#57

 ジェイムズ・ブラックは赤井秀一から受信したメールに一通り目を通すと、眼鏡を外し凝り固まった眉間を親指と人差し指で解すように揉んだ。
 赤井君は相も変わらず事務仕事が苦手だねと、独り言ちて自席に深くに凭れかかれば椅子の背がぎしりと軋む。昨晩の来葉峠での事の顛末をジェイムズは報告書として纏めるように赤井に求めていたが、日を跨いで提出されたそれの完成度は低かった。特殊な任務を継続中である赤井の身を慮りジェイムズは数度目を瞑ってしまおうとも考えたが、読み進める程に内容が前後し詳細は割愛され、誤字脱字の甚だしい文章にはジェイムズも仕方なく再提出の要請を決めていた。
 しかし、どうやら連中に対してはとりあえずの上手い目暗ましとなったようだと、ジェイムズは安堵して白い光を煌々と放つデスクライトの電源を落とす。バーボンこと公安警察である降谷零との今後についてはまだまだ熟考の余地があるが、それこそ時間をかけて丁寧に話を詰めていかなければならない。脳裏に此度の一件の立役者とも言える少年の顔が過ったジェイムズの心は存外に穏やかであり、冗談抜きでどうにか彼をビユロウにスカウト出来ないものかと、口許を緩めながら暗闇に包まれた執務室を後にした。

「――Really?Did you check it thoroughly?」

 エレベーターホールで降車ボタンを押したジェイムズの耳に、しかしながらその時、流暢な英語と硬いヒールが床を叩く音が響く。聞き慣れた声の主をジェイムズは勿論分かっていたが、その声質は数時間前に彼女と言葉を交わした時よりも幾分感情的である。
 ジョディは冷ややかだった。彼女にとって最愛の人である赤井の死の偽装に一役買っていたジェイムズは、当然癇癪玉のように熱り立ち責められるのだろうと身構えてはいたが、そうではない。赤井の報告書が見劣りする程に隙一つないそれを直ぐに書き上げたジョディは、そうしてジェイムズと過去の経緯に言い添えるわけでもなく、ふらりと執務室を出て行ってしまっていた。赤井生還の喜びを、その秘密を知るジェイムズと共有したがったキャメルとは随分と対照的である。
 いよいよ愛想を尽かして、その心は振り切れてしまったのだろうか。上司という立場ではありながら、幼い頃からその成長を傍で見守ってきたジョディにはジェイムズは親心に似た感情を抱く時がある。何せ彼女は、昔から何故か幸福というものに邪険にされやすい。

「Um,if so, could you find out more about her?」

 まだ年端もいかぬ少女の頃に両親を殺害され、その身以外は全て灰になってしまった。証人保護プログラムの適用を土壇場まで拒み続け、受ける代わりにFBIに入れろと啖呵を切りながら眦に零れ落ちそうに溜まった涙をジェイムズは忘れる事が出来ない。自分の狩るべき仇を、自分に課された命運を、彼女は早い段階から誰に教わらずとも理解していたのだろう。賢い子だった。
 アカデミーでの成績は大変優秀で、得意の処世術で何処へ行っても周囲に上手く溶け込んだが、そうしてジョディの毎日が仕事に侵食されていくことにジェイムズは時折不安を感じていた。彼女の幸せは何処にあるのか?と、そう考える事が多くなった。いつでもその心の底にあるのは両親の敵討で、一心不乱にその刃を磨く事ばかりしてきた彼女は、普通の女の子が送るような日常を知らぬまま育った事だろう。全てを終えたとして、彼女の手元には何が残るのか、何を残してやるべきなのか、ジェイムズは考えあぐねていた。赤井秀一の配属が決まったのは、その頃だった。

