#47

 降谷零はまだ静かに深度を増していく夜半に、夢かうつつか微睡みの中で薄らぼんやりと瞼を持ち上げたかと思うと、そうしてまた睡魔に誘われるかのように意識が沈んでいく。
 ――俺はどこで何をしていたんだっけ?と、確かに覚醒したはずの機能はしかし、右頬に伝わる柔らかな温度が離れがたい程に心地良く、降谷はその一歩先へ思考を進めることを躊躇っている。鼻腔を擽った香りの正体が何か分からずとも、それを良く知っている事に降谷は安堵して、甘えるようにその仄かな熱に頬を擦り付けた。今夜ばかりはこのまま何も考えずにこの温もりに溺れてしまおうかと、珍しく腑抜けた感情に揺すり動かされている。

 "降谷さん、今日こそは帰宅される予定だったのでは?"

 女の肌というものはどうしてこう気持ちが良いのだろうと、小さな肩から伸びた華奢な腕を、撫でるように滑り下ろして降谷はその感触を確かめる。柔らかくて、瑞々しくて、少しでも爪を立てれば破れてしまいそうな薄い皮膚だ。自分のような硬く瘡蓋だらけの身体とは似ても似つかない美しいそれがとても神聖なものに思えて、降谷は名残惜しそうにもう一度だけ撫で下ろすと、意識のない痩せた指を優しく絡め取った。
 その甘い誘いに、しかし女が目覚めることはない。とくりとくりと規則正しく振動する心臓の音が隙間なく合わさった互いの胸から伝わって、少しも愛らしい反応を返さないその様は降谷の欲情を刺激するにはまだ足りない。それが大層口惜しく興ざめるのに、しかし降谷は一方で既に内側から少しずつせり上がって来ている情動に、脳の奥が痺れるのを確かに感じていた。遊ばせていた右手を緩慢な動作で下ろすと、女の薄い上着をぺらりと捲り上げる。腹に這わせた手の平で、形を確かめるように腰のくびれを何度も行き来させた。

 "帰るよ。あと二時間で帰る"
 "あと二時間経ったら、翌日になってしまいますが"

 そうして宥められて、どこへ帰ったのだろうと、降谷は頭の片隅で微かに蘇る記憶を掘り起こしている。自宅に女など連れ込むわけもないし、今は肉体関係に持ち込まなければならないような標的などもいない。何かが可笑しい事を降谷は感じ取っているのに、疲弊しきった身体は手っ取り早く快楽を求めるのを止められない。
 次第に高度を下げていく右手は、そうして女の腿の内側の肉を摩った。ショートパンツから惜しげもなく差し出されたその裸の肌は、降谷の手に心地良い弾力を伴って吸い付くようである。それに降谷は愉快そうに口角を上げると、その布地との隙間から俄かに指先を挿し入れようとした。理性と欲望の狭間で、その時、僅かに後者に眩惑された。

「……、ううん、」

 しかし刹那、頭上から漏れた吐息混じりの鼻にかかった声に、降谷は一旦動作を止める。
 女は降谷の下で二度程身じろごうとして、身動きが取れずに、そうしてまた目を醒ます事なく寝息を零し始めるものだから、降谷は太腿に這わせていた右手をそろりと離すと、そうして絡み合ったままの左手の力をやや強めた。その魅惑的な声をもう一度聞きたいのに、やはり彼女の指が降谷の手を握り返す事はない。
 じれったいなと、降谷は思った。そうして己の身体にばかり募る熱に、降谷は時間ばかりをかけて待ってはやれない。
 そろりと視線を持ち上げた先で、薄暗い闇の中にぼんやりと、細い喉元が浮かんだ。強引に鳴かせてやろうかとその心に生まれた小さな加虐心は、降谷に一縷の躊躇いも与えず唇を寄せさせる。まるで甘美な花蜜のように降谷を惹きつける柔肌に、甘噛みしようと、降谷はゆっくりと口唇を開いた。

