#05


 東都環状線内で爆破未遂事件があったことを、降谷零は今朝のテレビのニュースで知ったばかりだった。
 丁度帰宅ラッシュと重なり、環状線ユーザーは大打撃を受けたそうであるが、いわゆる帰宅ラッシュ時間に帰宅など出来た試しのない降谷には、いまひとつその悲痛の叫びが届かない。そもそも降谷は電車通勤ではないし、車道の渋滞のようなものだろうか、それは大変だと、既に犯人の捕まったささやかな事件に対してはその程度の安直な認識である。
 もとより、爆破未遂とは言葉ばかりで、実際犯人は爆発物など所持していなかったようであるし、キャスターもお騒がせ犯としてニュースを締めくくっていた。極致の馬鹿め、夢見が悪くなるだろうと、仮眠のために三日ぶりに自宅へ立ち寄った降谷は早々にテレビの電源を落としベッドに潜ってしまった。

「夏葉原リセットマン事件?」

 だから風見にその話題を振られた時、降谷は咄嗟にそれが今朝のニュースとは結び付かなかった。
 太陽が真南に昇った頃、降谷は再び登庁した。上長への報告と必要書類の提出を一通り済ませると、休憩室の読み古された各社新聞をゴッソリと腕に抱え、会議室に向かうのが登庁した際の降谷の習慣だ。風見との定例の連絡会議が始まるまでの十五分程で、降谷は自身のスマホに最新のニュースを読み上げさせながら、同時に全ての誌面に目を通していく。
 しかし、今日に限っては降谷はその習慣を疎かにした。上着のポケットに入ったままの部下の警察手帳を、早々に本人に返却しなければと思ったためである。本来であれば彼女自ら自分のもとへ出向き、謝罪をするのが筋であるが、あれから彼女は電話はおろかメールの一通さえ寄越しやしない。彼女に放り投げる嫌味をニ、三、考えながら、降谷は公安部を覗いた。しかし、彼女の姿はない。思い当る場所へ足を運んでみても、やはりその姿は見えずに、仕方なく自分が折れて彼女に連絡を取ろうと取り出したスマホを見れば約束の時間に迫っており、取り急ぎ会議室へ足を運んだわけである。

「ええ。昨日の、東都環状線の」
「ああ。爆破未遂事件か?」

 風見が気を利かせて用意していた缶コーヒーを受け取って、プルタブを開けた。
 咥内に拡がった苦味が食道を抜けて空っぽの胃袋に落ちた感覚に、そういえば昨日も同じ感覚を味わったなと、自販機の前で遭遇した律の姿を思い出す。

「現場に居合わせた乗客が撮影した動画が、ネットで拡散したんです」
「ふうん。それで、何でリセットマン?」
「犯人の男が叫ぶんですよ。全部、リセットだ、って」
「ああ、それで」

 降谷は風見の世間話に大した興味も見出せずに、残り半分のコーヒーを一気に煽った。
 東都の主要駅をひとつ吹っ飛ばす程の爆弾を本当に用意しての台詞ならまだしも、何がリセットだと降谷は思ったが、風見によれば、犯人の男はSNSで日頃から犯行予告を嘯いていたらしい。顔見知りでも何でもないフォロワーからの、出来もしないくせにといった嘲笑を端に本当に実行することを決意したということであるから、彼が本当にリセットしたかったのは自分自身の虚像であったのかもしれないが、定かではない。いずれにしろ、負傷者も出したという、巻き込まれた何の罪もない人達ばかりが不憫である。

「ネットでは、彼を神格化する者も多いらしいですよ。私もリセットするとか、俺は本当に爆発させるとか」
「……頭が痛いな」

 そんな輩は片っ端から逮捕でいいのではないのだろうかと、降谷は水面下の有象無象の犯罪予備軍を思う。
 しかし些細な犯罪がそうして妙な影響力を持ち波及してしまう様を思えば、今朝のニュースを一瞥してささやかな事件だと断定した自分はやや早計だったろう。当人の知らない所で模倣犯が連鎖する可能性だって十分にあり得ると言える。
 犯罪は、無くならない。降谷や風見がいかに奮闘しようとも、人は罪を犯す生き物である。降谷はひとつ深く嘆息して、ようやく本題である風見から手渡された書類に目を落とした。

