#62

 ロックミュージシャンの波土禄道が五年振りの新曲を発表するというニュースが発表されたのは、つい先週の事であった。何でも十七年も前に作成していた曲に漸く歌詞をつけ、明日のライブで派手にお披露目するとのことだから長年のファンは期待に浮足立っている。どうやら今回のライブを最後に引退の噂も飛び交っているようであるが、その真相は定かではない。
 風見裕也は黄色く変わった信号機にアクセルから右足を離すと、ちらりと静かなままの助手席を忍び見た。普段であれば延べつ幕無しに多弁である降谷零が、まるで舌でも抜かれた石膏のように押し黙っている。風見が取り急ぎ編集した波土のベストアルバムに聴き入っているのだろうかと、降谷の手に握られた携帯型音楽プレーヤーを覗くが、そうではない。正味二十分程度のそれは、既に再生を終えているようだった。
 何と声を掛けるべきなのだろうと、風見は困り抜く。不機嫌や不愛想を想像させる程度の、その僅かの愛すら感じられない。何かを思い詰めているようで、何も考えてはいないようにも見える、ただ美しいだけの眼差し。この男には名前が無いのだと言われても、そうだろうと納得の出来るような、あまりに感情の痩せた横顔だった。

「あと五分程で到着ですよ」

 結局風見の口から零れたのは、ありきたりなナビゲーションシステムの台詞のようなお知らせである。気の利いた言葉ひとつも絞り出せない己の不甲斐なさに、風見はハンドルを握り締める両手に力を込めるばかりだった。
 この所、風見は降谷の指示の下で例の新宿駅前交番爆破事件を追いかけている。広く公には、原因不明のガス爆発として事件性は無い事が報道されているが、真実は決してそうではない。使用された爆弾は東都大学の件で使用されたそれと同一である事に既に調べがついており、連続爆破事件として一部の人間の間では認識を共有している。特筆すべき相違点と言えばその被害規模だろうか、爆発によって施設自体は骨組みを残して半焼し、周辺の建造物もその爆風や飛散した瓦礫で損害を被っている。重軽傷者も多く出したが、何より、死者が出た。まだ風見よりも若い男女二名の警察官の命が、犠牲になった。

「すまない。何か言ったか?」

 公安の仕事というものは本来、事件化する前にその火種を揉み消す事に尽きる。世間に事件として認識されること程、不名誉な事はない。降谷も風見も、だから新宿爆破事件も引き続き前座と見て、その真の狙いを嗅ぎ分けようと奮闘している。言い方は悪いが国際テロ組織アダムが今回の一件を本命とするには、その被害はあまりにも小さすぎるからだ。
 しかしそうであるからと言って、失われた命を顧みないわけではない。己の粗末な能力故に守れなかった数多の生命には、いつも忸怩たる思いでいるのである。
 降谷は特にその傾向が強いと、風見は感じる事が多い。確固たる信念がそうさせるのか、生真面目な性格が背負い込んでしまうのだろうか、それとも大切な人を失った過去の古傷が疼くのだろうか。こういう瞬間が、時折、あった。耳元からイヤホンを外しながら言った降谷の顔は、いつもの降谷零に戻っていた。

「いえ。予習は順調ですか?」
「ああ、助かったよ。大ファンだと嘯いてしまったからな」
「ファンの間では『血の箒星』と『雪の堕天使』がツートップ人気のようですよ」
「ふうん」

 くるくるとイヤホンを本体に巻き付けると、降谷は興味なさ気にそれをコンソールに放り込む。人気ミュージシャンの最後ではと囁かれるライブのリハーサル見学など、熱烈なファンにとっては卒倒するやもしれない一大事であるが、降谷にしてみれば潜入捜査に付随する情報収集の一環に過ぎない事が良く分かる。
 風見には波土のライブが、例の組織と何の関係があるのか推論も立たない。しかしこの多忙な業務の合間を縫って、わざわざ波土のレコード会社のスポンサーである鈴木財閥の愛娘に取り次がせるのだから、徒ならぬ事情がある事はまず間違いないだろう。すっかりと板についた安室透のその成りで、降谷は現在地を確かめるように車窓から風景を一瞥しコンサートホールが近い事を認識すると、ポケットから取り出したUSBを同じようにコンソールに置いた。

「アダムの件で、動向を調べて欲しい対象者のリストだ」
「……まさか既に被疑者の絞り込みを?」
「いや、重要参考人だよ。二日で完了しなければ連絡をくれ。人員を割く」

 薄っぺらい小さな記憶媒体は、妙な存在感を放って黒光りしている。風見がもたもたと事件の詳細を調査している内に、相変わらず一歩も二歩も先を行く男であるが、今はその経緯を事細かに聞き出している余裕もない。リストの中身を見れば多少は降谷の頭の中身というものに辿り着くだろうと、風見は短く了解の旨だけ返事をしてUSBを胸ポケットに収めた。
 安室透として今夜は情報収集に勤しみ、その後はバーボンとして例の組織に事実報告をしなければならない。同時進行で降谷零としてアダムの本体を叩かなければならないし、赤井秀一の調査は引き続き継続する必要に迫られている。加えてこのタイミングで花井律は喪失していた記憶を一部回復するものだから、降谷の精神的な疲労度は計り知れない。せめて何かこの手で賄える事があればと、風見の願いはそればかりである。

