#64

「パラグアス?英語ですか?」
『スペイン語だよ。意味は、雨傘』

 口遊むように電話越しに届くスペルの羅列を、花井律は街灯の照らす夜道を歩きながら頭に思い浮かべる。赤井秀一からパスワードの解析を終えた旨のメールを受信したのは、今日の昼過ぎの事だった。
 結局リフレッシュ休暇明けであった日からも三吉彩花は登庁せず、どうやら体調不良に見舞われているようだがやけに長引いている。メッセージを送信した所で梨の礫であり、スマホの操作すら億劫な程に深刻なのであれば、あくまで単なる同僚の域を出ない律など静観することが何よりの処方箋になるだろう。綾瀬明の件は差し置いて、律は赤井と話をして以来過去との距離感を考えあぐね未来への展望を計り兼ねている。そうではなくともこの頃律の生活環境というものは一変して、どうにも身の回りの事で手一杯であった。

「……私は余程、雨が嫌いだったんでしょうね」

 横断歩道を渡り振り返ると、大通りを南に走る交通の波は珍しく穏やかである。緩やかな傾斜を登って来る車の列に目を凝らし、フロントウィンドウの右下に点いた煌煌とするランプに早々に右手を高く挙げるが、満車表示のそれは律に目もくれず眼前を走り去っていく。
 警視庁への通勤と言えば、正面玄関横に出入口の設置された地下鉄の利用者が圧倒的に多い。例に漏れず律も普段であれば電車を利用し、二度の乗り換えを経て降谷の自宅へ向かうべきところ、ここ数日はこうしてタクシーを利用し仮住まいのホテルへと帰っている。どうやら降谷は毎日玄関口にタクシーを手配するように風見に指示したようであるが、それだけはやめてくれと律は珍しく抵抗した。ただでさえ珍妙な部署異動をした律はこれ以上噂の的になるような行動は慎みたく、結果、庁舎の裏通りに都度配車をすることで話がまとまっていたのである。

 "ご自宅までお送りしますので、外泊の準備をお願いします"
 "はい?外泊?……ああ、降谷さんの?"
 "いえ、花井さんです。急ですみませんが、ホテルを手配しますので"
 "……。理由はお話しいただけないんですね?"

 再び挙げかけた腕に、やはり満車表示のタクシーを見送って、律は眉を寄せる。つい配車の連絡を失念し、大通りに出ればすぐに拾えるだろうと安易な考えであったが、時間帯のせいかなかなかにそうでもない。時刻は午後七時四十分を回ろうかというところ。稀な残業を喰らった律は、降谷から支給された腕時計の表示を確かめる。

 "毎日午後八時に、ホテルの部屋にある電話から自分に連絡をください。ワンコールで結構です"
 "……はあ、まあ、それはいいんですけど、"
 "手間でしたら時計の発信機を使っていただいても構いませんよ。使い方は降谷さんに教わっていますよね?"
 "ああ……いえ、電話で大丈夫です。所用でその時間にホテルに居ない場合は?"
 "……出来ればしばらく不要不急の外出は避けてください。何かあれば自分にご相談を"

 多少の遅れは許容範囲のように思うが、堅物の風見相手では一分の誤差すら降谷に報告されかねない。急ぎ歩けば十五分程度の距離ではあるが、タクシーチケットの利用履歴が残らなければまたお咎めを受けることになるだろう。
 あの日、律がうっかり安室に扮した降谷と邂逅した日から、この奇妙な生活は続いている。どうやら降谷の任務中に首を突っ込んでしまったらしい事を、律は自分を回収した風見の車の中でほのめかされているが、もちろんいつもの通り詳細の説明は無い。それどころか、熱りが冷めるまでは職場とホテルの往復生活、移動は全てタクシーで、毎日定時の連絡を指示される始末である。風見から伝えられた降谷の伝言は、「すまない」のたった四文字ばかりであったが、律は降谷に謝って欲しいわけではなかった。自分の行動の何が降谷に迷惑をかけてしまったのだろうか、そればかりを、教えて欲しかった。

「パソコンの受け取りですが、しばらく立て込んでいて。職場近くの局留めで郵送してもらうことはできますか?」
『……構わないが、職場の方でいいのか?自宅近くの宅配ボックスの方が楽だろう?』
「ええ。……その、少し事情がありまして」

 不思議そうに聞き返す赤井に、律は話しても障りのない現状を掻い摘んで説明してゆく。
 毛利蘭からは後日、メールを一通受信した。どうやら安室透は、しばらく律が仕事で忙しい旨の内容を彼女に付言したようで、お仕事が一段落したらまた連絡をくださいとメッセージはそう締めくくられていた。蘭や園子とは一度ポアロでお茶をした過去があったものだから油断してしまっていたが、あの喫茶店はあくまで降谷の潜入先で、彼女達は安室透を介した知人なのである。もう二度と連絡をする事などないのかもしれないと、律は女子高生らしい絵文字の数々を眺めながら、己の行動を猛省した。

