#63

 財布、スマホ、パスケース。檸檬色の栞が挟まれた本が一冊と、晴雨兼用の細い折り畳み傘が一本。身分の分かりそうな社員証の類は携帯していないようだなと、榎本梓、もとい榎本梓の皮を被ったベルモットは、底の方に沈んでいた小振りなポーチの中身が化粧品である事を確かめると、顔色ひとつ変える事無く鞄の中へ戻し入れる。あまりにも堂堂と他人の荷物を弄るその様はしかし、大胆であるが故に不思議と周りの目には不審に映らない。
 解錠に時間の掛かるスマホ端末は端から諦め、ベルモットは長財布のジッパーを手早く下ろすと、その中身を覗き見た。数枚の紙幣とレシート、サービス券はきちんと整理されて収まっている。見た目通り几帳面な性格なのだろう。躊躇い無くベルモットの指はその淵から顔を出していた二枚のカードをつまみ出すと、クレジットカードの方は印字されていた名前の読みばかりを確認して、元の場所に差し入れた。

「梓さん、ハンカチありがとうございました」

 背後から聞こえた声にくるりと振り向きながら、後ろ手にジッパーを戻した財布を鞄の中へ静かに落とす。
 欺かれているとも想像出来ない、その清廉な心。そうしてその向こうに揺らいで見える男の歪んだ表情を慈しんで、ベルモットは溜飲を下げる。

「いえ、私の方こそ、本当にすみませんでした。――律さん」

 ベルモットが花井律と同じ喫茶店に居合わせたのは、紛れもなく偶然の巡り合わせである。明日公開される予定の波土禄道の新曲に関して、組織の上層部から探りを入れるように命令が下ったのは先週の事だった。実際任務を遂行するのはバーボンでありベルモットはサポートに過ぎないのだが、どうやらバーボンと共に毛利蘭や江戸川コナンも現場を訪れるようであったから、その動向が気に掛かりこうして榎本梓に扮してバーボンの到着を待ち伏せしていたわけである。
 ああ、これは、何という幸運だろう。此度の任務自体には大した興味の無かったベルモットはだから、店内で出くわした花井律の姿に目が覚めるような思いだった。未だ闇に包まれたままの得体の知れないあの男を、生かすとも殺すとも分からない諸刃の剣。名前も知らない彼女はベルモットを視界の端に捉えると、少し驚いたような顔をして、梓さんと、そう確かにこの名を呼んだ。

「腕時計、平気でした?」
「ああ、大丈夫ですよ。防水だそうなので」

 彼女達に面識がある事は予想の範疇であったが、そうなると花井律がノーマークであったベルモットにはやや分が悪い。何せベルモットが榎本梓に成りすます事を決めたのは突然の事であり、現場では安室透に成りすましているバーボンにフォローをさせればいいだろうと高を括っていたからである。
 多少の話の行き違いであれば適当に誤魔化せもするだろうが、顔見知りである律に今更名前を尋ねられはしない。ベルモットは咄嗟によろめいたフリをすると、律の手元にあったシロップの入ったポットをその手首に目掛けて引っかけた。狼狽えた律にはハンカチを握らせると洗面所へ押し込み、そうして自分は束の間彼女の身元調査に勤しんだわけである。

「良かった。高価そうだったので、ドキドキしちゃって」

 シャンパンゴールドの細身のステンレス時計は、律の左手にきらりと艶めき輝いて美しい。まるで彼女のためだけに誂えられたようなそれは、ひ弱な手元に寸分の狂いも無く吸い付くようだった。
 どうでしょうと手元を眺める花井律の横顔からは、裏社会の人間特有の匂いというものは仄かにも感じられない。こちら側へ一度でも足を踏み外していたのだとすれば、どれ程己を殺す事に長けた人間であっても滲み出る狂気を隠す事など出来ないのだがしかし、こうして間近で対峙しても、花井律からはそれを嗅ぎ取れはしなかった。むしろ醸す空気というのは、拍子抜けする程に清らかである。頂いた物なので価値は良く分からなくてと、律は何故か、伏し目がちにそう続けた。

「もしかして恋人からの贈り物だったり?」
「まさか、違いますよ。……そうですね、支給品のようなものです」

 もしかすると彼女はバーボンが密かに研いだ懐刀の一本なのかもしれないと、あの花見の日に見せた律への異常な執着に、ベルモットはそう思った事があった。 バーボンは元来秘密主義の過ぎる男であるが、殊にその広すぎる情報網の源は謎に包まれたままだった。一体何処でどう種を撒き、どのように水を遣って育てて、秘密裏に実を刈り取っているのだろうか。組織には他にも抱えの情報屋は存在するが、バーボン程に鮮やかに仕事を熟す者は居ない。それが、彼女のような徹底的な管理と監視の許に完成する手駒の存在があったのだとすれば、成程、一考の余地があると思っていたのである。
 しかし目の前に居るのは、控えめに言って、バーボンとは住む世界の違う女であった。現にこうしてベルモットにあっさりと個人情報を抜かれ、窮地に立たされている事にも気付けない。同じ水槽で泳がせたとすればほんの数秒で、その濁水に呼吸が出来なくなり死に至るに違いないだろう。

