#60

 赤井秀一の腕の中で微睡みながら、花井律は回顧録に似た夢を見たような気がした。
 麻のような柔らかい雨が、その壁画の中に降っている。雑踏の多い街中の片隅で、おそらく著名な画家が描いたであろう圧倒的なスケールのそれを、真面に眺めているのは律と降谷ばかりだった。経年劣化により端々に塗料は剥げ、完成当時の美しさは既に失われているようである。早早にその映像を見飽きた律は、どうにか隣に立つ降谷の表情を確かめたいのに、花井律の視線は正面に奪われたまま動かない。
 忘れた頃になって漸く、律の口は徐に開いた。言い終えてゆっくりと持ち上がった視線は、その端に降谷を捉えると、愉しそうに撓ったのが分かる。降谷は珍しく虚を突かれたように表情を固くしたが、次の瞬間には可笑しそうに小さく笑うと、彼もまた何か言葉を吐き出した。どちらが何を問うて、どちらが何を答えたのか、それが律には分からない。どうにも悔しく躍起になって耳を澄まし瞳を開こうとするが、律の双眸はまた壁画を映しその一点に吸い込まれていく。
 律と、揺すられるように名前を呼ばれて、ふいに目が覚めた。まだ薄闇の夜明け前、泥のような眠気が後頭部の辺りに残っている。もう少しだけ夢の続きを見させてよと、俯くように閉じた瞼から解けるように仄かな温度が零れ落ちた。律。赤井の呼ぶ声が、二度目はハッキリと耳元に響くようだった。泣いているのは私なのに、どうしてあなたの方が悲しそうにするのと、そう言いたくなった。

『ええ、少し立て込んでいて。降谷さんなら変わりありませんよ』
「……そうですか」

 新宿駅前の爆破事故から五日が経過し、一時は過熱していた報道も既に収束したようだった。律は週明けから通常通り仕事に復帰しているが、記憶の回復が業務に支障を来たすようなこともない。降谷には二、三日休めば良いのではと心配をされたが、二、三日休んだ方が良いのはむしろ降谷の方だろうと律は思う。どうやら新たな仕事が舞い込んだようで予定されていたはずの降谷の休暇は先送りされ、旅行の計画も結局白紙に戻っていた。言っても、そうでなくとも降谷と律の間に急に沸いた微妙な距離感に、このタイミングで二人で遠出などが本当に出来たかどうかは定かではない。

 "あの日、本当は律と喧嘩をしたんだ"

 余韻のように全身に残された、降谷の体温が忘れられない。きつく背に回された両腕は加減を忘れたのだろうか、その苦しさに律は思わず顔を顰めた。見た目の割に厚く広い胸板、その脈動すら伝わってきそうな熱い指先、擦れた頬はかさりと少し荒れていた。足元の覚束ないような、目の眩むような、酔いにも似た感覚が律の身体の底の方からせり上がってくる。
 ほんの僅かだった。ほんの僅か身じろげば、重なり合ってしまうかもしれないと思う程に、降谷の唇が近かった。形の良い薄いそれはやや不健康に色付き悪く、何かを言いたげな眼に反してその両端を窪ませる程に固く結んでいる。降谷らしくはない、ただの重たい沈黙。屈強なはずの青年の心が、その軸を見失ったかのようにアンバランスに揺れている。降谷はまるでそれを晒す事を嫌がるように、強引に律の顔を自分の肩口に押し付けた。汗と香水の、微かに混じった匂いがした。

 "ずっと、律が大切だったから"

 律はこの頃、記憶喪失以前と以後の自分に振り回される事が多かった。夏葉原事件当日の記憶を思い出し、しかし律の危惧していたような大きな人格の乖離がなかった事は、今回の一件で唯一の幸運だったと言っていい。二人の花井律は決してひとつには成りやしないが、どちらか一方の幻影に完全に呑み込まれるような事も無い。降谷への想いが全くの同一ではなくとも、その根っこの部分に齟齬が無い事が良く分かる。明け方にいつかの降谷との記憶を垣間見たせいだろうか、東都シティホテルから乗ったタクシーの中で、律はそんな事ばかり考えていた。
 ただそれが、降谷の目にはどう映ったのだろうか、律にはそれがずっと分からないままだ。あの時降谷が吐露したのは、降谷の当時の花井律に対する気持ちでしかない。だから降谷は、黙ってしまったのだろうか。本当に抱き締めたかったのは、今の律に塗り潰されてしまった花井律なのではなかったのだろうか。
 ――私は、今も降谷を。今だって降谷を。そこまで考えて、律はぐしゃぐしゃと己の頭を揉んだ。またひとつ、箱詰めされていた段ボールの封を勢い良く切る。