「Betty, please. I'll report this to my boss later. You have my word」

 ポーンと間抜けな音が鳴って、ジェイムズの目の前で昇降機の扉は開く。突如漏れた明かりはエレベーターホールの一角を、そうして照らした。
 カツカツと一定の一定のリズムを鳴らしていた靴は急に止まり、その発信源であったジョディの姿をぼんやりと浮かび上がらせる。ゆったりとした動作で視線を這わせたその先で、ジョディは分かり易く口の端を歪めた。
 どうやら上滑りの判断だったようだと、ジェイムズはジョディのその態度にほんの僅かに両の目を細める。無人のエレベーターは再び音を鳴らして扉を閉めると、辺りはふっと鈍色の闇が支配していった。またかけ直す旨を、ジョディは電話口で無感情に口走った。

「何か報告があるのなら、今でも構わんよ」
「……いえ。まだ報告するような事は、何も」
「隠し事は止めてくれ。誰かに君を調べさせなくてはいけなくなる」

 実際、課内で不穏な動きをする者がいればそれを調査するのはジェイムズの責務である。FBI捜査官という立場を利用して、不正を働く人間は案外と多いのだから困ったものだ。
 しかし、ジェイムズは己の贔屓目を引いても、ジョディが何か悪事に手を染めているとは到底思えなかった。ジョディの目には多少の後ろめたさが浮かぶが、罪人に特有のあの濁りがない。良い目を出すともしれない個人的な気掛かり程度であれば自由にさせてやってもよいのだが、一方でそれを日本に派遣されているチームの同僚ではなく、本国の情報捜査官に調べさせている事は看過できなかった。
 部下を疑わねばならないというのは、嫌なものだ。それが手塩にかけて育ててきた娘のような人間であれば、殊更である。こうした自由行動と言えば赤井秀一の十八番であるが、元恋人であった彼の悪影響ではないかとジェイムズは溜息を吐いた。

「"彼女"とは誰かね?」

 ジョディはおそらく、赤井秀一という人間に出会って漸く、愛するという喜びを噛み締めた。当初と言えばにこりともしない無愛想で一匹狼、がさつで口が悪くどちらかと言えば厄介者の扱いを受けていた赤井を、どうにか周囲に溶け込ませようとジョディは躍起になっていた。迷惑だ、放っておいてくれと、辛辣な言葉を浴びさせられながらジョディの強引な後押しは続き、根負けした赤井は少しずつ同僚に心を開き始めた。彼の突出した能力の高さや、見て呉れに隠された心根の優しさが少しずつ露出し、そこからチームの信頼を得るまでにはあまり時間はかからなかったように思う。
 ジェイムズの目には二人はなるべくして恋人になったように映ったし、あまり恋愛に興味の薄そうな赤井に対してジョディは幸福に満ちていた。これが彼女の幸せだったのだと、湧き上がるような安堵を覚えていた。しかし、短い春である。ジョディから愛するという喜びを奪ったのもまた、赤井秀一という男だった。
 ジョディは渋っていたが、観念したように、私物の鞄に手を伸ばす。今ここで閉口した所で大した意味の無い事を分かっているのだろう。

「花井律という名の女性をご存じですか」

 手渡されたA4サイズの紙切れは、くしゃりと雑に折りたたまれている。広げたそれは暗闇で上手く確認できずに、月明りのある窓辺に寄った。
 記されているのはおそらくその女性の個人情報だろうが、やはりその小さな文字を視認するのにジェイムズは手間取る。花井律。不思議な心地だった。記憶に無いその名前が、妙にジェイムズの耳に馴染むようだった。

「いいや。知っているような気もするが、思い出せないな」
「……本当に?実はそれ、私も同じで、」
「うん?」
「彼女を、何処かで見た覚えがあるんです」

 ――でもそれが思い出せない。やっぱり何かの事件で関わったのかしら。言いながら、ジョディは苛立った様子のまま一葉の写真をジェイムズに差し出す。
 資料は、あまり緻密なものではなかった。調査書というには不十分で、時間の無い中で申し訳程度の情報を継ぎ接いだのだろうことを予測する。年齢は二十代中ほど、職業は日本警察である事が付記されているが、所属は書かれてはいない。自分に日本警察の知り合いなどは限られているから、職務を通じた関係というわけでもなさそうだが。
 話の着地点が見えないままにジェイムズは写真を受け取って、月明りに翳した。何処かの広い地下駐車場に、赤井が扮した沖矢昴に手を引かれながら、振り向きざまの対象が写真の隅に小さく映っている。
 ジェイムズは、眼鏡を持ち上げて目を凝らした。時が止まったような具合に、ハッとした。弾かれたように、頭が冴える。花井律の名を、嗄れた声で呟いた。

