#48

 花井律は静寂の中で自然と持ち上がった瞼に、二度ほど瞬きを繰り返した。
 普段から目覚ましのアラームが鳴る直前に自力で起床できる性質ではあるが、如何せん今日に限っては体内時計が狂っている。壁時計の針は午前四時半を少しばかり過ぎた頃であり、薄らぼんやりと透け始めるカーテンを見ればおおよそ日の出の頃だろう。再び瞼を閉じて布団に潜り込んだ律ではあるが、しかしどうにも、すっきりとした頭は完全に覚醒してしまっている。無理やりに寝付こうと強く瞳を瞑ってみた所で意味も無く、ただ徒に流れる時を苦痛に感じ始めた頃、律は仕方なく上体を起こした。変に凝っているような身体をぐっと伸ばして、ベッドから伸ばした足先には硬いフローリングの冷えた温度が伝わる。律はそこで初めて、事の顛末を思い出した。

「……降谷さん?」

 律の記憶は、玄関で降谷と共倒れた所で綺麗さっぱり途切れてしまっている。降谷に起こされた記憶も無ければ自らベッドに移動した記憶も無いのだから、十中八九、先に目覚めた降谷が眠りこけてしまっていた自分をベッドに運んでくれたのだろう。元はと言えば人を巻き込んで玄関で潰れた降谷が悪いのだが、律は己の無力さが不甲斐なく、どうにもやるせない気分で溜め息をひとつ吐き出した。
 人気の無いリビングを抜ければ、玄関には珍しく降谷の革靴がとっ散らかっている。どうやらまだ在宅のようだなとそれを揃えながら、同時に洗面室の扉の隙間から僅かに漏れ出る明かりに気付くと安堵し、律はそれをぼんやりとした眼差しで眺めていた。何だかとても長い夢を見たような気がするのに、その内容をひとつも思い出せやしない。それはとても大事な約束だったような気もするし、酷く心を揺さぶられるような感情だったような気もするし、はたまたこうした仄暗い辺りにそうして差し込まれた、一筋の明かりだったような気もする。記憶と呼ぶには随分と抽象的だなと、より深みに潜り込もうと意識を沈下させる律の前で、その扉は唐突に開かれた。

「うわっ」

 ガタンと大きな音を立てて仰け反った降谷は、それこそ珍しくぎょっとしたような表情で顔を強張らせた。
 風呂上りなのだろう、途端に脱衣所の熱気と共にふわりと良く知った石鹸の香りが律の鼻腔を擽る。洗い立ての髪はまだ水気が切れておらず、グレーのスウェットにぼたぼたと水滴の跡を作り続けていた。
 じっとその様を見つめる律とは対照的に、降谷の方は何故か気まずそうに律から微妙に視線を逸らすものだから、律は不思議そうに小首を傾げる。玄関で自分を抱き込んで寝入ってしまった事に後ろめたさでも感じているのかもしれないと、律は真夜中の降谷の愚行など知る由もない。

「……びっくりした」
「それは私の台詞です」
「……出勤にはまだ早すぎるんじゃない?」
「それも、私の台詞です」

 まさか夜中に帰宅して玄関で数時間の仮眠を取って朝風呂に入ってもう出勤する気でいるのか?と、眉間に皺の寄っていく律にやはり降谷は目を合わせようとしない。
 律は、今まで降谷の仕事に口を出した事はなかった。心の内ではそう何度もオーバーワークに文句を募らせてはいるが、それを実際に口に出して本人を諌めた事はない。言われなくとも降谷は自己管理の重要さを律よりも充分に理解しているだろうし、指摘した所で律が降谷の仕事を代わりに遂行できるわけでもない。愚痴のひとつでも吐いてくれたなら延々とただ聞いてやれるのに、職務上降谷は律に仕事の内容を話せないだろうし、立場が逆ならまだしも部下であった自分が降谷の良き相談相手になれるとはとてもではないが思えない。それにそもそも、降谷は仕事の愚痴など零したりしない。

「……昨日はごめん。床で寝かせて、身体が痛くなったよな」

 そうしてこの人は、いつの日か電池が切れたように突然、死んでしまうのだろうか。
 辞めろと言った所で、降谷は仕事を辞めてはくれない。きっとずっと、これからも無理をし続けるだろう。それはそう、降谷零が、死ぬまでずっと。
 用意してくれた夕飯は朝食に貰うからと、また謝罪の戯言を繰り返した降谷の声を、律はもう聞いてはいなかった。降谷に着実ににじり寄っている死の足音が怖くて、こうして穏やかに言葉を交わせる時間がまるで奇跡のように思えて、絶妙に拮抗する感情に律の心は打ち震えている。

