#66

「おい、兄ちゃん。こりゃあしばらく動きそうにねえよ」

 不意に運転手から投げ寄越された言葉は溜息交じりで、赤井秀一は鉛のように重たい両の瞼を持ち上げると、後部座席からルームミラー越しにその消沈した表情を窺った。次第に大きくなるラジオの音はこの先の大橋での玉突き事故を速報しており、どうやら被害は凄惨たるものらしい。ついてねえなあと文句を垂れる男を横目に、赤井は結露した車窓の窓を左手の指先で軽く撫ぜると雨の帳の向こうに目を凝らす。車道を埋める瞬きすら忘れた数多のテールランプの先で、洋傘の群ればかりが流れていた。
 現場まではまだ距離があるが、こうして馬鹿面をしてただ手を拱いていても仕方がないだろう。赤井は手首に括り付けていた髪留めで無造作に散らばる長髪を纏めると、草臥れたキャップを目深に被り直す。

『――Got,it. It's up to you, Jodie』

 耳元で流れた雑音混じりの無線に乗った声音には、虚を衝かれるような思いで一抹の不安が胸に過ってゆく。しかし現着すら儘ならない自分が彼方の地からそれをどうこう出来るはずもなく、赤井は眉間の皺を深めながら装着したそれをニ、三叩き調子を確かめるしかない。
 時刻は、日没に迫っていた。もっとも、曇天の向こうに隠れてしまっている太陽など拝めるはずもなく、じっとりとした深海のような仄暗さがその深度を増すばかりである。――まるで、この日のために誂えたかのような悪条件だな。赤井は再び薄く結露し始めた車窓を見つめながら、そう嘆かずにはいられない。

「まあ、週末じゃないだけマシかね。ほら、アメリカのお偉いさんとの会談は金曜日からだろう?」

 この辺りは交通規制がかかるはずだからなと、トントンとハンドルを指で叩きながら運転手は話し続ける。実際、大統領の来日に伴い首都高を含めた公道で一時的に規制が行われ、会談当日のその日迎賓館周辺は歩道も含めて通行止めになる予定である。既にテロ防止のために主要駅のコインロッカーは封鎖され、警視庁の対処部隊や機動隊らによる厳重な警戒態勢はネットニュースでも取り上げられている。
 一方で男の声の調子はあまりにも緊迫感を欠いて、よもやテロなど起こるはずもないだろうという妙な余裕と、脅威に対する無関心が浸透してしまっているようだった。前線に立つ者とそうでない者の埋められない溝に似た隔たりを、突きつけられた回数を赤井はいちいち覚えてなどいない。

「ここで降ろしてくれ」
「ええ?ここで?」
「釣りはいらない。急いでいるんだ」

 換金などする暇も無かったドル札ばかりの財布から、赤井はたった一枚の皺の寄った日本札をトレーに投げた。
 ワイパーの速度を速めていた運転手は驚いたように振り返るが、有無を言わさぬ徒ならぬ空気を散らす赤井には従順にドアロックを解除する。

「待ちなよ。兄ちゃん、傘持ってないだろう。釣りの代わりに持っていきな」

 開いた扉の隙間から途端に狙ったように滑り込む雨の匂いは、尖ったように鼻腔の奥の方を刺してやけに強烈だった。まるで何かを糾弾するかの如く、そうして罪人を打ち据えるかの如くアスファルトを穿つ雨粒には、何処かに狙った獲物でもいるのかもしれない。それが自分ではない事を願うばかりだと赤井は、シートの間から身を乗り出して半ば強制的に差し出されたそのビニール傘の柄を握る。
 運転手が続けて何か自分に言葉をかけたようであったが、赤井の意識はもう既に遥か遠くへ移ろいでいた。不協和に騒がしい雨の音が断続的に流れ続ける音声と混じって、酷く耳に障るのを疎みながら赤井は底冷えのする夕闇の中へ駆け出してゆく。

