#69

『……降谷さんと赤井秀一の関係ですか?』

 電波障害を疑うような長い長い沈黙を置いて、ようやく耳に届いた風見裕也の声音は硬かった。普段の彼であれば不測の質問にも冷静に切り返し露骨に態度に滲ませる事など無いのだが、花井律の放った裸のままの言の矢はどうやらノーガードの死角を不意打ちしたらしい。律は小さな音で昼のワイドショーを垂れ流していたテレビの電源を落とすと、持ち直したスマホの端末を握る手の力を強める。

「ええ。彼等に和解してもらいたいんです」

 姿すら見えないはずの風見が電話の向こうで、息を呑むのが律には分かった。和解。当人同士ばかりではなく周囲の関係者すら難色を示すそのたったの二文字が、果たしてどれ程の困難であるのかを律は知らない。
 昨晩から降り始めた雨は、途切れる事なく東都の街を湿らせている。南北に伸びた活発な雷雲の帯は朝方に東都上空を通過したものの、局地的な豪雨を記録したようで公共交通機関の運転見合わせや交通渋滞は未だに尾を引いていた。休日と言えどホテルに缶詰めの律にはもちろん外出の予定など無いのだが、風見が手配していたカウンセリングの訪問診療もキャンセルとさせて欲しい旨の打診があったようだった。
 何か困りの事や降谷さんに伝言はありますかと、風見はいつも通り切電の間際でそう尋ねた。特にありませんと、やはりいつも通りに続けようとした律は思い直して言葉を変えた。今まで何度も交わされて来たお決まりのやり取りに、初めて切り込んだ刃は思った以上に深かった。

「FBIのジョディ・スターリング捜査官をご存知ですか?……彼女と少し話をしました」

 律の知らない所で赤井と降谷が繋がっていたのだから、律と赤井の関係をもちろん降谷の腹心である風見は把握していただろう。しかし皆一様にそれを禁忌のように触れずにいたし、律が赤井側の人間とそうして水面下で関係を持った事実は寝耳に水であるのだから風見が言葉を失うのも当然である。事情を知り決別を図る相談ならまだしも、これでは向こうの良いように言い包められ差し向けられた回し者だと思われても無理はない。
 しかし一方で律は紙一重の己の立場というものが、唯一、敵対する彼等の橋渡しになる可能性に気が付いていた。未来を見据える赤井秀一の言葉に、正義を貫く降谷零の姿勢に、彼等を信じて身を捧げるジョディや風見の献身に、律は記憶を失ってから初めて自分の為すべき事がひとつ見えたような気がした。

「彼等は公安と同じ組織を追っていて、赤井さんはとても優秀な捜査官だそうです」

 安室透として喫茶店に潜入している降谷零に、沖矢昴として姿形を変え大学院生を装う赤井秀一。その成りからは決してジョディの言うような世界的犯罪組織と対峙しているようには見えないが、それはずっと彼等が意図的に律を安全地帯に置いていたせいだろう。事実、今も律はこうしてひとり外敵の居ない場所で籠鳥のような暮らしぶりである。
 それがどれ程不甲斐ないとしても、昔の律ならばいざ知らず今の律にはこの状況を打破する物理的な力は無い。惨めであるが、無いものは無いのだ。代わりに今の律に有るのは、だからやはり、対極に位置する二人に近しいこの立場だけなのだろう。互いに利益をもたらすであろう共闘を実現できるのは、きっと今は、花井律ただ一人なのである。――知っていますよ。そうして呟いた風見の声は、還らぬ過去の想い出でも惜しむように、哀しげだった。

『知っています。彼等が連邦捜査局の精鋭であることも、彼が銀の弾丸と恐れられる男であることも、すべて』
「だったら、」
『そう単純な話ではありませんよ』

 風見は律の言葉を遮るように言うから、律は次の言葉を飲み込んだ。
 まるでその先の律の願いを分かっていて、口にして欲しくはないようだった。
 
『捜査協力は簡単ではないんです。手続きは複雑で時間がかかりますし、情報管理や指揮命令権の整備の問題もあります』
「その分対価も大きいでしょう?非公式の同盟でも十分では?」
『秘密裡の結託には担保が無い。何かあれば責任を取るのは降谷さんですよ』

 そのわずかの想像力すら働かないのか?と、言葉の端に珍しく確かな不快を孕ませている。それは律への不信というよりは降谷への忠誠心の高さを窺わせるが、建前ばかりを並べる風見を律は合理的ではないと思った。
 所属する組織の別を理由に互いに積極的に手を取り合えなくとも、せめて双方が満足な捜査活動が出来るような紳士協定くらいは結び連携を取るべきである。緻密に練った操作計画に土足で踏み入られたら堪ったものではないし、本来の標的を見失って仲間内で足の引っ張り合いをしていては元も子もないからだ。――仲間内。たとえそう認識しているのが、花井律ただひとりだとしても。

