#59

 じわりと滲むように伝播し始めた右脚の痺れに、降谷零は自宅の玄関先で広げていた書類とラップトップを押し退けるとそのままうつ伏せるように体勢を崩した。傍から見れば路上で潰れた蛙のような成りではあるが、その指先だけは仕事のメールをタイプし続けているのだから三徹後とは言えまだ意識は生きている。ぴんと伸びた背広の脇の辺りが窮屈になるが降谷はそれを厭わず、既にやや弛められていたネクタイを弄りながら、画面右下の時計表示を一瞥した。午前八時四十三分。花井律は、まだ帰宅していなかった。

 "すみません。明日の朝には帰るので"

 律が新宿での爆発騒ぎに遭遇した翌日、結局降谷は律を朝一で迎えに行く事が出来なかった。次から次へと沸くように溢れる仕事の数々に、一応の目処が立ったのは昼に差し掛かろうと言う時間である。本来であればその日降谷は有給を取得するはずであったのだが、こうも事件が立て続いてしまえば有給どころか休日返上で働く他無い。辛うじて捻出した数時間で新宿へ車を走らせた降谷であったが、到着前に鳴らした電話は繋がらぬまま留守電になり、律の姿は何処にも見当たらなかった。
 本人から迎えを遠慮するような旨の連絡は受信していたが、降谷はその申し出を了承していないし、実際に帰宅したというような続投も無い。そうしてもう一度電話を鳴らしてみれば、今度は呼び出し音すら鳴らないのだから降谷の胸には一抹の不安が過った。慌てて律の位置情報を辿れば追跡エラーの表示が重なるばかりで、どうやら切電されているようである。無論、充電切れの可能性が高い。そう言い聞かすのに、どうして、降谷の胸に募る不安が薄らいでゆくこともない。

 "必ず帰ります。だから、心配しないでください"

 とりあえず自宅を確認しようと車へ戻った降谷のスマホが、その時振動した。ホッと安堵したのも束の間、着信の表示は何故か非通知である。やや警戒して訝し気に通話ボタンを押した降谷であったが、電話口から聞こえた声は紛れもない花井律のものだった。
 遅くなってごめん、今病院に着いたから。そうして居場所を尋ねた降谷に、律はどうにもばつが悪そうに言葉を濁す。昨日から今の今まで蔑ろにした事にいよいよ本当に見限られたのかもしれないと降谷はもう一度謝るも、やはり律の反応が鈍い。それどころか降谷の問い掛けにひとつも応えようとはせずに、今日は家には帰らないと断言するものだから降谷は電話口で固まった。切電されてしまいそうな気配に、降谷は慌てて状況を確かめようとするが、既に遅い。降谷の呼びかけは空しく車内に響いて、画面に表示された通話終了の文字はすぐにブラックアウトする。まるで三行半でも叩きつけられたかのような気分だった。

「……朝って何時の事だ?」

 思わずぼそりと独り言ちて、降谷は力無くタイピングを続けている。パチパチとキーの上下する音が、しんと静まり返る室内に響く。
 あれからずっと、律のスマホの電源は入らない。それが何を意味しているのか降谷には答えを出す事を避けたまま、とんぼ返りで戻った警察庁で仕事を続け今朝の五時に帰宅していた。律の足取りを調べる術がひとつも無いわけではなかったが、最後まで悩んで、降谷はそれをしなかった。
 以前の降谷であれば、律に自由など決して許さなかっただろう。風見に職権乱用であると指摘される程度には、ありとあらゆる方面に圧力をかけてその居所を割り出したに違いない。そうして律のためという建前で、自分に都合の悪い要素は悪腫と決めつけ、二度とその目に触れぬように隠しただろう。そう、以前の降谷であれば。

 "降谷さんが少し不格好なくらいで、私は愛想を尽かしたりしませんよ。当たり前でしょう?"

 防具のように身を守っていた鋼の鎧が、最近少しずつ剥がれ落ちてゆくのが降谷には分かる。言う事を聞くのが当たり前、思い通りになるのが当然だと思っていた律に、今はもう、支配することで安堵したくはないとそう思う。律が降谷に歩み寄りを見せるように、降谷もまた律に素直に歩み寄りたい。記憶を失ったのを良い事に花井律から取り上げてしまった全てを、その想いと共に少しずつ話してゆくべきだ。だから降谷は律の言葉を信頼して、何の手段も講じずにこうして馬鹿面をしながらただその帰りを待っている。
 電話越しの律の様子が、存外に落ち着いていた事が降谷にとっては唯一の救いであった。もしも律が記憶の混濁により取り乱しているようであったのならば、降谷は律が何を言おうとも聞く耳を持たなかった事だろう。出来上がったメールを送信するためエンターキーを押し込んだのと同時に、カチャリと控えめに玄関の戸の鍵が回る音がした。