『All set. I can't wait to see her ugly face』

 例の組織の幹部である女が国際テロ組織アダムに潜入している情報を入手したのは、赤井秀一であった。
 アダムと言えば南米の片田舎で発足し一時は殺しの無いテロリズムとまで叫ばれ注目を集めていたものだが、主軸であった権利擁護活動や差別解消運動の動きがあまりに巨大化し収拾がつかない程の引力を手にしてしまった事が唯一の失敗である。目的意識の希薄化は活動の質の低下を招き、複数の派閥が生まれた集団は組織としての統率力を失った。混乱と混沌の果ては指導者争いの末に仲間内で殺し合いが生まれる始末である。頭上に高く掲げていた美しい理念などもう誰も覚えてすらおらず、手近な犯罪に手を染め戯れに国家転覆を目論むような性質の悪い犯罪集団に成り下がってしまっていた。
 もちろん、アダムに投入された彼女の目的はその活動を助長するためではない。裏で政界や財界との癒着が強い例の組織にとってアダムの攻撃対象とは折り合いが悪く、また経済犯罪により業界の領分を踏み荒らす彼等にはきつい灸を据えてやる必要があった。アダムの組織解体。だからそれが彼女の、ミモザに課された使命である。

『シュウ!到着したのね!』
「いや、残念だが間に合いそうにない」

 赤井が雨に滑る指先で押し込んだ電話番号の向こうで、ワンコールと待たずに受電したジョディは大層声を明るくしたが、続く否定の返事にはあからさまに落胆した。本来であればその場所で息を殺してライフルを構える役目はFBI随一の実力を持つ赤井だったはずなのだから、この現状に項垂れるのも無理はない。
 何せ、招集は突然だった。アダムは週末に開催される日米首脳会談において大統領へのアタックを予定しているようであったが、ミモザは襲撃計画の固まるその前日にそれを根本から潰すつもりでおり、赤井はそれを見越して今日日本へ入国したばかりだった。それが今朝になってミモザが既に今夜発の航空チケットを手配している事が判明したため、国外逃亡される前にその身柄を抑えなければならなくなったのである。急な計画変更は早早にこの件に片を付ける算段でもついたのだろうか、腐った林檎の寵愛を受けている女の考えている事は分からない。

「それより、あの不愉快な声はダラスの奴だろう?まさか俺の代わりがあの下手糞なのか?」

 決して時差ボケのせいだけではない重たい頭痛に、赤井は思わず八当たるようにそう吐き棄てた。狙撃はもちろん本人の技術力や精神力によって精度は大きく左右されるが、空気抵抗や重力、殊に風のような外的要因には甚大な影響を受けるものである。コンディションに恵まれたなら銃の性能で目を瞑っていても当たるような標的が、たったひとつの要因で計算が大幅に狂い着弾が大きくズレ込むような事だって珍しくはない。
 赤井ですら、今日のような条件下では身の締まるような思いでいるのである。ただでさえ仮拵えのライフルはメンテナンス不足で信頼に欠け、超長距離射撃の必要があったのならば自らそれを辞退しただろう。標的を殺しても構わないのであれば話は別だが、あくまで今回の目的はミモザを無力化した上での生け捕りである。

『そりゃあアンタから見れば皆ヘタクソよ。彼なら最近調子良いし、問題無いって言ってたわ』
「問題無いと思っている事が問題なんだ。プランを変えた方がいい。状況は?」

 ミモザという切り札に成り得るカードを、赤井は喉から手が出る程に欲していた。
 宮野明美を介在して組織の懐に入り込んだはいいが中枢に切り込むにはまだこれといった手立てが無く、諸星大として地道に組織の任務を遂行する日常の繰り返しだ。焦りは無いが、息は詰まる。言葉通りの命懸けの毎日に、確実に組織の心臓に喰らい付いているのだという実感が欲しかった。

『相変わらずよ。ひとりは拘束されたまま、三つ巴って所ね』
「素性はまだ割れないのか?」
『ええ。アダムの構成員という以外はまだ何も』

 しかしながら、事を急いたミモザもそうであるが、状況は些か奇妙であった。人気の無い廃ビルに集った三人――ミモザと名も知れぬ二人の男は、何やら密談を繰り広げているようではあるがその内容は明らかではない。加えて、内ひとりの男は構成員でありながら身動きの取れぬように四肢を拘束され床に転がされているようである。仲間割れでもしたのだろうか、それとも端から全てミモザの罠に嵌っているのだろうか、いずれにせよ現場を抑えてしまえば関係は無いのだが赤井は実情を把握出来ないままだった。

