は立ち上げたラップトップのエンターキーを押し込む。挙動は順調だ。
 電子機器の発展が目覚ましい昨今、時代遅れのソフトウェアのサポートは手薄になりハードはアップデートを怠れば使い物になりやしない。実際、今回の修理費用も機体の買い替えより高く付くという事だったから、その手間を加味した上で彩花は判断に迷ってしまった。ふたりで選んだマシンだから大事にしてよと、いつの日か綾瀬に言われた言葉を思い起こさなければそのまま処分の道を選んでいたに違いない。

《メモリーカードに対するアクションを選択してください》

 だからそれは、たとえば運命、のような。
 覚えの無い記録媒体には、表計算ファイルがひとつ格納されていた。大変精緻を極めた表の造りは作成者の性格が垣間見えるようであり、それが自分ではない事だけが彩花には確かである。しかし大した疑問すら持たず、数字と文字の羅列にぼんやりと虚ろな眼差しのまま続けていたスクロールに、その時ふと指先が止まった。
 繰り返し出現する非常に珍しい性と紹介されていた名には、見覚えがあった。最近は各局の情報番組に多数出演する程の人気ぶりで、クリーンなマニフェストを掲げ近い将来確実に重要なポストを得るだろうと目される新政党の国会議員。彼の名を含むセル列に隣接するのは、日付と金額、そしておそらく、銀行名の略称。

「……、まさか」

 閃いて、全身が粟立った。反射的に仰け反った身体の隅々で沸騰したように血脈が騒いで、鼓動の音が耳のすぐ近くまでせり上がって来る。
 綾瀬の属していた組織アダムが金融犯罪に明るかった事は知っていたが、その資金がこの国の権力者に巡回しているなど思ってもみない。闇献金、資金洗浄、裏帳簿――どの表現が的確かは今の彩花には知れないが、このリストを調査すれば暴かれる闇はひとつやふたつではないだろう。
 しかし、その不正を暴く資格だけが彩花には無い。その先にどれ程崇高な正義の理念があったとしても、誤った方法でその手を汚し続けたのは最愛の人である綾瀬明であり、それを看過し続けたのが彩花だからである。

「……どうして、私に」 

 ひとり呟いた言葉は、誰に届くわけでもなく静かな部屋の隅に消えてゆく。落ち着かせるように低い天井を眺めていた彩花がそっと閉じた瞼の裏に、あの壁画の鮮やかな色彩が蘇った。
 私はまた、何も知らない振りをしてただ屍のように生きるのだろうか。生き延びるためだけに生きては時折狂ったように心の膿を吐き出して、そうしてずっと何とも向き合わないまま、傘の陰に隠れて歩み続けなければならないのだろうか。――そうであるならば、たとえこの不正を飲み込まなければならないとしても、大切な人の生き様ばかりをこの眼に焼き付けて死ぬ方が幸福でなくとも満たされるのではないだろうか。

 ――プレーヤー:ayase akira が入室しました――

 隣のタブにメモ書きされていたURLとログインIDは、ネット上に浮遊するオンラインゲームのトークルームへ繋がる。
 数多の思惑が燻ぶる仮想現実の中で、彩花の瞳ばかりが、真実そればかりを渇望している。


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