「花井……そうか。そのラストネームには覚えがある」
「……どういう意味ですか?」
「いや、待ってくれ。それより、赤井君は彼女と知り合いなのかね?」

 訳知りの様子のジェイムズに、ジョディは訝しむような眼差しを向けた。それは事件そのものよりも、赤井の名を出した事に反応したようだった。
 一方でジェイムズは記憶に沈んでいた随分と昔の事件を思い起こし、途端に胃の底から何か酸っぱいものがこみ上げてくる感覚に嘔吐きそうになる。職業柄、数多の異常犯罪や凄惨な現場に立ち会ってきていたが、その事件ばかりは異質な色でジェイムズの心に確かな膿となって巣食っている。
 あの日は酷い雨だったなと、耳の奥に残る激しい雨粒がコンクリートを叩く音に、ジェイムズは窓の外にあまりに美しい月を一瞥した。何故、今更。ジェイムズはその思いを拭いきれない。

「……シュウからは、何も報告は無いんですか」

 いつも気丈なその声が、少しばかり震えていた。何を受け入れ難いのかジョディはジェイムズから目を逸らして俯き、はらりと落ちた金髪に顔が隠れてしまう。ジェイムズは再度写真の中の二人の姿を眺めるが、その関係性すら見透かす事が出来ない。
 ジョディはまるで任務であって欲しかったとでも言いたげな口調であるが、ジェイムズだって寝耳に水である。むしろ自分の方が、報告しなければならないような事態が水面下で進行しているのかと尋ねたい程だ。赤井の穴だらけの報告書を思い出し、ジェイムズは忙しなく口髭を摩る。何も無いよと、そう伝えた。

「彼は……シュウは、降谷零の部下である彼女と、個人的に通じているんです」

 ジェイムズの返答にジョディは反射的にキッと眼光を鋭くして顔を上げるが、ジェイムズは何と答えて良いのか分からない。
 ――何のために?と、取り急ぎ結果を尋ねそうになるのをぐっと堪えて、ジョディの言葉を胸中で反復する。それが正義の告発というよりは、ひとりの女の衝動的な密告のように聞こえたためである。
 かつて父親が公安の捜査官だった彼女が同じ職務についているのだとしたら、それは至極自然だろう。組織の一員と思われていたバーボンが公安警察の降谷だったのだから、彼女と繋がりがあるのも当然である。その彼女と赤井が通じているのだとすれば、むしろそれは降谷に近付く足掛かりに彼女を利用したと考えるのが妥当だろう。赤井の事だから、宮野明美にしたようにその心に上手く取り入ったのかもしれない。ジェイムズは写真の中でやや親密な距離に見える二人をもう一度だけ眺めて、己の中で答えを消化する。

「気に病む事はないよ。情報収集の一環だろう」
「……本当に、そうでしょうか?」
「どうして?」
「随分と入れ込んでいるように見えました。……まるでシュウの方が、罠にかかったみたいに」

 次の言葉に詰まって、ジェイムズは思わず閉口する。
 まさか、あの赤井が見え透いた仕掛けに足を取られるはずもないだろうとそう思いながらも、花井律があの優秀な降谷の部下であるという事実も一考の余地がある。一切の情報共有を怠っている事も確かに腑に落ちない。降谷の部下を手籠めに出来たならばそれは優秀なジョーカーに成り得るし、まだ方針の定まっていない今後の計画に存分に組み込まれるべきである。そうして勿論、こういう時の女の嗅覚というものは自分よりも遥かに鋭い事も分かっている。
 ジェイムズは珍しく、次の一手を決め兼ねていた。適当にあしらうつもりが、このままではジョディは徹底的に花井律という人間を調べ上げるだろう。どういうつもりか沈黙を決め込んでいる赤井の目論見も、明らかにしなくてはならない。
 そうして、自分は。自分は、あの事件を白日の下に晒してはならない。

