#54

 花井律は若い女親の子供達を呼ぶ声に、地面に這わせていた痩せた枝切れを引く手を止めた。
 寄ってたかって、律の描く稚拙なイラストの完成を心待ちにしていた子供達は、その呼び声にぱっと顔を輝かせると一散に駆け出していく。最愛の家族の迎えは彼等の中できっと何よりも代えがたいのだろう、あれ程夢中になって作り上げていた超大作を自らその足で踏み散らすのに、少しも気に掛ける様子はない。思い出したようにこちらを振り返った二人の小さな手は既に、甘えるように母親のそれと繋がれていた。

「お姉ちゃん!また遊ぼうね!」

 力無くひらひらと右手ばかりを振り返した律は、途端に静まり返った公園の片隅で再び独り、乾いた砂に枝先を走らせる。目の眩むような強い日差しに、風の通り抜ける木陰のベンチを陣取ってはいたものの、時は移ろいでもう半刻もすればその場所も太陽の餌食になるに違いない。分かってはいるものの、かと言ってどうにも身動きの取れない律は、ずっと隣で沈黙したままのスマホの着信を待っている。降谷から迎えの連絡は、まだ、来ていない。

 "花井さん、院内でお待ちください。降谷さんから連絡をいただいているので"
 "いえ。外の空気を吸いたいので、隣の公園で待ちます。ご迷惑をお掛けしました。もう平気ですから"

 昨日の新宿駅での騒動は院内のテレビニュースで大きく取り上げられていたが、依然としてその原因は調査中のようだった。東都大学爆破事件に引き続きどうにも爆破事件が立て続いているが、以前のように犯行声明が出回っているという報道はない。
 開院時刻を過ぎて次第に忙しくなるスタッフに、律がそろりと席を立つと同時に声が掛かった。昨日の取り乱し様を目の当たりにしていればそうして自分に目を光らせるのも当然だろうと律は自覚していたが、目が醒めてからの気分は然程悪くは無かった。頭の中に散らばっていた記憶のピースが、まるであるべきところにきちんと収まったかのように、今は整然としている。やはり律には夏葉原事件当日より前の記憶を思い出す事が出来ないが、それでも自分が記憶を喪失した経緯をはっきりと語る事が出来た。取り戻した記憶がほんの一部であった事が幸いしたのだろうか、律は職場に欠勤の連絡をしなければと思い至る程度には、頭が冷えていた。

 "今日、大きな案件がひとつ片付きそうだから。明日は家にも帰るよ"

 降谷には、随分と悪い事をしてしまったように思う。その言葉は裏を返せば、昨日はその大きな案件で家にも帰れぬ程忙しいと言う事である。
 別段負傷をしたわけでもないのに大袈裟にして、嫌がらせのように降谷の電話に残った不在着信の数々には、降谷もさぞ不審に思ったに違いない。何と言い訳を拵えたら良いのか律には妙案が浮かばずに、ひとまず一人で帰れますと、そうメッセージを送ってみたものの一向に既読すら付かないのだからこちらはお手上げだ。すぐ隣の公園に居ますと送ったメッセージもやはり開封されぬまま、それ以上の連投を避けて律はその場を動けないままだ。これ以上降谷の意にそぐわない行動ばかりして、幻滅されたくはなかった。

「……、下手くそ」

 最後に繋いだ胴体と尾びれに、完成したイラストを律はつまらなそうに見つめる。幼児の描いた、掠れて不完全な海の仲間たちの方がよっぽど特徴を捉えていた。
 砂の大海原を歪に泳ぐ、仲睦まじい様子の二匹のそれ。海水では生きることのできないひ弱な魚を眺めながら、手にしていた枝を放った。それは丁度、ふたつの世界を分断するように、音無く落ちる。さらさらと吹いた風が、薄い葉の影を疎らに散らしていた。

「そうでもありませんよ。可愛らしい金魚ですね」

 靡く髪を耳に掛けながら、律は馴染みのある声に振り返る。まるで気配無く背後を取られたその微妙な違和は、しかし同じく風に揺すられる薄茶の柔らかそうな髪と、眼鏡の奥で柔和に撓る優し気な目元に惑わされるようだった。
 沖矢さんと、律は呼んだ。それを合図のように、沖矢は特に断るでもなく律のスマホを挟んだ右隣に静かに腰掛ける。ふわりと、良く知った苦い香りが律の鼻腔を擽った。煙草は吸わないと言ったはずの沖矢から、確かにあの日と同じ香りがする。

