#56

 不意に伸ばした右手の爪の先が硬い窓硝子を弾いた微かな音に、花井律は我に帰って、しんと静まる湖面のようなそれから指を遠ざける。真っ黒な夜空を泳ぐ星々はそれぞれの等級で煌めきどこまでも続くようだが、窓の桟に仕切られて、名の知れた星座の首から先が断頭されたように途切れていた。興醒めて吐息し、律はまた、別の星と星を見えない線で繋いでいく。
 あまりに膨大な星の名を、律は不思議と良く知っていた。そうして都会の夜空は冬の方が美しい事も、いつか誰かに教わったような記憶がある。
 あれは一体いつの頃で、あれは一体誰だったのだろう。一際強く輝く一等星を眺めながら想いを巡らしていると、闇に溶けるように緩やかに照明の明度が下がる。誘われるように振り返った先で、赤井と目が合った。暗い方が良く見えるだろうと、そう言って笑った。

「早すぎますよ。ちゃんと温まりました?」
「鬼の居ない内に君が逃げ出しやしないかと心配でね」

 まだ充分に水気の含んだ髪をバスタオルで適当に拭いながら近寄ると、赤井は律の隣で胡坐をかく。月明りのにじり寄る窓辺に晒されたその髪は光に透ける茶髪ではなく、もう随分と見慣れていたはずの滑らかな漆黒だ。今更逃げたりしませんよと呆れた律に、どうだかなと、また笑う。その横顔は確かに、律の知る永倉圭のそれだった。
 変装術というものは押並べてここまで高度なのだろうかと、律は思わず赤井の成りを凝視する。沖矢と赤井が同一人物であった事を知らされた今となっては、その言動に二、三の思い当る節もあるというものだが、当時は勿論予想だにしていない。安室透に成りすましている降谷の人格の作り込みも見事であったが、こうして相貌や声音まで変えられてしまっては最早別の領域である。赤井が正体を明かす事を前提に律に近付かなければ、律はきっとこの先一生真実を知らないままであっただろう。

「プレアデス星団の時季にはまだ早いな」
「……何て?」
「牡牛座の散開星団さ。和名を昴と言うんだ」

 赤井は何を探すわけでもなく夜空に視線を投げていたかと思えば、そうして計ったように律を射止める。仄暗い明かりに反射した瞳が酷く魅惑的に揺らめくから、律は掘り起こしたばかりの記憶と結び付けて、それを何と澄んだ瞳だろうかと考えずにはいられない。
 静かだ。空調の動作する僅かの音ばかりが響く室内は、まるで世界に二人きりになってしまったかのような静寂に包まれている。
 ――さて、何処まで話したか。赤井は表情を変えずに言った。君は何を聞きたいのかと、そう尋ねるようだった。
 
「ごめんなさい。痛かったでしょう」

 しかしながら律は話の続きに先んじて、伸ばした指の先は冷たいままその締まった頬に触れる。心地悪いだろうに赤井はそれを少しも厭わずに、ただ律の言動に驚いたように目を剥いた。
 律はまだ太陽が高い位置にある頃から東都シティホテルの一角に軟禁されると、事の経緯を順を追って赤井の口から聞かされている。それは夏葉原リセットマン事件の発生から、任務のために己を死を偽装して正体を隠している事まで。幸い事件当日の記憶を思い出した律は赤井の説明に齟齬がない事が分かったが、失踪以降の話は当の本人の弁解だけでは全て丸呑みにするわけにもいかない。半信半疑、話半分、ささくれ立った心でいる律に、赤井はそれでも説明を繰り返した。
 しかしそうして時間を置いて、一緒に食事を取り、世間話のような会話を交わして、ひとり湯舟に浸かる頃には律の心も幾分落ち着きを取り戻していた。感情的であった自分を省みて、遅れてようやく気付く。怒りに任せて人に手を上げたのは、これが初めてだった。

「……いいや。君には平手打ちでは済まされないことをしたよ。刺し殺された所で文句も言えん」

 赤井の大きな手が、律の手を包むように重なる。言葉通り、その物言いには建前ではない罪の意識が漂っている。
 赤井は一通りの顛末を饒舌に良く話したが、任務の内容は話してやれない事を分かって欲しいと最初に断った。そうしてそれは察するに、どうも降谷も一枚噛んでいるようだったから、赤井はその時ばかりは言葉を渋っていた。任務の如何に拘わらず、降谷自身から律が直接話を聞くべきだろうとも、赤井は言った。
 降谷と赤井が水面下で何かしらの繋がりがあったのだとすれば、降谷はずっとそれを律に隠していた事になる。探偵の安室として赤井を探す振りをして、上司の降谷として律の生活を支える裏で。律は赤井に反発したように、降谷の選択が決して私利私欲のためではないことを信じている。それでも胸に過る一抹の不安が、まるで降谷に対する裏切りのようで律の心を深く抉っていく。
 じんわりと赤井の熱が伝播する右手に、律の指は僅かに右に振れる。柔らかな刺激に反射的に上下した豊かな睫毛が、指の腹にぶつかった。

