#52

 タイヤのエア漏れで規則的に上下する車体に揺られながら、ジョディ・スターリングは助手席から身を乗り出すようにして後部座席に座る赤井秀一の姿を視界に捉えた。

「っていうか、あんたどこで何やってたのよ?何で車に乗ってるわけ?!」

 キャメル捜査官を運転手に連れ立ってジョディが赤井の死に場所である来葉峠を訪れたのは、この所その死への不信感を募らせる出来事が立て続いていたせいだ。
 どうも江戸川コナン少年は自分に何かを隠しているような素振りを見せるし、その事件を蒸し返す事は嫌がり、深堀しようとすればやけに冷たく取り付く島もない。例の火傷の跡のある赤井そっくりの青年が組織の刺客だと発覚した後も、ジョディに宛てられたコースターに走り書きされたメッセージの差出人は分からないままだった。
 もしかしたら何処かで生きているのではないかと思う事は何度もあったが、今日の今日までジョディは無意識下で赤井の死の真相に向き合う事を避けていたともいえる。そうして全てを一片の曇りなく明らかにして赤井の死を受け入れなければならないのなら、真実など知らないままその生存を願っている方が楽だったからだ。

 ――今日が私の人生で一番幸せな日だとしても文句はない。

 吐き出すように赤井に放り投げた言葉とは裏腹に、ジョディの心は満ちている。
 この絶体絶命のカーチェイスの最中で、目尻に浮かび零れ落ちそうになる涙に、鼻をスンと啜った。

「全て思惑通りだよ。あのボウヤのな」

 酷く愉快そうに、赤井は口角を持ち上げた。不敵な笑みで構えた拳銃に、隣でハンドルを握るキャメルは命令に忠実にカウントアップを始める。ジョディの制止など蚊帳の外で、迫りくるガードレールに思わず両瞼を瞑った瞬間、重厚な発砲音が闇夜に響いた。
 全ては、一瞬の出来事である。その弾丸が先頭車両のタイヤを打ち抜いたと同時に、寸での所でキャメルが上手くハンドルを捌いた。ボディの左半身を叩きつけて勢いを殺すと、最小限の反動で車体はコースに戻り再び速度を取り戻し始める。ジョディと赤井が見つめる後方に、追跡車両は確認出来ない。

「キャメル。――戻れ」
「りょ、了解!」
「ちょっと、ウソでしょ?!」

 そうして後方の闇を見つめたままの赤井はジョディの方にすら振り返らずに、このまま逃げ果せぬ理由の説明すらくれやしない。自分がハンドルを握っているのならば決して言いなりになどはならないのだが、条件反射のように赤井の言葉を鵜呑みにするキャメルがそこに鎮座しているのだからどう考えてもジョディに分が悪い。
 相も変わらず勝手過ぎる男だと、吹き付ける風にバタバタと靡く邪魔な髪を抑えながらジョディは瞬きすら疎かにその広い背を見つめていた。
 身勝手で、独断専行で、周りの事などお構いなしだ。人の気も知らないで、あんたのようなろくでなしのためにどれ程泣いたかも知らない癖にと、ジョディは心の底から沸々と怒りが込み上げる。しかしそれは、まだ赤井秀一が死ぬ前、ジョディが赤井に振り回されていた心と同じだった。あの頃と同じようにジョディは赤井の一挙一動に憤慨し、失望し、期待して、そうして結局恋焦がれている。ああ、本当に赤井秀一が帰ってきたのだなと、ジョディはその時、そう思った。

