#50

 芳醇なバターの香りが立つキッチンカウンターの一角で、江戸川コナンは頬杖を付きながら、ご機嫌な様子で調理中の赤井秀一、もとい沖矢昴の手元を覗き込んでいる。乳白色の海に浮かぶ具材はご丁寧に子供が喜ぶように目に楽しい形と鮮やかな色合いで、生煮えや荷崩れをした不出来な料理ばかりを提供されてきたコナンは生まれて初めて沖矢の料理に食欲をそそられていた。焦げないように優しくかき混ぜていてくださいねと、指示ばかりを残して子供達の居るリビングに戻ってしまった花井律の言い付けを沖矢は大変従順に守っている。開け放たれた扉の向こうからは、賑やかな子供達の声と律の声が朗らかに混ざり合っていた。

「東都大学の爆破事件は捜査が打ち切られたみたいだよ」
「へえ。そうですか」
「……あんまり興味ない?」
「ええ、まあ。何処かの危ない連中とは関係も無さそうだったので」

 慣れ親しんだはずの実家のハイスツールは小学生の身体には高すぎて、コナンは両脚の先をプラプラと宙に遊ばせている。そうして本当にまだ小さかった頃にはこの家には新一用の子供イスがあって、有希子や優作に都度身体を持ち上げられていたような覚えがあった。見た目は小学生と言えど中身は高校生のコナンは大人のする子供扱いに毎度辟易としてしまうが、そうでなくともあの頃から自分は周りよりも少しでも早く大人になりたくて、良く生意気な口を利いては不貞腐れていたような気もしてしまう。身体が大きくなるにつれて腰掛ける事のなくなったあのイスを、一体どこへやってしまったのだろうか、コナンにはそればかりを思い出すことができない。
 当然であるが、見た目年齢は六歳であるコナンには工藤新一として生きた十七年分の記憶が詰め込まれている。身体が小さくなったからと言ってそれが消失してしまったわけではないし、もちろん逆に当時の情感が鮮明に蘇るわけでもない。記憶障害を患い二十数年の過去を綺麗さっぱり忘れてしまった花井律とは、根本的にその性質が異なっている。

「律さんが気にしていたから、てっきり安室さんから何か聞いているのかと思って」
「安室さんに?」
「うん。公安警察の取り扱いそうな事件だったでしょう?」
「……、そうだとしても、彼女は今は公安警察ではありませんよ」

 沖矢は柔和な笑みを絶やす事なくコナンの言葉を受け流し、やはりそうして、木杓子を掻き混ぜる手も止めることはない。
 花井律の正体が公安警察であり、かつその過去を喪失して仮屋瀬ハルとして生きていた事実を赤井から聞き出したのは、花見の前夜に遡る。頑なに口を閉ざし続けていた赤井がそう吐露したのは、安室透、もといバーボンの監視下にある律に迂闊に近付く事の出来ない赤井にコナンが邂逅の場を整えたからである。とは言え、子供達との花見というもっともらしい名目で人目に紛れるように選んだ件の場所で、まさか変装したバーボンとベルモットにまで遭遇するとは露とは思わず、全てが作為的なものであったのかはたまた偶然の産物であったのかどうかはコナンには今でも分からない。ただ、あの時コナンは仮屋瀬ハルと赤井秀一が、花井律と沖矢昴として再会することに、そうして手を貸していた。

「でも、昴さんは律さんから直接記憶障害の話を聞かされていないんだよね?」
「そうですよ。彼女の性格上、そういったセンシティブな内容は無暗に他人に話したがりませんし」
「それって本当の所はどうかすごく曖昧だよ。裏で安室さんと共謀している可能性だってあるよね」
「彼女の記憶が戻っているということですか?……それはないですよ」
「どうして分かるの?」

 しかし、それが本当に功を奏しているのかコナンにはいまひとつ結果が見極められないままでいる。律、赤井、降谷の三者を取り巻いている確かな事実は既に手中に収めてはいるが、その三者の心に潜む真実には未だ辿り着けやしないせいだ。実際、赤井がコナンに淡々と伝えた花井律の年表のような表面上の過去からは、二人の関係性すら推し量る事が難しい。
 一方で、組織側の人間だと思われていた探り屋バーボンの正体が公安警察のスパイである事実を紐解いた事は、安室透もとい降谷零と花井律との関係性を明白にした。降谷は何もバーボンとして赤井の恋人であっただろう仮屋瀬ハルに近付いたのではなく、それは単に記憶を喪失して行方を暗ましてしまっていた部下である花井律の回収である。本来組織に立ち向かう同胞と言える赤井をその組織に差し出そうと言うのだからその確執には異常な執着を感じるが、まだコナンの知らないもっと根深い問題があるのかもしれないし、もしかすると花井律の件で個人的な恨みもあるのかもしれない。二人が職場の上司と部下の関係であった事に、赤井秀一のその双眸が確かに動揺に揺らいだ事をコナンは見逃さなかったが、無感動な表情からは一体何を思考しているのか欠片たりとも窺えてはいなかった。