「瞳の色が違うのは、アメリカ人だからですか?」
「国籍はアメリカだが生まれはイギリスだ。父が日本人で、母がイギリス人」
「アカイシュウイチは本当の名前?」
「ああ。そうだよ」

 どう書くのかと尋ねると、赤井は頬に添えられていた律の手を取り、開かせる。赤色の赤に――と、一字一字を何かに準えては、その小さなキャンパスを長い指の先でなぞっていくものだから、律は途中で擽ったく指を丸める。当時はあまりに当たり前の事が聞けなかった。聞いたら全てが、終わってしまうことを分かっていた。赤井秀一さんと、刻まれて呼んだ名に赤井は、短い相槌を打つ。
 どうして永倉圭?ニュースを見て。意味などないよ。
 蕪木先生や葉子さんは?責めないでやってくれ、俺の我儘に付き合ってくれていただけだ。
 律はそうしていくつかの問答を繰り返した。今更どうでもいいような確認は明け透けな時間稼ぎのようで、手札の切れた律は込み上がる嘆息をひとり飲み込む。ただひとつ聞かなければならない事を、もうずっと前から知っていたような気がした。

「……どうして、私に本当の事を話さなかったんですか」

 核心を突いたような感触に、空気が震える。赤井はその質問に、間を置くように一度固く口を結ぶ。
 赤井は職務に利用するために律に近付き欺いた事を吐露したが、何故そうして欺き続けていたのかそればかりをまだ律に話していなかった。記憶などもう二度と戻らぬかもしれない予感もあっただろうし、立場上律の身元を調べる事もそう難しくはなかっただろう。にもかかわらず、赤井は律に偽りの名を与え、仕事を紹介し、別人として生きる道を整え続けた。
 ――嫌いにさえなってしまえたなら、この心も凪ぐだろうに。律は一言一句違わず覚えてしまった留守電の伝言に思う。気紛れで始めただけのそのお遊びを、彼はいつからか、一生背負う覚悟でも持ったのだろうか。
 赤井秀一という人間に人生を狂わされた事を、忘れたわけでは決してない。深入りするな、理性的な判断を下せ、そう思う。思うのに、しかし。麻薬のような幸福に慣らされただけの心はこうも騒いで、こうも律を惹きつける。律は己のあまりの不甲斐なさに、声を上げて泣き出したくなる。
 律の迷いが分かるのだろうか、赤井はその不安ごと掻き抱くように、律の細い指を自身のそれで強く絡め取った。どきりとした。その動作にではない。律を捕える眼差しの艶に、甘美な色に。何とも言えぬ、熱っぽさがあった。

「君を愛してしまったから」

 身体の奥底から湧き上がる脈動が、鎮まらぬまま律の中で疼いている。
 むせ返るような行き場の無いその衝動に、律は右奥歯をぎゅっと噛んで堪えている。

「君が俺の何を信じ切れなくても、この気持ちばかりは疑わないで欲しい」

 それは、その精悍な成りに似合わぬ、あまりに慎ましい望みである。
 律はふっと、繋ぎ止められた右手を思い出した。これを僅かの力で握り返しさえすれば、赤井は律を攫ってくれるだろう。もう誰の目にも見つからぬように、今よりも深い闇に上手く溶かしてくれるだろう。それもいいのかもしれない。
 もしもこの先、何処までも深く堕ちていかなければならないのだとすれば、律は赤井の手を取っただろう。赤井はどうにも、退廃的な魅力で溢れている。好きかと聞かれたら、好きだろう。愛があるのかと聞かれたら、愛だってあっただろう。それがどのような意味であれ。
 しかし次の瞬間にはもう、律は確かな熱を孕んだ指先を解いていた。赤井がそれを惜しんで咄嗟に追うが、律は頑なにそれを拒む。初めて、つっと表情を歪めた赤井に、律は眉を下げて哀しく笑った。いつか律に星の名を教えたのは、きっと降谷零だったのだろう。赤井の背の向こうに今も尚美しく広がる星空に、思い出せぬ癖して、確信があった。

「……今は、降谷さんの傍を離れたくはないんです」

 思ったよりもずっと、情けない声が鳴った。真摯な愛を語られて、他の男の名を挙げるなどあまりに配慮に欠けている。殊に赤井は降谷のその名にとても過敏に牙を剥くことを律は既に知っているのだから、尚更だ。
 そうして、今はと付言することの、何と狡い事か。正直に口をついて出た言葉が恥ずかしくて律は俯く。同時に、思い知らされた。自分はこの男をそうして繋ぎ止めておきたいのだと。浅ましさが、嫌になった。
 それでも散散赤井の嘘を詰った律は、今この場で少しの嘘もつきたくはなかった。今は降谷の傍を離れたくはない。それは本心である。

