#46

 しとしとと音の無い糸のような小雨を窓越しに眺めながら、花井律は仕上がった書類データにパソコンのエンターキーを押し込んだ。すっかりと慣れた日々の業務はデスクワークが中心で、喫茶店を走り回っていた律は多少の物足りなさを感じる時もあるが、総合的な労働条件を考えるとやはり現状の方を好ましく感じる。もともと花井律は事務仕事を得意としていたようであるし、今の律にも特段の苦手意識はない。定時を十分程過ぎた時計を横目にイントラから勤怠を入力すると、帰宅の準備を始めた周囲の流れに紛れ込んだ。

「犯行声明文?東都大学爆破事件で?」
「そうです、そうです。SNSで一気に拡散しているんですよ」

 決して広いとは言えない窮屈なロッカールームに、先着していた女性職員二人の会話は律の耳まで良く届く。しかし課の異なる彼女達とは互いに睦まじく言葉を交わす間柄でもなく、律はお疲れ様ですとだけ声を掛けて背後を通り過ぎた。
 荷物を鞄に移し替えながらスマホの通知を確認するが、特にメッセージはない。今日は本当に帰ると、あれから帰る帰る詐欺を繰り返している降谷からの撤回の通知も受け取ってはいない。沖矢とランチをした四日前の夜、律は作り過ぎた夕食を前に空腹を通り過ぎる時間まで降谷の帰りを待っていたものの、結局降谷は家に帰っては来なかった。朝方になってようやく謝罪のメールが届き明日は帰るという一文に律はまた食材を買い込んで家路に着いたが、さあ料理をしようと意気込んだ瞬間に、再び謝罪メールを受信したのである。どうせ今日も帰らないのだろうなと、律は半ば諦めている。別にこれといった用事があるわけではないのだから無理をしてもらわなくても良いのだが、降谷としてはこれでは同居している意味が無いとでも思っているのかもしれない。

「でも、そんなことテレビで言ってなかったけど」
「だから話題なんですよ。報道規制がかかってるって」
「報道規制?」
「はい。SNSは消しても消してもぽんぽん増殖しちゃいますからね。これも時代ですよ」

 律はその会話に僅かな意識を傾けながら、メッセージ履歴をスクロールしていく。そう、丁度四日前のその日、東都大学爆破事件は発生した。
 手持無沙汰に降谷の帰りを待っていた頃テレビの報道でその事件を知った律は、思わず沖矢に連絡を入れている。幸い爆発の規模は講義室をひとつ吹き飛ばす程度で怪我人もいなかったらしいが、犯人は未だ捕まっておらずその目的も不明なままだ。沖矢本人はキャンパスも異なり別段支障はないような事を返信して寄越したが、それでも爆弾魔の潜んでいるやもしれない大学になどとてもではないが通いたくはないと律は思う。録画しておいたテレビ番組の東都事件簿では早速事件が取り上げられていたが、粗方は学生の愉快犯による犯行として議論はあまり熱を帯びずに収束するばかりだった。報道規制のかかった犯行声明文など、実体はかなり怪しい所だ。

「お疲れさまです」
「三吉さん、お疲れさまです」

 すっと隣のロッカーに伸びた彩花の右手は、律と同じように手早に荷物の入れ替えを始める。慣れた手付きで髪留めを外すと、ひとつに纏めていた柔らかそうな髪がはらりと肩に落ちた。盛り上がってますねと、後方を興味なさげに一瞥した彩花には、東都大学爆破事件の話みたいですよと小声で囁く。あまりロッカールームでは遭遇した事のなかったせいだろう、彩花が髪を下ろしている姿を初めて目にして、何だか随分と雰囲気の変わる人だなと律はその横顔をまじまじと眺めてしまった。
 三吉彩花とは、理想的な距離を築けているように律は思う。近すぎず遠すぎず、会えばこうして適度に会話は続くし、かと言ってあまり干渉し過ぎることはない。律の経歴を探りたい周囲の人間も未だ後を絶えないが、彩花はそうして降谷との関係にも沈黙を守ってくれている。

「三吉さんは、SNSとか興味はありますか?」
「たまに見る程度だけど、どうしてですか?」
「その事件の犯行声明文が出回っているみたいですよ」
「ふうん」

 思えば降谷が帰ると言っておいて反故にしたのも、その事件が起こった日だったなとふと頭の隅に浮かんだ。しかし件の事件の担当は捜査一課であると聞いているし、それは現時点ではその事件が国家転覆を狙うような反社会活動とは見られていないからだろう。
 律は、やはり興味なさげに奥の方から折り畳み傘を取り出した彩花を横目に、考えている。
 そう結論付けたはいいが、そもそも律は降谷が一体何の職務を行っているのか微塵も感知してはいない。確かに私立探偵の安室透として喫茶ポアロに潜入捜査を行っている事は知っているが、それに一体何の意味があるのか、そこにどのような意義があると言うのか、律にはさっぱり分からない。仕事の内容については一切話せないと降谷や風見からは言われているし、律もそれを理解して職務内容には触れたことがないが、そうであるからこそ彼等の領域には勘が働かないと言ってもいい。そうして脅威は案外身近に潜んでいる事が、今の律には分からない。

「『再起動が始まる。私達はアヤセの遺志を継いでいる』……って、何?どういう意味?」

 ――カシャンと、何かが落ちる音がした。
 律はワンテンポ遅れてそれが自分の足許に転がった彩花の傘だという事に気が付いて、腰を折り静かに手を伸ばす。

「どういう意味か分からないから憶測が飛び交って盛り上がっているんですよ」
「これが犯行声明文だって?」
「はい。現場に残されていたのを学生達が勝手にアップしちゃったみたいですね」
「えー、どうせヤラセでしょう?報道しないのは偽物だからだよ」

