#49

「着替えは二日分用意してあります。洗濯物やクリーニングはありますか?」
「……しまった。ポアロの分と纏めて車に置いたままだ」
「それなら一旦キーを貸してもらえます?荷物を回収したらまたお返しするので」
「ああ……、いや、いちいち面倒だな。スペアを渡すから律が持っていていいよ」

 おそらく降谷の着替えが入っているであろう紙袋と、降谷の愛車のキーを交換するように手渡す二人の姿を、風見裕也は無感情な眼で眺めている。この程度の事ではあまり動じなくなってきたなと、風見は己の感受性が鈍くなっていることを喜べばいいのか悲しめばいいのか、分からないままにひとり視線を窓の外へ逃がした。澄み渡った青空はからりと乾いた天気ではあるが、どうやら日本の南端では既に梅雨前線が発達しているらしい。暦は早くも六月に差し掛かろうとしている。

「それと、結婚式の招待状が届いていました。早めにお返事をした方がいいと思うので、確認してください」

 最近はこうして降谷と風見のミーティングの合間を縫って、律は所用を済ませに来ている。それがいつの頃からだったろうか風見には曖昧であるが、同居の事実を知っている風見の前では降谷も律もその関係をまるで隠そうとはせずに開けっ広げなものだからいっそ清清しい。有無相通じて日常生活を送れるように話し合いをしたような事を風見は降谷から聞いた覚えがあるが、これでは赤の他人が見れば、ルームメイトというよりは家族か何かなのでは?と勘違いされそうな程度に二人の距離感がぐっと縮まっているように思える。
 ――家族か。と、風見は己の思考をもう一度なぞりながら、華やかな色合いのインビテーションに目を通していく降谷の姿に視線を戻した。

「そういえば、随分前に招待状を出していいかと聞かれたな」
「どうします?出席されるなら諸々手配しておきますけど」
「いや、この日は東都から離れられない。残念だけど行けそうにないよ」
「分かりました。それなら御祝儀を送りましょうか」
「ああ。一言書き添えたいから用意しておいてくれる?返信ハガキは今書くから、少し待って」

 風見は相も変わらず見合いを勧める母親の言葉を、のらりくらりと躱し続けていた。まだ長いこの先の人生で結婚を既に完全に諦めているわけではないが、風見の置かれている現況下ではそれはやはり厳しいと言わざるを得ない。
 連絡の優先度は最低レベル、昼夜問わず任務遂行のために駆けずり回り定刻になど帰れぬ日が圧倒的に多い。休日は自己研鑽と休息に手一杯だから家族サービスに割いてやれる時間は無いし、そもそもその気すら回らない。仕事人間だと罵られる程度で済めばまだいいが、最悪街ですれ違ったとしても他人のフリをしなければならない日だってあるのだからこれでは信頼関係以前の問題である。結婚は疎かまともな付き合いすら儘ならないのではと、風見は現職に就いてから一カ月と経たぬ内に己の立場を理解したものだ。
 幸いだったのは、風見自身が結婚という人生の選択肢にあまり興味が無かったことだろう。風見は人一倍公安の仕事に誇りとプライドを持って日々職務に励んでいるし、そもそも他に現を抜かすような趣味があるわけでも況してや恋人が居るわけでもない。仕事と何かを天秤に掛けることなどしないから、そうして一切心を消耗することなく一心不乱に職務に取り組みキャリアを積み上げている。

「昔は仕事と結婚するって言ってたけどな」
「……、降谷さんの周りはどうしてそうワーカホリックばかりなんでしょうねえ」

 そうしてそれは降谷も同じだったのだろうが、殊に降谷という人間においては幸か不幸か桁外れに仕事が出来過ぎてしまった。管理業務をやらせても現場業務をやらせても、何ひとつ滞りなく他の誰よりも見事に事を為す。決断は早く、間違えない。先見性に富んだ指示は驚く程に的確で、場と人を非常に上手く仕切り、非常に上手く使う。そうして当の本人は、常人が三日を犠牲にして完遂する仕事を、半日もあれば片を付けてしまうのだ。だから仕事はいつも降谷に集まるし、降谷自身も降谷の周りもそれを当然の事だと思っている。
 一昔前よりも数段と仕事に追われるようになった日々に、そうして降谷は毎日機械でもあるかのように働いていた。人間を辞めるというのはこういう事なのだろうなとあの頃の風見は心の何処かでそう思っていた時があって、そうして同時に、隙一つ無いその人生がいつ何かの拍子に事切れるのではないだろうかと不安が過ぎる事があった。降谷は仕事には存分に愛を注ぐのに、降谷零という自己を愛してはやらない。心の拠り所を見つけられないのか、それとも不要なものとして故意に棄ててしまったのか、風見にはそれが分からなかった。

「律は結婚願望があるの?」
「え?……うーん。そうですね、まあ、いずれは」
「……ふうん」

 花井律の存在にはだから、あの頃の風見はとても驚かされた覚えがある。仕事に一切の私情を挟まなかった降谷が初めて、律の職務への登用を嫌がった。確かに降谷の指摘通りまだまだ若い彼女の経験値の不足は否めないが、それを霞ませる程に彼女の功績は輝かしく、風見の目にすらその采配が非効率であるという事が分かる。あまりに人間らしい降谷の稚拙な我儘には、風見はようやくそこに久しく忘れかけていた降谷零というひとりの人間を思い出した。
 その面の皮に一滴の色も滲ませぬポーカーフェイスで、律を見つめる降谷の横顔を風見の方は小難しい顔で眺めている。
 ああ、もしかしたら、彼は昔からずっと。ずっとそうして花井律を介在した向こう側にだけ、降谷零を生かし続けていたのかもしれない。折り合いが悪くどれ程関係が捩じれようとも、仲睦まじかった頃の二人にもう二度と戻れないとしても、それでも降谷にとって花井律はきっと、永遠に唯一の心の拠り所だったに違いない。

「心配しなくても、降谷さんの仕事が落ち着くまではちゃんとサポートしますよ」
「……、それは結婚してからも同居を続けるってこと?」
「は?いえ、それは無理でしょうけど」

 それが愛なのか、同情なのか、執着なのか、似たようではっきりと違っている感情はしかしニュアンスカラーで眼前を揺らぐものだから風見は目がチカチカとする。それは降谷もまた同じなのだろうか、まるで血迷っているのかとすら思われそうな問いかけには律ばかりが困ったように首を傾げた。
 カチリと、書き終えた返信ハガキにボールペンのキャップを締める音が小さく響く。降谷はそれを差し出しながら、ようやく律に笑いかけた。

「冗談だよ」

 降谷の口からは聞いた事の無い馴染みのないフレーズに、からかわないでくださいと口を尖らせる律から風見は目が離せない。
 もしも降谷が誰かと家族になるのだとしたら、それは律以外の適任はいないのだろう。本来であれば話せない降谷の職務上の事情を律は既に知っているし、それを理解した上で風見には成し得ないその私生活に今の律ならば寄り添う事ができる。安室透の仮面を剥ぎ取った降谷零は、確かに降谷として律に心を開き心を許し始めているし、律だってあの家に居座り続けている以上は降谷の事を悪くは思っていないはずだ。むしろ記憶喪失という特殊な疾患を抱えた律にとっても、共に生きるのに降谷以上の適任はいないだろう。これから先の永い人生を花井律として生きていかなければならない彼女にとって、どうしたって降谷に助けてもらわなければならない事がきっとごまんとある。

「風見さん。いつもミーティング前に、すみません」
「え?あ、はい。いや、いえ、オンタイムですよ。気になさらず」

 急に振られた言葉には、風見は俄かに思考を掻き消すも言い淀む。既に支度を整え部屋を後にしようとする律は、その様に可笑しそうに頬を弛ませた。
 きっと律が記憶を失わなければ、二人の間にこうした穏やかな時間など生まれなかっただろう。それが風見には上手い事蟠りが解消したようにも思えるのに、一方でもう二度と垣間見る事の出来ない以前の二人に物悲しさが募る。あの日大層な捨て台詞を吐いて部屋を飛び出したその背中を、風見は今ではもう良く思い出す事が出来ない。

 "降谷さんが花井Bの世話を焼くのも、優しくするのも、花井Bに花井Aだっという実績があるからです"
 "花井Bが花井Aに成り代われるという話ではないでしょう?"

 あの日、律の言いたかった事が、今の風見にならば分かる気がした。今もう一度そう自分に相談を持ち掛けてくれたのならば、もう少しマシな事が言えるような気がした。

「律」

 しかし、降谷も律も互いに歩みを止める事はない。花井律の居た時間におそらくまだ囚われている風見のずっと前を、確かに進み続けている。
 変わらぬそのアイスブルーの瞳には一体誰を映しているのだろうか、ほんの少し前までは花井と呼んでいたその名を、律と、降谷はそう呼ぶようになった。
 
「気を付けて帰って。最近何かと物騒だから」
「ああ、爆破事件ですか?でもあれって、捜査が打ち切りになったって聞きましたよ」
「打ち切りと解決は同義じゃない。万が一巻き込まれた場合の対処法は教えたよな」

 念を押す降谷に律は、聞きましたよと宥めるようにそう言うと、風見に軽く頭を下げて会議室を後にする。本当に分かっているのかいないのか定かではないその様子に、降谷はやや不満気に嘆息した。
 公安部を離れた今となってはそう簡単に事件に巻き込まれるような事はないだろうが、職務とは関係無しに律は夏葉原の事件に巻き込まれた前科がある。降谷は律を危険な仕事から切り離した事にはとても満足しているが、当時その身体に染み込ませたはずの護身術や格闘術、そしてあらゆる有事対応を綺麗さっぱり忘れてしまっている事にはやや頭を抱えていた。夏葉原の事件の際ならばいざ知らず、現時点で律が何かの事件に遭遇したとしてもとてもではないが律は使い物にならない。
 
「自分もその案件はクローズだと聞いていますよ。何か心配事でも?」

 しかし、律の認識通り件の事件は既に収束していると言っても過言ではない。一時、風見は降谷の依頼でその事件を独自に調査してはいたが、その後降谷からの指示はパッタリと途絶えている。詳細は知らされてはいないが捜査課での捜査打ち切りは本当の話であるし、テロの片鱗かと思われた例の犯行声明文などは結局たちの悪いイタズラか何かだろうと片付けられたらしかった。そうして降谷が知る必要のない事だと断言した事には、だから風見もそれ以上の追及をする事をやめていた。
 降谷はちらりと風見を見遣ると、しばし何かを思考するように逡巡する。風見にはまだ、降谷が何を思い澄ませているのか汲み取れない。

「君にはどう見える?」
「え?」
「あの事件だよ。妙な点があっただろう?」
「……妙な点というか、妙な事だらけでしたが」

 風見はしばらく頭の片隅に追いやっていた件の事件を、降谷の問いかけに少しずつ掘り返していく。
 約一カ月前に何者かによって爆破された東都大学の一室は、政策系ゼミ生の利用する定員十五名程度の手狭な研究室である。普段の利用頻度はそれ程高くはない。研究室と言ってみても行われるのは主に教授を交えた学生達の討論やプレゼンであるから、室内はこれといった設備もなくガランとしたものだ。
 犯行時刻は朝の八時。警報器が作動しているから間違いはないが、爆弾自体は遠隔操作式であったためその事実が犯人の特定に直結しない。既に一限のある学生達はキャンパスに到着していたが、幸い狙われた一室が件の研究室であったため爆発に巻き込まれた者は居なかった。しかしながらお蔭で学生達が挙って事件の情報をネットにアップするものだから、事件は急速に知れ渡り様々の根も葉もない憶測をやたらと生む結果となっていた。

「犯人の目的は殺しでもテロでもありません。ただの破壊です」
「どうしてそう思う?」
「殺す技術を持っているのに実行していません。爆弾は殺傷能力に乏しくあの一室だけを綺麗に吹き飛ばせるように緻密に計算されています」
「ならば破壊の目的は?」
「そうですね……。能力の誇示、破壊自体への興奮や性的快感……いえ、自己認識の歪みでしょうか。劇場型犯罪は関心を得る事に救いを求めますから」

 風見は犯行場所の選定がずっと不思議であったが、それが東都大学というある種のシンボリックな聖域で、気の病んだ学生による犯行となればある程度の納得がいく。
 それらしい犯行声明文などを出してマスコミや世間を煽るその手口は、まるで自分が主人公にでもなったような気で芝居のような犯罪に愉悦しているのかもしれない。

「劇場型犯罪に陥る者は往々にして孤独だよ。犯行声明には"私達"と書かれていただろう?」

 しかし、降谷は風見の推論に横槍を入れる。まるで風見がそう言い出すのを分かっていたかのように、その言葉は淡々としていた。

 "再起動が始まる。私達はアヤセの遺志を継いでいる"

