#58

『アダム?最近は聞かないな。もともとアレの攻撃対象はウチじゃなくて米国さんだしな』

 風見裕也は電話口から聞こえる抑揚のない返答に、過去の捜査ファイルを探していた手を一度止めて、何事も無かったかのようにまた動作を再開する。
 捜査資料というものは近年のIT技術の発達により急速に電子化が進められているが、重要度や情報量によっては電子媒体への移行が先送りされ、まだまだアナログな状態のまま資料室の片隅に眠っているものも多い。風見は当時の捜査員の汗や努力の滲む記録がわりと嫌いではないが、ボタンひとつで検索と結果の閲覧が出来ぬ効率の悪さが今は疎ましかった。
 花井捜査官銃殺事件。夥しく乱立するファイルの山から目的の資料に行き着いた風見は、そうサインペンで白地の背に走り書きされたそれを引き抜く。まさか、こればかりの薄っぺらな記録のはずはあるまいと、左右をニ、三同様に引っ張り出すが関連資料は無い。
 風見は、呆れたように嘆息する。もしかすると何処かに紛れてしまったのかもしれない。形だけのために誂えられたような、汚れひとつない装丁に決してそうではない事を分かっていながら、風見はプライベート用のスマホを握り直す。

「建前はいいから。その様子だと緘口令でも敷かれているのか?」
『……勘弁してくれよ。お前、同期の人生潰す気か?』

 言う割に、切電はされない。核心を避けて困ったように言葉を濁す男には、話の仕様によっては口を割るだろうと風見は右手に力を込める。
 降谷と東都大学爆破事件について言及して以来、風見はひとり暗暗裏に調査を進めていた。言っても、爆破事件に関しては粗方調べが尽いており、風見はアプローチ先を花井律当人に変えている。降谷にはこの件には関与するなと言い含められており風見はその指示を信頼しているが、しかし一方で降谷は律が関わると尋常でない行動に出る事も度が過ぎる事も、ただひとり風見ばかりは分かっている。だからこれは決して背信ではなくて、そうではなくて、いざという時に降谷を助けるためなのだ。そう自分に言い聞かせて、風見は警察学校で懇ろであった外事課の同期に連絡を取っている。

「アダムに関するレポートは一通り目を通したんだが、少し記憶と食い違いがあって、」
『だから、話せないって。お互い立場を分かってるだろうが』
「頼むよ。情報源は秘匿する。いや、こちらで何か明らかになれば情報も共有する。これは借りでいい。今後の協力は惜しまない」
『……、ていうかさ、お前担当外だろ?アダムに何か恨みでもあるわけ?』

 花井律の父親がかつて降谷と同じ所属であり、既に殉職していることを風見は以前降谷に聞かされている。律本人の経歴は非常にクリーンなものでひとつの瑕疵もないものだから、風見はひとまず父親の誠一郎の死に探りを入れた。律とはその事件について、直接話をしたことはなかった。
 事件発生の日付は、五年以上も前に遡る。当時のメディアでは、銃器密輸入組織の検挙の際に捜査官一人の命が犠牲になった事が報道されているが、ざっと目を通す限りでは捜査資料に齟齬はない。未掲載の記述と言えば、組織の窓口に当たるロシア人の女が情報の漏洩を恐れたためか拳銃自殺をしたという事実である。日本で押収される拳銃の大方は、従来アメリカや中国、フィリピンが主流であったが、丁度その頃からロシア製拳銃が急増したことを風見は思い出していた。
 そうして当時の新聞を捲っていた風見の目に、とあるコラム記事が飛び込んでくる。東都日米首脳会談。事件発生日から一週間後に滞りなく開催され、主として日米関係の強化や自由貿易について意見交換がなされている。記事では弱腰の日本に諫言し、針の筵に座るような気持ちだと喩えられているが、風見はその内容の如何ではなく当時公安で囁かれた噂話とそれを結びつける。過激派国際テロ組織アダムが、日米首脳会談に参加する米国大統領の身を狙い日本に接近しているという噂である。