「それより、梓さんのハンドバッグはフサエブランドの限定品でしょう?雑誌で見て気になっていたんです」

 何か他にバーボンが固執する理由があるのだろうかと構えてみるが、その年相応の話題に笑みを零す律の姿には、ベルモットもうっかり毒気を抜かれそうになる。
 もしも律がバーボンの水面下で磨いている刃では無いとなれば、組織の一員として危険因子を調査する責務からは解放されるのだ。この見るからに無害な彼女を無闇に捏ね繰り回して、バーボンの機嫌をやたらに損ねるのも得策ではない。既にベルモットは一度バーボンに、脅しに似た警告を受けている。秘密という名の人質を取られているのは、ベルモットもまた同じなのである。

「本当は白が欲しかったんです。裏地のモノグラムが一番綺麗だなあって」
「黒も可愛いですよ。今日のワンピースに良くお似合いです」

 生暖かい風が揺らした梓仕様の人工毛を耳に掛けながら、ベルモットはグラスに並並と注がれたオレンジジュースの紙ストローを咥えた。粗く潰した果実の塊が、どろりとした甘酸っぱい液体と一緒に喉の奥へと落ちてゆく。
 そうして改めて見遣った花井律の顔立ちは、存外に整ったものだった。他と比べて際立って優れた部分など無いように思うのに、不思議と目が離せなくなるような魅力がある。それは彼女の素顔に他ならないのに、本当はそうではないような、妙なアンバランスさ。ぱっと人目を奪うような生き生きとした華やかさはではなくて、涼やかな初夏の宵にひっそりと羽を休めて光る、蛍のような静かな美を想像させる。隣に連れ立たせて己を飾るよりかは、この両手の中に捕まえてひとり密かに愛でたくなるような、そんな危うさがある。

「……そうね。白は貴女の方が似合いそう」

 この娘を私にくれと言えば、あの男はどんな顔をするだろう。今度は警告ばかりでは済まされないだろうなと、ベルモットは律に言われるがままにスマホの画面を覗き込む。モノグラムが好きだと言ったベルモットに、律は昨日ネットで発表されたフサエブランドの新作を紹介した。
 ベルモットにとってショッピングは趣味というよりも習慣に近いものがあるが、長時間に及ぶその遊びに付き合ってくれる連れというものに恵まれてはいない。組織の人間からは嫌われる事が多く、コードネーム持ちとなればいつ寝首を掻かれるとも知れないものだから迂闊に気を許せない。バーボンは呼び出せば荷物持ち程度の事はしてくれるが、ああでもないこうでもないと言いながら買い物を楽しみたいベルモットにとっては、うんともすんとも言わない可愛いお人形を連れ歩いた所で少しも面白くはないのだ。
 くれというのはあまりにも露骨だから、貸し出してくれと交渉してみようか。楽しそうに画像をスワイプしていく律の横顔ばかりをしばらく眺めて、ふと、咥内でストローの先を噛んだ。そもそも彼女はバーボンという男を知っているのだろうかと、そう思った。

「あの、律さんは今日、何故ここに?」

 彼女がどのような立場であれ少なからずバーボンと癒着があったのだとすれば、これ程真っ新なままで居られたわけがない。かと言ってあの薄っぺらい優男の安室透として接触したとしても、あれはバーボンの仮の姿であるのだからそこに確かな自我など無い。さて、そうであるならば彼女は一体あの男とどう繋がっているのだろう。榎本梓の知り合いなのだから安室透と面識があるのは確からしいが、それ以上の事が分からない。
 踏み込んでみたいような、踏み込む事が許されないような、彼等の秘密。表情には決して滲ませぬベルモットの口元が、あまりにも優雅に綻んでゆく。

「ああ、実は、隣のホールで明日のライブリハーサルがあるみたいで、」
「え?それってもしかして、波土禄道のライブですか?」
「あ、はい。……もしかして、梓さんも蘭さんに誘われたんですか?」

 しかし刹那、律の口から零れた毛利蘭のその名に、ベルモットは些か表情を固くした。無論、梓と顔見知りであるのだから毛利蘭とも繋がっている可能性はあったのだが、まさかバーボンと関係の深い律とそこまで親しくしているとは想定外である。