「忙しいとは聞いていたんですけど、着替えすら取りに戻っていないようなので気になって」
『ああ、それなら安室透の住まいに帰っているようなので、心配ありませんよ』

 いざとなれば自分の方でも手配しますしと、そう律の不安を削ぐような軽快な物言いに、しかし律の手はぴたりと止まる。
 風見裕也に悪気はない。むしろこうして状況を知る術の無い律のために、時間を作ってわざわざ電話を折り返してくれた事に感謝するべきだろう。しかし、どうにも心の隅に育った蟠りの芽は、風見が無造作にくれる水ですくすくと育ってゆくのである。
 降谷零はあの日、昼頃には家を出て行ってしまったようだった。ようだったと曖昧なのは、律が昼食の準備のために近所のパン屋に出かけて戻ってくると、既に家はもぬけの殻だったためである。ダイニングテーブルの上には、仕事でしばらく家には帰らない旨の、あまりに簡素な走り書きのメモが残されていた。電話でもメールでもなくて、何故一方的な書置きなのだろう。まるで連絡を寄越すなという意思表示のようで、二人分のパンの入った買い物袋を眺めながら、律はその薄っぺらい紙きれをぐしゃりと握った。

『ご伝言があれば自分の方から伝えておきますが?』
「……いえ、特にありません」
『そうですか』

 避けられているのだろうと、そう思う。あれ以来降谷からの連絡は一切無く、律は今降谷が何処で何をしているのかさっぱり分からない。この頃の律は降谷の身の回りの雑務を請け負って、わりと密に連絡を取りなかなかに協力関係を築いているような気でいたのだが、それが一瞬で崩れ去りどうやら振り出しに戻ってしまったようである。律の居る自宅に帰るよりも、誰も居ない安室透の別宅に帰りたいのだから、言わずもがなである。
 しかしその間誤付いた関係をどうにか立て直そうにも、思い当たる節と言えば複雑に入り組んでいる。記憶を回復した事で降谷は律にさぞ思う所が多かっただろうし、律には分からないような違和感に距離を置きたいと思われたのかもしれない。降谷は律に仕込んだ追跡アプリを皮切りに仮屋瀬ハルを謀った事を打ち明けたが、赤井秀一のその名ばかりは最後まで口にする事はなかった。赤井と同様、二人の関係というものは機密である任務に深く根を張っているようだから、律はやはり何を聞いて良いのか、何を聞いてはいけないのかその判断が出来ず閉口するしかなかった。降谷の目には赤井との関係を覆い隠したいように映ってしまったのだろうか、律にはやはり、定かではない。

『……あの、先程から何かされていますか?テープを剥ぐような音がずっとしていますが』

 電話中始終気になっていたのだろうか、風見の不審がる声に、律はまたひとつ荷物の封を切ろうとしていた手を止める。
 もしもあの時降谷が仮屋瀬ハルとして生きる事を許していたら、私は今もあの町の片隅で、永倉圭の帰りを待ち続けていたのだろうか。別の未来の可能性は、ふと浮かんで、すぐに消える。どうしたってこれが己の命運だったのだろうと、不思議とひとひらも拒む気持ちは沸かなかった。

「すみません、煩かったですよね。引っ越しの時の荷物を整理していて』
『え?荷物の?荷解きをしているんですか?』
「はあ、まあ。それが何か?」
『ああ、いえ。降谷さんが、あなたが荷解きをしないのはすぐにまた越す気でいるからだろうと、当時憂えていたので』

