#55
 
 三時間前。アンドレ・キャメルは困惑していた。
 赤井秀一の生存に心を躍らせた夜も束の間、キャメルは早朝から、まだ人通りも疎らな米花町で愛車を走らせている。BGM代わりに聞き流していた朝の情報番組は、昨夜の新宿駅前交番爆破騒動が事故であった事を伝えると、早々に今日の天気予報に切り替わってしまった。ワシントンと東都の夏は良く似ている。どうやら蒸し暑い一日になりそうだと、朝日特有の刺すような眩い光線に、キャメルはハンドルを握る右手に力を込める。
 約束の五分前になると、赤井は沖矢昴の姿に扮して待ち合わせ場所に姿を現した。しかし乗車しようとドアノブに手を伸ばしたはずの赤井は瞬間、何故かぴたりと動作を止める。キャメルがその様子を不審に思うのと、赤井がミラー越しに重苦しく吐息したのが窺えたのはほぼ同時だった。ゆっくりと振り返った先で、ピックの詳細を伝えてはいないはずのジョディが勝ち誇ったような笑みで仁王立ちしている。私を欺こうなんて百万年早いのよと、その笑みを次にはひくりと引き攣らせた彼女に赤井は露骨に憂鬱そうだった。

「アイスコーヒーとサラダラップを買って来たの。三人分で二千三百十八円。シュウが払ってね」

 赤井の事となるとジョディは鼻が利く。当然のように助手席に乗り込みキャメルに無理やりチルドカップを持たせるその姿には、外では沖矢と呼ぶようにと、既に全てを諦めたかのように赤井はそれだけを窘めた。その態度に、ジョディは些か機嫌を上向かせて、綺麗に紅の引かれた艶やかな唇で細いストローを咥える。別段どうと持て囃されたわけでもないのに、昨晩あれ程食って掛かっていた癖にと、キャメルは大層不思議に思うがあえて口にする事はない。
 アンドレ・キャメルと言えば、職場の上司に苦言を呈される程に、男女関係というものに酷く疎い。以前そうしてジョディの逆鱗に触れた過去があるものだから、キャメルは迂闊な発言に己で歯止めをかけている。殊に女心に関して言えば、口が災いの元なのである。
 どこに向かいますかと、後部座席に乗車した赤井に向かって、だから代わりにキャメルは尋ねた。赤井はジョディの背後から長い腕を伸ばして、紙袋に残ったチルドカップを持ち上げながら答える。

「新宿だ。新宿駅前のメンタルクリニックに向かってくれ」

 予想外の返答に、ジョディは口に含んでいたコーヒーを思わず噴き出した。咳き込んだジョディにキャメルはタオルを差し出す事も忘れて赤井を振り返るが、当人ばかりがさして気に留める様子もない。心の調子でも悪いの?と怪訝な顔で確かめるジョディに、赤井が返事を寄越す事は無いものだからより一層不安を駆り立てる。
 まさか、あの鋼の精神を持つ赤井秀一が精神を病魔に蝕まれているのだろうか。恐る恐る視線を交わらせるのは、やはりジョディとキャメルばかりである。
 ちらりと今度はルームミラー越しに赤井を見遣ったキャメルは、静かにギアを入れ替えた。アンドレ・キャメルは困惑していた。

「ねえ、これって張り込みよね?アンタまた私達を騙していない?今、何のために何やってるの?」

 三十分前。ジョディ・スターリングは憤慨していた。
 駅前のクリニックから数十メートル離れた路上で車を停車させたまま、赤井は車から降りる素振りが無い。それどころかまるで暇を潰すように来葉峠死体すり替えトリックの種明かしを始めたかと思えば、現況の核心には一切触れないのである。どうやら赤井が心を病んでいるわけではない事に一時は安堵したものだが、今度はその意図が余計に靄がかってしまっていた。
 キャメルはすっかり氷も解けて薄まったアイスコーヒーを、カップの中でくるくると回す。赤井が今この場で何を静観しているのか、何の目的を持ってこの場に足を運ぶのか、そうして自分は何のためにドライバーの役割を仰せつかったのか、それがキャメルには分からない。何時間もひたすら獲物を待って息を潜める事の得意なスナイパーではないものだから、キャメルもジョディのように現状に焦れだして、そう手先を遊ばせるのを止められない。