 脳裏にその声明文を思い浮かべるように、風見は数秒瞼を閉じる。てっきり犯人の妄想病の産物か、はたまた関心を寄せるためにそれらしく作り上げたのだろうと思い込んでいた声明文を、降谷は何故か重視しているが風見にはその理由が分からない。アヤセとは一体何であるのか、人名か、地名か、はたまたもっと別の抽象的な何かなのだろうか、それを降谷は風見に調べさせようとはしなかった。
 アヤセの遺志というセンテンスに何か心当たりでもあるのだろうかと、降谷に問おうとして開きかけたカサついた唇を風見は結ぶ。きっと降谷は答えないだろうという、妙な勘が働いた。

「協力者か、または信仰者のような者が居た可能性はあります。爆弾作りを教わったのかもしれません」
「協力者ね……、爆弾は手製のIEDの一種だったな。入れ知恵をされたなら個性が出やすい」
「ええ。ですが過去に同様のケースは見つけられませんでした。使用された資材がやけに古かったのでそう思ったのですが」
「成程。他に気になる事は?」
「古いと言えば声明文に使われた用紙やインクも最近のものではありませんでした。汎用品ですのでそれをもって犯人に辿り着く事は不可能ですが」

 風見の見解に、降谷は感情を揺らがせない。まるで風見が真実に到達出来ていない事を確かめているかのようだと、風見は両脚が地面から浮いてしまったかのような気持ちの悪い感覚に酔いそうになる。風見はそうして、はたと思い当たった。もしもあの犯行声明文が降谷の杞憂でないとして、もしもあの爆破事件の犯人が風見の言うような愉快犯であるとしたら、いや、どちらかひとつでもその条件が満たされるのならば。
 ――この犯罪は終わらない。声明文通りならば件の爆破事件はほんの序章に過ぎないし、世間から注目を浴びたいのならば関心の薄れた頃に再び事件を起こすだろう。そう、決して捜査は打ち切られてなどいない。風見すらも知らない何処かの誰かに、この事件は確実に引き継がれている。
 風見はそろりと、視線を持ち上げる。やはり感情の読めない降谷と、そうして視線が交わった。

「……降谷さんは、既に真相に辿り着いているのでは?」

 風見は、真相を教えろとは決して言わない。しかし教える気が無い癖に何故降谷は風見にそうして片足ばかりを浸からせるのか、それが理解出来ないから風見は尋ねる。
 あの事件が公安案件だったとしても、それだけで情報が極一部の人間にしか共有されない事は別段不思議な事ではない。扱う案件の特殊性から、隣に座る同僚が一体何の仕事をしているのか把握していない時は多々あるものだ。しかしそうだとしても互いに一通りの危険な思想団体や政治団体は頭に入っているわけで、曖昧な言葉の端からでもそれとなく互いの事情を察する事が出来ていた。それがどうして今回ばかりは、アヤセの遺志という実に直接的なキーワードに、風見の記憶に引っ掛かるものが何一つない。意図的に隠されているのであるのならば、それは何のために。風見にはやはり、理解が及ばない。

「――あの爆破事件は前戯のようなものだよ」

 そうして呟くように吐き出された降谷の言の葉が、静まり返った部屋に重苦しく拡がった。
 風見は己の両の指先が冷え切っている事に気付き、ぎゅっと握り締めた拳の中で体温を確かめる。まるでその動作を合図のようにして、降谷は無造作に組んでいた脚を解きやや前傾するように半身を正して風見を見据えた。

「もしもこの一件で律に何かあったら、何も聞かずに助けて欲しい。事情を知る君にしか頼めない」

 降谷の瞳に宿った鈍色の光が、剥き出しの刃のような鋭さを纏っていた。
 事情など何も知らされていないではないかと確かに困惑するのに、風見は主人の命令に忠実な犬のように反射的にその願いを短い返事で肯定した。
 何故今ここで花井律の名前が出るのだろうと、風見もまた表情を変えぬまま思いを巡らせている。確かに巷ではその声明文の一部を切り取って夏葉原リセットマン事件と結び付けようとする輩は多いが、実際はその犯行動機も手法もひとつも合致する所はなく全くの別件だ。そもそもいずれの事件も花井律を狙ったものではないし、降谷の言う事情がもしも律の記憶喪失の件を指しているのだとすれば、案外とその秘密は夏葉原リセットマン事件よりもずっと前の花井律に隠されているのかもしれない。
 風見の心の内で消え入りそうであった当時の花井律の姿が、突如眼前に揺らいで見える。逃れられない命運のように絡みつくその幻影に、風見の心もまた、掻き乱されている。


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