#61

 シャキンと金属の擦れるやけに小気味好い音が鳴ったわりには、花井律の顔には俄かにすっと暗い影が差した。思わず小さく漏れた声に赤井の瞼が持ち上がりそうな気配がして、何でもないからと平静を装った声で先手を打つ。
 脂の無いさらりとした額からやや癖のある髪の束を持ち上げると、歪に鋏の入った前髪を眼前に律は更に表情を険しくした。ビニール袋で施した即席ケープの下の方で、削ぎ落した片割れは既に他の毛束の海に紛れてしまっている。律の言葉に従順に目を瞑り続けている赤井の顔をまじまじと眺めながら、諦めたように吐息のような溜息を零した。彫り深く目鼻立ちの整ったその美しい顔立ちならば、多少の難を人は指摘する事すら憚るだろう。軽くなれば何でも構わないとは言われたものの、鏡に映った出来栄えに顔を顰めるであろう赤井の姿を想像して、不揃いなそれを均すために律は再び銀の鋏を握り直す。
 それで、ブルートフォース攻撃でしたっけ。やはり平然を装って、律は話を戻した。

「いわゆる総当たりだよ。原始的だが確実だ」

 机上で開かれたままの赤井のラップトップはその小さな画面の中でひとりでに、規則的に変化するコードを絶え間なく衝突させている。開始から既に四時間と少しばかりが経過しているように思うが、たった一枚門戸を閉ざしただけのその城塞に律はまだ締め出されたままだった。
 単純な数字錠ならばいざ知らず、その十ばかりの数字に加えて、二十六文字のアルファベットは大小で区別され、三十種類以上の記号まで組み合わせる事ができるのである。これらを全て入れ替えて作成されようものなら、堪ったものではない。鍵の材質も、形状も、重さも、何もかも中りすらつかぬまま、ひたすら鍵穴にねじ込んでは抜き、ねじ込んでは抜く気の遠くなるような作業である。

「……解析できるでしょうか?」
「パスワードの強度による。過去の君が手加減してくれることを祈るしかない」

 約束の週末、茹だるような暑さの昼下がり、指定された一室のチャイムを鳴らした律を赤井は歓迎した。木材を基調とした部屋は以前と比べコンパクトで華美ではないが、柔らかな色合いの照明に包まれた空間は心地の良い温かさとすっきりとした品がある。何より、特にキッチン回りの充実したライトコンドミニアムに近い部屋の設備は、外出の儘ならない不自由さというものを忘れさせた。持ち込んだ食材で簡単に調理をし、並んで和やかな食事をとる事すら出来る。あの小さな貸しアパートで暮らしていた幸福な時間を、束の間思い出すようだった。
 そうして食後のコーヒーを啜る頃になっても、やはりパスワードは突き止められない。後でプログラムを書き換えて照合率を高めてみるよと、宥めるように優しく言い聞かす赤井にはだから、何かお礼に私にできそうなことはありますかと律は尋ねた。赤井はしばし答えに迷った後で、途端に閃いたようにぱっと顔色を明らめる。ならば髪を切ってくれないか、最近少し伸びたんだ。予想の斜め上を行った要望に、律は戸惑いながら鋏を探した。

「生年月日や名前のような、ありがちなものは試してみたんですけど」
「難しいだろうな。以前の君の嗜好も分からない」
「嗜好……好きな食べ物とか、音楽とか、そういうものですか?」
「ああ。それに、女は良く個人名を使いがちだ」

 個人名と、そう指摘されて、だからそれはもう試した言っただろうと律は胸中で返事をする。律は自分の名前はもちろん、両親の名前、それに生年月日やら電話番号やら、良く使用されやすい文字列やらを組み合わせて思いつく限りを強引に繰り返したが、それでもやはり鍵は開かなかったのだ。そもそも、いくら過去の自分とは言え、律は己が他人に容易に類推されるようなパスワードを設定するとは思えない。
 シャキンと、今度は刃先ばかりを揺らして、控えめな音が二人の僅かの隙間に響いた。まだ途中ですよと、思わずそう咎めるように言った律を、気紛れに開いた真意の読めぬ両目がじっと見つめる。橙色の照明の色に反射して、淡い光が揺れていた。

「恋人の名前とかな」

 妙な温度を纏った、一言。蠱惑的なその瞳に見つめられると、遠かったはずの声がまるで耳元で囁かれているように、ぐっと近く感じられる。その奇妙な錯覚と、まるでその発想に至らなかった自分に驚いて、律は狼狽した。他意はないよと赤井は意地悪く口角を持ち上げると、何処か満足げに瞼は落ちてゆく。
 再び晒された無防備な男の顔に、律はまた、鋏を握り直した。取り返しのつかないような前髪にしてやろうかと、途端に凪いだ心にはそんな邪な事を考えた。