「分かった、ジェイムズは居るか?」
『ジェイムズなら電話中よ。緊急のようだったけれど、』
「こちらも緊急だ。取り次いでくれ」
『ええ……でも、作戦開始までもう時間が無いわよ?』
「言われなくても、……っ、」

 分かっているよと、そう続けようとした赤井の体躯がぐらりとその時傾いた。
 目前に迫った老婆の傘を避けようとして縁石の縁から右足の先が滑り落ち、バランスを崩した身体は前のめりに歩道へ飛び出してゆく。反射的に一歩前に着いた足でどうにか転倒は免れたものの、握り締めていたはずの携帯電話は左手をすり抜けて何処かへ落下した。慌ててぐるりと周囲を見回すが、行き交う人の波は赤井の事情など知る由も無く足を止める事などない。ようやく見つけたそれはハイヒールやレインブーツに蹴飛ばされて、カサの増した水溜まりの底で死骸のように沈んでいた。
 雨に滑る指先で何度ボタンを押下してみても、既に事切れた端末が息を吹き返す事は無い。先程から接続の悪かった耳元の無線も乱暴に叩いてみるが、特有の雑音すら聞こえなくなっていた。

「shit!」

 タイムリミットが、迫っていた。しかしだからと言って赤井にはどうする術もなく、現場までの道のりを己の足で駆けてゆくしかない。
 ――頼むから、時間よ、止まってくれ。惨めな気持ちで、珍しくそんな事ばかりを切に願った。その願いを嘲笑うように止まない雨に、氷のように冷えた傘の柄を掴みライフルバッグを背負い直すと、赤井は再び針のように降る雨の中を一心不乱に走り始める。
 しかしそうした所で結局、都合良く奇跡などが起こるわけもない。作戦開始時刻から十分近くを過ぎて現着した赤井には、想定内の最悪の結末が用意されるばかりだった。

「……シュウ、」
「……、あの女は」
「作戦は失敗よ。ミモザは死んだわ」

 現場の廃ビルは、酷く荒廃していた。所所に割れた窓硝子に塗装は歪な模様を作って剥げ落ちて、コンクリートの壁からは腸を開いたように鉄筋が剥き出している。雨の匂いに微かに混じる硝煙と血の匂いは掻き消える事無く空気中を漂って、まるでこの世の終わりでもあるかのような光景だった。
 そうしてまた一歩遠のいた喪失感を、あと何度甘受すればこの戦いは終わるのだろう。あと少しの所でいつも霧のように消えては痕跡の掴めない奴等の心臓に、自分は本当にこの先弾丸を打ち込む事なのできるのだろうか。脱力した掌で無理やりに作った拳は、雨で滑って歪に歪む。

「ダラスじゃない。私達はジェイムズから日本警察の関与を聞かされて、動けなかった」
「……日本警察?彼等もあの女を追っていたのか?」
「さあね。私もまだ詳細は知らないから」

 彼等が勝手に撃ち合ったせいで台無しよと、憤慨した様子でジョディは廃ビルを振り返る。他国でこうして秘密裏に活動を続けている自分達に非がないわけではないが、それでも再三のアダムに関する通告を無下にし続けたのは元はと言えば彼等の方である。
 世界の諜報機関は真に互いに情報共有をする事などまずないが、そうだとしても表向きは共通の敵に対して情報協力を行う事が多い。テロ組織アダムの動向については週末の日米首脳会談への接近とあわせて、然るべき部署から詳細なレポートを送付しているはずであるが日本警察からは待てど暮らせど反応が無かった。彼等が少しでもこちらの要求に耳を貸してくれたのならば外交当局を通じて捜査協力や捜査依頼が可能になったのだが、結局その連携は僅かも構築できていなかった。
 それを、何故今になって。熱心にレポートを認めていたジョディが、そう怒りを露わにするのも無理はない。

「それより、手伝ってよ。実は現場の物置に女性が監禁されていたみたいで、錯乱しているの」
「監禁?あの女の関係者なのか?」
「分からないけど、会話も出来ない程に酷く怯えていて、」
「それなら俺に出来る事は無い。医者でも呼んでやれ」