「悪く思わんでくれよ。ああでもしなければ死人が出かねぬ勢いだったからな」

 玉突き事故と形容しても可笑しくはない程に、軒並みクラッシュした車の中には薄い白煙を上げるものもある。てっきり自分達は例の組織の人間に追跡されているのだと思い込んでいたジョディとキャメルは、その素性の知れぬ強面の男達に事も無げに話しかけた赤井に仰天した。今し方発砲したばかりの拳銃を差し出す赤井にはやけに従順に要求通りの携帯電話を手渡すも、そうしてこちらから武器を奪えば態度は一変、男達は誰に倣うでもなく赤井に銃口を向ける。
 ちらりと目配せをした先で、ジョディはキャメルと目が合った。最悪の事態に備えて迎え撃つ準備くらいはと互いに懐の銃に手を伸ばすが、事の渦中にいるはずの赤井ばかりにまるでその気が見られない。

「……久しぶりだな、バーボン。いや、今は安室透君だったかな?」

 バーボン。赤井が発したそのコードネームに、ぴくりと眉を寄せたのはやはりジョディとキャメルだった。
 何せ二人は一昨日発生した澁谷夏子殺人未遂事件の一環で、赤井の生存に繋がる重大な情報を良いようにバーボンに抜かれてしまっている。事実を知っていたはずの自分達よりも先にその秘密に辿り着いた彼はまた恐ろしく頭の切れる男ではあるが、探偵の安室透として対峙したあの時はどうにも癪に障る、いけ好かない男だという印象の方が強かった。観光ビザで来日し違法捜査を行っている自分達にももちろん非はあるのだが、それがどうという問題以前に彼はFBIという組織自体を目の敵にしていたように思う。

「ゼロとあだ名される名前は数少ない。調べ易かったよ。降谷零君」

 どうやら彼等、赤井とコナンばかりが真実に辿り着いているようだとジョディはいまひとつ話の中身が咀嚼できない。赤井の言葉からどうにか解法を得られないものかと試行錯誤を繰り返すものの、赤井生存の秘密すらまだ完全には紐解けないのだからそのステップは遥か遠くに位置しているような気さえする。
 まあ、今ばかりはそれでも構わないだろうと、赤井を横目にジョディは見つからない答えを探るのを諦めた。焦らずともこうして手の届く位置に、赤井秀一は帰ってきたのだ。もう記憶の中の彼の姿を追わずとも、これからはいくらでも本人を目の前に取っちめてやる事ができる。闇に包まれた難解な謎の答えよりも、ジョディは赤井に浴びせる文句のひとつやふたつ、いや十や二十を考える事の方が大切だ。

「それと、彼の事は今でも悪かったと思っている」

 その言葉が、最後だった。閉じた瞼の裏には一体何が映っているのだろうか、ジョディにはやはり話の内容が分からない。
 バーボンの返事など聞く間もなく耳から離した電話に、そうして再び開かれた瞳にはいつもの淡い光が宿っていた。

「よし。キャメル、車を――……いや、待て」

 しかし話が終わると思いきや、赤井は連中に放り投げようとしていた携帯電話に、何を思ったのか再び静かに耳を宛てる。キャメルはアクセルを踏み直そうとした右脚を止めて振り返ると、不思議そうにその様子を眺めていた。
 もちろん、ジョディにも赤井の行動の意味など分からない。何をグズグズと思う一方で、一段と細められた両の眼に今度は鋭く揺らいだその光に魅入られてしまったように、ただその凛とした横顔を見つめるばかりである。

「時に降谷君、君は人の留守中に大分狼藉を働いてくれたようだな」

 赤井の声音が、俄かに冷えた。それはやや弛緩していた男達に今一度拳銃を固く握り直させる程度には、言葉に敵意を馴染ませている。
 まとまりかけた話を蒸し返して、一体何の問答が始まったのだろうと、ジョディとキャメルの頭上には疑問符が乱立するばかりだ。突如空間を切り裂いた嫌な緊張感に、峠を吹き抜けていく生暖かい風が肌に心地悪い。

「……何の話なんでしょう?」
「さあ?あの男の悪行なんてありすぎて分からないわよ」

 沈黙する赤井の口が再び開くのを、きっと誰もが待っている。閉口したのは赤井なのか降谷なのか、その耳にしか届かぬ音は他の誰も拾えずに、どうにも歯痒く、じれったかった。
 ほんの僅かの静寂が実際とても長い時間に感じられたのは、その言動の如何によっては銃撃戦にでも展開するかのような張り詰めた空気が滲み始めているせいだろうか。ようやく小さく吐息したかと思えば、その唇は再び薄く開かれる。

