#70

 明け方から鈍い頭痛が続いていた。数時間前に気休めに服用した薬は大した効果も無く、仕事の集中力を欠く程ではないが発作のように断続的に走る痛みは、多少なりとも降谷零の気を散らしている。
 存外穏やかなこの心持とは裏腹に、腹の底に疼いた感情は昂っているのかもしれない。降谷はまたひとつ脈打った刺激に後頭部の辺りを指の腹で摩った後で、ゆっくりと両の瞼を閉じる。この事件に決着が着いた時には――。暗示のように己に言って聞かせるその言葉の続きを、降谷が唱える事はない。十秒と経たぬ内に、再び開かれた瞳にはもう一切の迷いが無かった。ノックすら疎かに入室した取調室は、真冬の海底のように冷やりとしていた。

「残念です。あなたには誇り高い警察官でいて欲しかった」

 警視庁総務部広報課所属の三吉彩花が、東都大学並びに新宿駅前交番の連続爆破事件の被疑者として逮捕されたのは昨晩の事である。後者の事件発生後、行方を暗ましていた彩花は都内某所のインターネットカフェに潜伏していた所を発見された。もちろん本案件が現職の警察官による犯行と断定されることになればその取扱いは慎重にならざるを得ず、現状極一部の関係者にて事態は暗暗裏に管理されている。
 彩花は風見の代わりに席に着いた降谷を、冷淡なまなざしで一度だけ見た。驚きは無い。無感動に逸らされた視線は、格子の嵌められた小さな窓に逃がされてしまう。
 降谷はその様子に頭に擡げたある種の絶望――この女はテロリストというよりも自殺志願者と言われた方が似合いだ――に気付いたが、周囲がそれを悟る事はない。供述調書を取ってくれと、凪いだ声で風見に指示をした。

「黙秘を続けている理由を教えてもらえませんか」

 狭い室内に響くのは降谷の問い掛けと、風見がパソコンのキーを押し込む音ばかりだ。質問し、反応を窺い、また質問を変える。意味のあるようで無いような、その繰り返し。
 目の前に腰掛けているはずの女の生命力が時折曖昧になるから、降谷は僅かに左右に振れる瞳孔の動きを確かめる。頭の中から思考力だけを刳り貫いて、窓硝子を流れ落ちる雨粒の数でも数えているのかもしれない。何か要求はあるのかと尋ねてみても共犯者の動向すら知りたがる素振りが無いから、降谷はわざとらしく深い嘆息をすると、手元のファイルを適当に捲って眺める振りをした。

「では、警察官を志した理由は?」

 尋問には目的に応じた数種のアプローチ方法があるが、所轄の刑事であった経歴を持つ彼女に定石はあまり意味をなさないだろう。
 三吉彩花。都内大学を卒業後に警察学校に入学、特筆すべき点は無いが座学実技共にバランス力に優れ総合評価は平均水準を上回る。実戦実習での適正判定により交番勤務を経験後に捜査課に異動してからは、才能が花開いた事も助け降谷でも知る規模の大きな事件も担当していた。やや内向型ではあるが対人能力は高く、穏やかで実直かつ癖の無い性格は同僚や上司の信頼も厚かった。彩花が順風満帆に見えるキャリアを積み上げていた、六年前の話である。

「雑談ですよ。ひとりでお喋りを続けるのも退屈なので」

 彩花が自分に向き直る気配を感じたが、降谷はしばらく顔を上げなかった。ぺらり、いたずらに捲った紙の擦れる音ばかりが宙に漂う。
 同じ問い掛けをされたら自分ならば何と答えるだろう?と、ふと考えが巡った。少年の頃に宝物のように大切に抱いていたはずの答えは、もう余所行きの形骸化した美しさしか残っていないような気がする。いつか何かの拍子に俺もその信念を忘れるのだろうか、いつか俺もこの事務机の境界線を越えたその席に座るのだろうか――この女のように。
 どこまでも陥没したようなふたつの瞳が、降谷をじっと見つめていた。瞼の裏に焼き付いて消えない、名も知らぬ無数の亡霊達の怨嗟に似ていた。

「――人は、不正を行う生き物でしょう」

 堅く閉ざされた唇が、ようやく開かれた悦びなど無い。
 口先だけで紡ぐ声は抑揚を欠いているが、殺め損ねた生臭い弾劾の匂いがする。

「私は生まれてから一度も不正に手を染めた事が無かった。それだけが取り柄だった」

 その言葉が安い挑発に返したひねくれた風刺なのか、それとも行き場を失くしてしまった彼女の翻意であるのか、見定められないから降谷は押し黙る。矜持と懺悔の代わる代わる混じる物言いに、それが無実の主張などでは無い事だけが確からしい。
 そうして罪を恥じ、正義へ背いた愚行を後ろめたく思うのならば、彼女は今もなお何に拘っていると言うのだろう。在り来たりな疑問の答えに降谷は二、三の予想が立つが、珍しくその何れも正答ではないような気がする。彩花がどのような形であれ今回の一件に携わった事は動かぬ事実ではあるが、降谷はまだ、その動機に辿り着いてはいなかった。