「分かりますよ」
「だから、どうして?」
「……理屈ではないと言ったら君は納得してくれますか?」
「しないね。昴さんだってそうでしょう?」
「ハハ。どうでしょうねえ」

 はぐらかすなよと、まるで真剣に取り合う気のない沖矢の様子にコナンは胸中で悪態づく。彼等の事を知れば知る程、逆に正答からは遠のいているかのような妙な感覚に気持ちが悪くなる時が今までにもあった。
 わっと隣の部屋で沸いた歓声には、コナンも沖矢も誘われるように開いた扉をしばし眺めて、そうしてタイミングを見計らったかのように視線が戻る。沖矢はやはり顔色を変えることなく、沖矢昴の甘いマスクで穏やかに微笑んで見せた。

「この話は止めませんか?彼女の秘密は君の胸に仕舞っておいて欲しいと言いましたよね?」
「そうだけど、でも、」
「それとも何か不安でも?」

 見透かしたように、沖矢は言う。まるでコナンの言いたい事など全て見通しているかのように、こちらの懸念など取るに足らないものでもあるかのように。それが大変心強いようでいて、どこか悔しさのようなものも感じるコナンは短く吐息する。
 先日の杯戸中央病院での毒殺事件でコナンは降谷の正体に当たりを付けたが、それは同時に降谷も楠田陸道の死の真相に近付けてしまった。黙っておいてくれたらいいものを、高木刑事は破損した車両内に高速の飛沫血痕が飛び散っていた事までをも喋ってしまったものだから、解法への重要な道筋を降谷に与えてしまっている。まだ詰みではない。詰みではないが、障害が綺麗に排除された盤上で王手がかかるのも時間の問題である。

「バーボンが、最後のピースに辿り着くかもしれない」
「……かもしれないではなくて、辿り着きますよ。そういう男ですから」

 しかしその追い詰められているはずの当の本人ばかりが、悠悠閑閑としているものだからコナンはついやきもきとしてしまう。
 もちろん、こちらも無策で時間を持て余しているわけではない。事情を知る人間で知恵を出し合い出来得る最善の目暗ましを用意してはいるが、そう都合の良いように事が進むとも限らない。こうした作戦というものは、いつだって博打打ちのようなものなのだ。
 大丈夫ですよ、君との計画に抜かりはありません。と、眉間に皺の寄せたコナンに向かって沖矢は余裕を滲ませた。コナンはやはり、不可解だ。

「ねえ、何か僕に隠していることはない?」

 これではまるで、赤井は降谷との邂逅を待っているかのようだ。そのエックスデーに恋焦がれるように、待ち遠しい程に、何故か心から愉しむ節がある。計画書には記されなかった別の筋書きが赤井の頭の中にはあるのだろうか、依然として眉一つ動かさない沖矢の表情をコナンは見極めようとする。
 どこか可笑しそうに薄く開いた唇からはしかし音が零れ落ちる事はなく、パタパタとフローリングを小走りに駆けるスリッパの音に、その言葉の先は遮られた。

「沖矢さん、そろそろ煮えました?」
「頃合いだと思いますよ。アサリを追加しても?」
「そうですね。お願いします」

 料理の出来が気に掛かっていたのだろうか、律は足早にカウンターまでやって来ると、コナンの隣から鍋の中身を覗き込んだ。傾けた頭からは伸びた髪がはらはらと揺れて、清清しい爽やかな香りが仄かに漂っては消えていく。シャンプーのフレグランスだろうか、身近に同じ香りを揺らす人が確かに居たような気もするが、その人物がコナンには思い起こせない。
 赤井は一体何を考えているのだろうかと、もう何度と思考を逡巡させたことだろう。赤井を探す事を諦め前を向き始めた律に、赤井は全くの別人である沖矢昴の仮面を被って接触し、今では傍から見れば良い友人関係を築いているようであるのだからこの二人の関係は随分と歪んでいる。組織さえ壊滅すれば蘇生する赤井秀一という人間に、まさかこの先永遠にこのまやかしの関係が続くとも思っているわけではないだろう。コナンと赤井の状況は、似ているようで全く違う。高校生や小学生などではない大人の二人ならば、もっと別の道を歩む事だって出来たのではないかとそうも思う。

「まさかあなたが一番乗りとは」
「ああ、大人気ないって意味ですか?でもルーレットは操れませんし」
「そうではなくて。序盤からひとりだけ人生につまづいていたようだったので」

 少年探偵団を筆頭に工藤邸で行われていた人生ゲーム大会に、コナンは灰原哀を積極的には誘わなかった。本人が乗り気ではなかった事も幸いし本日彼女は不参加であるが、思えば花見の時も殺人事件のせいでそれどころではなく、結局花井律とは交流を持たせてはいない。一時凌ぎと言ってしまえばそれまでではあるが、どうも二人を引き合わせる事には気後れしてしまう。
 何せ、灰原の姉である宮野明美は赤井秀一の組織潜入時代の恋人だ。だからと言って即ち二人の間に軋轢が生じるというわけでもないが、実際思う所がないわけでもないだろう。三者三様にそうしていつまでも無知の別人を装って生きていけるというのならば話は別だが、どうしたって仮面というものは剥がれやすい。

「リセットチャンスっていうギャンブルをして別の人生を再スタートしたんです」

 沖矢の隣でバゲットにナイフを入れながら、一歩間違えれば開拓地行きでしたよと肩を竦める律を前にコナンは苦笑いを浮かべる。
 瞬間また遠くの方で聞こえた歓声に、ああまた誰かがアガったなと、そう思った。

「案外、現実もそうしてみたら上手くいくのでは?」
「はい?」
「いえ。ギャンブルを勧めているわけではなくて」
「……、人生につまづいているように見えます?」
「さあ、どうでしょう。何かに迷われているようには見えますよ」

 手を止めて顔を上げた律とは対照的に、沖矢は相も変わらずコトコトと静かに音を鳴らす料理を掻き混ぜ続けている。そうして沈黙が支配した少しの間を置いてふらりと視線を泳がす律の様子を沖矢と見比べて、コナンは適当に操作するスマホの画面越しにじっと窺い見ていた。
 確信犯という言葉がこうも良く似合う。第三者のフリをして、そうして浴びせる言の刃はきっと律には毒になる。
 しかしコナンには、眼前に繰り広げられているインモラルな所業を、正すことは疎か指摘することすら儘ならない。赤井の思惑も不確かなまま、降谷の目論見も曖昧なまま、そうして律自身の心も分からないままに全てを白日の下に引っ張り出すには、失うものが多いばかりで得られるものが何も無い。そうして今は時期も悪い。

「……そうですね。双六のマス目には、記憶や思い出は映りませんから」

 三度目の歓声と、同時に落胆の声が上がった。どうやら決着がついたようで浮かれた子供たちの声色に、律は眉を下げて笑って見せる。
 そのどこか悲しげな口調に沖矢は初めて調理の手を止めて、酷く緩慢な動作で律を見遣った。コナンには、いや、おそらく沖矢にも、律の発した言葉の意味を上手く噛み砕けてはいない。

「そうでなければ、私には全く別の人生なんて選べませんよ」

 ザクリと、バゲットに切れ込んだナイフの腹からあまりに寂れた音がした。
 律の瞳に突如宿る鈍色がどうにも思考の妨げになるような気がして、コナンはひとり静かに律から視線を逃がす。
 彼女は、知らない。今隣に立つ男が、彼女がずっと捜し続けていた赤井秀一という人間であることを。しかしそうだとしても、その口から吐き出されたその言葉は、奇しくもあの夜赤井が電話越しに問いかけた質問のアンサーのようで、半端に事情を知ってしまったコナンの胸ばかりが俄かに小さく痛み出す。
 バタバタと騒々しい三人分のスリッパの音に、律はそうして我に帰ったようにハッとした。手が止まっていますよと、硬直したままの沖矢に微笑みかける。

「わあー!すごくイイ匂いがする!」
「う、うまそ〜!!なあ、これ、シチューか?」
「違いますよ、元太君。これはクラムチャウダーという料理です」

 コナンを真似てスツールによじ登り、鍋の中身を覗く探偵団の面々は好き勝手に賑やかな言葉を飛び交わせた。律の発言がぐるぐると頭の中を旋回したままのコナンは、その様子を横目に考えている。
 もしも花井律が記憶さえ失う事が無かったのならば。もしも仮屋瀬ハルというもうひとりの人格が産み出される事が無かったのならば。その時は赤井秀一と花井律として、彼等にはまた別の未来があったのだろうか。子供のように無邪気に、気ままに、自由に、身勝手に、そうして気の向くままに恋をしたのだろうか。それとも彼女は、記憶も経歴も何もかもを全て失くしたからこそ、赤井秀一に惹かれていたのだろうか。コナンには、分からない。

「現実の話を……されていますか?」
「……いいえ?人生ゲームの話でしょう?」

 色の消えた表情で律を見つめる沖矢とは今度は対照的に、律は何でもない事のように可笑しそうに笑いながらまたバゲットにナイフを入れた。
 二人の静かな温度感に、子供達の騒がしい熱が混ざり合って、コナンはどうも酔いそうな気分になる。ぐらりと暗転する思考回路の奥底で、ああそういえば、そういえばあの子供用の椅子は、五つ下の女の子の居る近所の家庭に譲り渡したのだと、ふとそんな事を思い出した。


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