「……、彼が好きか」
「……好きとか嫌いとか、そういう話ではなくて、」

 ――ならばいつ、降谷の傍を離れるつもりでいるのだろうか?
 ふと沸いた疑問に、赤井の問い掛けが歪な形で混じり合っていく。
 好きかと聞かれたら、それは好きだろう。律が降谷を嫌う理由がない。もしも降谷が律に致命的な隠し事をしていたとして、それは赤井もまた同様だ。そればかりでは離れがたい程に、律は降谷という人間が好きだし、その崇高な信念には尊敬の念すら抱いている。愛があるのかと聞かれれば、やはり愛だってあるに決まっている。
 ただそれが、自分に期待されている答えではないことを、律は勿論理解していた。そこに恋心ばかりがあるのだろうか、赤井はそれを確かめたいのだ。

「心配なんです。あの人は、放っておいたら死んでしまうかもしれない」

 道中、律は赤井の携帯から降谷に連絡を取っている。一触即発の車内でそればかりが、律が大人しく赤井に従う条件だった。
 そこまであれを信頼しているなら電源を入れてみたらいいと、赤井は取り上げていたはずの律のスマホを嫌みたらしく投げて寄越したが、それ以上は口を閉ざした赤井に、結局律は電源を入れられなかった。

 "今晩は友達の所に泊ります"
 "は?友達?"
 "すみません。明日の朝には帰るので"
 "待った。今、何処から誰の電話で掛けている?"

 思えば降谷は律に友達などいない事を百も承知であるし、非通知で受信した着信を不審に思わないわけがない。それでも降谷の追及を、律は一方的に遮った。
 実際は心配されているのはいつも律の方で、降谷は律など居ない方が心が穏やかだろう。まるで仕方のない事のように義務的な理由に託けるのは、ただ律が明言を避けたいがためだ。それが分かるから、赤井は神経を尖らせるのである。

「死になどしないよ。子供じゃないんだ」
 
 諌めるような声で言い聞かせる赤井に、そんな事は私だって分かっていると、律は両の耳を塞いでしまいたい。
 律と降谷の関係は、いつも薄氷のような薄い膜の上に成り立っている。些細な齟齬でひびの入るそれを、僅かの衝撃で粉々に砕け散るそれを、律も降谷も絶妙な距離感とバランスで守っていた。律は夏葉原事件当時の記憶を思い出したが、それは同時に以前のいわゆる花井Aの感情の揺れすらも呼び起こしてしまっている。花井Aと花井Bの降谷に対する心が、全くの同一ではない事に気付いてしまっている。しかし、その心に何と名付けようか、律にはまだそれが定かではない。
 花井Aの記憶を少しでも思い出した事を降谷が知れば、もう降谷は、律を花井Bとして見てはくれないのだろうか。それでは私は一体誰で、今この胸に抱いている感情は何処へ行くのだろうか。律の気付かぬ所で、もう既に、降谷と律の関係など破綻している。

「……俺だって、死ぬかもしれない。君に放って置かれたら」

 反応の鈍い律の顔を、赤井が覗き込む。
 強引に意識を奪われた律の視線の先で、嫉妬に口を尖らせる男の顔が、どうにも心の芯を引っ掻いた。

「あなたの方こそ、子供みたい」
「仕方ないだろう。君が子供のような男が好きだと言うんだから」

 だから好きだとは言っていないだろうと、繰り返そうとして、止めた。その答えに赤井が満足しない事が分かったし、意固地になればなるほどそれが真実のように聞こえてしまう事を恐れた。沈黙を破れない律に、赤井は少し気まずそうに目を伏せて、今夜はもう彼の話は止めようとそう言う。
 夜は深々と更けていった。赤井の他愛も無い話を聞き流しながら、降谷はもう家に帰ったのだろうかと、そんな事ばかりが気に掛かった。
 一時間もしない内に、律の瞳は疲労と睡魔に微睡み、蕩けてゆく。エアコンの冷気に無意識に腕を摩った律に、赤井はソファに掛かっていたブランケットを手繰り寄せ、肩に羽織らせた。
 ――俺はソファで眠るから、君は寝室を使うといい。その言葉の意味が、過去との線引きが、律は無性に悲しくて、ふるふると首を左右に振っては赤井を困らせる。

「……弱ったな。朝には君を帰さないといけないのに」

 誘われるように引かれた腕に、律が抵抗する事はない。ソファの背に凭れた赤井の広い胸に抱かれて、心地の良いその体温に導かれるように沈み込んでゆく。同じ石鹸の清潔な香りの中に混じる男の匂いに、律は気付かない振りをして、赤井の上着に鼻先を埋めた。
 何か悪い事をしているような気分に苛まれるのに、それでも律は、拒めない。赤井の背に回した頼りない腕の先で、くしゃりとその服の端を握る。まるで自分ではない別の誰かが、この身の底で声を殺して息衝いているようで、怖かった。
 次はいつ会えますか。消え入りそうな声で、そう尋ねた。



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