 降谷さんも安心しますねと、何故か風見が声色を明らめて、律の何とも言えぬ適当な相槌など気にも留めない。
 律は春先に自宅から荷物を引き揚げているが、その殆どが養生されたままの状態で降谷宅の一角を占拠していた。降谷の思うような目論見が少しもなかったと言えば嘘になるが、そもそも律の身の回り品などは仮屋瀬ハルの持ち物で事足りており、必要なカードや証明書の類は事前に降谷から受け取っていたものだから、あえて花井律の荷に手を付けなければならない動機が無かった。それに当時と言えば丁度律は記憶喪失以前の花井律について頭を悩ませ始めた頃であり、何処かでその過去を知る事を嫌忌していたのだろうとそう思う。
 律は開いたばかりの段ボールの中から、学生時代の参考書を取り出してはぺらぺらと捲った。降谷はいつも律を手元に置きたがったが、それはやはり、以前の花井律が大切だったからだろう。今となってはもう、降谷はむしろ律の退去を望んでいるのではとも思えるが、どうやらまだ風見は知る由もない。

『では、また何かあれば連絡を。爆破事件が続いているので、くれぐれもお気を付けて』

 背後で遠く、誰かが風見を呼ぶ声が電話口にも届いた。時刻は既に午後十時を回っているものだから、避けられているとは言え仕事が忙しいというのは本当だろう。
 降谷さん程ではありませんというのが風見の常套句ではあるが、降谷の下で働く内に彼も労働の価値観というものが歪みが生じてはいないだろうか。静寂の戻った部屋でひとり呆れながら、再び律は段ボールの中をガサガサと漁る。爆破事件が続いている?と、その時不意に、聞き流した風見の言葉が蘇った。
 律の記憶に残る爆破事件と言えば東都大学のそれである。現場に居合わせた新宿の爆発騒ぎは事故として報道されているし、律の知る限り他に事件性のあった騒動などはない。一体何を指して警告しているつもりなのだろうと、律は思う。しかし底の方から顔を出した卒業文集に、既に僅かの違和感など霧散して関心が移ってしまっていた。

「……やっぱり、知り合いじゃないのかな」

 五十音順に並んだ同窓生の名前を手早く確かめながら、律の眉間の皺は深くなっていく。
 風見の期待に応えられない事は残念であるが、律は何も降谷の自宅に定住する事を決めて過去の荷物をひっくり返しているのではない。整理どころか、フローリングの上に乱雑に散らばった思い出の品の中央で、律は米神の辺りを指の腹で揉み続ける。
 三吉彩花からメールを受信したのは、三日前のことであった。メッセージの内容が理解出来ずに、当人に直接確かめようとその日に広報課に向かえば、彼女はどうやら週明けからリフレッシュ休暇を取得しているようだった。職務に関わる事だろうかと周囲に確認しても誰も覚えがないようであるし、もちろんどう記憶を掘り返してみても律自身も同じである。仕方なしに律は取り急ぎ内容を尋ねる旨の返信を打ったが、三吉からは一向に返事が無い。プライベートで電話を掛けた事などないし、そもそもあまり緊急性のある中身では無いように思えたから、誤送信だったのかもしれないと律はあまり気にせずにいたが、そうしてふと思い至る。もしかすると、私が忘れてしまっているだけなのかもしれない、と。

 ――ポーン。

 切電したばかりのスマホが、メールの受信を知らせる音を鳴らした。噂をすればと律は文集を放り投げて慌てて画面をスワイプするが、差出人は三吉ではない。沖矢昴。つまり、赤井秀一である。
 少しの躊躇いと、少しの緊張の後で、律はメールを開封した。週末の約束を取り付けていたが、あの日以来、赤井とまだ連絡を取ってはいなかった。案の定、内容は待ち合わせ場所の詳細である。ホテルの部屋番号と時間が記載されたそれに、これといった用事があるわけでもないのに何だか密会じみてきたなと、思わず呟きながら律は神妙な面持ちのまま了解の返事をした。散らかした部屋を片付けなければと重い腰を上げれば、今度は着信を知らせる音が鳴った。

『すぐに返事をくれたから、少し声が聞けるかと思って』

 つい電話を掛けてしまったよと、そう甘く響く低音に律は心臓の辺りがひゅんとして、反射的に腕を伸ばすと端末を自分から遠ざけた。ぐらりと傾いた身体を支えるために後ずさった左足の先は、先程律が放り投げた文集の角を踏ん付ける。突如襲った目の覚めるような痛みに悶絶する律の動揺など知らず、電話口からは反応の無い律の名を怪訝そうに呼ぶ赤井の声が数度響いた。すみません電波が悪かったみたいでと、目じりに浮かぶ涙を我慢した。
 律はまだ、赤井に対する気持ちに答えを出してはいない。答えを出さない律を、赤井が責める事もない。降谷と赤井に対する想いを比較すれば、それは白と黒のようにはっきりと違っている。その腕に抱かれた時の心地など、天と地程に違っている。しかし律にはその違いを言及できたとしても、その本質を上手く説明できない。また会いたいと律から赤井に言った事、今はそればかりが確かな事実である。