「ねえってば。シュウ」
「……煩いな。そのお喋りな口はどうしたら塞がるんだ?」
「アンタが口を割れば塞がるわよ」
「だから俺は付いて来るなと言っただろう」

 じわじわと高まる外気の熱が、三者三様の不和を助長させている。エンジンを切った狭い車内には開けた窓から時折風が吹き抜けるが、生暖かいそれは心地悪くキャメルの肌を撫ぜていくばかりだ。頻りにパタパタと服を摘まんでは熱を逃がすジョディは、プライベートだと断言された事が尾を引いているのだろう、完全に集中力が事切れている。
 キャメルはそれでも、次なるアクションを待っていた。自分の判断力など赤井の前では当てにならない。そうして変わらぬ状況に堪え切れずに、キャメルは取り返しのつかない失敗をした苦い苦い過去がある。
 そういえばと、キャメルは燻った空気を換えようと、やや明るい調子で言った。赤井は己の死体すり替えトリックについては答えをくれたが、昨晩バーボン、もとい降谷零と交わしていた話の内容を教えてくれてはいなかった。この訳の分からぬ現状を話したがらないとしても組織関連の情報となれば口を弛めるだろうし、ジョディの気を紛らわせるにも赤井が語る事に意味がある。そう気を遣ったキャメルの言葉を、しかし赤井が、その時唐突に遮った。

「車を出す準備をしておいてくれ」

 聞き返している暇などない。性急に開けた後部座席の扉は、勢い良く音を立てて閉じられる。
 思わずポカンとしたキャメルとは対照的に、ジョディの方は途端に眼光を鋭くして、大股で遠ざかっていくその後ろ姿ばかりをじっと見つめていた。その足は目的地と思われていたクリニックに赴くわけでもなく、何故だろう、隣の小規模な公園を目指している。
 入れ替わりに歩道を歩いて来たのは、若い女性と二人の幼い子供だった。親子だろう。嬉しそうに燥ぐその幸福そうな笑みを数えて、キャメルは少しばかり緊張の糸を和らげる。彼等の姿が見えなくなった所で、キャメルは指示された通りに、車のエンジンを回した。

 ――誰かと、話をしているわ。

 呟くような声音が、隣で細く鳴る。車窓から身を乗り出すように赤井の背を追っていたジョディは、もう二、三メートル前に出てくれない?と、キャメルを振り返る事なくそう願う。
 公園はその周囲を背の高いレッドロビンがぐるりと囲っていた。きちんと剪定がなされているのだろう、古い葉は無く鮮やかな赤に染まった新葉ばかりである。そうしてそれは丁度、その誰かの姿を隠してしまっていた。生垣の切れ間から窺えるのは、沖矢に扮した赤井の広い背ばかりである。
 ジョディの言う通り車を僅かに前進させれば、二人はその人物を視認できただろう。しかしキャメルは、赤井さんの許可無く車を動かせませんよと、その申し出を断った。ジョディは恨めしそうにちらりとこちらを一瞥しただけで、すぐに赤井に視線を戻す。もう、何の小言も飛んでくる事は無かった。ジョディ・スターリングは憤慨していた。