「……降谷さんと赤井さんが啀み合う理由は何ですか?」
『……、知らされていませんし、知る必要もないことですが、』

 風見はひとつ、呼吸を置いた。
 躊躇いと迷いのような感情が滲むが、彼も踏み出した一歩を引く事は無い。

『――あなた自身もその理由のひとつでしょう?』

 そして次は、律が息を呑む番だった。突然冷や水を浴びせられたように目が覚めた心地で、細く震えそうになる指先は握り直して気を締める。風見の物言いにはやはり少しの毒があって、律はその時ようやく、風見が単なる律の相談相手などではなく降谷の懐刀である事実を思い出した。

『降谷零から花井律を取り上げたのも赤井秀一です』

 どうして簡単に手を貸してもらえると思っていたのだろう、律と風見では根本的にその立場が違う。
 律が降谷の隣を選ぶ限りは風見は律に優しく接するだろうが、その居場所を放棄しようものなら途端に態度を翻されても不思議はない。地道に新たな関係を構築してるとは言え、一縷の裏切り無く降谷を慕いその背中を追い続けてきた風見にとって、律という存在は本当は酷く複雑だろう。

「……私が記憶を喪失したのは、事故のせいですよ」
『やめてください。その気がなくても、赤井を擁護しているように聞こえます』

 合理性という理由そればかりで、人は正答を選べはしない。理屈ばかりでは折り合いをつけられないのが、感情を持つ人間だからだ。律がずっと仮屋瀬ハルの名を棄てる事を拒み続けていたように、不正解が人を幸福にする事だってあるのだろう。たとえそれが、最後にどのような結末を与えるのであれ。
 律はそれきり、風見の言葉に反論するのを止めた。風見が降谷を想うように、律もまた降谷を想うが故の行動であるのだが、百八十度別ベクトルのアプローチを理解して欲しいと訴えるには己の覚悟が未熟のような気がした。

『花井さん。自分は降谷さんの知らない所で、その意に背く行為に協力はできません。ですが、もしも、もしも降谷さんが自ら彼等と協力関係を結ぶ日が訪れたなら、自分は――』

 続けた言葉を、律は上手く聞き取る事が出来なかった。続けた言葉など、初めから何も無かったのかもしれない。
 切電されブラックアウトしたスマホの画面をしばし眺めて、律はそのまま広いベッドに力無く転がった。皺ひとつない上質な肌触りのシルクからは、もう随分と慣れたマンダリンの香りがきつく拡がる。降谷が隣で寝転んでいたとしたら、さぞ顔を顰めた事だろう。悉く無頓着な赤井とは対照的に降谷の方はこだわりが強いものだから、あの部屋はいつも樹木のような凛とした香りで満ちていた。
 高いばかりのスクリーンのような天井を見つめる律の脳裏に、そんな日常が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。風見の諫言通りこのままここで動かぬ決断をしたとしても、あの日常は戻らないのだと思い至ればすぐに興は削がれてしまった。

 "君は一度記憶を失った。受け入れて前を向くしかないんだ"

 何を嘆こうとも、何を誤魔化そうとも、そればかりはもう捻じ曲げられない。この先記憶が全て回復したとしても、記憶を失ってから過ごした時間が戻るわけではないからだ。
 花井律の人生が強制リセットされたことに何か意味があるのならば、その爛れた関係の破壊と再構築にあったと思いたい。職場の上司と部下として機能不全を来たしていた降谷と律、公安警察とFBI捜査官として出会うはずだった赤井と律。過去も経歴も何もかも真っ新にして、空っぽのこの瞳で彼等の素顔をずっと見つめ続けていた。
 既に崩壊を始めた関係性は、どうせこのまま隠し通せやしない。どちらかの手を取るのか、どちらの手も振り払うのか、それぞれの手を繋いでやるのかという選択肢に未来は絞られている。

 ――プルルル、プルルル、

 浮腫んだように重たい瞼を持ち上げて、律は放ったばかりのスマホを手繰り寄せた。自分に連絡を寄越す人物など限られており、着信表示を見れば案の定である。やや曇りがかった行く末に気分の優れない律は数秒程受電を躊躇ったが、一向に音の鳴り止まない端末には諦めたように画面をスライドした。

「すみません。連絡を入れようとは思っていたんですが」
『いや、……その、すまない。ジョディが君に会いに行ったと聞いて』
「ええ。少し話をしただけなので、大丈夫ですよ」

 あまりに後ろめたそうに言うものだから、律は宥めるように声音を軽くした。
 実際ジョディとの邂逅後、律は記憶障害とそれに纏わる赤井との出会いを掻い摘んでジョディに伝えている。花井律の身に起きた不幸と偶然に、ジョディは驚いた様子であったがその心に抱いた誤解が解けるのは早かった。赤井に無断で接触を図った事、そうして不躾な質問を浴びせた事を、ジョディは恥じて謝罪した。