「いえ。私は、安室さんに誘われて」

 言うや否や、それまで花が咲くように笑んでいたはずの律は、途端に表情を凍らせた。口元に運ぼうとしていたアイスカフェオレのグラスを緩慢な動作でトレーに戻すと、夢から醒めたように瞼を数度瞬かせる。もしかして安室さんも来るんですかと、蚊の鳴くような声でしかし性急に律は尋ねた。受け入れ難い現実であるが、その如何を早くに確かめたいようだった。動揺と困惑と、少しの危惧。何の思惑も無く藪から棒にその名を出したわけではなかったが、律の反応はベルモットにとってやはり想定外のものだった。
 どう考えてみても、妙である。律がもしも純粋に安室透とばかり付き合いがあるのだとすれば、絵に描いたような好青年のあの男にそう怯える事もあるまい。しかしその問いを肯定すれば脱兎の如く逃げ出してしまうであろう律の様子に、ベルモットはどうしたものかと口を結ぶ。いずれにせよ律には不憫であるが、タイムリミットはもうすぐそこまで迫っている事にベルモットばかりは気付いていた。

「梓さん」

 やけに甘く、嫌に湿った声だった。つくづく思うが、彼の機嫌は声に出易い。
 びくりと身体を震わせて呼吸すら止まった律を横目に、ベルモットはゆったりと振り返る。

「遅かったですね。――安室さん」

 変わり映えのない甘いマスクの下に、噛み付かんばかりの殺気が立ち込めていた。針金にでも攣られたように表情を変えないバーボンに、ベルモットはあえて安室透のその名を呼んだが効果は無い。見えない拳銃でも突き立てられているような錯覚に、降参の意を込めてそっと両手を挙げるポーズを取る。実の無いそれが余計にバーボンの気に障ったのだろう、ベルモットはじろりと睨み上げられるばかりだ。
 無言の攻防が続く隣で、律がそろりと鞄の柄に手を伸ばしたのがベルモットには分かった。まさかそのまま逃げ出せるとでも思ったのだろうか、その僅かの希望を打ち砕くようにバーボンは言葉の矢でその退路を断つ。

「花井さんは、ここで何を?」

 珍しく、声の調子が乱れていた。バーボンが本当に律をその管理下に置いているのだとすれば、花見の時と同様、こうして自由に遊ばせているわけがない。特に今回は組織の任務の一環であるのだから、事前に律の参加を知っていたとすれば如何様にもそのルートを捻り潰した事だろう。そしてそれは律の方も同じく、安室が同行する事を知らされていなかっただろう事は想像に難くない。全く、偶然の産物とは恐ろしいものであるが、それ以上に余計に彼等の関係というものが心底不可解である。
 意を決しぎこちない動きで振り返った律の視線は、容易に安室のそれに絡め取られる。何を思ったのか律はその気迫に圧され、きゅっと唇を結んでしまった。

「私達と同じですよ。蘭さんに個別にお誘いされたんですよね」

 見兼ねたベルモットの助け舟には、律は僅かに頷きながら小さく返事を寄越す。
 その誘導が尚の事気に食わないのだろう、バーボンはあまりに分かり易く口の先を苦く歪めた。

「……へえ、そうですか。それならそうと教えて下さったら良かったのに」

 バーボンにしては余裕の欠ける、安室透にしてはやや高圧的な、誰とも呼び難いその知らぬ男の名。ベルモットには決して見せない、花井律ばかりが知るであろうその男のもうひとつの顔。傍から見れば彼等の上下関係というものは火を見るよりも明らかであるが、蓋を開けて中身を検めてみればそうでもない。バーボンは彼女を完全に支配する事が出来ず、そうしてそれを無理強いする度胸も無く、ただそうして現状に焦れている。そうして彼女の方は甘い言葉のひとつでも囁けば、こちらに転がり落ちてきそうな可能性すら秘めているのだ。さて、どう弄んでやるのが面白いだろうと、ベルモットは溢れんばかりの全能感に美しく歪んだ唇を開いた。花井律のスマホが着信したのは、その時だった。
 鳴り止む様子の無い着信に律は端末の表示を確かめて、何故か、バーボンの様子を窺う。発信者が分からないのはバーボンもベルモットも同じであるが、彼の方はその突然の乱入者に少しも気を取られる事は無い。