「降谷さん」
「うん?」
「少し、お話をする時間を貰えませんか?」
「……え?」

 そうして初めて交わった視線の向こうで、改まった律の態度に降谷は驚いたようにその瞳を見張った。しかし律の言うお話の内容を降谷は汲み取れないのだろう、うろたえるように二度程眉がぴくりと動作する。律は降谷の反応に構う事なく、その身体を脱衣所に押し戻した。髪を乾かしたら来てくださいと、何か言いたげな降谷の返事すら聞く素振りも見せずにひとり踵を返す。
 少しばかり明るくなったリビングのカーテンを引く頃、律の耳にようやく微かなドライヤーの音が届いた。沖矢の言っていた通り、雨はいつの間にか上がっていた。

「それで、話と言うのは、」
「ちょっと待って」
「はい?」

 髪を乾かし終えた降谷はリビングにやって来ると、律が座って居たソファの隣に酷く緩慢な動作で腰掛けた。
 早速ですがと前置き無く口を開いた律であったが、持ち上げた視線の先で降谷はまるで死刑宣告を待つ囚人でもあるかのように覇気無く土気色の顔をしているものだから、律の口は手の裏を返したように、出発は何時ですかと百八十度全く関係の無い質問を繰り出した。いや、制限時間という意味では決して関係なくはなかったのだが、その質問に対する降谷の返答は何時だったかなと大変適当なものであったから、やはり関係は無かったのかもしれない。
 何をそう絶望しているのか分からない律は、何か別の話題があっただろうかと模索するが、そうして今は無駄話をしている場合ではない事を思い出す。改めて本題を切り出した律の言葉を、降谷は今度は遮った。

「律の言いたい事は分かる。誤魔化そうとした俺が悪かった」
「……は?ごまか、……え?」
「覚えていないだなんて酔っ払いみたいな事は言いたくないけど、本当に覚えていないんだ。いや……後半は覚えているけど、そうではなくて」
「……はあ……、後半?」
「俺はどうかしていた。謝って済む問題じゃないと思うけど、」
「あの、降谷さん?何の話をしているんですか?」
「え?」
「え?」

 チチチと、律が先ほど細く開けた窓から鳥の鳴く声が軽やかに響いた。
 ぱちりと瞼を瞬いた降谷に、まだ寝ぼけていますかと、神妙な面持ちで律が尋ねる。

「…………俺は、帰宅してから、何をした?」
「何って、寝ましたよ。靴も脱がずにその場で」
「……ならどうして、律を下に敷いて?」
「起こそうとして巻き込まれたんですよ。そのまま私も眠ってしまって」
「……夜中に目が覚めた?」
「は?いえ、気付いたら朝だったので」

 これは一体何の確認なのだろうと、やはり分からないままに律は質問に的確に答えていく。そうして口許に手を当てて何かを考え込み始めてしまった降谷は、もしかしたら何か悪い夢でも見たのかもしれないと律は閉口した。律の言いたい事は分かると宣告されてどきりとしたが、まるでお門違いだなと的外れな見解に律は困惑している。

「俺に愛想を尽かして家を出たいっていう話じゃないの?」
「……、やっぱりまだ寝ぼけてます?」
「……、寝ぼけているかもしれないな」

 時刻は午前五時を回った。何が悲しくて早朝から恋人同士のするような別れ話をしなければならないのだろうか、律と降谷の間に滞留する空気は蒼空と対照的に淀みきっている。
 ――そうではなくてと、律は再び、重石のような声調で話を改めた。
 降谷はまるで分かってはいない。突然目の前で卒倒された律の心の動揺を微塵も理解できてはいないから、開口一番に律の家出などとわけの分からない心配をするのだろう。もしかしたらそれは降谷にとっては日常茶飯事で取るに足らない事かもしれないが、律にはそれが分からない。降谷との付き合いが長く況してや同じ職務を行っていた花井律であったならばそれが分かったのだろうか、もっと上手く対処をして見せたのだろうか、律はそんな事ばかり考えてしまう。

「心臓が止まりそうになりました。玄関で倒れている降谷さんを見つけた時です。打ち所が悪ければ本当に死んでしまいますよ」

 "それはつまり、花井Bは花井Aに成り代わりたいというお話ですか?"