 ――ブウン。

 瞬間、降谷の胸の内ポケットの中で、それは一度だけ振動した。その微細な揺れはしかし、降谷を夢心地の中から引き摺り出すには充分過ぎる刺激である。
 まるでパブロフドッグか何かだなと、あまりに唐突に、その時降谷は覚醒した。急に冷えた頭に上体を持ち上げ、慣れた動作でスーツをまさぐりスマホを取り出すと、受信したメールを確認する。上司を帰宅させておいて彼はまだ本庁に居るのだろうかと、画面の右上に表示された午前二時の時刻表示を横目に、降谷は息を吐いた。そうして薄闇の中で浮かび上がった画面の明かりに、降谷は思い出したようにまだ手を繋いだままの女の顔を見遣る。

「――っ、」

 声にならない叫びを、上げそうになった。
 覚醒したはずの頭でさえ理解が追い付かず、一瞬止まりそうになった心臓が次にはバクバクと全身に響き渡るように跳ね上がる。

「……ど、して、」

 どうしても何も、降谷は確かに自宅に戻った記憶があるし、その自宅に居る人物と言えば降谷の元部下である花井律に他ならない。
 そう、昨晩降谷は久し振りに律の居る自宅へ帰って来た。本来であれば数日前に帰る約束をしていたはずが、突如発生した東都大学爆破事件のせいで降谷の予定は大幅に狂わされている。ただでさえここ最近は赤井秀一の死の真相の究明のため東奔西走していた降谷を巻き込んで、緊急の会議は連日立て続けに敢行された。不運にもそうした時に限って安室透の依頼者には呼び出されるし、榎本梓にはシフトを代わって欲しいと頼まれるし、バーボンにはベルモットから任務の連絡が入る。仮眠も儘ならないままに四徹目を迎えた降谷は、頭が可笑しくなるかもしれないと、普段であれば考えられないような不安に苛まれていた。
 降谷は、途端にじとりと汗ばむ左手に、絡みついた律の指を一本一本慎重に解いていく。闇夜に慣れた目には早々に律からスマホの明かりを遠ざけると、酷く緩慢な動作で律に預けていた重力を少しずつ剥がした。そうしてようやく離れた身体に、律が変わらずすやすやと何も知らずに眠っている事を確認して、降谷は後ずさる。背に当たった玄関の扉に、凭れた身体はずるずると降下して、そのままへたりと、尻餅を付いた。
 ひやりと冷たい扉と床が降谷の熱を冷ましてくれたらいいのに、降谷の左手に残る律の熱がどうにも逃げない。消えない感情の残像と己の愚行が不規則に混ざり合っては降谷をかき乱す。震えそうになる右手で、降谷はスマホを持ち上げた。縋るような思いで、その番号をタップした。

『すみません。もしかして起こしてしまいましたか?』

 いつも通りのワンコールで、いつも通りのそのトーンで、風見のその声は降谷の心を鎮めていく。
 途端に呼吸のし易くなった降谷は些か力の戻った右手でスマホを握り締めると、腹の底からまるで膿でも出すかのように長く長く吐息した。

『アサップだと伺ったので、夜分でしたがメールを』
「……風見、」
『詳細はいつも通り共有フォルダの、』
「風見」
『はい?』
「……俺は、今ほど君に感謝の気持ちを抱いた事はない」
『……は、はあ。あまり、難度の高い案件ではなかったので』

 そうではなくて、あの時君からのメールが無ければ取り返しのつかない失態を犯したかもしれないという意味で、とは、降谷は言えない。
 その身を案じて自宅に住まわせているはずの部下に、そうして眠りこけているのをいい事に組み敷いて全身を愛撫するなど、完全に人の道を外れてしまっている。疲れていたからついなどと、まるで女子高生のケツを撫で回す痴漢のような言い訳しか出来ない降谷は、出来ることならば己の重い拳で自分を叩き潰したい。
 どうにか時間を巻き戻せないだろうかと馬鹿な事を考えて、よろめく両脚を踏ん張り降谷は立ち上がる。律をベッドに運ばなければと伸ばした手の先はしかし、何だかまだ消化しきれぬ熱が宿っているような気がして引っ込めた。からりと急に乾く喉が、恨めしい程に不快だった。

