#68

 降谷零がその留守録を再生したのは、事件から一夜明けた翌日の早朝のことだった。

「はい。では報告書はそのように。僕は今から彼の娘の所へ……、はい。心得ていますよ」

 お決まりの上司の指示に眉ひとつ動かさず返事をすると、降谷は終話した画面に残る通話履歴を無表情で遡る。留守録、一件。記録時間、二分七秒。何の変哲もない表示には、再生しますか?とこちらもやはり決まりきった確認を寄越して、ちかちかと点滅を繰り返し催促するポップアップがやたらに喧しい。
 当時鳴り続けた携帯に、降谷は気付いていながらその電話を取らなかった。潜伏中の組織の任務に赴く途中に、花井律の名で着信したその知らせに、明日にでも折り返せば良いだろうと安直に考えてしまったためである。あの時この電話さえ繋がっていたのならなどと思うわけではないが、大切な人の死にばかり決して立ち会えない自分は、何か神の怒りでも買ってしまっているに違いない。
 ひとつ嘆息して端末をスラックスのポケットに押し込むと、誰もいない待合室を後にした。二度も聞けばもう空で言えてしまうような短いその音声に、降谷が何度も立ち戻る事はない。

「……御面会ですか?」
「ええ。意識が回復したと連絡をいただいたので」

 二日間降り続いた雨が上がる頃、花井律が長い眠りから目を覚ました事を人伝に聞いた。既に公安部で事情聴取を終えてはいるが、今後の処遇について最終的な判断を取り纏めるのは事の後始末を担った降谷の役目である。
 律の病室前で部屋番号を確かめていると、通りすがりの若い女の看護師が訝し気な口調で尋ねた。面会時間をやや過ぎた訪問客に対する懸念ばかりではなくて、言葉の端に、何とも言えぬ冷ややかさがある。清潔で明るい院内に漂う何処か薄ら寒い静寂のようなその正体が降谷には曖昧で、条件反射のように胸ポケットから警察手帳を取り出したが、正義の証のはずのその紋章に、しかし彼女の顔は一層厭そうに歪んだ。昼過ぎに刑事が来たばかりですよと、今度は自分を諫めるその言葉の意味が良く分かった。

「次から次へと寄って集って。家族を亡くしたばかりの彼女の気持ちが分かりませんか?」

 取り急ぎ律の身の回り品を詰め込み持参した簡素な紙袋の持ち手を、降谷は静かに握り締める。花井親子とどれ程懇意な付き合いをしていようが所詮降谷は彼等の家族ではないし、今この場を訪れたのは何もその死を共に悲しみ悼むためでもない。
 今までもこうして非難の冷や水を浴びせられた経験は何度かあったが、降谷はこの国を守る自負からそれを気丈に撥ね退けてきた。時間が経てば経つ程に、現場は風化し証言の精度は落ちていく。それが国防の観点から重要度が高いと判断すれば、何と恨まれ蔑まれたとしても、誰かがやらなければならないだろう。
 すみませんとそれだけ言って頭を下げれば、彼女は当てつけのような溜息を吐いた。大切な同僚の家族の許へ寄った姿すら、人の痛みも分からぬような不躾な人間に見えるのだと思うと、心臓の辺りが、俄かにささくれ立った。

「律。俺だよ。入ってもいい?」

 ――思えば、彼は、どうして。
 三度のノックに反応は無く、返事を待ちきれずに、降谷は病室の扉を押し開ける。何一つ漏らすまいと神経を張り詰めて耳を澄ませていたあの時、妙に穏やかな声で投げかけられた問いが何故かその時蘇った。まさか、これで終いではないだろうと、次の言葉を待ち続けた降谷の耳にそれ以上彼の言葉が紡がれる事は無い。
 何かが消化不良を起こしたまま、降谷の全身の神経を優しく撫でつけたままでいる。どうしたらその微細な不快から逃れる事が出来るのだろうか、やはり答えは出ないまま、寝床から転がり落ちたように床に蹲る律の姿をしばらく眺めていた。翅をもがれて飛び方を忘れた、ひ弱な羽虫のようだった。

「床は冷たいだろう。身体が冷えてしまうよ」

 出来る限り甘い声で囁いて、立ち上がらせようと肩口に触れる。抵抗は無いが、従う意思も無い。頼りない身体は簡単に無理強いをできてしまいそうだが、ひとつでも選択を誤れば彼女は真を語らないだろうという不安が、降谷にいつも以上の慎重を強いている。隣に座ってもいいかと尋ねたが、やはり律は何も返事を寄越さないから、降谷は仕方なくそのまま真向かいに腰を下ろすしかない。
 粗末な検査着から伸びた青白い腕の先、手首の太い血管の上のあたりがまだ薄紅色に腫れていた。当時現場で監禁されていた事実について彼女は「何も覚えていない」の一点張りであるようだが、先に遣った捜査員は事件を揉み消したい上層部の意向を忖度してその主張を鵜呑みにしたようである。――妙、だろう。どう考えた所で、不自然だ。薬で精神を酷く侵された状態では自ら救急に連絡など出来ないし、離れた裏庭で見つかった誠一郎の血液は彼女の衣服にも付着しており、明らかに被弾後に二人は接触を図っているわけである。そもそも、もしも彼女が本当に危機的状況に陥っていたのだとすれば、誠一郎は降谷にまず何よりも先にその事実を伝えたはずだ。