「そういえば、私のスマホのパスコードはどうやって?」
「織枝の端末を使っていた時から変えていないだろう?使い回しはあまりお勧めしない」

 時刻は午後六時に差し掛かろうとしている。夏の日差しの長さに時間感覚が惑わされそうになるが、然程しない内に窓の向こうも夕闇に包まれていくだろう。
 今晩は泊まっていけるのだろうと、昼食を食べながら当たり前のように確認した赤井に律は返事を濁している。家に帰らなければならない理由は、無い。降谷とは相変わらず連絡を取ってはいないし、律の知らない所で自宅に寄っている形跡というのも無い。律が一晩家を空けた所で降谷には分からないし、そもそも律が何処で何をしていようが降谷の関知するところでもないのだろうと、そう思う。
 しかし、もしかしたら、今日は帰って来るつもりでいるのかもしれない。毎晩裏切られ続けているその期待が、やはりまだ律は、捨てきれない。

「あまり変えすぎても、忘れるリスクが増えますし。まあ、赤井さんは大丈夫でしょうけど」
「そうでもないさ。寄る年波には勝てんよ。……この目も、あと何年持つか」
「……、目が悪いんですか?」

 終わりましたよと、大胆な最初の一太刀を忘れさせる程度には整った前髪に、律は言った。同時に赤井が瞳をぱちぱちと数度瞬けば、何処からともなく下瞼に落ちた毛の切れ端に、律は親指の腹で撫でるようにそれを払ってやる。こそばゆそうに、頬の辺りが僅かに痙攣した。

「言っただろう?俺は狙撃手だ。視力が落ちれば現場には居られない」

 その物言いに、葛藤は無い。配置に執着がないようには見えないが、希望する異動先に大体の目星はついているようで、己の使い途というものを非常に理性的に考えている。
 赤井はあの晩、自分の立場というものを律に良く言って聞かせた。日本での任務が今後どのような局面を迎えるか定かではないこと、そして、決着がつけばいずれは本国での任務に当たるため渡米しなければならないこと。それは、彼の単なる身の上話などではない。その想いにどう応えるかは差し置いて、近く迫る将来についても見越しておけということだ。
 ありがとう、すっきりしたよと、随分と梳いた後頭部を左手で摩りながらビニール袋を丸め始めた赤井と、不意に視線がぶつかった。言い知れぬ漠然とした不安が、律の心に揺蕩っている。

「……先の事を、しっかり考えているんですね」
「当たり前だろう。君は考えないのか?」

 何の気無しに赤井は笑ったが、律は決してそれに同調できはしなかった。まるでひとり孤島に取り残されてしまったかのような寂寥感に、胸の辺りが息苦しくなる。
 律はもうずっと長い間、五里霧中を彷徨っている。行き当たりばったりの立ち往生、先の事を考える所か、現時点の自分の立ち位置すら怪しいものだ。しかし、律はそれが当たり前だと思っていたし、一向に晴れる兆しのないその霧を当然のものとして受け入れる節があった。何せ、自分は記憶障害を患っている。それを盾にしていたつもりはないのに、その事実は何処かで律に一種の諦めと悟りを与えたに違いない。他人にそう指摘されるまで、律は今後どう生きていきたいのかなどと、真面目に考えた事がなかった。
 突如与えられた難解な命題に、律は答えを見つける事が出来ずに押し黙る。ふらりと視線を遣った先で、律の過去を解き明かそうと意味の持たないコードは必死に藻掻いている。なぜ降谷君を頼らなかったんだ。じっと画面から目を逸らせずにいた律に、赤井は静かにそう尋ねた。

「不本意だが当時の君の事なら、彼が一番良く知っているだろう」

 妙な威厳と落ち着きのある声だった。問い掛けている癖に、もう既に答えなど掌握しているような口振りだった。
 確かに降谷を頼れば、赤井の手を煩わせるまでも無かっただろう。もしかすると降谷はパスワードそれ自体を把握していたかもしれないし、そもそもこう不確かな答えを探さずとも、綾瀬明の名そのものに心当たりもあったのかもしれない。いくら仕事が忙しいと言えど、いくら律との心の距離が開いたとしても、律の願いを降谷が邪険にすることだけは無かっただろう。
 それでも、それでも律は降谷には連絡を取らなかった。何か伝言はありますかと尋ねた風見にすら、相談することができなかった。