 律はその葛藤を、あまり考えないようにしていた。幸いあの日から降谷と顔を合わせる事はなかったし、降谷とさえ会わなければ律は自分と花井律との乖離に当てられることはない。しかし、花井律であって花井律ではない律の日常に、こうして僅かでも降谷が混じるともう駄目だ。降谷が律に構う度に、降谷が律の中に花井律の残像を追っている事が律には分かる。
 花井律との齟齬を感じさせるかもしれないと律は伝えた。そうして降谷はそれを直ぐに否定した。そこに嘘はないだろうし、本人もそう心から信じているから余計に性質が悪いと律は思う。実体の無いとてもあやふやで曖昧なものに、ひとりだけ踊らされているような気分になる。

「……ごめん。気を付けるよ」
「それはどういう意味ですか?」
「え?」
「私の前では倒れないように気を遣うという意味ですか?」

 降谷ははたと、表情を固くする。言葉の尻に絡まった怒気は、自分を蔑ろにしている降谷に対するものであるのか、それとももっと根深い己自身の問題であるのか、律には不確かだ。
 降谷零という人間は、律に対していつもとてもきちんとしていた。疲れ果てて偶に帰宅する自宅にもかかわらず、服を脱ぎ散らかしたり食事を食べ散らかしたり、その辺で寝こけたりという怠惰が一切無い。どれだけ遅くに帰ったとしても食事を取れば食器を洗うし、風呂を使えば掃除をしていくし、洗濯はうっかりすると律の分まで一緒に洗濯機を回して乾燥機にかけていく。そういう性分なのかもしれないと今日まで律は自分を騙し騙し暮らしていたが、決してそうではない。何よりも先に己の不甲斐なさを謝る程度には、降谷は律に出来損ないの自分を晒す事に耐えられない。だからきっと、この家には降谷の認める降谷零である時しか帰れないのだ。

「私が独り暮らしをしたいと言ったのは、自立したいという理由だけではありません。私がここに居ることで、降谷さんが安らげる時間を奪ってしまうと思うからです」

 降谷がそうあるのは、以前の花井律との関係性の呪縛でもあるからだろうか、それとも偏に、まだ距離感の正せない律への遠慮なのだろうか、はたまたその両方であるのか律にはやはり不確かだ。
 律はたとえ降谷のために作った料理が無駄になろうとも、ちんけな暴言を吐かれ床に組み敷かれて一晩を明かそうとも、それはとても些末な事だと心からそう思える。しかしそれを降谷が受け入れられないのならば、きっとこの共同生活は互いのためにならないし、そう遠くない内に律の心を壊すだろう。律はもっとフラットでイーブンな関係を降谷との間に構築できなければ、きっと永遠に花井律の幻影に悩まされる。

「……それはやっぱり、家を出たいという話だろう?」

 降谷は咄嗟に何かを言おうとして開いた口を一度閉じて、そうして少し考えた後で、吐き出すようにそう言った。哀しく揺れる鈍色のその瞳には、律の姿が映り込む。降谷を見つめる花井律の姿が、映っている。
 降谷がもっと嫌な奴なら良かったのに、なんて、律はふっとそんな事を思った。そうして割り切れたら良かっただろう、簡単に距離を置く選択が出来たなら楽だったろう。嫌という程分かっていても尚、律は降谷の内に宿る情熱に、もう少し近付いてみたくなる。降谷の瞳に映し出されている世界を、もう少し眺めていたくなる。自分には無いその輝かしい生命力が、今の律にはあまりに刺激的で魅惑的だからだ。

「そうではなくて。私は降谷さんとの同居生活をもっと健全なものにしていきたいんです」

 もしかすると、花井律もそうだったのかもしれないと、律は逸らせぬ降谷の瞳を見つめたまま続ける。
 降谷は律の言葉を上手く噛み砕けずに眉を顰め、そうして慎重に言葉を選ぶように、二人の間を静かな沈黙ばかりがしばらく支配する。

「……現状を不健全だと思っているわけ?」
「不健全というか、いつ機能不全を来たしてもおかしくはないなと思っています」
「それはどういう、……いや、そうだな。律の言う方向性には賛成だよ。具体的に何が不満なんだ?」