「ついでにその件でもう一つ調べて欲しい事がある。頼めるか?」
『はい。すぐに取り掛かります』
「いや、今日はいいよ。君も昨日から家に帰ってないだろ?」
『ああ、いえ、自分は仮眠を取っていますので』
「それでも――ゲホッ、ゴホ、!」
『降谷さん?!』

 リビングの明かりが届く仄暗いキッチンで、降谷は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを勢い良く流し込む。瞬間、目の端に映ったダイニングルームの一角に鎮座する花井誠一郎の写真と、目が合ったような気がした。
 咽返る降谷を心配する風見の声が耳元で数度繰り返されるものだから、それを宥めながら降谷は口の端から零れた水を荒く拭う。テーブルに用意されていた一人分の食事にはきちんとラップがかかっていて、それが自分のための料理であることに理解がいった降谷は大変な罪悪感を抱きながら、身体を引きずるようにして誠一郎の写真を前に、椅子の肘掛に軽く凭れかかった。
 あれから何年が経っただろうと、ようやく律と二人で行く事の出来た墓参りの日を思い出す。しばらく降谷の自宅を彩っていたスターチスの花は、もう随分と前に枯れてしまっていた。

『……あの、降谷さん』
「何だ?」
『この事件は、我々の領分なのでしょうか?』
「……、」
『自分は一体、何のために何を調べているのでしょう?』

 風見の声音は、疑惑と憂慮に溢れている。学生の憂さ晴らしか何かだとしか伝えられてはいない東都大学爆破事件を、風見は優先順位を押し上げて調査させられているのだから、もっともな質問だろう。無論、風見も降谷が伝えぬ事情は、伝えるべき内容ではない事をこれまでの経験上とても良く理解している。たとえ降谷と風見が同じ事件を追っていて、同じ対象を調査していたとしても、風見と降谷との間ですらもその領分が異なるせいだ。
 しかし、風見は訊ねた。これまでも経験をもってしても、風見にはその案件を扱う意義が微塵も理解できなかった。

「……君は知る必要の無い事だよ」

 降谷は思わず優しい言葉をかけようとして口を開いたが、挿げ替える言葉は以前と同じだ。いつも話せないことばかりですまないと、続けた謝罪には風見の方が恐縮してしまう。
 降谷はそうして切電してから、ふっと天井を仰いだ。花井はあの犯行声明文を目にしただろうか、その言葉に、もしかして何かを思い出してはいないだろうかと、気怠い身体に静かに瞼を閉じる。

 "降谷。後の事は全てお前に任せるよ"

 眼前に浮かぶ最期のメールの一文に、降谷は、まだそうと決まったわけではないからと、誠一郎に向かってそう声を掛けた。蘇る記憶と変わらぬその眼差しが、少しずつ降谷の帯びる熱を冷ましていく。ようやく降谷は、律の身体をベッドに移してやった。

「話したい事がいろいろあったのに」

 安穏とした表情で眠る律の顔にかかる髪を耳にかけてやり、降谷はベッドの端に腰掛けながらネクタイの結び目を弛める。もう随分とまともに話すらしていないなと、僅かな月明りにぼんやりと浮かぶその横顔を降谷は眺めていた。
 どうも自己認識に歪みが生じているようだと風見に伝えられたのは少し前の事であるが、降谷は律から直接そのような悩みを相談されたことは一度たりともない。何故風見に話して俺には話さないのだろうと、実際その悩みの種に降谷自身が含まれているものだから、降谷は余計にそれが不満だった。律の悩みなど降谷の言葉ひとつでどうとでもなるものなのではないかと思ってしまうのだから、それは尚更だ。
 何かあれば遠慮なく連絡を入れて欲しいと言っているのに、連絡などひとつも寄越した試しがない。実際降谷は仕事で大変忙しいが、移動中に電話のひとつくらいは掛けられるし、ポアロのバイト中にメールのやり取りくらいは出来る。しかし待てど暮らせどやはり連絡は来ないし、伝言板でも何でもない風見に伝えられる言葉はいつもお決まりの、特にありません、だ。殺人事件に遭遇した事はお前の人生の中で特に何でもない事なのか?と、降谷はあの日ばかりは堪忍袋の緒が切れそうだった。

 "別に、恋人と待ち合わせていただけでしょう?"