『……成程。君の立場もあるだろうから深くは聞かないが、俺が彼を怒らせてしまったのかもしれないな』
「それはないですよ。本当にそうなら時期が遅すぎます。何か別の理由があったんだと思います」
『別の理由、ねえ……』
「……あの、赤井さん」
『うん?』

 ――聞こうとして、やめた。優しい赤井の寄越すであろう返事に大方見当がついてしまったし、その返事には救われない事に律自身が気付いてしまったせいである。
 私はあなた方の仕事の邪魔になっていませんか。その問いを誰かに、肯定して欲しかった。降谷の傍を離れたくはない自分に、誰かがそう言って諦めさせて欲しかったのだろう。

「……いえ。そろそろ切りますね。荷物は着払いで送ってください」

 これがタイミングというものであり、潮時というものであり、そうして誰かは運命と呼ぶのかもしれない。律が危惧し、回避しようとしていた降谷との生活における機能不全が、別の形で案外と早く到来しているようだった。
 得も言われぬ、口惜しさ。そうして狡い自分の、恥ずかしくなる程の惨めさ。律にも名付けられない皮を被ったままの重たい衝動が、心の底で混じり合い濁っている。
 この手を振り解いてしまえば、降谷は楽になるのだろうか。律に残された道は本当に、そんな安楽の死に向かうことばかりなのだろうか。あの日律を牽制するように見遣った降谷の鋭い眼差しが、浮かんで、消える。

『律。また電話をくれ。待っているから。電話なら門限を過ぎてからでもできるだろう?』

 空車のランプが点ったタクシーが目の前を通り過ぎてゆく。律は右手を挙げることを忘れてその様子をぼんやり眺めると、スマホに表示された通話終了の文字を一瞥した後で、空を仰いだ。今日の天気を思い出す事ができないまま、薄闇の広がる空には星のひとつも見つからない。背後からそっと抱きすくめるような赤井の声が、脳の奥にずっと残っていた。
 細く長い吐息で肺の中から空気を絞り出すと、律は着信履歴から風見の番号を探す。腕時計の中で進む長針は、既に九の数字を過ぎていた。残業を主とした言い訳を少しばかり考えた後で発信ボタンを押そうとしたその時、律の目の前でプジョーのフラグシップセダンが急停車した。

「やっぱり、律さんだ!仕事帰り?」
「……コナン君?」

 タイヤが道路と擦れる音に顔を顰めると、緩やかに下がったパワーウィンドウの向こうからは、少年が可愛らしい動作で顔を出した。古めかしい眼鏡に道路端のネオンが薄く反射している。その奥にきらきらと輝く無邪気な瞳には思わず警戒に構えた身体を弛緩させるが、彼もまた安室透の関係者である事には変わりなかった。小さな子供とは言えあまり関わってもまたろくな事にならないだろうと、律は一歩引いて、コナンにぎこちない笑みを向ける。

「この間、大変だったね。波土さんの亡くなった現場にコナン君も居合わせたって聞いたよ」
「うん。蘭姉ちゃんは律さんに会えなくて残念がってたけど、来なくて正解だったと思うよ」
「……、そう、だね。……それより、こんな時間にどうして霞が関に?」
「ああ、知り合いのお姉さんとドライブした帰りなんだ」

 ライブリハーサルでの波土禄道の自殺は、翌朝の朝刊を大きく飾った。ネットでは麻薬で逮捕された彼のバックバンドの情報が前日から取り上げられており、それも相俟って世間はしばらくその話題で持ち切りだった。律は蘭と園子にばかり誘われたつもりでいたが、どうやら現場にはコナンに加えて安室や梓の他、沖矢昴に扮した赤井までもが集結していたようだから、来なくて正解だったと言うその言葉は正しい。それを見越して降谷が律を退場させたのかどうかは定かではないが、律は安室と沖矢の間でどんな顔をすればいいのか分からない。
 しかし相も変わらず、事件に良く巻き込まれる少年である。事件の遭遇率で言えば律も人並み以上であるだろうが、近辺で発生している事件にはやたらと彼の関与が有名である。
 律は引いたはずの一歩をまた踏み出して、コナンの言う知り合いのお姉さんの顔を確かめようとした。関わりたくない思いは大前提であるが、この時間帯に小学一年生をドライブに連れ出す知り合い程度の大人の存在に不信感を抱いたためである。何せコナンは事件吸引体質であるし、律は一応市民を守る警察官なのだから、個人的な理由で見過ごすわけにもいかなかった。

「……今晩は。花井律さん」

 しかし、律がそうして車内を窺うよりも、運転席から彼女が身を乗り出すのが少しだけ早かった。首元で切り揃えられたさらりとした真っすぐの金髪が、夜目にも際立って輝いている。その声は女性特有の柔らかさを確かに孕んでいるのに、何故かこの身を糾弾するような切れ味があった。
 ――どうして、彼等が繋がっているのだろう。コナンが知り合いだと紹介したその女性は紛れもなく、赤井秀一に再会したあの日に助手席に座っていた彼の同僚のひとりである。
 ずしゃりと、ヒールの底がアスファルトに擦れた音にはっとした。己の足が、無意識に後ずさっていた。