 踏み込めば踏み込む程に、不可解な事件ではある。しかしながら今はその事件の謎よりも、ミモザの死により途絶えた足掛かりばかりが、赤井の眼前を彷徨っていた。
 事の経緯を赤井はまだ知らされていないが、その死の事実ばかりは遅かれ早かれ組織内に共有されるだろう。ネームドの死は内部で徹底的に洗われ不審点を炙り出し、ひとつの曇りすらも許されない。万が一に備えて自分が今日この現場に居合わせた事実は、早い内に塗り潰しておかなければならないだろう。何処の誰とも分からずまともに話すら出来ない女に、リスクを負って時間をかけてやる余裕など今の赤井には無い。
 ふらりと踵を返し早早に退散を決め込んだ背には、呆れ返ったジョディの声ばかりが追いかけて来る。――拘束されていた彼も、日本警察だったのよ。重傷を負っているはずなのに、姿が見えないの。降りしきる雨の中で赤井が聞き取れたのは、その辺りまでだった。

「……そうか。日本円を切らしていたな」

 大通りでタクシーを拾うつもりでいた赤井は、そうして来た道を戻りながらふと、なけなしの金をはたいてしまった事を思い出していた。随分と高級な買い物をしたものだなと、透明な安物のビニール越しに薄く点り始めた街灯を眺めるが妙案など浮かばない。思えば唯一の連絡手段である携帯電話までお釈迦になってしまったし、赤井はやはり、己の足で最寄りのセーフティハウスへ向かうしかないのだろう。
 背中の方からどっと押し寄せる疲労感に、赤井は肺の空気を一巡させるように息を吐く。雨に混じって小さな魚の跳ねるような水音が近くで聞こえたのは、その時だった。いや、それは魚というよりは。赤井は手持無沙汰に左手で開閉を繰り返していた携帯電話に、目を落とす。
 次の瞬間にはもう、赤井は駆け出していた。廃ビルの裏手に続く用水路は周辺をぐるりと囲んでおり、増水した雨水がまるで生き物のように畝っている。その縁に植えられた手入れの怠った鬱蒼としたツツジの花と葉の中から、男の片足ばかりが放り出されていた。

「――ああ。丁度いい。その傘で隠しておいてくれよ」

 みっともない死に様で困っていてね。形の良い唇を引き攣らせながらつり上げてせせら笑い、絶え絶えに吐き出される言葉は愉悦すら感じさせる。鮮血に汚れたシャツは雨のせいでまるでツツジの花の色のように美しく染まり、胸元の小さな解れは弾丸の貫いた痕だろうが男に苦悶の色は薄い。それは少しの間冷たい雨さえ凌いでやれば、息を吹き返すのかもしれないと錯覚させられる程に。
 しかしながら一方で、男の命の灯というものは、赤井の目には酷く揺らいで見えた。蜻蛉に似た消え入るような生命力の確かな衰弱を、そうして男も自覚している。生への執着を手放して死への折り合いを緩やかに付け始めた、穏やかな人間の最期を。

「誰だか知らんが、言付かってはくれないか」

 もう何度となく立ち会ってきたはずの人の死に、赤井はいつも、かけてやる言葉が分からない。こうして互いに素性すら分からぬ同士であれば、それは殊更だ。
 男の何十年と生きた人生の内でたった一瞬、奇妙な巡り合わせでこうして交わった細い糸のような縁に、叶えられるとも約束できない願いを聞いてやるだけで男は幸福なのだろうか。――アンタの死に様は俺が見てきたどの人間よりも綺麗だよ。それが唯一、赤井が名も知らぬ男にくれてやれる、手向けの言葉である。

「……娘が居るんだ。可愛い一人娘が」

 遠くの方から聞こえるサイレンの音が、空を切るように喧しく鳴っている。まるで男の最期の嗚咽を隠すように、その音が鳴り止む事は無い。
 程なくして事切れた男の涙に濡れた瞼を、赤井は柔らかな手付きで撫ぜてゆく。もうしとどに濡れて冷たくなった男の身体に、赤井はそれでも、傘を差し続けている。


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