「……金魚に見えますか?」
「ええ、もちろん」

 沖矢は不思議と、何か懐かしいものでも眺めるかのような眼差しだった。そうして誘われるように、以前タコか何かではと指摘された歪な金魚に、律も視線をくれてやる。
 ねえ、あなたはどうして此処にいるの?とか、ねえ、あなたはやっぱり喫煙者でしょう?とか、尋ねたい事など山ほどあるのに律は結局当たり障りのない質問を選んだ。平日の昼間から新宿の公園で暇を持て余している律に、沖矢は何故ここに?とは聞かない。彼は自分に聞かずとも、もう知っているのだろうと律は思った。それがたとえどれ程現実離れした帰結であろうと、彼は全てを知っているような気がした。今までそうして守り続けていた何かは、自分の浅はかな質問ひとつで、全て崩れ落ちるような気配すら感じていた。
 不自然な沈黙に、律は決め兼ねる。今更それを暴いた所で、この手に得られる果実の味が、分からなかった。

「……、ユニークな絵心だと、笑われた事があるんです」

 律は小刻みに震えそうになる唇を、ぎゅっと結ぶ。
 取り留めも無い世間話のようなそれに、沖矢はゆっくりと律と視線を交わらせるものだから、ああ、今日は厄日だなと、律は力が抜けたように嗤う。
 そう問いかけた事は、沖矢には律のある種の答えのように思えたのかもしれなかった。開いた瞳の虹彩は、吸い込まれそうな程に美しいグリーンだ。

「そうですか。僕はそう言って……大切な人の機嫌を損ねた事があります」

 ザッと一際強い風が吹く。乾いた葉の擦れる音ばかりがやけに耳に煩かった。
 花井律には、分からない。この駆け引きの先にある得体の知れない何かを欲したらいいのだろうか、それとも、何も知らない振りをして全てかなぐり捨てたらいいのだろうか。ぐにゃりと歪む視界に、堪え切れない玉のような涙が眦からボロボロと溢れ出し、頼りない両手で顔を覆った。
 ――どうして。律は、掠れた涙声でそう尋ねる。
 残像だけならば、どれだけ律の心を救っただろう。あれ程疲弊した心を、あれ程擦り切れた心を、律はまた風雨に曝さなければいけないのだろうか。またこの男を、追いかけなければならないのだろうか。花井律には、分からない。

「……すまない。泣かせたいわけじゃなかったんだ」

 ひどい男、わるい大人。しかしそうして律の両頬を包む手の平は、無骨な男のひとひらの優しさを孕んでいる。下瞼を撫ぜる固い指の腹の感触を、律はまだ、その肌で良く覚えている。
 泣かせたいわけじゃないなどと、よくも言えたものだ。気紛れに手を差し伸べて、そうして人を騙くらかして、食べられぬ愛ばかり与えて、最後はあまりにも容易く捨てた癖に。今更何のために戻ってきたのだと、投げつけてやりたい言葉はしかし、嗚咽に混じる。律はそれがもどかしく、我慢ならない。
 すまないと、赤井は律にまた、そう言った。何かを懺悔するような響きだった。

「ハル」

 懐かしい名だ。随分と前に土の底へ埋めたはずのその音が、幸福だった頃の思い出まで掘り返す。
 赤井は微笑った。またひとつ零れた律の涙を穏やかな動作で拭いきった後で、その体温は静かに律から離れていく。

「ハル。君にずっと会いたかった」

 まるで夢でも見ているかのような心地なのに、律は同時に、長い夢から醒めたような気分に揺らいでいた。
 仮屋瀬ハルの名を棄て花井律として生き始めて、もう随分と歳月が流れている。嫌と言う程現実を見つめていたはずなのに、どうして今、全てを失ってしまったかのような喪失感に身が捩じられる。まるで、魔法が解けたようだった。