「律。君と大切な話をしたいんだ」

 そうして、彼はどうして。どうして、この娘の面倒を頼むと、ただそれだけの言葉を遺さなかったのだろう。律に与えられたあまりにも異質な状況と立場を掌握して、孤独な彼女の手を引いてやれる人間がいるのだとすればそれは降谷以外にあり得ない。
 降谷に同じ轍を踏ませるわけにはいかないと考えたのだろうか、それとも降谷ならば当然承知の上だと信じていたのだろうか。それとも。それとも、何よりも大切な娘だけは降谷に任せるわけにはいかないと、そう悟ったのだろうか。彼の遺したその命題に、愚かであると、そう答えざるを得ない降谷には。

「花井さんが、亡くなったよ」
 
 茫洋とした瞳が、その時初めて降谷を映した。磨いたガラス玉のように美しかったはずのその双眸に、灰色の澱が濁って揺れている。じっと見つめ返せば引きずり込まれそうな深さに一抹の不審が胸に走ってゆくのが分かるのに、どうして視線を逃がせない。まなざしひとつに十の意味を読み取る降谷が、駆け引きの無い小娘の剥き出しの心が分からなかった。傷付いたそれに寄り添う月並みでも善意の言葉を用意していたのに、そのどれもが彼女が欲しがる言葉ではないような気がする。
 ほんとうに――何から何まで、癪に障る。頼むから、何か応えてくれよ。君までそうして俺を否定せずに、何か間違っているなら教えてくれよ。酷い言葉を、浴びせてしまいそうになる。これが煤汚れた過ちなのだとすれば、それではあの夜あいつは一体何に命を捧げたのだろうか、その答えが分からなくなる。

「……本当は、全て覚えているんだろう?」

 潜入先の組織のネームドであったスコッチ、もとい諸伏景光が命を絶った日から、明日で丁度ひと月になろうとしていた。公安警察に所属するスパイである彼はその素性が炙り出された途端、牛耳る全ての情報を己の記憶の中に閉じ込めるために、罰を受け入れる事を厭わなかった。自殺、だった。降谷がまだ随分と温かいその身体に触れた時、心臓は既に止まっていた。スコッチに死を促したであろうライはその後如才なくそれを自分の手柄として申告したし、バーボン、もとい降谷はそれをあえて指摘せずに死体の処理を請け負った。その方が、組織への忠誠心を示せるのだろうと思ったし、その目論見はやはり、成就した。
 たったひとりの大切な幼馴染の死を看過して、あまつさえそれを利用したわけである。――俺は、もう、人ではないのかもしれない。焼け爛れたような心の痛みに麻酔を打ち続けて、復讐心という名の自傷行為でこの身を守るしかなかった。彼はこの国の未来のために名誉ある死を遂げたのだと思わなければ、降谷は進むべき道を見失ってしまいそうだった。

「話していいよ。誰も聞いてなどいないから。……ふたりだけの、秘密にしよう」

 痺れた舌で吐き出した罠は、確かな毒を孕んで重たく沈んでゆく。このままこうして、堕ちる所まで堕ちようか。どうせもう、真っ新な場所になど帰れない。
 長く痩せた睫毛が一度だけ下がって――ゆっくりと瞼が持ち上がる。瑞瑞しく濡れた黒い瞳の表面に、歪に緩んだ己の口許が映り込んでいた。

「――何も、覚えていないの」

 ほんとうに、なにも。抑揚の無い声が、泡沫のようにすぐに融けて見えなくなる。その余韻を掴み損ねて、追及の機会を見誤る。蟠る沈黙を数度噛んで、降谷はようやく唇を開くが、次の言葉が選べない。
 律が今更何を語ろうとも、明日の朝刊を飾る記事の内容が覆る事は無い。センセーショナルな事実の差し替えも関係者の口止めも既に手段を講じて、最後の仕上げは唯一の真実の目撃者である彼女の記憶が、いつか何かの形で危険因子となる可能性の見極めである。知りたいのは、そればかりなのに。もどかしさに息が詰まる。
 彼女が真実を口にした所で、降谷がその見返りに渡せる真実は無い。それでも自分に全てを委ねてくれたのならば、楽になれるフィクションを教えてやれるのに、君はどうして。――零君、どうして。降谷の胸の内の言葉に、律の上滑りする焦点のぼやけた言葉が重なる。

「ひとりにしないでと、そう言ったのに、どうして、」

 真実を尋ねる響きだけがない酷く抽象的な訴えが、全ての答えである事に行き着いた時、はっとした。同じ、だった。何かのために心を殺して、叫び出したい程の嘆きを飲み込んで、ひとり静かに激情が喉元を過ぎるのを待っている。
 同時に、余計に分からなくなった。何と言葉をかけてやれば、その心は安らぐのか。美しい理想の言葉で何重にも武装した所で、この吐き出したい程の苦痛は決して晴れる事などなかったのに、誰に何と慰められようがその心遣いすら気に食わぬ事を知ってしまっているのに、それをどうして。