「……あの人は、花井律の過去に囚われて、苦しんでいるから」

 そう紡いだ唇が、微かに震えていた。赤井を見遣る。肯定も否定もしてはくれない、何かを確かめたいようでいて、どうも無感動に白けた眼。意味のない答えだと、退屈な答えだと、何故かそう咎められているような気分になる。答えを知っているのなら教えてよ。そう、言ってしまいそうになる。
 律には、正解が分からない。花井律がもう二度とその手中に戻らない事を気取った降谷に、その器ばかりが同じ自分が傍に居ることは、酷なのではないだろうか。降谷から花井律を取り上げてしまった自分が、その癒えぬ傷口に触れることなど、烏滸がましいのではないだろうか。何が二人にとっての最良の選択になるのだろうか、律にはそれが、分からない。

「――君は過去を知ってどうしたい」

 赤井は鈍色の眼のまま、そう問うた。あまりに抽象的なようでいて、あまりに本質を揺さぶるような問いだった。
 どう、したいのだろう。律は数日前に自宅で荷物をひっくり返して、ただひたすらに花井律の過去を探っていた自分の姿が脳裏に過る。

「君がどう生きようと、俺は君を想う気持ちは変わらんよ。過去を糧にこれからを生きたいと言うのなら、それを尊重したい。だからこうして君に手を貸している」

 少し熱を帯びた指先が、律の手の甲を滑るようになぞった。不思議だった。ずっと赤井と律が有耶無耶にしてきた現実を、赤井はもう逃がす事なく直視するようだった。
 赤井秀一と言えば、花井律の過去を握り潰した張本人である。律に仮屋瀬ハルとして生きる事を望み、真っ白なキャンパスから始まった仮屋瀬ハルの日常を守ってきたのだ。過去を忘れて生きてくれと願ったその心は、まだ赤井自身に色濃く息づいている事だろう。律がそれを許したのならば、赤井はまた永倉圭の仮面を被った事だろう。
 道理で、あの夜確かに感じた底なし沼に沈みゆく倒錯的な心地良さのようなものが、今の赤井には無い。赤井は律のように、いつまでも決断を避けてないものねだりなどしない。自分の手に残したいものをきちんと吟味して、取捨選択をする強さがある。

「だが、いくら過去を知った所で以前の君に戻れるわけではない。君は一度記憶を失った。これはもう、変えようのない事実だよ。受け入れて、前を向くしかないんだ」

 そうさせたのは、律だったのだろう。花井律が所有していたラップトップの鍵を開きたいと強請った律に、赤井は何も言わなかった。あの時、赤井は電話の向こうで何を想っていたのだろうか、今になって口惜しさのようなものに身体が芯から痺れるような心地がする。
 赤井の言うように、律が記憶を喪失した事実はこの先もう動かない。それは律が夏葉原事件当時の記憶を回復したように、今後全ての記憶を思い出すことがあったとしても、同じだろう。花井律には戻れない、仮屋瀬ハルにも成り切れない。しかしそうしてこの先の人生を、まだまだ長い人生を、生きていかなければならない。

「徒に過去に振り回されるなら、苦しむ君を見たくはない」

 もしも赤井秀一が居なかったとしたら、もしも降谷零が居なかったとしたら。花井律のこの手は、私のこの両手は、何をする事を望んだだろう。
 小さな町の片隅で過ごす変わり映えの無い穏やかな毎日に幸福を見たのだろうか、この国を守るために人知れず尽力する充足的な日夜に幸せを感じたのだろうか、それとも、律の知らない悦びに心が震えるような何かが、他にあったのだろうか。
 指の先が俄かに冷えて、堪らず静かに握り込む。断続的な作動音を鳴らす赤井のラップトップはやはり、律の過去を抉じ開ける鍵を探すために、動き続けている。

「過去に囚われているのは、君の方だよ」

 律は無言で、暗い画面に浮かんでは消え、浮かんでは消える青磁色のコードを眺め続けた。
 赤井はその様をやはり厭わず、くしゃりと一度律の髪を撫ぜると席を立ち、切り落とした頭髪の入ったビニール袋をひとつも躊躇いも無く屑籠に放り込む。がさりと妙に物悲しい音を立てながら、底の方に沈み込んだそれをもう律の目が捉えることはできない。

「律。やはり今晩は泊まっていったらいい。……雨が、降りそうだ」

 赤井が音を立てて引いたカーテンの向こうには、くすんだ薄雲が拡がり始めていた。
 湿っぽい煙幕のように窓枠に展けた風景は、まるで陰りの差した己の心のようだった。


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