#67

 線路を滑走していたトロッコが制御不能となり、そのまま直進すれば向かった先で五人の作業員が犠牲になる。しかしあなたは偶然にもトロッコの分岐切り替えレバーの近くに居り、進路を切り替えれば五人の作業員は確実に助かるが、代わりに切り替えた先の一人の作業員が犠牲になる。さて、あなたはレバーを切り替えるべきか、否か。なお、分岐レバーの操作以外の如何なる救出方法は存在しないものとする。
 一九六七年にフィリッパ・フットにより提起されたその命題は、功利主義と義務論の対立を扱った論理学上の問題であり、自動運転技術の発達が活発な現代でも重要な論題として扱われている。功利主義に基づけばひとつの命を犠牲にして五つの命を救済するべきだろうし、義務論に基づけば多くの命を救うためであっても誰かの命を犠牲にすることは正しくない。では、その五人の作業員が死刑囚だとしたら?その一人の作業員が愛する家族だとしたら?もしも多数の救済のためにレバーの操作ではなく一人を線路に突き落とさなければならないのなら?――果たして、どうだろう。ある場合では誰かを犠牲にする事を赦し、またある場合ではそれを赦さない個人の倫理的指向性を一貫して合理的に解決出来る指針など無い。加えて大抵こうして直面する現実問題は倫理観の偶発的なショートを催す程に突発的であり、恣意的な判断を己に許す程に無情で残酷なのである。

 "選んでくれよ。どちらを選んだとしても、それは正義だろう?"

 それはある種の悟りのようでいて、ある種の諦めのような響きがあった。天秤に乗せられたふたつの正義の狭間で立ち竦んだ花井誠一郎を嗤うわけではなくて、決してそうではなくて、抗えぬ選択に何処かで男もまた苦悩しているかのようだった。――しかしそうだとするのならば、一体、何に?
 二発の銃弾は前頭部と喉笛を的確に撃ち抜かれて、ぽっかりと空いた赤黒い小振りな穴はまだ温度のありそうな浅黒い皮膚を捲れ上がらせている。もはや何を問い掛けた所で言葉を返す事など出来ないし、今際の際でその死を自覚できたのかどうかすら、定かではない。生気の消えた窪んだような仄暗い眼ばかりが、じっとこちらを見つめている。

「ミモザ。全て君の手引きかい?」

 視線を遣ったその先で、女の口の端は静かに吊り上がった。陶器のぶつかるような声を鳴らして薄くせせら笑うがしかし、壁に凭れ掛かった身体は自立出来ずにずるりと床に滑り落ちてゆく。拡がる血溜まりは抉れた脇腹の傷の深さを容易に想像させるが、彼女自身にあまりそれを疎む様子は無い。
 誠一郎には、一体誰の認めたシナリオをなぞらされているのか、それすら分からなかった。綾瀬明の亡き今、それが誠一郎でないのだとすれば目の前で死にかけた女に他ならないはずなのだが、何かを見据えた不気味な笑みからは生への執着をいうものが感じられない。一体、彼女は何を、考えているのだろう。

「――これが答えになるかしら?」

 それは、たとえばその長い髪を櫛で無造作に梳くように。それは、たとえば昼下がりの微睡みに小さな欠伸を噛み締めるように。そうして彼女は静かに蟀谷に銃口を当てると、当たり前のようにその引き金を引いて見せた。あまりに簡素に、あまりに未練無く、そうして僅かの躊躇いも無しに。
 乾いた発砲音が空気を震わせて、誠一郎の喉はひゅっと音の無い呼気ばかりが通り抜けてゆく。なぜ、彼女は。チカチカと不規則に白濁を繰り返す視界の真ん中で、スローモーションで傾いてゆく女の身体に誠一郎はそればかり考え続けている。それでも、分からない。
 じわりと生暖かい染みの広がるシャツの胸元を、誠一郎は反射的に握り締めていた。思い出したように身体に寄る熱は頭の天辺から爪先までを痺れさせて、数多の不潔な掌で内臓を絞られているような不快感には意識が軋む。遅れてぐにゃりと捻じれた視界に反応した左手は床を衝いたようだったが、誠一郎には咄嗟に天地など分からなかった。

