#53

「降谷さん、少しお時間よろしいですか?」
「後にしてくれ。管理官に呼ばれた」

 降谷が受話器を置いたタイミングを見計らって席を立った風見は足早に駆け寄るも、一切の迷い無く右手ひとつで制されるとやや怯んだようだった。地味な色合いのネクタイを締め直し、捲り上げていた袖を下ろしてボタンを留めながら、降谷は慣れた手付きでIDカードを引き抜きPCからログアウトする。早々にブラックアウトした画面に映った自分の情けない顔がどうにも不愉快で、普段は開いたままのラップトップの画面を手荒に閉じた。
 降谷零は、失敗した。ただでさえ事の後始末に忙しい夜に、己の失態を報告書に纏め上げ、各方面へ説明と謝罪を繰り返し、三行では済まされぬ始末書を認めなくてはならない。本来であれば今頃、沖矢昴に成りすましていた赤井秀一の仮面を剥ぎ高笑いをしていたはずであったのだが、降谷の描いた完璧なシナリオは砂のように散らばってしまっている。仮定を根幹から食い破られてしまった今の降谷には軌道修正をする余力は無く、ただただ上司には事実ばかりを伝えて叱られなければならないのだから気が重い。赤井から託された楠田陸道の拳銃はせめてもの救いではあるが、それを軽々しく戦果と呼ぶには降谷のプライドが許さなかった。

 ――赤井秀一と沖矢昴は、本当に別人なのだろうか?

 降谷が沖矢昴という人間に辿り着いた時、その二人を等号で結ぶ事には何の迷いも生じなかった。それは降谷が論理的に証拠を積み上げて得た揺ぎ無い真実である自信があったし、何よりもその顔に降谷は嫌と言う程見覚えがあったからだ。
 沖矢昴は、花井律と接触している。実際に降谷がその目で確かめたのは米花町での花見の際に限られるが、当時の親密そうな様子を思えばあれ一度きりの邂逅というわけもあるまい。赤井秀一はその身の死を偽装した後でさえ、別人として明確な目的を持って花井律に接近していたのだ。迂闊だったと降谷は己の手落ちを自覚したが、同時にその赤井の律への執着が、沖矢昴が赤井秀一と同一人物である事をより高い確度で裏付けているように思えた。

「花井の件です」

 後にしろと言ったにもかかわらず風見は、ジャケットを羽織る降谷の横を諦め悪く佇んだままだった。その様に神経を撫でられた降谷は反射的に一睨み効かせるも、これを機とばかりに性急に耳打ちされた名にはその眉間の皺が微かに動く。
 ふらりと視線を遣った室内は、パチパチと捜査員がキーを叩く音だけが響き渡り、静かだった。両肩に圧し掛かるような重苦しい空気感は、紛れもない自分が作り出しているものだろう。視線を戻してようやく向き合った風見の瞳には、明らかな焦燥の色が揺れていた。降谷は、込み上げる溜息を喉の奥で飲み込む。移動しながら話そうかと、そう伝えた。

「クリニックから連絡がありました。夏葉原事件当日の記憶が回復したようです」

 明度の低い蛍光灯に照らされた廊下を、降谷と風見は並んで歩く。降谷はその言葉につい立ち止まりそうになった足を、意識的に動かした。
 今日の昼間、降谷は珍しく勤務時間中に律に私用の電話を発信している。この所通院を疎かにしていた律の動向が気に掛かっていたという側面もあるが、それはスマホに忍ばせている発信機の信号で既に確認済である。だから降谷は本当に、赤井の件を片付けたら休暇を取るつもりで、律と二人で少し遠出でもして羽を伸ばす予定でいた。降谷の身の回りの事ばかりに感けている律を遊ばせてやらなければとも思っていたし、沖矢昴と律の繋がりをどうしてやるべきかと考えあぐねていた。赤井秀一さえ無事に始末できていたのなら、降谷の悩みの種がいくつか、消えてなくなるはずだった。

「ただ、状態があまり良くないようで」
「状態が良くない?」

 報告は手短に、結論から、要点以外は書類で出せと、そう常日頃から口を酸っぱくして言ってはいるが、降谷はこればかりは順を追って欠片ひとつ漏れの無い報告をして欲しい。
 何故、今日、この日に。今までずっと回復する兆しのなかった記憶が、何故よりもよって自分が身動きの取れない、今日この日に回復するのだろう。風見は、夏葉原事件当日の記憶が回復したと言った。あの日の記憶ばかりを取り戻した律は、今一体独りでどのような心地でいるのだろうか。
 降谷は苦虫を噛み潰したような表情で、拳を固く握りしめる。降谷さん、落ち着いて聞いてくださいと、漂う緊張感に風見は言い含めた。