『週末本当は出掛けられたらいいんだが、すまないな』
「いえ、それより大丈夫なんですか?誰かに身元を探られているんでしょう?」
『まあ、喧嘩を売り過ぎたのは俺の方だし、敵対組織というわけでもないからな』

 律は調べの済んだ荷物を段ボールに戻しながら、赤井に誘拐紛いに連れられた日の事を思い出す。
 車内の空気は、導火線に火の着く間際のような危うさの連続であった。運転手の男性と助手席の女性が赤井の同僚のFBI捜査官である事は後から聞かされたが、当時律ばかりではなく彼等を含めて三者三様の混乱が広がる中で、碌な会話など一切していない。確かに赤井が呼んでいたであろう彼等の名前すら、失念する始末である。

 "アンタ昨日降谷に喧嘩売ったばっかりでしょう?!"

 しかし唯一降谷の名前が挙がったそのフレーズばかりを、律は良く覚えていた。FBIと公安警察ならば敵対組織というわけではないだろうが、まさかその誰かとは降谷ではないだろうなとは、とてもではないが聞けない。他に何か絶対の確信があったとしても、律が追及しない事を恐らく赤井も分かっている。律も赤井も降谷も、下に茨を敷いた綱の上で互いを牽制し合っている。

『次はもう端末の電源は切らなくていい』
「……ああ、追跡アプリですか?」
『君の位置情報を追えなくなった。あれも案外とあっさり手を引いたな』
「それより、赤井さんも罪の意識を持ってください。侵入したあなたの方が悪質ですよ」
『悪かったと思っているよ。保険をかけておきたかったんだ』

 赤井はグラスの返却という名目で沖矢昴として律に接触した日に、律のスマホを盗み見ている。現状把握のためにメール等の履歴を少しばかり遡る程度の心づもりであったようだが、その時偶然降谷の仕込んだ隠しアプリに気付いてしまったわけである。それを律に指摘するわけではなく泳がせて自分も利用しようとする辺り、己のプライバシー云々の問題以前に、捜査官とは軒並みこうして法を犯す生き物なのだろうかと律はそちらの方が心配だ。
 それに、降谷はあっさり手を引いたわけではない。確かに降谷は律のスマホから追跡アプリは消去したが、代わりに緊急時用の発信機を律に持たせている。常時ログの追跡可能なアプリより確度は下がるが、それでも降谷の心の処方箋としては機能するのだろう。夏葉原で突然行方を暗ました当時の出来事が、余程の傷跡になっているに違いないと律はそれを拒まなかった。
 カタリと、段ボールに入れた参考書と何かがぶつかる音がする。覗き見たその底で、律が早々に分析を諦めた白のラップトップが眠っていた。 
 そのつるりとした表面をなぞりながら、機械に強いんですねと、話を変える。専門ではないがと、赤井は笑った。

「――ちなみに、パスクラックの経験はありますか?」

 律が目を通した過去の中に、その名前ばかりを見つける事が出来なかった。もちろん、律と彼女は以前からの顔見知りというわけではないから、共通の知人など発見する事が出来ないのは当たり前である。分かっているのに、ではなぜ、こうも胸が騒ぐのか。果てしない既視感に襲われるのか。まるで姿の見えない幽霊でも追いかけているような心地に、律の心はあまり穏やかではない。
 手帳や書類、そして指紋認証でロックの解除できた以前のスマホ端末は、一通り内容を洗ってある。残るは当時所有していた律のラップトップぐらいであるが、そのパスワードが今の律には分からなかった。ただ、そうしてもしこのPCの中身にその名前が見つからなかったとして、その時この心は鎮まるのだろうか。やはり彼女の方の勘違いだろうと、一蹴できるのだろうか。

 "花井さん。綾瀬明について、お話できますか"

 受信したメールに記載されたその名前が、律の頭から離れない。 
 三吉彩花からの返事は、まだ、届かない。


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