「待ってください!降谷さんが迎えに来るんです!」
「そうか。なら尚更、今君を攫う事に意味がある」

 三秒前。キャメルとジョディは驚愕する。
 なかなか戻らない赤井に、すっかりと車内はエアコンの冷気で冷え、キャメルの背を伝っていた汗も引いた頃だった。事態は一転する。隣で飽きもせずに赤井を凝視していたはずのジョディが、小さく唸った。それに釣られるように視線を持ち上げたキャメルの視界に、赤井が映る。ただしその腕で、見ず知らずの女性の身体を強引に引き摺るようにして。
 ジョディもキャメルも上手く事態を呑み込めないのに、赤井は状況を整理する時間すら許してはくれなかった。有無を言わさず彼女を後部座席に押し込めると、遅れず自分も乗り込んで、車を出せと短い指示を下す。ガチャリと扉のロックが掛かった音には、弾かれたように現実を思い出すようだった。
 キャメルは赤井の切迫した声に急きたてられるように、反射的にギアを替える。ブレーキから足を離せばタイヤは前に転がって、刹那彼女は、それに焦燥した。荒げた声で、降谷の名を口にする。キャメルとジョディは、驚愕する。

「止めてください!お願い、車を止めて!」
「キャメル。東都シティホテルへ向かってくれ」
「え、ええ?」

 無理やりにキャメルの腕を掴もう身を乗り出した彼女の身体を、赤井は事も無げに抑え込む。降谷の名に瞬間的に身構えたキャメルであったが、彼女自身はあまりにも非力なようだった。薄い身体は肉付きが悪く、露出した細腕など赤井でなくとも容易に手折れてしまうだろう。意志の強そうな瞳をしてはいるがジョディのような派手さが無いから、いまひとつ迫力というものに欠けている。

 "もう気は済んだだろう?あの娘を返してくれないか?"
 "これは俺と彼女の二人の問題だよ。彼女はもう君の部下ではないだろう"

 昨晩の記憶と赤井の言動を、既にキャメルは線で結び付けている。しかしそうだとしても、女の正体そればかりに皆目見当も付かないのである。
 彼女はバーボンの手下なのか?そうなれば自分達の敵なのでは?いやもしかすると赤井の抱えのスパイか何かなのか?疑惑と憶測が混じり合う頭の中に、今キャメルの確かな道標は東都シティホテルへの最短経路だけだ。彼女の必死の願いに耳を塞いで、キャメルは赤井の命令に従順にアクセルを操作する。

「ちょっと、勘弁してよ!アンタ昨日降谷に喧嘩売ったばっかりでしょう?!その女は誰なわけ?!」

 青ざめるジョディに赤井は勿論、キャメルも宥めている余裕は無かった。ジョディの言い分など百も承知であるしキャメルもその答えを知りたいが、それよりも、一刻も早くこの場を離れなければならない事を分かっていた。次第にスピードを上げる車体に、その時まさに、クリニックの駐車場に一台の白いスポーツカーが右折していく。キャメルばかりがそれに気付いて、縋るような気持ちだった。
 すれ違いは、一瞬。チカチカと点滅したウインカーが、そうして、消えた。向こうのドライバーの関心は、既に駐車場の空きスペースに移っている。
 ――そのまま気が付かないで行っちまえ。どくりどくりと跳ねていた心臓を、落ち着かせるようにキャメルは呼吸を整えた。酷い緊張で滑りそうになるハンドルに、神経質にズボンで手汗を拭く。しかし安堵したのも束の間、彼女が後ろを振り返ってしまった。

「降谷さん!」

 それは、あまりにも、鮮やかだった。
 赤井の僅かの油断を嗅ぎ取って、拘束されていた手首を返した彼女はするりと赤井の脇の下に身体を滑り込ませる。それは弱肉強食の世界で小柄な体格を上手く利用する小動物のように、キャメルが運転席で手動ロックをコントロールしようとするが間に合わない。ガチャリと音を立てて、後部座席のドアは開いた。時速約五十キロメートルで走行する車の扉が、車道で突然開いたのだ。
 ジョディは悲鳴を上げ、キャメルは思わずアクセルから右脚を浮かせる。彼女はそれを厭わず、やや弛んだ速度を機として、その身を外へ逃がそうとした。
 しかしその瞬間、赤井がその身を乱暴に引き戻すのが僅かに早い。その左腕は彼女の腰を掻き抱いたかと思えばすぐにシートに放り投げて、肩口を抑えつける。開き切った扉に数度空を切った右手は、その端を掴んだ。一際大きな音を立ててから戻った静寂に、キャメルは慌ててアクセルに足を戻す。彼女の口から、浅い呼吸が漏れていた。