 しかし降谷は律が家を出る意思の無い事が分かると、安堵するようにやや表情の緊張を弛ませた。その反応が律にはどうにも心地悪い事を分かっているのに、律はその想いに蓋をして己の奥底に仕舞い込む。今はまだ、降谷零から花井律を完全に取り上げる事など出来ない。それが律が降谷から離れる事を諦めて、傍に居たいと願う事の代償であることを分かっている。
 今更、降谷と律が真っ新な関係を築き直せると思っているわけではない。降谷が律を花井律ではない律として接するには、また律が降谷を花井律を知らない降谷として接するには、二人を取り巻く事情はあまりに複雑で取り返しのつくものでもない。ただそれでも、律は花井律の器に収まっている律自身を見て欲しいとも思うし、花井律の記憶の中の降谷ではない、降谷零という人間を知りたいとも思う。

「降谷さんには、家ではもう少しだらしなくして欲しいんです」
「……は?なんだって?」
「ああ、いえ、それは言葉の綾ですね……、つまり、」
「つまり?」
「私で間に合う事は私にやらせてください。一応、一緒に暮らしているんですから」

 降谷はそうして、些かの困惑を伴って律の話に静かに耳を傾けていた。
 プライベートの煩わしい雑務などは律に委ねて欲しいこと、その分余った時間を自分の休息に当てて欲しいこと、ひとつひとつを丁寧に言及していく律に降谷は口を挟まない。

「降谷さんが少し不格好なくらいで、私は愛想を尽かしたりしませんよ。当たり前でしょう?」

 不思議と、あれ程思い出したがっていた過去の記憶を知ることが、今の律はとても怖い。
 それは仮屋瀬ハルとして生きるために過去を拒んだ当時とは違っていて、花井律が自分と同一の存在であることを自覚した時に、一体自分が何者に成り果てるのだろうかという懐疑にすり替わっている。
 律に花井律の記憶が戻れば、きっと降谷は喜ぶだろう。しかしそうなれば律が今降谷との間に新たに築こうとしている関係性は破綻するかもしれないし、今の律が降谷に抱いている想いすら消失するのかもしれない。思い出した花井律の記憶を律が上手く受け入れられなければ、思い出してしまったが故に失うものもあるだろう。

「……俺は今も昔も、律に助けられてばかりだな」

 あまりに長い沈黙を破ったのは、呟くように吐き出された降谷の言葉だった。
 おかしな言い草だなと、律は思った。昔からずっととは、降谷は言わない。律を花井律と同一視しているはずの降谷はその時、たとえ無意識でも、たとえ微妙な言葉のニュアンスだとしても、確かに現在と過去を切り分けた。

「何か、俺が律にしてあげられる事はある?」

 全て知らないフリをして生きてくれないかと、あの時そう言い残した赤井の言葉が、ふと律の耳の奥底で響く。
 あの言葉は、律の記憶がいずれ全て戻るかもしれない事を示唆していたことに、今になってようやく律は気付いた。赤井はただ仮屋瀬ハルに共に生きて欲しいと言ったのではない。もしも仮屋瀬ハルが花井律の全てを取り戻したとしても、律に降谷の事など忘れて生きろという意味だ。あの問いかけは、本当は律が考えていたよりも、ずっとずっと重たいのだ。

「それなら時間をください。私に、降谷さんの時間を」
「時間を?律に?」
「はい。そうして浮かせた時間の、ほんの少しで構いません」

 花井律の記憶を思い出したとしても、それを律だけは闇に葬る事ができる。律の記憶の有無など、他人の物差しでは決して測れないからだ。
 律はたった今、それに思い至ってしまった。花井律を生かすも殺すも律の裁量に全て委ねられている事に、気付いてしまった。そうして己の心に既に歪んだ亀裂が広がっている事には気付けないままに。

「降谷さんともっと話がしたいんです。降谷さんの事を教えて欲しいし、私の事も知ってもらいたいから」

 ないものねだりと堂々巡りの渦中で、律は漂流している。ただそうするばかりでは前に進まない事を知っているから藻掻いてはみるが、結局の所目的地が定まっているわけではない。律の言葉を黙って聞いていた降谷は何を想っているのか、無表情のままその要求を肯定した。
 一段と部屋に伸びた陽の光が、やけに目に痛い。律はその眩しさに思わず、瞼を閉じずにはいられなかった。



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