「初めて不正に手を染めたのは、六年前ですか」

 退職届を提出されたようですねと、降谷はファイリングされていた一葉の写真を丁寧に取り出しながら尋ねる。
 身体上の不調を理由に職を辞そうとした彩花に、当時の上司は必死に説得し部署異動という名の対処療法を勧めている。捜査課は組織内でも極めて精神的、肉体的に過酷な現場であり、音を上げる若手が多く離職率も高い。脱落者のためのセーフティネットはもともと用意されていたものであるが、優秀で期待値の高かった彩花の引き留めは格別であっただろう。
 机上を滑らせ差し出した写真を、彩花は一瞥して目を逸らす。真新しい制服に身を包み一糸乱れぬ敬礼をする男女数十名が映る、警察学校卒業当時の記念写真である。

「あなたは綾瀬明の危険思想を知りながら、今と同じように見ない振りをした。それが当時あなたを苦しめた不正ですね」

 同じ教場で学びを共にした警察学校の同期。それが綾瀬明と三吉彩花を繋ぐ唯一の線だった。
 写真の中央部と左端で、自信に満ちた精悍な顔付きで存在感を放つ綾瀬と、緊張のためか焦点の迷った瞳で頼りなさげに映り込む彩花。関係は良好であったが特別仲が良かったわけでもなく、連んでいた友人連中も別別だ。卒業後は配属先も離れ、時折開催される同期会は細々と続いているようだが綾瀬も三吉も参加を断っている。

「彼との関係は、そうですね……秘密の同胞、秘密の友人、秘密の恋人……なるほど、彼を愛していた?」

 列挙してゆく選択肢の途中で、彩花の瞼が二度瞬きをする。その真実に少なからず動揺した心を降谷は隠して、空白を赦す事無く切り込んでゆく。
 ――冗談じゃない、綾瀬明に恋人が居ただって?
 綾瀬の死後、降谷はもちろん公安部の捜査官は彼の周辺を徹底的に洗った。それは同僚を端に発し、友人や親族に至るまで、その死に関する情報操作に漏れがあればどれ程小さな傷口からもまた血が流れる可能性があるからだ。提出された資料を隈なく精査し、反乱の芽は虱潰しに排除して、そうして降谷はその事実を無難な色で完璧に塗り替えた――はずだった。
 降谷の止まない追及に彩花もまた僅かに眦を震わせて、反動で開きそうになった唇を、一度噛んだ。何かに抗うように動いた瞳がまた降谷を捉えて、そうと、声を押し殺した。

「身近な不正を看過したまま、どんな顔をして正義を執るべきか分からなくなった。だから警察官を辞めようとした」
「……それ程正義に潔癖ならば、その時あなたは彼を正すべきだった。――違いますか」

 何が可笑しいのだろうか、彩花は降谷の言葉を衝動的に鼻で嗤う。それは酷い皮肉ねと、ゆったりと白けた笑みで言う。
 綾瀬明は、非常に周到な人物であったと聞く。準備には数年単位の時間を費やす事を厭わず入念に、計画は少しの綻びすら許さずその慎重さは感嘆の息が出る程の徹底ぶりだ。大変優秀なダブルエージェントとして機能していた花井誠一郎の裏切りを察知し、相討ちに落とし込む程の手腕がある。先の先を読み、絶妙なカウンター攻撃に長けていた。
 もしも彼がありとあらゆる手段を講じて彩花との関係を秘匿していたのなら、降谷達はそれを見逃したかもしれない。いや、実際に見逃している。まさかと思いながらも、こうして眼前に今、三吉彩花は存在している。

「復讐、ですか。あなたの二度目の不正の理由は」

 しかしそうであるのならば、彼女は一体何を標的にしたと言うのだろう。あの事件の発生時、事実は疎か偽りの真実すら与えられなかったはずの彼女は、明かりのない闇の中で綾瀬明の死をどう受け止めたのだろう。
 想定していたはずの物語は大きく指針を変えて、降谷の知らない進路を進み始めている。得体の知れない不快が、降谷の全身の肌を駆け巡っている。彩花の笑みが遠くなるのに気付いて声を上げようとした瞬間、それよりも先に背後で風見裕也が席を立った。