「……っ、馬鹿な事をするな!死にたいのか!?」

 吐き出すような怒声は、組み敷いた彼女に降り注がれる。その剣幕に彼女はびくりと身体を震わせるが、だからと言って、怯む様子はない。その黒黒とした丸い瞳は、吸い込まれるような闘争心を孕んでいる。
 見た目に似合わぬ大胆な行動にキャメルは圧倒されるが、隣でそれ以上にジョディは、初めて目にする男の横顔に目を奪われているようだった。赤井がそうして徒に感情を露わにするのを、キャメルは勿論、恐らくジョディも見た事は無かった。赤井は珍しく激昂し、珍しく、危うい。

「約束しているんです。もう二度と、消えたりしないって」

 ――わたしに、あの人を、裏切らせないで。
 泣き出しそうな声だった。しかし彼女は、はっきりと、そう伝えた。
 赤井はその言葉に、顔色を変えない。ただそうして、彼女の身体を拘束する腕の力を弛める事もない。

「……随分だな。上手く躾けられたものだ」

 冷ややかな態度は彼女を見下して、言葉の端には蔑みすら感じられる。
 しかし何故だろう、赤井の声もまた、彼女と同じく泣き出してしまいそうだった。

「彼だって君を騙している。もう気付いているだろう?」
「違う。……秘密にしているだけです。それが本当に、私のためだと思っているから」

 信号機の色が変わって、キャメルは静かにブレーキを踏む。切に言葉を返した彼女に、それを躾けられたと言うんだと、赤井は嗤った。
 新宿駅に近い大通りの十字路で、向こうの通りには規制線が張られている。朝のニュースを思い出したキャメルは早早とウインカーを出すと、車線を変更しようとした。
 ぱちん。その時、弾くような乾いた音が耳に届く。反射的に振り返ったその先で、痩せた手の平が宙に浮いたまま震えていた。やや右方に振れた赤井の顔は、錆び付いた動作でまた、彼女を見下ろす。獰猛な獣のような成りをして、その瞳ばかりが堪らなく寂しい。

「降谷さんの悪口なら、聞きたくありません」

 その物言いはまるで赤井に手を上げた事を正当化するように、正義の匂いを仄めかしている。指先の震えを隠すように、彼女はぎゅっとその手を握り締めた。その動作にキャメルは僅かの、後悔を見たような気がした。
 ――少し、黙っていてくれないか。
 牽制するように、赤井の左手は彼女の小振りな唇を覆う。キャメルはそのままその手が彼女の細い首元を絞めてしまうのではないかと、どきりとする。そんな気配が、確かにあった。

「君の心を容易く奪ったあの男が、妬ましくて堪らないんだ」

 曇天の河の底のような濁った眼に、青白い激情が揺れている。赤井の心も知らぬのに、何が苦いものが、キャメルの喉の奥を落ちていくようだった。
 歪な関係に絡みついた複雑な愛憎の念を、キャメルでさえ敏感に感じ取っている。しかしそれはどうにも目を背けたくなるような背徳に溢れているものだから、堪え切れずに、キャメルはもう、見ない振りをして誤魔化した。漸く色を変えた信号機に、キャメルはほんの少しばかりの安堵を覚えて、静かにアクセルを踏み込んでゆく。
 隣でジョディは、何か良くないものに魅入られてしまったかのように、後部座席を見つめているようだった。その心臓が痛々しい程に腫れ上がっている事に今度は気が付くのに、どうする事も出来ないまま、やはりキャメルには、見ない振りをする事しか出来なかった。


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