「それで?安室透の住まいの手配は?」
「ああ、それなら適当な物件を見繕いました。住環境も問題ありません」
「助かるよ」

 ぺらりと一枚、書類を捲れば、《MAISON MOKUBA》と記載された小振りなアパートの詳細が目に留まる。
 潜入捜査が本格化すれば、本邸に帰宅できることも少なくなるだろう。必要最低限の家具や家電は既に風見の方で搬入作業を終えてくれているが、その他降谷の手で揃えなければならない必需品や身の回り品は案外と多い。別宅を持つのはこれが初めてではなく手筈は分かっているのだが、毎回どうにも煩わしいものだと思わずにはいられない。
 物件の所在地ばかりを頭に記憶して、降谷はまた一枚、書類を捲る。しかし風見の口から次の報告が続けられることはなく、降谷は不思議そうに顔を上げた。

「……あ、あの」
「なんだ?」
「お耳に入れておきたい事が……」
「……これよりも大事なことか?」

 そんなものが今存在し得るのかといったニュアンスで、降谷は訊ね、風見は恐縮したように口ごもる。
 ならば冒頭の世間話に挿げ替えて話すべきだろうと思いながらも、もしかしたら風見はそれに続けて降谷にその知らせを持ちかけようとしていたのかもしれない。一方的に話を打ち切って前触れなく彼の話をぶった切ったのは自分であったし、風見が意味も無く降谷との話を中断させるとは思えずに、結局風見に発言を促す。
 何をそんなにと、珍しく報告を迷い言い淀む風見の姿に、多少の苛立ちを募らせながら。

「……花井の、事で、」
「花井?」
「その、今朝から、登庁していません」
「登庁していない?」
「…………む、無断欠勤です」

 降谷と風見を、数秒程の、重苦しい沈黙が支配する。
 久方ぶりの睡眠をとり、澄み切っていたはずの降谷の思考が、そこでブツリと音を立てて千切られる。全くの無意識の内で、何かに操られるかのように降谷はポケットからスマホを取り出すと、画面を数度タップした。

 ――プルルルル、プルルルル。

 無音だった室内に、無機質な着信音が鳴り響く。
 音の発信源である風見に、降谷は酷く緩慢な動作で視線を刺し、風見は風見でその視線から逃れることすら出来ずに降谷を見つめたまま、自身のポケットから可愛らしいパステルカラーのスマホを取り出し、何故か通話ボタンを押して耳に当てた。動揺のバロメーターが振り切れると、人は慣れ親しんだ動作に反射のように従うことしかできない。

『……何故、君が出る?』
『……花井の机上に、放置されていたので……花井から連絡があればと思い、自分が携帯していました……』

 狭い室内で、降谷と風見は電話越しにそう言葉を交わした。互いに混乱を極めている。
 数十秒の空白の時を超えて、ようやく思考回路の再稼働し始めた降谷は、静かにスマホを机上に置いた。風見はまるで鏡のように、同じ動作で律のスマホをそっと手放す。

「彼女は昨日、庁舎に戻っていないのか?」
「は、はい」

 ならば何故その時に報告を怠ったのだと、喉まで出掛かった文句を降谷は寸での所で飲み込む。
 あの時彼女を追いかけるなと制したのは紛れもない自分であるし、降谷自身、すぐに戻って来るだろうと見越して、自分はバーボンとして別の任務に向かってしまった。風見には何ら落ち度はない。しかしだからと言って、俺にも落ち度はないじゃないかと、内心で口を尖らせて不満を漏らす。
 いくら上司の自分の指示が気に入らないからと言っても、職務放棄をしてしまっては社会人として失格である。しかもこうして連絡手段すら断とうとは、今この瞬間にでも大事件が発生したら彼女はどうするつもりでいるのだろうか、全くと言っていい程自覚が足りていない。