「――律です」

 それが律には酷く滑稽に思えて、仕方ない。
 何故だろう、今この瞬間に、降谷の顔が浮かんで消える。

「花井律です。私の名前」

 滲んだ世界と頬を伝い落ちた温かな温度に、律はまた泣いた事が分かった。何がそれ程悲しいのだろうと、嘲るように自分を嗤った。
 
「あなたは永倉圭じゃない。FBI捜査官のアカイシュウイチさんですね」

 今度は己の手の甲で、律は乱暴に涙を拭う。
 赤井はその言葉に初めて余裕を奪われて、思考するように、やや視線を落とした。互いに閉口して、静かな時間が流れた。

「――降谷君が、話したのか」

 そうして赤井は、吐き出すように言った。何かを惜しんでいるようにも聞こえた。 
 しかし、その返答は律の期するものではない。それどころか律の胸に俄かに産み落とされた一抹の疑心が、律の身体を指の先まで硬直させる。確かに何かを掛け違えた感に、それは上手く着地点を見つけられずに浮遊したままだ。
 律は、ゆっくりと探るような眼で赤井を見遣る。思わぬ方向へ、量りの針が振れた。

「黙っていろと言い含めたつもりでいたが、とうの昔の手遅れだったのだろうな」

 諦めの色に暮れる横顔は律の僅かな変化を看過して、紡がれる言葉はやたらに流暢だ。しかし当たり前のように眼前に並べたてられたそれを、律はどう転がした所で噛み砕くことなどできない。
 どうして。律の唇は、またそう、動く。聞きさえしなければ幸せだと分かっているはずの答えを、しかし何処かで切望している。

「どうして、あなたが降谷さんを知っているの?」

 その問いに、確かに言葉を続けようとしていたはずの唇が、薄く開いたまま固まった。酷く緩慢な動作で律に向き直った赤井の表情は途端に凍り付き、瞬きを忘れた瞼の端ばかりがひくりと痙攣する。互いに何かに、欺かれているような気分だった。
 なぜ。あなたは降谷零を知ってはいない。知っていてはいけない。錆び付いた願いのような想いばかりが脳裏で旋回する。
 先に事態を掌握したのは、勿論赤井だった。あまりに迂闊な己の失言を悔やむと同時に、律の置かれた状況を理解していた。

「……記憶が戻ったのか?」
「私の質問に答えてください」

 逃げ道を用意してはいけない、主導権を握らなければいけない。それを怠ってきたから律はいつも騙されてばかりなのだ。
 しかしだからと言って律にも、この追及の先に一体何が待ち構えているのか分かりはしない。ただ、赤井は何かを隠している。膨らむ赤井秀一への不信感ばかりが、律の気を立てていた。そうして、何かを隠しているのが赤井ばかりではない事を律は薄薄と気付いている。それは、恐らく、降谷零も。
 ―早く、何か答えてよ。分からぬ不安に、律は苛立っている。それでも赤井は言葉を渋るものだから、それが許せず、責め立てた。

「あなたはいつも、嘘をついてばっかり」

 君にずっと会いたかっただなんて、どうせそれも嘘なのでしょう?
 言葉に乗せた非難の色に、赤井は口許を苦く、苦く歪めた。その言葉が赤井を傷付けた事が分かるのに、律はそれを撤回しようとはしなかった。
 頼りなく二人の間を通り抜ける風が、夏の湿気た匂いを漂わせている。赤井はその時、確かに何かを伝えようと固く結ばれていた唇を離した。それを、あまりに淡白な電子音が遮った。

 ――プルルルル、プルルルル。

 見つめ合ったまま絡まる視線の許で、それは微かな振動と共に鳴り続けている。僅かの沈黙に、目線を下げたのは律の方が早かった。着信、降谷零。案の定である。
 律が顔を上げると丁度、ちらりとそれを一瞥した赤井と目が合った。そうしてまた、僅かの沈黙。鳴り止まない端末に、律はまた目を落とすと、右手を伸ばす。指の先が届く瞬間、しかし律の手首は赤井の節立った左手に荒荒しく阻まれた。
 声を上げそうになる程驚いて目を見張った律を、赤井は無言のまま見つめている。あまりに深く憂わしい瞳に、薄い皮膚の上から滲む体温ばかりがやけに尖って、遅効性の毒のように体内を麻痺させていくのが分かった。着信音は鳴り続けるのに、花井律は、動けない。目の前の男から初めて浴びせられた熱情に、身が灼けるような思いだった。


prev next
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -