#51

「え?休暇を?」
『そう。だから、一緒に出掛けよう』

 庁舎を出れば酷い曇天に、律は太陽の位置を把握することができない。どうせ半給を取得するのならばからりと明るい陽射しの下を歩きたかったものであるが、雨に降られないだけマシだろうと早々に気持ちを切り替えると律は最寄りの地下鉄に足早に向かった。
 しばらくの間カウンセリングに赴いていない事が降谷にバレたのは、つい先日の事である。ここ最近は仕事もプライベートも何かと忙しなくつい疎かにしてしまっただけであり他意はないのだが、何か行けない理由でもあるのかと降谷に詰め寄られた律はその場で今日の予約を取った。降谷の身の回りの世話に明け暮れて自分の事を蔑ろにしているとでも思われたら、堪ったものではない。思えば風見の紹介の医院へ通っているのだから、律の通院状況などは降谷に筒抜けである。

『今日、大きな案件がひとつ片付きそうだから。明日は家にも帰るよ』

 丁度、律が電車を降りたところで、スマホは着信した。まるで何処かから様子を窺っているのではと邪推する程度のタイミングの良さに、きょろきょろと辺りを見渡しながら通話ボタンを押せば思いの外降谷の機嫌は上向きである。てっきり、病院へきちんと向かったか否かの確認でもされるのではと思っていた律は拍子抜け、続けて週末に休みを取る予定だと話した降谷には思わず鸚鵡返しのように聞き返した。
 降谷が普通の連休を取得出来るのはいつ以来だろうと、改札を通り抜け人混みをすり抜けながら、ざわざわと騒がしい辺りに律は聞き取りにくい電子音に耳を澄ます。

『行きたい場所はある?一泊すれば遠出も出来るし。海外は難しいけど』
「そうですね、ええと、」

 まさか降谷と旅行が出来るとは露ほども思っておらず、律は咄嗟に良いプランなど閃かない。一カ月や二カ月先の話なら熟考の余地があるのだが、夏休みシーズンに差し掛かったこの時期、しかも明後日の今週末、いろいろと手遅れではないだろうかと律は思う。エスカレーターに乗りながら壁一面に貼られた観光会社の広告を眺めてはみるが、沖縄の海も北海道の高原も、全てが初体験と言える律には魅力的であるが如何せん現実的ではない。

「あ、」
『うん?』
「いえ、あの。夏祭りのポスターが」
『夏祭り?場所は?』

 エスカレーターを登り切った所で、そのポスターはやや控えめな低位置を陣取ってはいたが、描かれた打ち上げ花火のイラストは柔らかなタッチと色合いで美しい。降谷が夏祭りに興味があるのかどうかは微妙なラインではあるが、降谷は律の希望を尊重しようとしているようだし、このイベントならば開催地も近く降谷の負担も軽いだろう。
 促されて電話口で詳細を読み上げながら、律の脳裏には引っ越しの際にクローゼットの奥に見つけた花井律の浴衣が朧げに浮かんでいた。薄黄色の大振りな牡丹の花が、とても目に眩しかった事が記憶に新しい。誰が撮影したのだろうか、その浴衣を身に纏い弾けるような笑みで写真に写る大学生の自分に、律は解いたたとう紙の紐をもう一度きつく結び直している。
 人の好みというものは、案外ところころと良く変わるものである。好みも色もデザインも、丸っきり変わってしまうこともあるし、もともと両極端が好みという事もあるのだろう。だから律が当時の自分の趣味に違和感を覚えたってそれは大して不思議なことでもないし、本当は取り立ててどうという話でもない。それでも律は記憶を喪失してしまっているばかりに、その取り立ててどうというわけでもない事がいちいち気に障る。最近は殊に、過去の自分を受け入れ難い。

『折角だから浴衣でも着てみたら?行きがけに買って、現地で着付けてもらえばいい』
「ああ、でも私、浴衣は持っているみたいで、」
『知ってる。だけど随分古いし。新調したらいいだろ』
「はあ……、そう、ですね」
『あ、ごめん。風見に呼ばれた。また連絡する』

 カウンセリングはサボるなよと最後に釘を刺して、そうして降谷の電話は一方的に切れてしまった。気を遣われているのか、それとも別の理由があるのか、案外本気で言葉通りの意味しかないのか、降谷は心の読めない時の方が圧倒的に多いのだから困ったものだ。通話終了の四文字を画面が暗転するまで眺めてから、律はまた雑踏の中に身を紛れ込ませた。
 世間はすっかり夏の熱に浮かされて、駅ビルの店先にはずらりと季節商品が並んでいる。派手なポップは道行く人の足を止め、我先にと構内を駆けてゆく子供達のビニールバッグの中身は十中八九水着だろう。夏休み中であろう学生達が真剣な眼差しで大容量の手持ち花火の吟味するのを横目に、律の耳に記憶の中の赤井の声が掠めていく。

 "なら、また来年だ"
 "来年は打ち上げ花火でも見に行こう。君は浴衣が似合いそうだ"

 あの夜は律にとって、特別だった。降谷に誠一郎の墓参りに連れて行ってもらって以来律は悪夢を見なくなったが、あの頃はその過去に苛まれるように瞼を閉じれば覚えのない映像ばかりが過ぎっていた。赤井は律に過去を教えないし、律も赤井に過去を聞かない。誰が決めたわけでもないその暗黙の了解に、律は赤井から手を差し伸べられるまでその心を晒せなかった。
 たとえその約束を反故にされたとしても、約束ですらない方便だったとしても、あの日微睡みの中で一晩中律の髪を撫で続けたその温かな手と、大して面白くもない平凡な世間話を、律はきっとまた何かの節に思い出すのだろう。

「わっ、すみません」

 ぼんやりと前方不注意で歩いていた律に、その時、黒いキャップを目深に被った細身の男性の肩がぶつかった。
 反射的に声を上げた律に対して、男は顔を逸らすように視線を前傾させると足早に改札の方へと向かってゆくものだから、過失は双方にあっただろうにと思いながらも律もくるりと踵を返す。駅を出れば相変わらずの曇り空に、向かいのビルの時計塔の針を見上げた。
 律は珍しく、世間と同様に夏の熱に浮かされていたのかもしれない。夏祭りも打ち上げ花火も、初めて袖を通す浴衣も何もかもに心を躍らせていた。それは律が公安警察として培った経験などを忘れてしまっていたせいだけではなくて、決してそれだけではなくて、律は身近に潜んでいた悪意に気付けなかった。
 午後十三時丁度。長針が十二の文字盤に移動した瞬間、耳を劈くような轟音が律の身体を震わせた。

「……っ、?!」

 同時に、爆風。遅れて、少しの熱。
 まるで聴覚が失われたように刹那、音の無くなった世界で律は思わず瞼を閉じる。たったのコンマ数秒の間だったかもしれないし、数分のような長い間のようだった気もする。
 律の耳にようやく辺りの喧騒が響き始めた頃、ゆっくりと開いた視界の先に、既に火の手は上がっていた。

「え?なに?爆弾?事故じゃなくて?」
「やばいって、駅前の交番が吹っ飛んだんだよ!」
「ちょっと、どいてよ!早くどいてってば!!」
「冗談じゃねえ、殺す気かよ?!」

 何かの焼ける匂いが鼻に付いて、瓦礫の崩れる音が耳に痛い。十数メートル先の街路地に面したその建物は、かろうじて体裁を保ってはいるが無残に崩れ落ちるのも時間の問題だろう。それどころか火の回りが思った以上に早く、隣接する建物への延焼は免れない。どっと溢れ出した避難者で辺りは溢れ返っており、目と鼻の先のその一角は大変なパニックに陥っている。
 幸い、律に外傷はない。まともに衝撃を食らったであろう数名の負傷者は路上に放置されたまま、誰もが己の事に手一杯で他人を助ける余裕がない。彼等を救助しなければと、分かっているのにしかし律は群衆の波に立ち向かうわけでもなく揉まれるわけでもなく、ただその場に立ち尽くしていた。

「クソ、邪魔だよ!どいてろ!」

 野太い声と強引な腕に勢いよく衝かれると、律の身体はよろりと路上に押し出されるが、ロータリーも完全に麻痺している。慌ててその場を離れようとした乗用車やバスが立往生し、鳴り響くクラクションの音が次第に重なり大きくなってゆく。
 不思議と自分に恐怖心が無い事が、律には分かった。しかしそれ以上に、律の頭の中をまるで走馬灯のように何かが駆け巡る。それが一体何の映像なのか、あまりに情報量が多すぎて律には解析が追い付かない。頭が痛い。割れそうに痛い。ただその分かり易い痛みばかりが感情を支配している。

「消防まだ?!燃え移っちまうよ!」
「おい離れろって!もう遅い!」
「でもまだ避難が、」

 そうしてまた、爆発音が辺りに響いた。必死にその場を逃れようと人の群れを掻き分ける者、まるで人間を嘲るように勢力を増す炎を呆然と見つめる者、非現実的なその光景に魅入られたように恍惚とする者、恐怖と諦念と好奇の心が糾える縄のごとく絡み合う。
 ――ああ、そうだ、これは、あの時の。
 あの時の混乱、あの時の混沌。何処かで割れた窓ガラスの音が合図のように、律の身体からふっと、力が抜けた。

 "笑い事じゃありません!"
 "お嬢さん。君の名前を教えて欲しい"
 "Attention please. Emergency stop."
 "アハハ!全部、リセットだ!"

 線と線では繋がらない、バラバラの時系列の記憶が出鱈目に蘇る。
 ガクガクと震える膝は頼りなく、まるで重力に吸い寄せられるかのようにコンクリートに膝をついた。

 "俺の命令が聞けないのなら、公安を辞めたらいい"
 "この、クソ上司"

 そう、あの日私は、理不尽な人事配置を理由に降谷零に楯突いた。別人のように厳しい顔をした降谷零だ。酷く衝動的に、熱の回った頭で、目的地も無いのに東都環状線に乗り込んで。
 まだ雨は降っていなくて、なけなしの財産で購入したコンビニの傘は未使用だった。どこかの駅に着いて、そう、徳浜町。車体が大きく揺れた。そのチープな傘があの人の脚にぶつかった。

 "連邦局の捜査官だ。君への協力を惜しまない"

 手帳の端に無理やり押し込まれた身分証には、随分といい加減な人だと思った。上司に大切な警察手帳を投げつけた自分の言えた義理ではないと、確かにあの時、頭の片隅にそんな事を考えていた。
 白字の用紙に一際大きく印字されたのはFBIの文字。英語の羅列。その直ぐ下にはさらりと流れるような直筆の彼のサイン。名前、名前は。Syuichi Akai――シュウイチ、アカイ。

「アカイシュウイチ……、FBI捜査官……?」

 頭の中で、何かが千切れる音がした。気泡のように生まれては消え、生まれては消える記憶の欠片を律は自力で止める事が出来ない。
 律はずっとそれが知りたくて、そうしてそれだけは、ずっと知りたくはなかった。騒がしい喧騒の中で自分ひとりが世界に置き去りにされたかのように、身体の内側から迫る孤独な衝動に律の両の瞳からは涙が溢れる。

 "貴方は誰ですか?"
 "俺が誰か分からないのか?"

 それが嘘っぱちだという事を、律は理解していた。赤井が自分の恋人などでは無い事も、もちろん分かっていた。けれどその嘘が仮屋瀬ハルにとっては砂糖水のように心地良く、そうしていつの間にかその嘘つきに信頼すら覚えてしまった。二人で過ごす何気ない日常が、幸福だとすら思っていた。
 何故、今、彼のことばかりを思い出してしまったのだろう。自分は何かの任務に利用されたのかもしれない、永倉圭という幻は彼の単なる隠れ蓑だったのかもしれない、そんな裏切りを想像しなければならないのならば、全て綺麗なだけの思い出で良かった。その口から言い訳のひとつすら聞けないのならば、全て知らないままの方が幸せだった。

「……っ、降谷、さん、」

 律は花井律の幻影に悩まされていたが、花井律の記憶が僅かでも蘇った今、仮屋瀬ハルの残像にも揺さぶられている。仮屋瀬ハルが花井律の記憶に蓋をできないように、花井律もまた、仮屋瀬ハルの記憶に蓋など出来ないのだ。

 "花井Aは花井Bなくして存在し得ませんし、逆もまた然りです"

 捩じれたように痛む心臓に、張り裂けそうに痛む胸に、律は何度も何度も、降谷の携帯を鳴らし続けた。つい先程まで聞いていたはずのその声がどうしても今もう一度聞きたくて、繋がらない電話をずっと鳴らし続けていた。

 "戻りたいって気持ちと同じくらい、このまま誰も知らない所へ行ってしまえたらとも思います"

 遠くの方で鳴り始めたサイレンの音に、滲む視界は黒煙に塗り潰されていく。止まらない不確かな記憶と確かな記憶の混濁に、気が触れてしまいそうだった。
 このままそうして消えてなくなってしまえたら楽なのにと、どうしようもない錆びた願いばかりに目を瞑る。結局降谷への電話は、一度も繋がることはなかった。



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