「アダムが日本に不利益を齎すならば排除されるべきだろう。……それに、」
『何だ?』
「……個人的な理由だが、大切な上司と後輩を守りたい」
『……、それは、』

 何かを言いかけて、男は電話向こうで口を噤む。それ以上の理由を聞き出せやしないと思っているのかもしれないし、聞いてしまえば最後だと思っているのかもしれない。
 沈黙は、いやに長く続いた。実際に風見が逆の立場であれば、たとえ気の置けない同期であっても迂闊に職務に関わる内容など口にはできないから当然である。しかし、風見には分らない。彼も降谷も、何をそう秘匿しなければならないのだろう。万が一風見の睨んだ通り東都大学爆破事件にテロ組織アダムの関与があったとして、それがみだりに公に発表される情報ではないとしても何故そうしてタブー視されているのか。風見には、分からない。
 ――俺は職務の事は話せない。ようやく沈黙を破ったその声に、風見は落胆するも、これ以上の追及は互いのためにならない事を悟る。謝罪しようとして呼んだ男の名に、しかし彼の言葉は続いた。だからこれは他愛もない世間話だけど、と。

『……春先に、墓参りに出かけたよ。殉職した先輩の六回目の命日さ』

 不思議な声音だった。過去を懐かしみ慈しむ表情が見えるようでいて、同時に死者への弔意を欠き痛惜に堪えない響きがある。
 風見は一言も聞き漏らすまいと神経を集中させて、滑る指でぺらりと捜査資料を捲った。花井誠一郎の六回目の命日は、春先であった。丁度降谷がリフレッシュ休暇を取得していた頃である。

『名前は綾瀬明』

 風見は捲り続ける。綾瀬明の名など何処にも記載されてはいない捜査資料を。私達はアヤセの遺志を継いでいる。辻褄合わせが追い付かないまま、蘇る犯行声明に途端にむせ返るような嫌悪感が風見に襲い掛かる。これではまるで、綾瀬という捜査官などもともとこの事件に携わってはいなかったかのような印象が強い。
 花井捜査官銃殺事件に国際テロ組織アダムの関与があったとして、その後アダムに起因する事件が発生していないことを見れば当時火消しに成功しているわけである。その代償に二人の捜査官の命が犠牲になったものの、本来であればサクセスケースとして語り継がれても何ら可笑しくはない。少なくとも、こうして人目を憚るように埃を被った書棚の隅に追いやられる理由は無い。そう、それが本当に、捜査官二人と巨悪という対立構造であったのならば。

『彼を前に肝に銘じるのさ。俺はアンタのように怪物には成り下がらないってね』

 その言葉に、風見の胸の奥で閊えていた最後のしこりが、音を立てて溶け出すようだった。
 ありがとう、とは言えないから、そうかと、短い相槌を打った。

「また連絡するよ。……時間を作って、偶には酒でも飲みにいこう」
『……ああ。いいね。お互い身軽になった頃がいい』

 それは一体いつとは、やはり互いに答えられずに、切電したスマホを風見は思わず祈るように握る。自分ひとりでは決して辿り着けなかったであろうピースのひとつに、久しく顔を合わせていない同期のやや後悔に沈んだ表情が浮かんで、堪らない心地だった。
 表立った成果を得られぬ案件だとしとも、せめて、彼に恥じない働きはしなければならない。風見はずり下がった眼鏡を指先で器用に持ち上げると、捜査ファイルを持ち直す。足早に閲覧室を目指すその横顔は護るべき対象を正しく認知し、どうにも逞しかった。

「貸出用のラップトップを一台、お願いします」

 ようやく大きな足掛かりを掴んだ風見は職員から共用のPCを受け取ると、手始めにテロ組織アダムのデータを洗い直していく。貸切状態の室内には、PCの静かな動作音と風見がノートにペンを走らせる音が響くばかりだ。
 アダムは過去を含めて三百五十名程度で構成される中規模組織であるが、意外にももともとはとある国で権利擁護活動や差別解消運動から発足した穏健派ゲリラである。公安調査庁も発足当時から国際テロ組織と位置付けてはいたものの、実際はネットワークを利用して地道に支持を集め、犠牲者を生むテロリズムではない核心的な手法を敢行してきた。他とは一線を画していたはずのアダムが、しかし薬物や銃器の不正取引、不法移民、人身取引等を暴力を伴い実行するまでに転がり落ちたのは、どうやら指導者の入れ替わりがあったようではあるが定かではない。水を得た魚のように過激派に傾倒したアダムは、得意のIT技術を活かして活動領域を広げており、近く発生した米大統領選へのサイバー干渉が疑われ向こうで調べが進められている。元来テロ組織というものは司法や法執行機関の弱い国を拠点として活動するものだが、最早本拠地を持つことに意味などないのだろう、組織員はネットの繋がる世界中に散り散りと潜んでいるようであるがこれもまた憶測の域を出ない。
 風見は慣れた手つきでその情報をノートに図表化していく。アダムの情報が窓口である綾瀬の段階で握り潰されていたのだとすれば、花井のいたゼロにはその経路で事実を把握する術がない。花井は何か別のアプローチを仕掛けていたのだろうか、特別な協力者を囲っていた可能性もあるし、アダムの接近を知る事件が発生していたのかもしれない。
 風見はああでもないこうでもないと唸りながら、難解なレポートをスクロールしていく。嫌に揺らいで見えた資金洗浄の文字に、瞬間、その手が止まった。