「――どうも、嫌な予感がしてきたな」

 彼女は、花井律は、あの日の秘密を知っているのだろうか。知っていたからこそ、FBI捜査官である赤井に近付いたのだろうか。何も知らないのだとすれば、それはとても幸福であり、とても残酷ではないか。
 蘇る当時の記憶の数々に、ジェイムズばかりがもうひとつの懸念に辿り着く。それは数カ月前に発生した東都大学爆破事件の際に出回った、犯行声明文であった。
 ぐらりと途端に足許が覚束なくなる感覚に、ジェイムズはつい拳に力を込める。手中にあった書類と写真が、くしゃりと音を立てて丸まった。

「ジョディ君。ベティ捜査官に連絡をして、アダムに関する情報を至急融通してもらってくれ」
「アダム?あの過激派国際テロ組織ですか?」
「Mimosa's case――ミモザ事件を覚えているかね?」

 それとこれと一体何の関係がと、言いかけたジョディの言葉をジェイムズは掻き消した。
 ミモザ事件。例の組織の一員であり国際テロ組織アダムに所属していたその女は、コードネームをミモザと呼ばれた。FBIは彼女の行方を追って日本に入国したものの、結果として生け捕りが出来ずに情報を抜く事に失敗している。
 一方でその事件は、ここ日本では警察官銃殺事件として誌面に取り上げられた。実際現場にはミモザの他に、二人の警察官の存在があったためである。ひとりを花井誠一郎、ひとりを綾瀬明と言った。綾瀬明の名こそが、後に日本警察上層部で綾瀬事件と忌ま忌ましく戒められる理由である。
 もちろん、当時ジョディも赤井も作戦には参加しているが、表向き以外の事件の詳細を知らされてはいない。知る必要の無い事として、事件の真相は限られた人間以外には伏せられている。

「ミモザ事件と花井律に何か関係が?」
「当時殉職した花井捜査官の名は公表されただろう。彼女は花井の娘だよ」

 形の良い目をカッと開いて、次はジョディが言葉に詰まる番だった。
 奇しくも彼女らの境遇はとても良く似ている。犯罪組織に立ち向かった勇敢な家族を奪われて、おそらく己もまたその潮流に呑み込まれようとしているのだ。
 ジェイムズはやはり、決め兼ねている。彼女に手を貸すべきだろうか、彼女から全てを取り上げるべきだろうか、何を明らかにするべきだろうか、何を闇に葬り去るべきだろうか。正義と悪の狭間で、丁度良い匙加減が分からずに結末までの粗筋が描けない。

「ミモザ事件の資料を取り寄せてください」
「あれは禁じられたファイルだよ。私にもアクセス権は無い」
「知っています。ですからこうして、お願いしています」
「……、善処しよう」

 対してジョディには、もう一切の迷いが滲まなかった。
 ジェイムズはそうして頑として聞かない女の真っ直ぐな瞳に、幼少期の彼女のそれを思い出す。逃げ道を残さぬ目だ、不正を許さぬ目だ、これが正義の眼差しなのだ。ジェイムズはその、何色にも染められぬ透き通った瞳が好きだった。
 そうしてだからこそ、ジェイムズは歯痒い。何者にも決して侵す事の出来ないと思っていた彼女の聖域を、赤井秀一ならば踏み荒らすだろう。彼の心を守るためだとすれば、ジョディは己の信念を捻じ曲げる事を厭わないだろう。それがあまりにも明白であるから、ジェイムズは堪らない葛藤に揺さぶられている。
 月に掛かった薄雲が、次第に闇の深度を下げてゆく。今はまだその侵食を許さぬジョディの心ばかりが、掃き溜めに咲く一輪の白百合のように、あまりに凛として輝き、美しかった。


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