《腰の辺りまで伸びた金髪が湿気にだれて膨らんでいるのが、逆さまの視界の端に見えた。――ミモザ。父さんが彼女をそう呼んだ》
花井誠一郎の命日を冠したデータファイルの不穏な書き出しに、赤井秀一は咥えていた煙草を無意識に灰皿の底に擦り付けていた。ざわりとざわめいた心臓にはもう一度ファイル名を確かめてから、バーボンの入ったグラスを押し退けるとラップトップを近くに手繰り寄せる。
パスワードの解析を依頼されていた花井律のそれは、手間をかけて抉じ開けた割には内容は凡庸なものであった。メールはあまり使用していた形跡もなく、取り込まれているデータと言えば友人らとの写真や流行りの音楽に、大学の講義資料程度である。元より中身の精査を赤井は頼まれてはいないし、そもそも律がこの古びた端末の中に何を期待しているのかも知らされてはいない。
《咽返る程のその女の香りの中に、埃と塵の混じるペトリコールの匂いが滲んでいた》
だからそれを見つけたのは、偶然だった。タイトルを抹消されアイコンを透過し、デスクトップの端に同化していたそれを赤井はミスタッチで偶然に反転してしまった。徹底的に中身を洗われたならば話は別だが、一見したばかりでは分からない程度にその文書は作成者によって意図的に隠されていたようだった。無論、作成者とは花井律に他ならない。唯一そこに格納されていたデジタルノートには、新聞や雑誌記事、警察内部の捜査資料を引き合いにして、本人の考察やそうして恐らく体験談がつまびらかに記されている。
どうして、律が。赤井は思わず口元を覆った左手の指の先で顎の辺りを撫ぜながら、瞬きすら忘れてその女の名前を眺めた。綴られていく夥しい文字の波がばらばらに眼前に泳いで、すっと身体が芯から冷えるような心地だった。
"シュウ。作戦は失敗よ。ミモザは死んだわ"
微かに窓の鳴った音に、赤井は重い腰を上げると窓辺に寄る。暗闇の中狙いを定めたように硝子の表面に弾けて、雨粒は這うように垂れ落ちてゆく。
ペトリコールとは雨が降った際に地面から匂い立つ独特の香りであるが、地中で植物から生じた油が乾燥している土壌や石の表面に吸着し、雨や湿度によって鉄分と反応することでこれを生じる。雨が降り続き表面の油が流されるとすぐに消えて無くなるような一過性のものだが、律は出会った頃からやけにこの香りに敏感だった。
赤井はその動揺に、彼女の父親の死以外の理由を見出したことはない。記憶が無い分、行き場の無い感情の矛先が分からず、やや過剰に神経を尖らせてしまうのだろうとそう考えていた。しかし、もしも、そればかりでないのだとしたら。あの日、あの時、あの現場に、花井律も居たのだとしたら。
――ピンポーン。
大きく跳ね続ける心臓の音を、妙に近く感じて煩かった。細く押し開けた窓の隙間から流れ込む腐敗した黴のような匂いは、赤井の当時の記憶を揺さぶるような事は無い。赤井にとっては、たったそれだけだった。組織のネームドと日本警察の捜査官が死んだ、たったそれだけの事件だったのである。
どうやらその裏に隠匿されていたであろう全く別の真実に、珍しく狼狽している自分に赤井は気付いた。解き明かさねばならない使命感と、決して解き明かしてはならないような負の予感。こうしたシグナルは今までも時折働いて、結局は前者に突き動かされ、結果は総じて後者に転がるのだ。
赤井はラップトップのキーボードを雑に押し込み画面を落とすと、モニターホンの表示を確かめる。リンのように青く光る眼がふたつ、余所見もせずにこちらを凝視していた。どうせまたくどくどと小言を言われるだろう未来は想像に難くないが、今この時ばかりは彼女の存在に、少しばかり底知れぬ不安が溶け出すようだった。
「コーヒーでいいか?」
「いらないわ。コナン君とお茶をしてきたばかりだから」
その返しに些か眉を寄せた赤井を気に留めず、ジョディはソファに積み重なった分厚い書物の山を押し退けるとそこに腰掛けた。開いたままの窓をちらりと見やったがやはりさして気にする素振りはなく、視線ばかりを寄越してこちらに着席を促す。