 ――父さん、

 死に対する恐怖というものが、ないわけではない。ただそれよりも、己の死を充てがって結末する事態への安堵の方が勝っていた。
 もしもあの時、国家を優先して愛娘を犠牲にする選択をしたのならば、死よりも辛い悔恨の念に自分の気など簡単に触れてしてまったに違いない。しかしだからと言って、たったひとつの命を守るために数えきれない程の命を自らの手で処刑台に差し出したとなれば、やはり、この心は壊れただろう。結果的に誰とも知らぬ第三者の不測の介入によって結末が塗り替えられたとしても、守ろうとした正義を眼前にして、手離そうとした正義に苛まれないわけではない。

 ――律。
 ――律、おいで。

 ただひとつ、どうしようもない後悔と言えば、いずれにせよ花井律の心に永遠に刻み付けられる癒えない傷である。彼女の人生の最大の不幸とは、その身を守ってやることすら出来ない未熟な自分の許へ、生を受けた事なのではなかっただろうか。その霞む未来に汚泥のように胸に込み上げる衝動を、愛とも懺悔とも名付けられない。
 細く開いた奥の扉を押し開けると、律は覚束ない脚で誠一郎に駆け寄った。血に塗れたこの手に添えられた冷えた指先は、痙攣したように震えてはいるが決して離れはしない。

「救急を呼んだの。……大丈夫。大丈夫だから」

 律は左手の携帯電話を握り締めながら、表情を硬くして、まるで自分に言い聞かせるようにそう繰り返していた。宥めるように数度名前を呼ぶのに、律には届かない。誠一郎の目にはその様がどうにも痛痛しくて、小さな掌の下でもう大して力も入らない拳を握った。
 彼女は、まだ何ひとつ知りはしないのだ。ただの警察官であったはずの父親が危険な組織と関わっていた理由も、内臓を貫いた弾丸が既に誠一郎の致命傷となっている現実も、そうしてただ孤独に甘受するしかない非情な未来も。
 律。もう一度呼んだその名に、律は今度は顔を上げた。縋るような眼差しが、その心を穏やかにする言葉ばかりを待っていた。

「両手を出して」

 辺りに蠢く、硝煙と雨の匂いばかりが冴えてゆく。残された僅かの時間で為さなければならない事は多く、何かを切り捨てなければならないことを分かっていた。
 指示の意味を噛み砕けずに動けない律の手から携帯電話を取り上げると、誠一郎はその両手首を鷲掴む。つい先ほどまで己を拘束していた麻縄を引き寄せると手荒に巻き付けながら、無残に硝子の破片を散らした背後の窓枠に目を遣った。
 追撃の様子は、無い。もしもあの時撃ち込まれた弾丸がミモザの予定調和でないとするのならば、果たして正体の見えない追手は誰のカードなのだろうか。それを紐解くには今の誠一郎にはピースが足りず、巻き付けた縄の片端を咥えると乱雑に縛り上げる。

「律は何も見ていないし、何も聞いていない。何を尋ねられても、覚えていないと答えたらいい」

 唐突に与えられた歪な結び目と誠一郎の表情を、律は不安と困惑の渦中で一度だけ比べ見る。強引に立ち上がらせて引いた腕にその身体を硬直させて無言の拒絶を示したが、その思惑を丁寧に説明して理解させてやる猶予など残されてはいなかった。
 粗くなり始めた呼吸に、誠一郎は一度深く空気を吸った。そうしたところで大して楽になるわけでもないのに、誠一郎は反射的にもう一度、同じ動作を繰り返す。
 死にゆく自分が律に出来る事があるのだとすれば、この先の障害を少しでも排除してやる事だろう。愛を語るよりも先に、別れの言葉の紡ぐよりも先に。引き摺るようにして放り込んだ物置の扉の境界線上で、誠一郎は袖元を破き一粒の錠剤を取り出す。――口を開けて。今度は確かな恐怖に口を噤んだ律に、そう懇願した。