「荷物はそのまま、財布や家の鍵も入ったままです。車も取りに戻った形跡がありません」

 だが、しかし。そう悪態つきながらも、降谷は律の愚行を俄かに信じ切れはしない。彼女の逃亡癖は今に始まったことではないが、それでも職務を疎かにした事はただの一度もなかったはずだ。
 すぐに戻って来るだろうという昨日の見立ては、何も降谷の希望的観測などではない。降谷は律の職務への誇りと執着を、誰よりも知っているし、口にはしないが信頼もしている。彼女はどうしたって、自分の許へ戻る以外の選択肢を持ってはいない。移動距離に比して冷静さを取り戻す律の悪癖を降谷は勿論分かっていたが、ほとんど手ぶらで出て行った律はそもそもそう遠くへなど行けやしないのだ。何か不測の事態でも発生しない限りは。

「……この缶コーヒーは百十円だったな」
「え?……ええ、そうですが」

 すぐに戻って来るだろうと、その見立ては今も変わらない。それでも、真っ新だったその見解に落ちた一滴の違和感という名のインクが、じわりじわりと染みを広げて、降谷を侵食していく。
 昨日、自販機前の攻防により、律はそのポケットにつり銭を突っ込んでいた。降谷の缶コーヒー百十円と、律の野菜ジュース百三十円の計二百四十円を千円から差し引いた七百六十円ばかりを、律は所持していたことになる。

「七百六十円か」

 ボソリと呟いた降谷の言葉の含意が分からず、風見は二の句が告げない。ふらりと窓の向こうの晴れ渡る空を眺めた降谷の、次なる指示を待っている。
 昨日は激しい雨が降った。彼女が庁舎を飛び出してから、数十分と経たない内だったように思う。雨宿りをしに喫茶店にでも立ち寄っただろうか、いや、過去のケースを鑑みても、彼女がその場でじっとしているとは考えにくい。しかし彼女は、雨が嫌いだ。移動するならばどこかで傘のひとつでも購入したことだろう。
 それでは、五百円かそこらの残金で一体何ができるだろう。飛行機や新幹線などは論外。タクシーに乗ったとしても、そればかりの資金ではすぐに底をつく。となると在来線の電車だろう。もしも彼女がスマホや家の鍵のどちらかひとつでも所持していたのならば、友人に連絡を取るなり家に帰宅するなりの選択肢があったはずだ。しかし彼女はそれら全てを庁舎に置いたままであり、どうしたってこの場所に戻って来なければならないことを分かっていたはずで。

「付近のコンビニの防犯カメラの映像を調べろ」
「え?コ、コンビニですか?」
「足取りが分かれば乗車駅を特定できる。花井は十中八九電車に乗ったはずだ」
「は、はあ」

 あまりに早すぎる降谷が導き出した結論に、風見はそこに辿り着くまでの途中経過に皆目見当がつかず、うっかり生返事を返す。
 確かに花井の欠勤について持ち掛けたのは風見自身であるのだが、それでもまだ一日と経過していない今この時点で、まるで容疑者でもあるかのような捜査を行う必要性が本当にあるのだろうかと首を傾げたくなりながらも、既に席を立ってしまった上司に進言することが憚られる。

「念のため花井の自宅を確認してくる。その間に登庁するようなことがあったら連絡をくれ」

 降谷は広げていた書類をそのままに、風見の前にあった律のスマホを、まるで自分の所有物でもあるかのように平気で回収した。
 律の自宅の所在を思い起こし道順をシミュレートしながら、扉に向かって歩き出した降谷の背に、風見の慌てたような声が被さる。

「降谷さん!」
「……なんだ?」
「……い、いえ……いってらっしゃい」

 振り返った先で書類を手にして立ち上がった風見は、降谷の声色に思わず用意していた質問を諦めて、無理やり心にも無い言葉を引っ張り出した。

 ――安室透の件は?
 ――これよりも大事なことか?

 言外に交わされた会話を、降谷も風見も、一言一句違わず理解していた。降谷の脳内は、既に枝分かれした、電車に乗車後の律の足取りの予測で、溢れている。


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