波土禄道の新曲にまつわる調査が不発に終わった事を赤井は事件の翌日にはジェイムズに報告していたが、彼からの返信は了解の旨ではなくましてや労いの言葉などでもなく、他に何か私に報告したいことは無いかね?というやや棘の生えた一文だった。実際それは単なる事実確認をしたいわけではなく、事実を承知している上で赤井の心を確かめる問いである。その意図が赤井に分からないはずもないから、嫌らしい聞き方をするものだなと思うばかりで未だに返事を打ってはいなかった。目の前でやや態度を硬化させたジョディの醸す空気感に、ふとそんな事を思い出した。
「花井律さんの事で、話しておきたい事があるの」
集団組織に向かない単独行動を、実績でねじ伏せチームに黙認させてきた。己自身を信頼されずとも数多の功績が信頼されるから、多少勝手を働いた所で誰も口を挟もうとはしなくなった。しかし今の赤井に、律を通じて得られる明らかな結果などは無い。職務上の重大な秘密を勝手に打ち明けておきながら、職務には無関係だから放っておいてくれでは筋が通らないだろう。いくら赤井個人が律を信用していようと、公安警察で降谷の腹心であった経歴を持つ律を第三者が信頼できないのも当然と言える。
そうだとしても、なぜ、だろう。なぜ、自分と律を繋ぐ命運はいつも捻じれてしまうのだろう。過去に後ろ髪を引かれたまま、身分と立場の違いにばかり縛られ翻弄されている。
それが全て、あの日律に偽りの名を与えた自分への罰なのだという事を分かっている。しかしだからと言ってあの時、赤井秀一を殺したあの時、永倉圭も殺めてしまうべきだったのだろうか。職務なのだからと全てを諦めて、そうして優しい沖矢昴のその成りで、別の男に惹かれていく愛する人をただ見守っていてやればよかったのだろうか。――そんな聖人君子のような真似事が、自分に出来たはずもないのに。
「聞きたくない」
花井律の心の奥底に棲む降谷零の存在を、赤井はもう嫌と言う程目の当たりにしてきた。不透明な律の過去を全て掌握しているであろう降谷を、記憶を失っていてもなお律の心を攫って行く降谷を。
君はもう全てを手にしているだろうと、そう言ってしまいそうになる。恵まれた容姿に非凡な才能、殊に捜査官としての手腕は群を抜いて、国のために正義を重んじ自己犠牲すら厭わない強靭で気高い精神は、まるで神の特別の寵愛を受けて造られた標本でもあるかのようだ。名誉や名声を恣に、周囲からは愛され信頼され慕われて、陽の当たる道ばかりを歩いてゆくその背中は目を背けたくなる程に眩しく見える。一度は自分に微笑んだはずの運命の女神まで、そうして結局は彼に傅くようで。たったひとりの人間の心くらい俺にくれたっていいだろうと、そう言ってしまいたくなる。
「悪いがお前の口からあの娘について聞く事は無い。話がそれだけなら帰ってくれないか」
何もかもが全て、面白い程に上手く転がらない。上司や同僚にこうして諫められなければならない失態、結局何一つ手掛かりを得る事ができなかった組織の深奥、隙あらば容赦なくこの首を跳ねるであろうバーボンの接近、そうしておそらく、おそらく開けてはならない花井律のパンドラの箱。
律の幸せそればかりを考えてやれるような器量が自分にあれば、どれ程良かっただろう。何もかも、纏わりつくしがらみを全てをかなぐり捨てて、その未来ばかりを共に語れたのだとしたら、どれ程幸福だっただろう。真一文字に唇を結んだジョディとの間に横たわる沈黙を、一段と激しくなった雨脚の音が縫っていく。
「……、無断で調べたことなら謝るわ。でもこの件に関しては、ジェイムズの許可も得ているのよ」
「ジェイムズは昔からお前に甘い。彼には俺から連絡を入れるから、それでいいだろう」
「よくない。シュウ、どうして何も話してくれないの?私がそんなに信用できない?」
「そうじゃない。……信用云々の問題じゃ、」
「……っ、ならハッキリ言ったらいいじゃない」
――あなたに未練タラタラの私にするような話じゃないって。
そう放たれた声は張り詰める空気を震わせて、その時初めて表情を歪めた元恋人に、赤井は目を瞠った。
真っすぐに核心に切り込もうとするふたつの瞳が、あまりに力強いから、瞬きすら忘れてその青ばかりを見つめ返す。
"え?付き合う事になった?"