「うわっ」

 起き上がり振り返った瞬間、降谷と目の合った律は驚きに瞳を丸くして固まった。
 扉を開ければ無造作に散らばった書類と一緒になって降谷が床に転がっているのだから、困惑するのも当然である。

「……なぜ玄関で仕事を?」

 しかし降谷は降谷で、その尤もな疑問に対する答えに困惑していた。もちろん降谷も始めの内はリビングで書類を広げていたのだが、どうにも開く気配の無い玄関の戸に気を取られ、次にはダイニングへ、廊下へ、そうして玄関へと気付いたら移動していたのである。
 まるで母親の帰りを待ちきれない子供か何かのようだなと、ようやく自覚した降谷は途端に居たたまれない気分だ。律は靴を脱いで鞄を下ろすと、降谷の隣に膝を着いて、その顔を覗き込むようにして尋ねた。もしかしてまた玄関で寝てしまいましたか、と。返事に詰まった降谷を心配するような声音だった。

「降谷さん、今日は何日目ですか?」
「……二日目だよ」
「本当は?」
「……、四日目」
「やっぱり」

 間近で確信めいた眼差しが一度、瞬きをする。思わず頬を寄せたくなるような、そうして隠し事など赦されないような、この近さ。普段よりも幾分薄化粧のその表情は、あどけなさというよりも、美しい女の隙を醸している。無防備だなと、そう思った。
 足枷を外してやれば、彼女は自由に空を飛び回るだろうか、それとも自分の好きな拠り所をまた見つけるのだろうか。放し飼いにした雛鳥が、どうしたらまた自ら籠の中を選ぶのだろうか、降谷にはそればかりが分からない。降谷はそれがどうにも受け入れ難く、そして腹立たしく、気取られぬように口元を歪める。腹の底からせり上がってくるような、ざわざわとした嫌悪が確かにあった。

「ごめん。電話に出られなくて」

 律を直視出来ずに、降谷はその首元に顔を寄せた。柔らかくて、温かくて、ひとふさ零れた髪の束から知らない石鹸の香りがする。
 今まで誰と、何処で、何をしていたのか。清廉な香りの中に僅かに、降谷の記憶の底にこびり付いた紫煙の匂いがした。

「平気です。私の方こそ、仕事中にすみませんでした」
「……本当は?」
「……、」
「律」

 はっとする程鮮やかに、その映像は甦る。野草の乾いた葉の先に、ぼうっと灯る炎の色。骨ばった細い指先を時折遊ばせて、尖った唇は何度も何度も中毒のようにその苦みを求める。
 徐に振り向くその動作に合わせて、手入れなど碌にされていないはずの長髪が絹のように肩を滑り落ちた。肺に溜まった煙をわざと時間をかけて吐き出す。ゆっくりと持ち上がる瞼の奥で、翡翠のような双眸が爛と輝いた。

「……その、少し、動揺してしまって」

 やっぱりと、そう同じように言葉を返せば、律は困ったように笑ったようだった。でも今はもう本当に平気ですからと、律にその気が無くともまるで宥められているようで降谷は惨めな気持ちになる。
 ああ、どうして、どうしていつも肝心な時に律の傍に居るのは赤井秀一なのだろう。あれにはその胸の内を話したのだろうか、あれにならその心の不安を拭い切れたのだろうか、本当はもうこの家になど、帰るつもりなどなかったのではないだろうか。降谷は己を嘲笑う。自分がもっと出来た人間であったのならば、律の無事ただそれだけを心から喜ぶ事が出来たのだろうに。

「――スマホの電源を落としたのは、わざとだろう?」

 びくりとその細い体が強張った感触に、降谷はゆっくりと顔を上げる。薄く紅の引かれた唇を真一文字に閉じて、遅れて少しの動揺が瞳に揺らいだ。
 吐息すら憚るような、張り詰めたような静けさ。それを解くように、降谷はあやすように律の髪を柔く梳いてゆく。

「言いたくないならいい。大体分かるから」

 時を置いても、律はその問に答えなかった。頑として口を閉ざすわけでもなく、適当な事を嘯いて誤魔化すわけでもなく、律の表情は妙な後ろめたさのようなものに揺れている。言ってしまいたい癖に、言ってしまえば何かが掛け違える事を憂いている。その元凶が自分である事に降谷はようやく気が付くと、ふっと全身の力が抜けた。この胸が、裂けてしまいそうに痛かった。
 