「少し話せない?家まで送っていくわ」

 石のように固まった律の表情と、あくまでポーカーフェイスを崩さぬ捜査官の表情を、コナンばかりが驚くわけでもなく何かを見定めるように比べ見る。丁度赤色に変わった信号には辺りの喧騒がすっと止んで、心地の悪い静寂に律は思わず生唾を飲み込んだ。
 その名こそ思い出せぬとは言え、彼女が当時酷く好戦的であった事は記憶のまだ新しい所にこびり付いている。事情は知らないがどうやら敵対関係にあるらしい降谷と懇ろな律の事を良く思えるはずもないだろうし、赤井秀一の死の秘密を知ってしまっている律自体を不安視しているのかもしれない。赤井の事だから同僚のひとりひとりに丁寧に説明などしないだろうし、そもそも簡単に説明できる程にこの関係というものは真っ当ではないのだ。

「すみません。急いでいるので、失礼します」

 いずれにせよ、ここで彼女と関係を持ってはまた妙な捻じれや軋轢が生じるだろうことは想像に難くない。律に悪気が無くとも何かがトリガーとなって、また降谷や赤井の手を煩わせるような事にでもなれば後の祭りである。小学生の少年とFBI捜査官の女性はどうにも関係性の量れない奇妙な取り合わせであるが、赤井の信頼する同僚であるならば最早律の関知するところでもないのだろう。
 律はそうして強引に話を断ち切ると、軽く頭を下げてから早々に踵を返した。どうにも両足の力が抜けて、歩道を掴む爪先の感覚が掴みづらい。背後からコナンが自分を呼ぶ声が聞こえたが、もう振り返るつもりもなかった。

「待って!」

 刹那、響き渡るクラクション。反射的に意識を引き留められた律の視界に、慌てて運転席のドアを閉めに戻る彼女と、その隣をぎりぎりの所で横切っていく車が映る。
 sorry,my bad――流暢な英語は蒸かしたエンジンの音に掻き消えて、走り去る車を横目に彼女は安堵するように肩を下ろした。ぱちりと、振り返った彼女と、視線がぶつかった。

「――ひとつだけ、教えて」

 すらりとした細身の引き締まった肢体が、ぼんやりとした薄暗い街灯の中に圧倒的な存在感を纏って佇んでいる。その身のもっと奥まったところから溢れ出るような、生き生きとした生命力の光のようなものが確かに満ちている。正しい道を歩む確信と自信、迷うことなど知らないような、心の強さ。
 彼女の信念は何だろう、彼女の生きる源は何処にあるのだろう。律には無いその弾けるような魅力が、あまりに眩しくて、目を背けてしまいそうになる。

「貴女がシュウに近付いたのは任務のため?……それとも父親の事件の事で、私達FBIを恨んでいるから?」

 律は、何を聞かれているのか、分からなかった。
 それ以外の選択肢など端から当てにしてはいない態度の彼女に、何と答えてやるべきなのか定かではなく、あえてこちらから深堀するわけにもいかず、隣を何台もの車がただ通過していく。何故今ここで花井誠一郎の名が出るのだろうか、その質問の意味を、訊ねる事すら出来ない。

「彼が心配なの。お願いよ、教えて」

 しかし彼女のその姿に、悪意は無い。悪意だけが無い。それはまるで風見が降谷を支えようとする姿に似ているから、赤井を想う純粋な心である事が律には良く分かる。
 胸のあたりが、つっと痛んだ。風見も彼女も、そうして大切な人のために自らもまた危険の渦に飛び込んで、共に助け合い、傷を分かち合い、一緒に前に進める強さと技術がある。守られているばかりの自分と違って、進みたい道すら定まらない自分と違って、律とはずっと離れた場所に居るのに、赤井や降谷との距離は律よりもずっと近い。――ああ、そうだ。私は、彼等が羨ましくて、堪らないのだ。

「……、どちらでもありませんよ」

 赤黒く爛れそうな自己嫌悪に、握り締めた拳の中で薄い皮膚に爪の先が食い込んでゆく。
 現状に手を拱いて絶望するばかりではなくて、自分にも何か彼女のように出来る事があったのではないだろうか。以前のような捜査官にはなれずとも、もう二度と過去の記憶が戻らないとしても。降谷と赤井から同じ距離に立っていた真っ新な自分だからこそ、出来た事があったのではないだろうか。

「私もひとつ、お聞きしても良いですか」

 ぱちりと、車のボンネットから何かが弾けた音がした。それを確かめる前に、また何処かから聞こえたその音が、湿気た空中を遊ぶように飛び跳ねていく。光の無い空を仰ぎ見た律の鎖骨に丁度ぶつかった大粒の雫は、まるで銀の弾丸のような重たさがあった。
 程なくして、辺りは驟雨に包まれていく。苦くて寂しい、夏の雨の匂いがした。


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