「どうぞ。出て頂いて構いませんよ。急ぎの用かもしれませんし」

 むしろそうしてバーボンは、律に通話を促した。許可というよりはむしろ遠回しの命令のようである。これには律も思わず怪訝そうに眉を寄せて、恐る恐るといった様子で通話ボタンをタップすると、端末を耳に充てた。律はやはり訝し気な表情で、発言のひとつすら許されずに肯定の返事を繰り返すばかりである。
 ようやく事の顛末を理解してベルモットは恨めしそうにバーボンを見上げるが、一瞥すら寄越す事なくバーボンは律を見つめている。短い電話はすぐに切電されると、律は少し不安げな眼差しで、初めてバーボンを直視した。

「……あの、すみません、急用が出来てしまって。すぐに、帰らないと」
「そうですか。分かりました。蘭さんには僕の方からお伝えしておきますよ」

 あまりに白々しい返事には、ベルモットは溜息すら零れない。彼等を取り持つ協力者の存在に周囲を見渡してみるが、目の付く所に潜んでいるわけもない。
 今を逃せば花井律への警戒が増してしまうだろうがしかし、こちら側の人間でないのならば花井律を迂闊に任務に巻き込みたくはないのはベルモットも同じである。バーボンは自分の介在が無かったとしても、現場で律と遭遇していれば間違いなく同じ行動に出ただろう。
 結局、ベルモットは少しの口惜しさと共に律を見送った。今度は一緒にお買い物に行きましょうねと、こちらも図々しく言いながら握った彼女の手はバーボンに千切れるのではと思う程の勢いで引き剥がされた。

「……、約束が違いますよ。ベルモット」

 すっかりと融けきった氷で薄まった橙色に、ベルモットは至極つまらなそうな顔でストローをくるりと掻きまわす。くどくどと嫌味を連ねられていたような気はしたがベルモットの耳には届かず、何処かへ隠されてしまうだろう花井律の事ばかりを考えていた。もう少しだけ、話をしてみたかった。彼女の知人の榎本梓としてでも、構わなかった。

 ――彼女、港区住まいなのねえ。

 何の気なしにポケットに突っ込んだ右手の指先は、先程律の財布からくすねたもう一枚の運転免許証にぶつかった。ひらりと摘まんで持ち上げたそれに、バーボンははたと動きを止めて、次の瞬間身を乗り出す。やはりその剣幕は、とてもではないが普段のバーボンでは無かった。

「アハハハハッ、ああ、可笑しい。これ、本物なのね」

 わざとらしく笑みを散らして右腕を仰け反らせたベルモットに、バーボンは今度ばかりは堪忍袋の緒が切れたようだった。急に冷えた瞳の温度に気付くのはベルモットの方が早く、早々に免許証をバーボンの前に放る。少し揶揄いが過ぎたのだろう、もとより殺し合いをしたいわけではない。今日のところは牽制球を二、三放れただけで、ベルモットは満足である。
 自分達のような人種というのは、失う物が無い程強くなれるものだ。大切なものを増やせば増やす程に付け入られる隙が多くなり、血で汚れたこの手では一生守り通す事など出来やしない。それを承知で彼もまた、花井律を宝物のように扱っている。その姿がまるで自分のようで、とても憐れに思えた。

「ジョークよ、ジョーク。……ただ少し、ブリュットのシャンパーニュが恋しくなっただけ」

 ぱちりと記憶の中で弾ける炭酸に、ベルモットは今はもう亡き同胞の名を思い浮かべる。その死に際すら明かされず、本当の名すら分からぬまま、そうして土に還った彼女はもう何度目の命日を迎えたのだろう。
 鞄の縁にあてがわれた金色の銀杏のモチーフは、僅かに差し込む夕焼けの光を受けて鈍くきらめいている。フサエブランドを好んだのはベルモットよりも彼女の方で、つまらぬ任務の話よりも、そんな普通の女友達が交わすような話を良くした。唯一無二の親友などと言うつもりはない。ただ少し、他の工作員よりも仲が良かった。ただ少し、他の工作員よりも可愛がっていた。

「――ミモザ、ですか。そういえばあの女は、貴女の配下でしたね」

 もうその声色に、甘さだけが無かった。誘われるように振り向いたベルモットにはもう、花井律の身分証をポケットに押し込んで、早早に席を立ってしまったバーボンの表情は分からない。迫る闇には、テラスに等間隔で飾り付けられた電球にぽつりぽつりと明かりが灯ってゆく。しかしその男ばかりはそのまま底無しの闇に引きずり込まれてしまいそうで、どうにも心臓のあたりがざわりと騒がしい。
 くるりともう一度ストローを回すと、ベルモットはコンサート会場への侵入にバーボンの口添えが必要である事を思い出し、慌ててハンドバッグを掴み席を立つ。グラスの中でゆっくりと沈殿した果肉の塊は氷の解けて薄まった上澄みと綺麗に分離して、もう二度と、混ざり合う事は無かった。


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