「……、律、頼むから。口を開けてくれ」

 小刻みに震えながら左右に首を振る律の眦に、涙が浮かんだ。
 待ちきれずに無理やり抉じ開けた唇の隙間から指を挿し入れて、嘔吐きそうになる口元を塞ぐ。苦しさに身悶えるが抵抗力は弱く、繋がれた両手首で数度誠一郎の肩口を押し退けるように反発したが、最後はこくりと喉元が下がった。同時に砕けた宝石のような涙の粒が、両の眼から頬に零れ落ちた。

「少しだけ、気分が悪くなるんだ。幻覚のようなものが見えるかもしれない。大丈夫、目が覚める頃には楽になる」

 綾瀬明の死は確かに目前に迫った脅威を退けただろうが、結局誠一郎は組織を一掃する事に失敗した。消毒のしきれなかった膿はまた時間をかけて何処かで育ち、再び正義の前に立ちはだかる日が来るのだろう。だからせめて、あまりに真実の近い場所に居合わせてしまった彼女に、いつかその刃が向かないように。
 どうせ端から公になど出来ない事件は、都合良くその事実すら塗り替える。今ここで下手に逃がして味方とも敵とも知れぬ人間に縋らせるよりは、善意の救出に引き渡した方が上手くその身を隠せるだろう。監禁の末に薬で気の触れた小娘の虚ろな訴えなど、人は憐れむ事はあっても、まともに取り合うわけもない。幾分稼いだ時間の内に、あの男ならばきっと気の利いた筋書きを書き上げる。
 
「お前は強くて賢い子だよ。父さんがいなくても、きっと生きてゆける」

 汚れた両腕では律を抱き寄せてやる事が出来ずに、誠一郎はもう感覚も曖昧な指の背でその濡れた頬を撫ぜた。音無く動いた唇が何かを訴えるのにその言葉すら掬う事が出来なくて、青白く消えそうになる暗澹とした表情をただこの目に焼き付けている。

「……父さん、行かないで。おねがい。ひとりに、しないで」

 上手く回らぬ舌で囁くように紡がれた音が、最後ばかりはやけにはっきりと聞こえたものだから、誠一郎は律の額に己のそれを重ねると緩慢な動作で瞼を閉じた。溺れるような薄闇の中に、律の小さな嗚咽ばかりが響いている。こうして彼女を愛する気持ちの僅かでも伝わったのならどれ程良かっただろうと、そう思わずにはいられない。
 律はもうそれ以上、何も言わなかった。遠ざかる誠一郎に反射的に伸びた痩せた腕は、しかしやはり、それ以上追いかける事はない。閉まりゆく戸の向こうで揺れるふたつの瞳が堪らなく切ないから、胸を貫いたはずの鉛の弾丸よりもずっと重たく、誠一郎の心は抉られるようだった。
 ひとりになどしないよ。重く閉じた扉の前で、ただ一言、そう嘯いた。

『お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っておりません』

 朦朧とする熱に似た痛みは、次第に局所を千切られるような刺激に変わっていた。思わず胸の辺りを掻き毟りたくなるような衝動を冷えた雨の水が打ち流すが、無論炎症を和らげる効果など一切無い。辛うじて繋いでいる草臥れた意識の糸を引き摺るようにして、鬱蒼とした裏庭の茂みをかき分けてゆく。
 激しく叩く雨の音に混じって、聞きなれた電子音がやけに大きく聞こえた。いつも互いに不規則な任務中であるから突然掛けた電話が繋がる確率などゼロに等しいのに、分かっていながら今日ばかりは奇跡を願っていたのだろう。続くガイダンスの音声をニ、三聞いた後で、誠一郎は名残惜しく留守録の開始を待つ。死に際だからと言って、神は贔屓などしない。