「もう気は済んだだろう?あの娘を返してくれないか?」

 しかし続いた言葉は、当人以外の人間を一段と混乱の渦に引き込むには充分だった。
 あの娘を返してくれ?それこそ何の話だ?と、おそらく思考回路が停止しているキャメルと顔を見合わせジョディは首を傾げる。そのあまりにも突飛な話に、ひとつの突破口も見出す事が儘ならない。瞬時に脳裏に過った残像と言えば灰原哀、もとい宮野志保の顔であるが、彼女がバーボンの手に落ちたとはジョディは聞かされていない。

「これは俺と彼女の二人の問題だよ。君にとやかく言われる筋合いはない。――それに、彼女はもう君の部下ではないだろう」

 その発言に眉を顰めたのは、今度は降谷のお仲間の男達だった。しかし、やはりその反応が示す所の意味も不確かだ。バーボンの部下の女を何故シュウが引き取るの?何が二人の問題だって?と、悉く謎が謎を呼ぶ状況である。
 しかし次第に険しくなる赤井の面構えは周囲の干渉を決して許す余裕が無く、不用意に横槍など入れようとする気すら湧いてこない。見えない着地点に恐らくその場の誰しもが言い知れぬ不安を抱いており、いつまでこの時間が続くのだろうとそればかりが気掛かりだった。赤井が何かを鼻で嗤ったのは、その時だった。

「ハハ。だとしても、さして変わらんよ」

 分厚い雲に覆われていた空の隙間に、月が覗いたせいだろうか。
 薄墨色の仄暗い光に、細く撓った瞳がきらきらと反射した。悦の滲んだその双眸が、少しばかり、気味悪かった。

「記憶を失くしたという記憶を、彼女は忘れられないからさ」

 ゆっくりとまた風が吹いて、月が隠れる。すぐに闇に包まれた辺りは上手く視界に馴染まずに、ジョディは二、三、瞬きを繰り返した。誰かの息を呑む音が聞こえたような気がしたが、それが誰のものだったかは分からなかった。
 一際降谷の声量が増したせいだろうか、端末から洩れる電子音が空気を震わせる。赤井はそれに露骨に嫌そうに顔を顰めると、話の途中で電話を耳から離してしまった。今度は一片の躊躇いも名残惜しさも垣間見せずに、それを宙へ放り投げる。

「存外野暮な男だな。喧しくて敵わん」

 連中の一人がそれを受け取ったと同時に、赤井は今度は確かにキャメルに発車の指示をした。エンジン音を鳴らし来た道を戻りながらジョディと赤井は後方を振り返るが、どうやら追尾されることはない。角を曲がれば彼等の車体は、すぐに見えなくなった。
 さぞ虫の居所が悪いのだろうとちらりと視線をスライドさせたその先でしかし、赤井は一転して鼻歌でも歌い出すのではと思う程に上機嫌に見えるのだからジョディは面を食らう。案外と冷静に、目論見通りに事が進んだ事を喜んでいるのだろうか、本人ばかりがしたり顔である。

「随分とお喋りに夢中だったようだけど、もちろん分かるように説明してくれるのよね?」
「ああ、そうだな」

 ヘッドセットを取り付けながらスマホを操作し始めた赤井の返事はどうにも適当だ。ジョディがいくら言葉に棘を纏わせてみても、何処吹く風と言った様子で知らん顔である。

「このまま近場のセーフハウスに向かうわよ?いいわね?」
「ああ、そうだな……いや、待て。今夜は後始末に忙しい」
「はあ?じゃあ私達はこのままシュウを家まで送り届けて明日まで指咥えて待ってなきゃいけないわけ?」
「明日も無理だ。大事な用がある」