「いずれ身柄を抑えてもらう事になる。そのつもりでいてくれ」
「分かりました。手段は?」
「問わない。適当に罪状を誂えてくれて構わないよ」

 花井律に定期的に連絡を入れるように降谷から頼まれたのは、新宿爆破事件が発生した翌々日の事であった。
 律は当時爆破事件の現場に居合わせているが、それは突発的な犯行というわけではなく入念な計画に基づくものであって、偶然クリニックを訪れた律が巻き込まれたのは単なる不運に他ならない。しかし、五年前の花井誠一郎銃殺事件が、綾瀬と誠一郎の対立構造の末にあるものだとするのならば、律がその残党のアダム構成員に逆恨みされても不思議ではなかった。公安職員の身元というのは一般の警察官よりも厳重に管理され、守られる。律が誠一郎の親族である情報も例に漏れないが、東都大学爆破事件の頃から降谷が律の身を気に掛けていた事を思えば、何か危惧すべき理由が他にあったのかもしれない。記憶を失くしている事もひとつの不安要素なのだろうと思うが、事のあらましを全て詳細に掴んでいるわけではない風見には、まだ、定かではない。

「……風見?」

 歩道の様子を窺い返事を忘れていた風見には、降谷がちらりと視線を寄越した。飄飄として何の悪びれも無く言った降谷の姿に、ふと過去の花井律の姿が蘇っていた。

「ああ、いえ、すみません。似たような指示に昔、花井が噛み付いた事があったなあと」

 ありもしない罪をでっち上げるのが私達の仕事なのかと果敢に降谷に盾突いて、君はこの仕事に向いていないから辞めろと、降谷にはそればかりを無情に繰り返されていた。降谷さえ相手にしなければ行儀の良い優等生であった花井律は、いつも無謀に降谷ばかりを相手にしては返り討ちにあっていた。あの頃の降谷と言えば、その持てる技術を律に教え込む癖に、二言目には辞めろと冷徹な目で促すものだから、風見はそれを大層不思議に眺めていたものだった。

「そうだ、あの時、彼女は無断で単独捜査をしたんです。成果を出したのに降谷さんに死ぬほど叱られたと、そう言って拗ねて……、」

 大きく左に回したハンドルに、無意識に出していたウインカーの切れる音がした。懐かしいやり取りを思い出しながら、風見はようやく、我に帰る。今までそうして降谷と、露骨に過去の花井律を回想した事など無かった。降谷が気を張り詰めているであろうこの瞬間に、何と無神経な思い出話だろう。
 途端に全身の血が凍るような思いで、車内の空気が一転してささくれ立ったような気配がして、風見は降谷の顔も見れぬままゆっくりと道路脇に車体を寄せていく。
 やり場のない後悔が、背筋の辺りに押し寄せていた。こくりと固唾を呑んだ風見の喉仏が、大きく上下する。視界の端に伸びた降谷の褐色の右手の人差し指が、風見が忘れたままのハザードボタンを、押し込んだ。

「――彼女とは、少し距離を置いているんだ」

 チカチカと点滅するハザードの音が、弾力無く浮沈を繰り返している。低く唸るように絞り出したその声音は、断定的な物言いなのに不思議とある種の迷いを孕んでいるようだった。
 まるで我が身で我が身を灼くような、後悔と未練。それが透けて見えるようでいて、しかしその弱さを自分に許せずに、降谷の表情は悲哀にというよりもむしろ憮然と歪んでいる。

 ――花井律と、何かあったのだろうか。

 降谷零という人間はいつも、毅然たる態度を失わない。生来のものもあるだろうが、失敗の許されない厳しい任務の環境下で、何十人もの部下を束ねなければならない立場で、己の立ち振る舞いというものが周囲に甚大な影響を与える事を良く理解している。
 だからその降谷が感情の色を消したとしても、そうして濫りに感情を裂く事は稀だった。彼女が突然行方を暗ました時も、彼女が突然手元に戻った時も、そうして彼女に本当の名前を与えた時も。風見の知る限りでは、それは花井律だけのものである。

「いつまでも折り合いがつかなくてな。……俺はずっと、束縛という方法でしか愛してやれなかったから」

 風見はいつも、降谷を見てきた。花井律を自分の恣にしようとする、降谷を見てきた。
 気に入りの玩具を独り占めしては愉悦に浸る、子供の遊戯のような歪んだ一面。誰の手垢もつかないように腕の中に仕舞い込み、ひとり遠くへ行ってしまわないように手綱で繋いで、君はここでしか呼吸が出来ないのだよと耳元でそっと囁き続ける。そうして当の本人は、それが彼女のためなのだと心の底から信じていた。
 
 "律は結婚願望があるの?"
 "え?うーん。そうですね、まあ、いずれは"