「今日の午後一時頃、新宿駅近くで中規模の爆発がありました。原因は調査中ですが、花井はその現場に居合わせたようです」

 降谷の足が、今度は、止まった。カツカツと薄闇に響いていた踵の蹴る音がそこで途切れる。
 その反応を予測していたのだろう、風見の唇はキュッと引き締まり、降谷に向ける表情は硬い。降谷はその様子を目にして漸く、言葉の意味を呑み込んだ。顔色が、俄かに変わった。

「まさか巻き込まれたのか?!怪我は?!」

 荒げた声は、風見にばかり刺さる。静まり返った廊下に反響した怒声に構っていられずに、降谷は詰め寄った。
 風見はその剣幕に圧倒されると、気が動転して息を呑む。咄嗟に掴まれた左腕が痛んで、痺れたような舌がただ宥めるだけの言葉すら上手く紡げぬようだった。

「……だ、大丈夫です。幸い、外傷はありません」

 午後一時と言えば、降谷が丁度律との電話を切電した頃である。爆発というのはそのすぐ後の事だったのかもしれない。
 普段であればその事故とも事件とも知れぬニュースは降谷の耳に飛び込んでくるはずが、今日という日ばかりは降谷は赤井秀一に没頭していた。赤井以外の話を寄越すなと部下に命令していたのは、他の誰でもない降谷である。そうしてまた、通院日を先送りにしていた律にクリニックに行けと言ったのも、皮肉にも降谷本人だった。次のお休みの日に行きますねと話を流そうとした律に、半給を取得してでもすぐに行けと、降谷がそう言ったのだ。
 何故、今日なのだろうと、降谷はやはり悔やむしかない。

「ただ、現場は夏葉原の時よりも酷い有様でした。それが当時の記憶のトリガーになったのかもしれません」
「……、状態が良くないと言うのは?」
「……錯乱していて、まともに話ができる様子ではなかったと聞いています」

 慎重に言葉を選ぶ風見を前に、降谷の頭に昇った熱は僅かに冷える。縋るように掴んでいたままの部下の腕に気付くと、ハッとして指を解き、すまないと謝った。
 腕時計を確認しようとするが、今日は時計を外していた事に思い当る。ジャケットに入れっぱなしにしていたプライベート用のスマホを取り出して電源を入れるも、起動には時間がかかり降谷は待っていられない。今は何時だと、降谷はもどかしく風見に尋ねた。降谷の焦りが伝播するのだろうか、風見は不安そうな瞳のまま、二十三時を過ぎた所ですと、答えた。新宿駅での爆発発生から、随分と時間が経っていた。

「今、律は?」
「安定剤を投与したおかげで、良く眠っているようです。今晩はクリニックに泊めてもらうよう頼みました」
「……そう。迷惑をかけたな。助かったよ」
「いえ……事後報告で、すみません。電話を切っていたので、連絡に気付くのが遅くなってしまって」
「それは、」

 それは、俺も同じだよ。と、降谷が言いかけた所で手元の端末が振動して、目を落とした。
 明るくなった液晶に、数多の通知が列をなしている。不在着信が、九件も残っていた。

「降谷さん。明日、花井を迎えに行けそうですか?」

 内七件の発信者は律で、残りの二件は通院先のクリニックだった。律からの着信は午後一時を少し過ぎた頃、発信時間は数秒のものから、分単位のものまである。
 彼女は一体どんな気持ちで、俺の電話を鳴らし続けたのだろう。惨劇を目の当たりにして、消えていた記憶が蘇って、そうしてどんな気分で、繋がらない電話に縋り続けたのだろう。

「随分と降谷さんに、会いたがっていたようなので」

 降谷は今日という日ほど、己の不甲斐なさを呪った事はない。
 この手で守るべき律の声すら掬ってやれずに、怨敵である赤井秀一を追い回しては上手いように一杯食わされ、見す見す見逃す始末。国益のためとも個人的な復讐のためとも言える微妙なライン上で、狩るべき相手を見誤るなと窘められるのも無理はない。
 物事は結果が総てだと、降谷は思っている。何をどう努力しようと、どんな過程を辿ろうと、失敗すれば人が死ぬ。降谷はずっと、その苛酷な環境下で生きている。だからこそ、降谷はこの結果に余計に苛まれるのだ。今日の自分は、最低最悪の出来損ないだと。

「分かった。君はもう戻っていい。今後の指示は明朝のミーティングで行う」
「……降谷さん、明日は、」
「分かっているよ。律は必ず迎えに行くから」
「……、はい」

 風見は隠さずに不承不承と返事をすると、軽く頭を下げてひとり来た道を帰っていく。
 その背が見えなくなった所で降谷は力無く壁に凭れると、低い天井を仰ぎ見た。切れかかった蛍光灯が、チカチカと、一定のリズムで瞬きを繰り返していて、微睡むように、瞼を閉じる。