「……君の父親は、何度もこの国を守ったんだ。律の知らない所で、本当に、何度も。とても立派だった」

 ほんとうのことなのに、降谷の唇の先が、偽りを語る時のように妙に渇いていた。
 そのせいだろうか、それまで矜持を保っていた律の下瞼が俄かに痙攣し、浮かんだ涙は弾けたように青白い頬を伝って落ちていく。何度も、何度も。選んだ言葉を後悔する程に、何度も。

「そんなの……、そんなの、どうだっていい」

 ひしゃげたように、くしゃりとした消え入りそうな声だった。震える身体はもう何もかもを拒み、自分達が全てを犠牲にして守っているものを彼女に肯定して欲しいはずなのに、その膠も無い全否定が何故か降谷の心を楽にする。胸に閊えていた巨大な鉛の塊が霧散したような気がして、ふっと呼吸が通ってゆく。
 ――そうだよな、どうだっていいよな。独り言ちるように呟いた言葉は、声を上げて泣き出してしまった律には届かない。
 ずっと、その言葉を誰かに赦して欲しかったのだと思う。降谷の守るべきものはこの先もずっと変わらないし、この覚悟が何かに打ち消える事など決してない。誰かひとりを犠牲にして多くを救う事が出来るのなら、悪いがこの国のために死んでくれと何度でもこの手を汚すのだろう。
 ただそれでも、大切な人を失ったその日くらいは。かけがえのない人を亡くした、この夜くらいは。何もかもかなぐり捨てて、行き場の無いこの胸の想いに泣きたかった。この涙が命を賭して闘った仲間への侮辱ではないことを、誰かに教えて欲しかった。

「律。俺がいる。俺がずっと、傍にいるよ」

 だからどうか君だけは、俺より先に逝かないでくれ。痩せた身体を胸に閉じ込めた時、律の背に、降谷の静かな涙が落ちた。
 花井の一人娘である律は、本案件への直接的な関与は認められない。監視対象者としての要件を満たさず、今後公安部による管理は不要。翌日、日米首脳会談が遅滞なく執り行われ成功を収めたニュースを聞き流しながら、降谷はひとり、そう静かに報告書を認めた。

「……――さん、安室さん」

 弾かれたように、意識が還った。ざわざわとしたいつもの喫茶ポアロの喧騒の波が、耳元の近くまで蘇る。今日の客の入りは多い。
 潜入中の身だというのに、俺は、何を。右手で握り締めていた果物ナイフの柄を思い出したように持ち直すと、降谷はカウンターに座る眼鏡の少年に柔和な笑みで返事を返す。

「僕の話、ちゃんと聞いてた?」
「ああ、ごめん。何だっけ」

 まな板の上に転がる大振りな無花果の片割れに、今度は無心で刃を入れる。熟れ過ぎた果実は柔らかくて水分が多く、パルフェの飾りとしては不向きだったかもしれない。じとりと呆れた眼を向ける少年を横目に、まあ些細な事は構わないだろうと作業を続ける。襞のような無数の赤黒い花が中央の窪みから捲れ返ったその様が、束の間降谷に昔の記憶を見せたようだった。
 無花果が禁断の果実と呼ばれる所以は、創世記で語られる知恵の実であると言われている。アダムとイブの口にしたその果実を巡り数多の研究者が探究を繰り返したが、結論は降谷の関知する所ではないし、あまり興味も無い。ただその罪の象徴である果実が同時に真実をもたらす果実であるというある種の二律背反の存在に、妙に心が凪ぐ時があった。

「どうぞ。試作品だから感想をもらえると嬉しいな」
「……話を誤魔化そうとしていない?」

 目の前に差し出されたデザートを一瞥ばかりして、少年はやはり、口を尖らせる。まさかと大袈裟に肩を竦めながら、続けてと、降谷は言った。
 ――昨日の夜、律さんと会ったよ。不意を打ったその名に僅かに目を瞠った降谷の反応を、少年は切るような光を宿した眼差しで見つめている。ふうん、それで。あくまで平静を装った声色で、切り返す。ざわざわとした雑多な喧騒だけが、あまりにも変わらない日常のように二人の間に滞留する。

「所属の違いを超えて、僕らはもっと協力できると思うんだ」

 ブウンと、前掛けに入れた端末が振動した。反射的に意識の矛先を変えた降谷を、少年はひとつ溜息を吐くと、胡乱な眼差しに変えて眺めている。

 "三吉彩花の身柄を押さえました"

 メールの送信者である優秀な部下の名前を目の端に、降谷は舞い込んだ吉報に口許を怪しく撓らせた。もうそこに、安室透の面影だけが揺るがない。その話の続きは、次に会えた時にしようか。表情の欠けた笑みで言う。
 歪な形に潰れた無花果の切れ端を摘まみ、咀嚼する事無く嚥下した。罪と真実を秘めた冷たい果肉の塊は、降谷の胃の底に音無く落ちてゆく。


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