 ぶつりと、その言い草にはジョディの堪忍袋の緒が切れた音がした。もちろん単なる比喩ではあるのだが、即座にその不穏な空気を感じ取ったキャメルはハンドルを握る手が硬直する。忍ばせるようにジョディに視線を這わせたかと思うと次の瞬間にはもう、まるで見てはいけないものでも見たかのような顔をして慌てて前を向いてしまった。
 昔からこういう男である。久方ぶりの再会だからと言って、それが死亡したと思われていた人物との奇跡のような再会だったとして、ドラマのような感動のワンシーンが紡がれるわけではない。誰に言われずともジョディが一番理解しているし、何を期待していたわけでもないが、予想の遥か斜め上をいく飾り気の無い現実には物を申さずにはいられない。

「あんたね、ふざけるのも大概にしなさいよ!今これよりも大事な用事って何よ?!」
「プライベートだ。話す義務は無いし、ふざけてもいない。ジョディ、何をそうカッカしているんだ?」

 しかし赤井は心底不思議そうに首を傾げるだけで終わらせようとするのだから、腹立たしい程の温度差にはジョディもびっくりだ。
 ああ、そうだな、仕事だからと言いたいのだろう。この男だってもちろん、好き好んで自分の死を偽装したわけではない。あの時赤井秀一がキールの手によって殺害されたからこそ、キールは生き延びたし組織の貴重なパイプとしての役割をきちんと果たしている。ジョディやキャメルにまで真相が隠されたのは、それが任務遂行のための最善策だと判断されたからであり、そこにはそれ以上も以下の理由もないのだ。
 しかしそうだとしても、ならばジョディは赤井の肩でも叩いて、やっぱり生きてたのねなんて冗談めかして笑えば良かったのだろうかとそう思う。曲がりなりにも元恋人だった男の死が忘れられずに泣き明かしたあの夜は無かった事になるのか?未だにそのデスクを片す事すら出来ずに月命日には花を供えている同僚の気持ちはどうなる?と、決して謝って欲しいわけではないが、もっと何か他にあるだろうと、ジョディの熱の昇った頭は火を吹きそうだ。

「キャメル、君は明日、時間はあるか?」
「え?」
「少し頼まれてくれないか?車を出して欲しい」
「は、はあ。勿論です」

 実際のところ、ジョディはその言葉通り、赤井から謝罪の言葉が欲しいわけではない。ただ少しでも、その死を悼み心を枯らした自分が居た事を、知って欲しいだけなのである。
 赤井がそうして今回の一件をぞんざいに扱えば扱う程に、ジョディは己の想いを昇華する機会を奪われている。心配をかけたなと、ただその一言、笑いかけてくれたらそれでいい。ジョディの想いの丈に、そうやって赤井自身が気付く事に意味があったのだ。
 
「……私が行く」
「……、お前には頼んでいない」
「なぜキャメルなの?私だって運転手くらい務まるわよ」
「だからこれは任務じゃない。プライベートだと言っただろう」
「尚更、キャメルじゃなければいけない理由はないじゃない?」

 可愛げの無い言い方に、赤井はしばし沈黙すると呆れたように吐息した。狭い車内に淀んだ空気は何処へも逃げ場など無く、ただひたすらに渦を巻くばかりである。空気の抜けたタイヤに次第に上下に大きくなる揺れにはキャメルが、峠を抜けた所で駐車して交換をしましょうかと、気を遣って話題を変えるが二人して返事すら寄越さない。
 ――そうじゃない、そうじゃないのに。
 ジョディはもう後部座席を振り返る事すら出来ずに、ルームミラーに映る赤井を眺めていた。既に手元のスマホに夢中の赤井は、そうして顔を上げる事すらない。人生最大の幸福を心の底から感謝した今日という日に確かに胸に巣食った疎外感に、ジョディは顔を伏せ熱くなった目頭を細い指でそっと抑えた。


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