 ――律に、会いたい。

 空っぽにした頭の中に、一番に沸いた欲求がそれだった。それが降谷には、どうにも不思議な心地だった。
 律に会いたいと思った事など、もちろんこれが初めてというわけではない。花井家に足繁く通っていた頃は帰り道で良く律を思い出したし、律が夏葉原の事件に巻き込まれてからは毎日のようにそう思っていた。しかし、それは、何かが違う。あの時と今とでは、確かに何かが違っている。あの夜律相手に妙な劣情を抱いたせいだろうか、あの日から律が律とは違って見えるせいだろうか、今日初めて律が自分を求めた事を知ったせいか、それとも単純に、極度の疲労で気でも狂っているせいだろうか。
 今はどうしようもなく、その肌に触れたい。今だけはどうしようもなく、その身体を抱きしめたい。

 "これは俺と彼女の二人の問題だよ。君にとやかく言われる筋合いはない"

 耳障りな声音が蘇って、降谷はゆっくりと眼を開ける。
 沖矢昴の正体が赤井秀一であることを悟った時、花井律との関係を即座に結び付けた降谷は、すぐに合点がいったし、腑にも落ちた。しかしそれよりも降谷はきっと、沖矢昴という人間を花井律から切り離す権利が自分にある事に思い至って、何よりもまず安堵したのだ。沖矢昴がその辺に沸くただの好青年などではなくて良かったと、確かにそう思ってしまった。
 降谷は最近、そんな事ばかり考えている。記憶の喪失を機に、律の一番が自分であるという確信が揺らいでしまったものだから、つい律の些細な言動にそれを探し、求めてしまう。君が俺の一番なのだから、なんて、降谷は間違っても口にすることは出来ない。その言葉ひとつで律を縛れるのならばこれ程容易い事は無いが、その言葉は同時により強固な力で降谷の首を絞める。降谷の一番は、いつも、日本というこの国だ。間違っても誰か一人の人間とそれとを天秤に掛けるような事があれば、降谷は進むべき道を失ってしまうのだろう。靄に覆い隠されて陽の下に晒される事のない降谷の心が、真はどうであれ。

「……依存ね。あの女も、なかなか、的を得た事を言う」

 魔女の言葉が今になってじわじわと、降谷の精神を蝕んでいた。
 赤井の物言いは絶対不可侵であった降谷と律の間に深く切り込んで、その切れ目から止まらぬ血を流し続けている。本当は降谷が律の選択に口を出す権利などひとつもない事を何処かで分かっていたのに、それを誰も指摘することが出来なかった。初めてそうして他人に言葉にされて、子供ような癇癪を起しそうになった。そんな自分が酷く、格好悪く思えた。

 ――律がずっと、俺だけを見ていればいいのに。

 決して口には出来ない願いが、心の奥底で濁っている。
 チカチカと消えては灯り、消えては灯る蛍光灯の光を、降谷は瞬きすら忘れて凝視していた。

 ――まさか。肝心な時に傍にさえ居てはくれない男に?

 降谷はひとつ自嘲すると、気怠い身体を起こして再び歩き出す。スマホで呼び出したメッセージアプリの宛先は花井律に、明日迎えに行くからクリニックで待つようにと、それだけ打ち込むと早々にブラウザを立ち上げた。流れるような手つきで、トップニュースの記事をスワイプした。
 新宿駅での件の被害状況は芳しくない。死者が二人、程度の如何に拘わらず負傷者は十数名に昇っている。既にいくつも出回っている現場の凄惨なキャプチャ画像に目を通しながら、降谷の指が、ある一点で止まった。爆発の発生源は、駅前の交番である事が記載されていた。
 辿り着いた管理官の執務室を前に、降谷は、視線をやや下方に下げて思考する。しかしすぐにスマホを胸ポケットに仕舞い込むと、軽く身なりを整え、扉を三度ノックした。

「管理官。降谷です」

 沖矢昴と赤井秀一、花井律の記憶回復、新宿駅での爆発騒ぎ。
 擦り減った降谷の精神に濁流のように流れ込む三様の出来事に、嫌な胸騒ぎを覚えたような気がした。

 "記憶を失くしたという記憶を、彼女は忘れられないからさ"

 ふと耳の奥で木霊した残響に、そういえばあれはどういう意味だったのだろうと、降谷は首を傾げる。しかし次の瞬間入室を許可する管理官の低い声音に我に帰ると、降谷は気を引き締め直してひやりと冷たいドアノブに手を伸ばした。
 その顔は既に、公安の一捜査官である降谷零に戻っている。頭の中を確かに駆け巡っているノイズに似たそれを、降谷はすぐに、掻き消した。


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