 傍から見れば異常にも映るその愛情に、どうしてまともに好意を伝えてやらないのだろうと――それがどのような性質のものであれ――風見は何度も思った事があった。
 しかし、それが今ならば分かる。これが愛なのだと。これが、降谷零の愛なのだと。仕事に全てを捧げる事を誓った男の、決して自分のものには成り得ない彼女への、これが唯一の逃げ道だったのかもしれないと。

「他にどうやって律を大切にしたらいいのか、手を離してやることが律の幸せなのか。もうずっと、そればかり考えている」

 それはまるで、もう何十年も盛りを忘れたまま育った蕾が、柔らかな愛を食べて、ゆっくりと花開く瞬間のようだった。あまりにも分厚い瘡蓋で守られていた心の膿を、降谷は今、俯瞰している。己のその手で捲り上げたその傷に触れて、真っすぐに向き合い、迷っている。
 風見は、思わず打ち震えるような激情に、胸に熱く迫るものがあった。すぐにでもこの狭い空間を飛び出して、叫び出してしまいたい。しかし確かに誰かにそうしてこの胸の内を聞いて欲しいのに、一方で言葉にしてしまえば消えてしまうのではと心配になるような、淡く繊細な感動。

「……、降谷さんがそうして花井を想って悩む心も、人は愛と呼ぶのだと思いますよ」

 じわりと指の先にまで集まった熱が、瞳の奥の方でも涙腺を刺激するのが分かる。
 花井律を巡る運命の悪戯は、果たして彼等を幸福にしたのだろうか、否か。

「花井の心は花井にしか分かりません。お二人で、お二人の言葉で、話し合うべきではないでしょうか」

 もう二度とは巻き戻せぬそのその過去に、前者であって欲しいと風見は祈る。降谷も律も、そうして自分自身も、また一歩前へ進んでいかなければならないのだ。
 何処を見つめていたわけでもない降谷の視線が、風見のそれと深く交わる。やはり、美しい眼差し。――そうだよな。と、苦い笑みを頬に含んで、吐き棄てるように零れたはずの静かな言葉は、今度は何処か慈愛に溢れるようだった。

「この一件が片付いたら、ゆっくり律と話す時間を取るよ」

 チカチカと、ハザードの音は止まずに車内に響いている。カーナビの左上隅に表示されたデジタルの時計は、約束の時間に近づいてまたひとつ時を刻んだ。降谷はその様子を横目にシートベルトを外すと、安室仕様のさらりとしたリネンのジャケットに袖を通してゆく。

「ええ、そうしてやってください。花井もきっと降谷さんからの連絡を待って……、……え?」

 ドアハンドルに手を掛けたまま、降谷は緩慢な動作で風見を振り返る。思わず声を上げた風見を不思議そうに一瞥すると、状況を呑み込めない風見の言葉を待つよりも先に、降谷がその視線を辿ってゆく。
 風見はリハーサル会場であるホールの正面玄関口やや手前の路肩に、車を停車させていた。住宅や飲食店が立ち並ぶ賑やかな大通りであるが、その一角にある、青色の格子状の桟が目に鮮やかな白壁の喫茶店は、若い女性の間で名が知れておりこの界隈の人気店であった。平たい洒落たパラソルは夏の草臥れた日差しを遮って、風の抜けてゆくテラス席はさぞ居心地が良い事だろう。
 其処に、花井律は腰掛けていた。降谷の潜入先のひとつであるポアロの女性店員と、肩を並べて。

「……、榎本さんが、何故ここに?」

 それ以上に律は何故ここにと、何やら談笑している様子の二人に風見の眉間の皺は深くなってゆく。
 風見はバイト終わりの降谷をピックするために、喫茶ポアロの近くで待機していたが、降谷よりも先にシフトを終えて帰宅する榎本梓の姿をつい数十分前にこの目で確かめている。どうやら本日同行する毛利蘭や鈴木園子が梓も誘ったようであるが、彼女は波土に興味が薄くその誘いを断っている事を風見は降谷から聞いていた。その梓が、一体何故、ここに。偶然、会場近くの店で律と約束をしていたのだろうか、しかし、そもそも彼女らが個人的に親しいという話を風見は耳にしたことが無い。

 ――まさか、あの女。

 思わず窓硝子に手をついた降谷は、その光景に目を瞠る。絞り出されたような地を這う声音には、隠しきれぬ怒りと独特の凄みを燻ぶらせていた。
 バイト仲間の梓に向けたにはやや乱暴な言葉尻に、風見はそれ以上尋ねる事を躊躇って、もう一度視線を持ち上げる。その時、うっすらとした違和感の答えが出た。記憶に新しい梓の顔は確かに目の前の女性と瓜二つであるが、ラフなパンツ姿だった私服は何故か可愛らしいワンピースに様変わりしている。
 視界の端で音無く握り締められた降谷の左手は、小刻みに震えていた。言い知れぬ不安に苛まれる風見の目に、無垢に笑う花井律の横顔ばかりが、やけに遠くに感じられた。


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