『彼女を悪く思わないでくれ。俺の身を案じただけなんだ』

 思った以上に話は円滑に進んだが、どうやらその陰には江戸川コナン少年の口添えがあったように思う。律がジョディの車に乗るや否や、コナンは助手席のシートから身を乗り出すようにして律に話しかけた。薄く伸びる街灯の仄暗い光は六歳の少年のあどけなさを掻き消して、その表情は嫌に大人びていた。

 "ごめんね。本当はボク、律さんのことも、赤井さんや降谷さんの事も知っていたんだ"

 何を言われたのか定かではなくて、何故それを今自分に伝えたのかなど余計に分からなかった。律よりもずっと事の詳細を把握しているような口振りで、しかし得体の知れない小学生の目的には皆目見当もつかないままである。なぜ?何を?何のために?と、ひとつも答えを弾き出せないままの律を前にコナンは眉を下げて笑った。――律さんなら、僕と同じ事を考えてくれているような気がして。そう言って、笑った。

「分かっていますよ。とても誠実な方だったので」

 結局、ジョディにも赤井と降谷の間にある確執は分からなかった。例の犯罪組織への潜入捜査中に何やら悶着があったらしい事を言及していたが、真偽の程すら定かではない。確かな事は、やはり彼等も二人の対立を望んでいるわけではないという事である。風見は知る必要の無い事だと言ったが、果たして、どうだろう。
 珍しく、沈黙がもたついていた。表向きの会話ばかりを長引かせたくないのは、どうやら赤井も同じようだった。

『――律。今から会えないか』

 やけに落ち着いて、妙に改まった声だった。
 律にはそれが単なる逢瀬ではない事ばかりが分かる。

『直接会って話したい事がある。預かっていた君のラップトップもまだ手元にある。持参するよ』
「……分かりました。私もお聞きしたい事があるので」

 早早に決断をすると、律はスマホをスピーカーホンに変えてベッドに放った。サイドテーブルから滑り落ちそうになっていた腕時計を掴むと手首に嵌めながら、広い窓が切り取る風景を一瞥する。変わらず灰色の空からは、酷い雨が降り続いている。
 もちろん赤井は律が今降谷の指示でホテル暮らしを続けている事も、その居所を内密にしている事も、不用意に出歩けない事も全て承知の上だ。それでも尚こうして自分にコンタクトを取ろうと言うのだから、何か退っ引きならない事情というものがあるのだろう。風見には悪いが、律には律の思惑もある。
 端から事後報告を決め込んで、律は赤井に居場所を打ち明けようとした。やけに手間取った腕時計の金具が噛み合ったのと、聞きなれないベルの音が鳴ったのはその時だった。

「すみません、玄関のチャイムが」
『……まさか降谷君か?』
「いえ。降谷さんはここには来ないので。もしかしたらカウンセラーの方かもしれません」

 律は開口一番に風見が伝えた診療の件を思い出して、電話の向こうで構えた様子の赤井にその内容を伝えた。
 新宿での爆破騒動以来、降谷は律のカウンセリングの機会を密にしたが、現状では通院すらままならずに訪問型に切り替えていた。縮まる兆しのない降谷との距離は、ホテル内では疎か職場でも一切その姿を確認できはしないのだから、律がこの部屋に招くのはいつも主治医であるカウンセラーばかりである。手元の時計で時刻を見遣れば、確かに本来予定されていた時間を少し過ぎた所だった。

「リスケしたはずですが連絡が行き違いになってしまったのかも、」

 少し待っていてもらえますかと、赤井に呼びかけて律は玄関先に向かってゆく。
 何に、というわけではないが、気持ちが逸っていた。だからいつもならば掬い上げるはずの小さな違和感を、体の良い理由で己を納得させて、打ち消してしまった。

『待て、律。念のため風見君かフロントに確認を、』

 何やら第六感の働いた赤井の忠告は、間に合わない。ダブルロックとドアガードを外した扉は、途端に凄まじい勢いで開かれる。
 律はその時ようやく、この身に迫った危険を本能的に察知した。血に飢えた獣が捕食に走る、あの美しくも残酷な一瞬の静けさ。――しかし、その剥き出しの暴力に、反応が出来ない。反応ばかりが出来ない。視認すら儘ならぬ悪意の塊に、胸倉を掴まれたまま律の半身は冷たい壁に叩きつけられる。

「――殺すなよ。大事な証人だ」

 ぐらりと揺さぶられた脳に天地が上下して、脱力する足許に縋ろうと伸ばした腕は何も掴めない。背後から喉元に回された腕は器官を締め付け、呼吸の出来ない律は声にならない悲鳴を上げる。吊るように持ち上がった身体に足は床を離れ宙を泳ぎ、干からびた浜に揚げられた魚のように苦しさにただ身悶えた。
 生理的な涙で滲んだ視界が、次第に闇に呑まれゆく。遠くで律の名を叫び続けていた赤井の声が、そうしてふっと、聞こえなくなった。


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