「……マネーロンダリングか。仮想通貨とも相性がいいな」

 アダムはその規模のわりに、経済犯罪による資金の獲得額が突出している。風見は別のウィンドウを開くと、花井銃殺事件を起点に数年単位で検索年月を遡り絞った。犯罪収益や資金洗浄の疑いがあるとして各機関が届け出る件数というのは、年に数十万件にも及ぶ。それを端緒に警察が摘発するのは大体千件前後であるが、それでもまだ多い。キーワードを決めて振るいに掛けるも絞り込めたのはせいぜい百件程であり、風見はそこで一旦、閲覧室の薄っすら黄みがかった白い天井を仰いだ。モニターばかりを眺めてちかちかとする瞳を休めるように、ゆっくりと瞼を閉じる。
 この量を虱潰しとなれば圧倒的に時間が足りない。そもそも風見は自分の進んでいる方向性が正しいのか否かすら定かではないのだ。
 ――綾瀬明の方から探ってみようか。気を取り直してキーボードに伸ばそうとした両の手は、しかし刹那、忽然と流れるような所作で先にキーを塞いだ褐色の右手に遮られる。

「それ以上は止めておけ」

 背後から囁かれるように聞こえた警告に、風見は仰天して思わず飛び上がった。比喩ではなく実際に椅子から音を立てて転げ落ちた風見は、ずり落ちた眼鏡のぼやける視界で此処に居るはずのない上司の姿を凝視する。降谷零はその様に呆れたように一笑すると、今の今まで風見が閲覧していたモニターに視線を移した。ああともうんとも言う暇も無く、降谷は勝手にマウスを操作していく。
 風見はぱちりと一度大袈裟に瞼を瞬いて、その怒気が滲むわけでも況してや穏やかとも形容出来ぬ眼差しを見つめる事が出来ずに目を逸らす。ばくりばくりと脈打つ心臓が少しも収まらぬ内に、これを見てと、降谷は風見に呼び掛ける。それは部下に半日説教コースを目論む上司の顔ではなくて、そうではなくて、降谷零という、自分と同じ捜査官の顔つきだった。

「……ホワイトドット社のマネロン摘発事件ですか?」
「ああ。この会社は宇田川組のフロント企業でね。組の資金洗浄部門を担当していた」

 降谷が画面に呼び出したのは、風見がフィルターをかけた内の事件のひとつである。
 風見はその報告書に恐る恐るといった様子で目を通しながら、過去の記憶を遡る。僅かばかりの、覚えがあった。

「手口は単純だ。ゴーストカンパニーのオフショア口座でちまちま金を洗うのさ」
「……しかし、この案件は組対の領域だった記憶があります」
「そうだ。だが調べが進むと、ホワイトドットが洗浄していたのは宇田川組の資金だけではない事が判明した」

 トントンと、降谷は無言で風見の手帳を指先で小突く。アダムについて走り書きされたそのメモを一瞥した後で、風見はもう一度降谷を見た。今この時程己の推理が鮮やかに正答を弾き出した経験などないのに、風見は少しも喜ぶ事が出来ずむしろその胸中は錆びた銅を飲み込んだかのように重苦しい。
 ホワイトドット社のマネロン摘発の一環に露見した国際テロ組織アダムの関与に、花井誠一郎は綾瀬とは別ルートで調べを進めたのだろう。端から疑惑を抱いていたのか、調査の過程で偶然それに行き当たってしまったのかは、今となってはどちらでも当り障りないが、同志であるはずの彼の不正を知った花井誠一郎の気持ちばかりを風見は慮る。遣る瀬無いだろう、憎たらしいだろう、そうしてどうしようもなく、哀しかっただろう。