"ああ。だからお前とは終わりにしてくれ"
組織への潜入を目的に宮野明美と交際を始めた赤井は、当時恋人であったジョディとの関係を清算した。思えばジョディは赤井の人生の中で最も長く関係の続いた女であり、そして初めて自分からその関係を断ち切った女でもある。
愛していたのかと聞かれたのならば、もちろん、愛していたと答えるだろう。気丈に振舞っては誰にでも良い顔をする癖に、自分にばかりは張り詰めた空気を和らげ弱音を吐いた。見え透いた駆け引きをしたり小さな我儘を言っては幾度となく振り回されたが、包み隠す事のない裸のままの恋心をジョディは途切れる事なく自分に注ぎ続けた。同程度の愛情を返さなければ離れていった他の女と違って、彼女は生涯でたった一本の止まり木を決めた小鳥のように自分の許へ戻って羽を休めるものだから、可愛らしく思うのも当然だろう。だからそう、愛していたのかと聞かれれば、もちろん、愛していたと答えるのだろう。
"チームを変えたければ俺からジェイムズに、"
"いいえ。……シュウとはこれからもずっと、最高の同僚でいたいわ"
しかし所詮、赤井はジョディの止まり木以上にはなれなかった。地中深くに根を張って、自在に枝を伸ばせるわけでもなく、そうして自由に遊ばせた小鳥がどの空を飛び回っていようと気にも留めずに構えているばかり。
関係を、続けられなかったわけでは決してない。そうではなくて、それ以上を望めはしないこの関係を永遠に続けるくらいならば、好きな場所へ根城を移して違う道を歩ませる事が彼女の幸せなのだと本気で信じていた。たとえその心が自分に向いていないとしても、たとえその心に他の誰かを住まわせていたとしても、それでもただ傍に居るだけで幸福なのだとそう話したジョディの心境が、当時の赤井には分からなかった。
「……馬鹿にしないでよ。あなたが必死になって守ろうとしているものがあるなら、壊したいわけない」
奮い立つような重い語勢は、強い覚悟を伴った信念に裏打ちされたような響きがある。
ジョディが赤井を愛する心と、赤井が律を愛する心は、哀しくも交わらないが本当はとても良く似た濃度であったのだろう。己の心を等閑に愛する人の幸福ばかりを願おうと言えるのだから、たとえそれが虚勢まみれの言葉だったとしてもその愛は、欲望まみれの自分に比べてよっぽど崇高だとすら赤井は思う。
最高の同僚でいたい。せめてあの頃その声に、少しでも耳を傾けていたのならば。端からそれを諦めて距離を取らずとも、端からそれを疑って隔意を持たずとも、気の置けない同僚として関係を築き直せたのではないだろうか。
「私ね、シュウが生きていたこと、本当に嬉しかったのよ。……でも同じくらい、悔しかった。ショックだった。作戦すら共有されない事が惨めだった。……彼女の事だって、そう。相談してくれたら、もっと早く力になれた事があったかもしれないのに」
事を俯瞰出来ていないのは独り善がりの自分の方だったのだろうと、赤井もまた己の不甲斐なさに惨めな気分を味わっていた。
恐らく何かひとつでも過去の自分の判断を捻じ曲げていたのだとすれば、ジョディの心を傷つける事無く、律をあの町に置き去りにする事も無く、未来は一変して様変わりした事だろう。たとえそれが机上の結果論だとしても、心の底に巣食った後悔が消える事はない。
赤井はジョディが鞄から取り出した薄墨色の封筒を見遣ると、僅かに目を細めた。そうして恐らく、花井律に纏わる秘密にもっと早く辿り着いていたのだろうと、そう思った。