「参ったよ。君に遺言を伝えなくてはならない。……なあ、降谷」

 彼と最後に言葉を交わしたのは、いつのことだったろう。どうやら難度の高い案件の担当に抜擢されたようで、一か月程前に警察庁で見かけた際には随分と雰囲気が変わっていた。それは良い意味で公安という仕事に浸かり切ったような、悪い意味でその身に携えていた少しの人間らしさを失ったような。話をする時間を作りたいと思っていたのに、思うばかりで、結局その声すら聞けず仕舞いである。
 あれはどうにも特別だが、如何せん、若さが過ぎる。経験による苦悩や迷いに向き合わないまま、才があるという理由だけで上は彼を登用したがるが、結局誰もその心の処方箋など書いてはくれない。たとえその精神の強度が人より高くとも、ナイフを突き立てられれば必ず傷は付いていく。心を殺せば楽だろうが、その副作用はいつかその身も殺すだろう。

「離脱時の情報共有はマニュアル通りに。本件のリスクレベルは当分D以下に下がるだろう」

 トロリー問題に愛の溢れる理想解など無いように、人間の複雑な心は杓子定規では測れない。同じ問い掛けに毎度同じ答えが導き出されるとは限らないし、本当は何度だって心変わりをしてもいい。その不規律な解を許容する、しなやかさを持っていて欲しいと思う。
 自分達の守るべき国家というものは結局はひとりひとりの人間の媒体であり、そうして犯罪に手を染めるのもいつだってその各各の感情を持った人間だ。その心に寄り添う事を怠れば、見過ごしてしまう真実だってあるのだろう。

「データに未記載の懸念点と、不可解な現場状況について少し付言しておく」

 "花井さん、一緒にやろう。俺はこの国をリセットしたいんだ" 

 綾瀬明の死に顔に張りついた、あの眼、あの眼が浮かんだ。青年の瞳にはもう二度と、当時の光は宿らない。――彼は、一体、何に。また巡った終わりない問を想いながら、誠一郎は少しでも多くの情報を残そうと電話口に語り続けている。
 もう随分と、視力が奪われていた。狭まる視野に踏み出した足は泥濘に縺れて、誠一郎は所所に花を付けたツツジの生垣に倒れ込む。手中から離れた携帯電話は植木の隙間を滑り落ちるから、小枝に阻まれるそれに何度も何度も無我夢中で手を伸ばした。遺してやらなければならないはずの数多の言葉よりも、そのつまらない命題が、どうしてだろう、いつか遠い未来に彼を守るような気がした。

「この国よりもあの子に生きて欲しいと願った俺を、愚かだと思うか?」

 相も変わらず、酷い雨が降り注いでいる。ぱちぱちと顔の皮膚にぶつかる雨粒の些細な刺激がしかし、誠一郎の沈みそうになる意識を幾度となくすくい上げていた。
 発信履歴を削除し手首の力ばかりで放った端末は、上手い具合に用水路の流れに呑まれたのだろうか、すぐに水の跳ねる音を散らす。しかしそれに安堵した瞬間、弛緩した身体はもう二度と元には戻らなかった。混濁を繰り返す意識の合間に、抗えぬどろりとした眠気が手を拱いている。遠くで水の溜まりを蹴る足音にはビニールの繊維を跳ねる水音が混じっていて、雨の日の死神は傘を差して迎えに来るのだろうかと思えば、どうにも間抜けで可笑しい。
 もう開く事すら儘ならない瞼の裏に残るのは、律の蒼褪めた絶望だけだった。彼女が目を覚ました時に全てを忘れていてくれたらどれ程幸福だろうと思うが、あまりに莫迦らしい祈りなのだろうと思う。――ならば、せめて、この愛くらいは。何だっていい、誰だっていいから。せめてあの子に、その幸せな未来ばかりを願うこの愛を伝えておくれよ。
 差し出された雨傘が繋いだ僅かの時に、誠一郎は娘を愛するただのひとりの父親として、還らぬ最後の命を輝かせている。


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