「降谷さん」

 声が震えたのが、風見には良く分かった。
 誰よりもこの国を愛する彼はその凄惨な事の顛末に、どれ程心を痛めた事だろう。同志の裏切りによって引き起こされた敬愛する男の死は、どれ程その心を貫いただろう。

「隠されたのは、我々公安部の不祥事ですね」

 綾瀬明は、国際テロ組織アダムの手に堕ちた。あってはならない過ち、有るまじき行為。警察組織の恥部として公にする事すら許されず、その死の引き金すら定かにはされない。
 東都大学爆破事件時に出回った犯行声明文が揉み消され、報道機関に圧力が掛かるわけである。今更五年以上も前の不祥事を公表する事など出来ず、犯罪組織に寝返った男の信奉者による連中の犯行などとは口が裂けても言えない。警察の面子が丸潰れというものである。
 風見は思った。そうなると昨日発生し事故として処理された、新宿駅前交番爆破騒動の真相もどうにも怪しい。尤もらしい理由は発表されているが、仮にそれが東都大学に続く連続爆破事件ということにでもなれば、交番という警察組織を狙った犯行としてある種の主張が帯びてくるようにも思う。
 ――優秀過ぎる部下を持つのも考え物だな。傍らで、降谷が小さく吐息した。

「PCの貸出記録は俺の名前に書き換えておいた」
「え?名前、ですか?」
「君が自席での作業を避けたのはログが保存されるのを知っているからだろう?」
「……ええ。すみません」
「覚えておいた方がいい。確かにここの共有PCのログは日毎に抹消されるが、検索キーは随時リスク判定される」

 サッと血の気が引いた風見を横目に、降谷は早々にPCの電源を落とした。肝の冷えた感覚にふらりと脚の力が抜けて、慌てて椅子の背を掴む。
 組織の心臓に切り込むというのは、こういう事なのだ。風見が思いもよらぬ程にその闇は深く、一度覗き込めばもう真っ新であった頃のそれを想像する事すら叶わない。

「風見。俺がここまで話したのは、君を失いたくはないからだ。分かってくれ」

 そうしてまた、降谷はひとりで、傷だらけになるのだろうか。詰めの甘い、油断ばかりの自分はこうして上司に守られて、そうして彼の刃になる事も出来やしない。口を噤んだ風見に降谷はやはり哀しく笑って、ひらひらと右手を振りながら遠ざかって行ってしまう。
 風見は、いつも悉く、降谷に思い知らされる。お前は俺と同じ土俵にはいられないのだと、同じ方向を見据えても瞳に映る真実は違うのだと、そう窘められている気分になる。風見だって分かっている。自分はどれ程努力した所で、降谷零には追い付けない。これがその降谷の判断で、これが降谷の最適解なのだから、自分はここで食い下がるべきなのだと。
 風見は静かにノートを閉じると、胸ポケットに仕舞い直す。その時、それが何かに閊えた。警察手帳だと、すぐに思い当たった。

 "納得できません"

 鮮やかにフラッシュバックするそのワンシーンに、風見はノートを仕舞う代わりに己の手帳を取り出した。
 ――ああ、だから、彼女はあの時。
 足の裏から這い上がる程の何かが猛烈に全身を沸かせ、筆舌に尽くしがたい強烈な衝動に風見の心は打ち震えている。何処にも逃がせぬ力は握り締めた手帳の形を変える程に強く、風見は腹から声を出して降谷の名を呼んだ。此処で引き下がれば、風見裕也はいつまで経っても風見裕也のままだろう。

「全て覚悟の上です。情報を共有してください。自分にも、貴方を守らせて欲しいから」

 振り返り驚いて目を見張った降谷から、風見は今度は決して目を逸らさなかった。
 この身を焦がす程の熱が今ばかりはやけに良く肌に馴染んで、眠っていた細胞が一斉に息を吹き返していくような心地がする。降谷に啖呵を切った花井律の顔が脳裏に焼き付いて、どうにも頭から離れなかった。もう何も、恐れるものなど無いような気分だった。


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