 ――降谷さん、
 ――降谷さん、すみません。

 急いた様子で差し出された端末に、目を落とす。第二班が侵入に成功したようですと、風見は些か興奮した様子で告げた。
 実のところ三吉彩花の逮捕と同時刻、東都センタービル内で爆発物を設置していた数名の実行部隊を現行犯逮捕に至っているが、これは第二の事件から推知し公安部にて未然に防いだ第三の事件と呼んで差し支えないだろう。もとより一連の事件における関連性については降谷は既にこれを切り離して考えているが、いずれにせよ犯人等が連絡手段として使用していた媒体へのアクセスが必要であり、どうやら取調べの過程でパスワードを吐かせたようだった。

「トークのログを取得しました。捜査は一気に進展しますよ。……まだ、お話いただけませんか?」

 緻密に遂行された第一の事件と、粗末で思想の無い第二、第三の事件。その理由がまだ知らぬ第四の事件にあるのか、それとも別の目論見があるのか降谷にも定かではない。
 降谷は端末の表示を見せつけながら、ひたと彩花を見つめた。彩花は証拠であるはずの画面に目もくれずに、降谷を見つめ返す。嫌な気分がぶり返した。降谷はこの部屋で三吉彩花と対峙してからというもの、未だに確かな手応えに恵まれてはいない。

「――国際テロ組織アダムの残党は、一枚岩では無かったようですね」

 横目に彩花を見やりながら、会話の履歴を流し見てゆく。口汚いネットスラングの羅列に、折り重なる不道徳な信念の数数。
 一定数のコアなファンを持つそのオンラインシューティングゲームは、運営を外国の企業が握っていた。個人情報を抜くにも海外となると途端に調査は難航し、ゲームそれだけでは証拠能力に乏しく令状が下りないから正規の手段で協力を仰ぐには時間がかかる。降谷は第一の事件時より掴んでいた最大の手がかりを、今日まで持て余していた。――持て余してしまっていた。
 素性の知れないハンドルネームの連続に、彩花の痕跡を追っていた降谷の指が、その時、固まる。

 ナカタ:俺はミモザに頼まれて娘を攫っただけだ。事件の事は知らない。
 ネオ:じゃあ何?あの日、花井の娘が現場に居たわけ?
 キキ:あのひとにむすめなんて、いなかったはず。

 降谷の背を、何かひやりとした風が通り抜けた。途端に曖昧になる現実味に、降谷は早くその違和感を拭い去りたいのに、毒を吸ったように麻痺した指先が動かない。

 イヴ:後の事は、こちらで調べるよ。

 ああ、嫌だ、この予感を知っている。非常階段を駆け上る途中で耳を劈いた銃声の音、次の言葉を語らないまま雑音に消えた留守録の声。それはいつも決まって、己の取り返しのつかない失敗を悟った時、閃光のようにこの身に走り抜ける。

「どうしても知りたかった」

 なぜいつも、大切なものはこの手から零れ落ちてゆくのだろう。なぜいつも、死神の構えた鎌は自分の身体ばかりをすり抜けてゆくのだろう。読み誤った結末にどれ程後悔をした所で仕方ないのに、不甲斐ない自分を責め立てる事を降谷は止められない。
 諸伏景光を失ったあの日、生まれて初めて、消えて無くなってしまいたいと思った。誰ともその死を悼む事が出来ずに、誰に打ち明け当たり散らす事も出来ずに、裏切り者への粛清を肴に組織の幹部たちと酒を酌み交わして笑った夜、寝床の隅でシーツの裾を噛み締めながらただ夜明けを待った。全ては大なる正義のためと言い聞かせて、むせび泣く心を永久凍土に封じ込めた。素直にこの心を晒して、同じ痛みに涙を流せたのはたったの一度、花井律の隣だけだった。

「彼の思想を愛したことは無い。……それでも私は、綾瀬を愛していた」

 ――もしも律を永遠に失うような事があれば、俺は。
 抗えない泥のような恐怖と憎悪が降谷の不壊の精神を蝕んでいく。 

「私はただ、あなた達が不正に隠した真実を知りたいだけ」

 お願いだから邪魔をしないで。何かに取り憑かれたように途端にぎらつくまなざしが、降谷を射止めた。
 復讐と呼ぶにはあまりに清らかで、そしてあまりに残酷な、愛の末路。
 ひときわ鋭く後頭部に走った痛みは脳の神経を強烈に圧迫したようで、空の胃からせり上がって来る吐き気に降谷は反射的に口許を抑え込む。隣で風見が自分を呼んだような気がしたのに、返事のひとつ出来やしない。縋るように辿る記憶の中の律の残像ばかりが、ただただ、淡く儚い。


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