 そうして降谷は、それが一体誰であったのかも知らされていない。ベッドの隅に転がる律のスマホでも覗けばもしかしたら痕跡があるかもしれないが、降谷はそこに合理的な理由を見出せない。
 例えば律が以前のように犯罪者に心酔しているだとか、況してや降谷の天敵である赤井秀一に心を奪われているとなれば、降谷はありとあらゆる手段を講じてその関係性を叩き切るだろう。それはどうしたって律の幸せには繋がらないし、誤った道に足を踏み入れているのならばそれを正してやるのが降谷の責任だと思うからだ。

 ――ならば、誰もが認める彼女に似合いの好青年ならば?

 降谷は脳裏に過った茶髪の優男に、ボタンを外そうとしていたカフスをぎゅっと握り締める。
 律だって、もういい年齢なのだ。職務に身を捧げる必要の無くなった今、恋人でも作って、愛する人を見つけて、結婚でもして家庭を築くのが幸せなのかもしれない。降谷には実現できないその未来が、何だか律には良く映えるような気がして、降谷はこれまでもそうした想像をする事が何度かあった。
 ただ、降谷はそれでも良かった。降谷の一番が律であるように、律の一番も降谷であると思っていたからだ。それは律が恋人を作ろうが、結婚しようが、この先もうずっと変わることはない。世間的に見てそこに確かな歪みがあることを降谷は重々承知しているが、それでもやはり律の一番は降谷なのだ。
 そう、分かっているはずなのに、あの時何故か降谷の心は揺さぶられた。まるで恋人でもあるかのような律と、その名も知らぬ男に、降谷は身体の奥底から鋭利な道具で穿り返されているような、とても惨めな気分になった。それは実際にその現場を初めて目にしたせいかもしれないし、記憶を喪失している律の一番が降谷と成り得ない事を気付き始めていたせいかもしれない。いずれにせよ、降谷は酷く、屈辱を味わった。

 "あなたは何故そうして彼女を支配するの?"
 "彼女が思い通りにならないと不安でしょう?"

 降谷はそっと、律に視線を落とす。思わず髪を梳こうとして伸ばした右手を、そうして躊躇って、握り締めた。
 もう子供ではないのだ。頭を撫でてやらなくとも律は寝付けるし、傍にいてやらなくとももう酷い夢を見ない。人の善悪の区別くらいはつくし、何をもって善悪と分けるかの基準は律の判断に委ねられるべきである。
 そう、もう子供ではないのだからと、降谷の右手には掻き消したはずの官能的な感触がまた蘇る。

「……俺はどうしたらいい?」

 そうやって赤井と居た頃も、律は無防備な寝姿を晒したのだろうか。この家よりもずっと狭い部屋で、そうしてずっと二人きりで。数カ月間の同居生活があった事を降谷はもちろん知っていたのに、今の今まで不思議とそんな事を考えた事はなかった。
 降谷がしたように、そうして赤井もその肌を撫でたのだろうか。降谷が出来なかったように、そうして赤井はその肌に唇を寄せたのだろうか。身を寄せ合って、抱き合って、愛でも囁き合って、肉体関係のひとつでも持ったのだろうか。

「――どうかしているな」

 降谷はそれ以上、律を直視することが出来なかった。一体自分が何を考えているのか、何を憂いているのか、最早何をどうしたいのかも良く分からない。呟くような言葉は誰の耳にも届く事なく、暗闇にすっと混じって溶けてゆく。
 降谷は律の布団をかけ直すと、足早にリビングを後にした。握り締めた拳の中に食い込んだ爪は、皮膚を突き破り、うっすらと血を滲ませていた。


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