「今日ここへ来たのは、あなたの元恋人としてじゃない。FBI捜査官のジョディ・スターリングとして、あなたに伝えなければならないことがあるから」
Mimosa's case, Adam's reports――そう走り書きされたふたつの封書にはセキュリティマークの朱印がある。
赤井はゆっくりと一度瞬きをした後で、その誰が書いたとも知れない稚拙な文字を指の先でなぞった。酷く煙草を吸いたいような衝動に駆られるのに、胃の底の方から込み上げる不快感にとてもそんな気分にはなれずに、手持無沙汰の指同士はそのまま腹を擦り合わせるしかない。
途端に気に障る雨が窓を叩きつける音には今度はジョディが徐に席を立って、窓枠に手を掛けたまま漆黒の空間を覗き込んだ。いつもはすぐに消えてなくなるはずのあのペトリコールの匂いが、空気の底を這うように部屋に雪崩れ込んでいる。
「――あの日も、酷い雨だったわね」
懐かしむようでいて嫌忌するように憂うジョディの声音は、如何とも言い難い。
赤井はその様子に、つい数十分前まで電話越しに普段通りの声を聞かせてくれた律の事がどうしようもなく気に掛かった。何処へ帰ったのかも知れない律もまた、頻りに窓に流れ落ちてゆく雨粒を疎んでいる頃だろう。その確かな理由すら分からずに、失った過去の感情にばかり揺さぶられて、彼女はこの先もずっとそうして得体の知れない空白の記憶に苦しめられなければいけないのだろうか。
"過去に囚われているのは君の方だよ"
空っぽになった器に事実だけを詰め込んだ所で、当時の心まで蘇るわけではない。それでもその事実が、今を生きる花井律の助けとなるのならば、そうしてそれが律の望むものであるのならば、たとえそれが赤井に不都合に作用するとしても提供してやるべきだろう。それは赤井が律を愛する心からでもあり、花井律に仮屋瀬ハルの名を与えた責任でもあるのかもしれない。
「……すまなかった。ジョディ」
おそらくあの日、新宿で律を連れ去ったあの日から、そうして水面下で調査を続けていたのであろうジョディの持ち込んだ資料がこの手に重たい。職務の傍らプライベートの時間を費やしデータを掻き集めて、きっと疑惑から始まった花井律の存在を今は共に守ろうとさえしている。
たったの一言、心の底から零れた謝罪の言葉は同じように、あまりにも多くの意味を孕んで重たかった。何年か越しに凍り固まった巨大な氷壁が霧散したようで、驚いたように振り返ったジョディの表情を真っすぐに見つめる。そうして何の柵も無く顔を突き合わせるのは、随分と久方ぶりのような気がした。
「最高の同僚として、俺に手を貸してくれないか」
刹那止まったかのように思えた時は、またそうしてすぐに動き出す。
ジョディは少しばかり口元を柔らかく綻ばせると、風が戦いだように美しく笑った。
「……ええ、もちろん。そのつもりで来たのよ」
赤井のささくれ立った神経を慰撫するような、労りに満ちた声だった。不純物がろ過されて透き通ったように澄んだその響きは、不思議な程にこの耳に良く馴染む。
思えばあの時、繰り返される雑音が切れる度に無線の向こうに聞こえたその声は、ただ只管に赤井の現着を待っていた。行く手は数多の色とりどりのビニール傘に阻まれて、縁石を走る靴の底からじとりと浸食する雨水がやけに気持ち悪かった事を覚えている。――とてもではないが、間に合わない。雨粒で覆われた文字盤の硝子を擦って確かめたリミットに、水を吸ったライフルバッグが重たくなったような気がしていた。
雨曝しのままのくすんだ記憶が、夏の雨に磨かれてゆく。そう、確かに、あの日は酷い雨が降っていた。
prev next