 "降谷さんともっと話がしたいんです。降谷さんの事を教えて欲しいし、私の事も知ってもらいたいから"

 どうして、もっと早くに自分の言葉で、伝えなかったのだろう。醜く薄汚れた嫉妬心にばかり感けて、大事な事は全て自分の中でばかり消化して、いつかは向き合わなければならない問題を先送りにして。あなたは私の事を欺いていたのでしょう?と、本当はそう尋ねたい律に、今更どの面を下げて信じて欲しいなどと訴えれば良いのだろうか。律と、そう静かに呼んだ名に、縋るような眼差しが降谷に真っすぐ向く。

「あの日、本当は律と喧嘩をしたんだ」

 降谷は人知れず、数えきれない程の後悔をしてきた。
 なぜあの時、律を追いかけなかったのだろう。なぜあの時、律の言葉を聞いてやらなかったのだろう。なぜあの時、自分の本心を教えなかったのだろう。
 
「……はい。私が降谷さんに八つ当たりをしてしまって、」
「そうじゃない。律を危険に晒す事に、俺が耐えられなかった」

 降谷零を忘れた、あの瞳。あの瞳だ。鰾膠も無い、胡乱な眼差し。手を伸ばせば触れられる位置に居るというのに、どうしたってこの手には捕まえられなくなったような喪失感。
 培ってきた数多の功績の下に、失敗が無かったわけではない。失う事の恐怖を人一倍理解しているからこそ、降谷は誰よりも失敗から多くを学び、この手から零れ落ちそうになる大切なものに目を光らせるのである。あの絶望を、もう二度と味わいたくはなくて、律に対する過干渉に拍車をかけた。その想いの丈など二の次で、ひとつも説明をしてこなかった。
 降谷は、小さく息を吸う。言葉にしまえば、あまりに容易な、たったの一言。

「ずっと、律が大切だったから」

 胸の奥に閊えたしこりが、音を立てて溶け出すようだった。ああそうだ、俺はそうしてずっと、彼女が大切で仕方がなかったのだと、初めてその想いを噛み締める。律の緊張していた眦は、僅かに和らいだ。唇は結ばれたままであるが、瞳は決して逃げはしない。
 ――何を、考えているのだろう。その静寂を、降谷は自分の言葉で破る事を躊躇った。随分と長い間、見つめ合っていた。

「……不思議だったことがあります。どうして私は警察官になったんだろうって」

 それは、とても穏やかな声音だった。しかし降谷は何を切り出されたのか見当がつかず、困ったように眉根が動く。
 その様に、律は少しだけ可笑しそうに微笑った。答えを焦らす口先が開くのが、どうしようもなくもどかしかった。

「私も降谷さんが大切だったんです。ずっとあなたに憧れて、あなたの力になりたかった」

 ――東都環状線に乗りながらそればかり考えていたことを、思い出しました。
 そうふわりと、羽毛のような柔らかさで、律はやはり微笑った。何処か哀し気なその笑みに、その言葉に、降谷の心臓は鋭い鏃で射抜かれたように酷く軋む。

「あの時、素直にそう伝えられたら良かった」

 もしもあの日、律が夏葉原の事件に巻き込まれる事なく戻っていたのなら、律は降谷の命令を仕方なし甘受し変わらぬ日常が続いていただろう。互いにその心の内など知らぬまま、職務に忙殺され、こうして二人きりで言葉を交わす時間すら無かったのかもしれない。
 そうしてもしも、もしも律が記憶を失う事などなかったのなら。降谷はきっと、気付かぬままだった。本当はもうずっと昔から、花井律を心の底から愛してしまっていたことを。まるで抗えぬ命運に絡め取られるように、記憶を失っても尚、彼女に惹かれている事を。

 ――これは、何という皮肉だろう。

 降谷は堪らなく、律の身体を掻き抱く。気が狂ってしまいそうになる程に、花井律という存在が愛おしかった。
 この気持ちを伝えてしまえたのなら、このまま誰にも奪われぬように攫ってしまえたら、どれ程幸福だろうか。視界の隅で、新着メールの受信をラップトップの画面が知らせている。
 この国に人生の全てを捧げた以上、降谷はたったひとりの大切な人間などその心に認めることができない。しかしだからと言って、その幸せばかりを願って彼女を手離してやることも儘ならない。まるで赤子の駄駄のようだと、降谷は律を抱く両腕に力を込める。そうしている内に降谷の知らない所で、律は泡沫のように消えてしまうような気がした。
 決して口には出来ない秘密の恋心を、降谷はこの日、痛々しい程にその身に思い知った。


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