 落下音に一瞬振り向いた二人組も、そうしてまた話し始める。
 律は彩花に声を掛けながら傘を差しだすが、彩花は何故か硬直したまま動かない。

「三吉さん?」

 律は思わず、彩花の肩を叩いた。その刺激に彩花はハッと我に帰ると、痙攣したように動作する瞼を隠すように、律から目を逸らした。

「ごめんなさい。ありがとう」

 まるでひったくるように、彩花は律の手から傘を抜き取る。
 大丈夫ですかと、声を掛けた律にはもう彩花は声を絞り出す事が出来ずに小さく会釈するばかりだ。そうして音を立てて無理やりに閉めたロッカーの扉に、足早にその場を去っていくその薄い背を律はただ眺めることしか出来ない。

「でもでも、この再起動っていうワードが、リセットマン関連じゃないかって言ってる人も居て」
「リセットマン??」
「えー?一年前くらいにあったじゃないですか。夏葉原リセットマン事件ですよ」

 体調でも悪かったのだろうかと、閉ざされた扉に、律も同じようにロッカーの置き傘に手を伸ばした。正午を過ぎて降り出した雨は、雨脚が弱いままに降り続いている。
 支度を終えた律の鞄の中で、丁度その時、画面が点灯した。慌てて確認するもそれは降谷からの連絡ではなく、返信をしそびれていた沖矢からの他愛もないメールである。小さく吐息した後で、まだまだ話し続ける様子の職員を尻目に、律は静かにロッカールームを後にした。

『ええ。その声明文なら見ましたよ。ネットに沢山出回っていますから』
「本物だと思いますか?例えば、過激派によるテロ行為のような」
『さあ。こればかりの情報では、今は何とも』

 帰宅した律は結局二人分の夕食を作ったものの、二十時を回っても降谷は戻らないものだから、アナウンサーの永倉圭が読み上げるニュースを聞きながら独りで食事を終えた。部屋の掃除も洗濯も全て済ましてしまい、これでは以前の二の舞だなと思いながらも仕方なく先に風呂に入る。しかし風呂を上がってもやはり降谷はまだ帰宅しておらず、律はリビングで時計を横目にスマホを弄りながら、思い出したように沖矢のメールに返信した。間髪入れずに沖矢からの着信があったのは、その時だった。

『あの事件に何か気になる事でも?』
「ええ、まあ。どうもリセットマン事件が引き合いに出されているようなので」
『リセットマン事件?夏葉原のですか?』
「……あー。そうですね、ええと、」

 律はどうにも沖矢に対しては喋り過ぎるなと、次の言葉を言い淀む。夏葉原の事件は律の記憶喪失の契機となった事件であるのに、自分からそれに言及してしまっては元も子もないだろう。
 そうしてまた隙だらけの嘘を振り撒くことにでもなれば、また沖矢には何をほじくり返されるか分かったものではないなと、律はテレビの脇に置かれたデジタル時計の表示を見遣った。時刻は二十三時近い。今日も降谷の帰宅は諦めた方が無難だろう。

「それより、時間は大丈夫ですか?論文作成の息抜きにしては長電話になってしまいましたよね」
『……いえ、僕は構いませんよ。花井さんは明日も仕事ですか?』

 律は立ち上がりながら窓辺に寄ると、カーテンを引き、カラカラと音を立てながら重い窓を開けた。真っ暗闇の中に降る雨は上手く視認できないのに、湿気た温い空気が律の肌に纏わりつく。
 電話口の沖矢の問いを肯定しながら、律は聞こえない雨の音に耳を澄ませていた。蘇る夏葉原リセットマン事件の記憶の断片に降り続ける雨の音は、今と同じように少しも聞こえない。雨の音が煩かったという確かな嫌悪感と映像は思い出せるのに、その耳を劈いたであろう音ばかりが決して戻らない。赤井の言葉は、いつも記憶の中を浮遊したままだ。何かを語り掛ける赤井の唇は確かに動くが、思い起こせる台詞は肝心な部分と結びつかずに彷徨っている。

『心配しなくても、雨は夜中に止みますよ』

 たったの数秒、訪れた沈黙は、沖矢の優しげな声色が破った。
 それに驚いた律は、見られているわけでもないのに辺りを一瞬窺って、そうしてまたスマホに口を寄せる。

「……雨が苦手だとお話しましたっけ?」
『いいえ。カーテンと窓の開く音がしたので、天気を心配しているような気がしただけですよ。雨が苦手ですか?』
「……、そうですね。あまり、好きではありません」
『では、心細い時は電話をください。話をすれば気が紛れる事もあるでしょう』

 そうして切電したスマホをしばらく眺めて、律はまた、ぼんやりと外の景色を眺めていた。今日の沖矢はただ只管に私の話を聞いていただけだったなと、一時間弱の世間話の内容を律はひとつずつ思い返している。もしかしたら沖矢は、最初から律が雨を疎んでいる事を知っていて、電話を寄越しただけなのかもしれない。律が直接的にそう言わずとも、沖矢はどうにも会話の端々から些細な情報を読み取ることに長けている。
 確かに気は紛れたなと、律は俄かに襲う眠気にひとつ欠伸をした。開けた窓を閉めるとカーテンを引いて、すっかり律の寝床となったリビングの一角のベッドへ向かう。
 もう一度だけ降谷からの連絡がないことを確認すると、律は溜め息を吐いて、スマホを放った。ガチャリと鍵の回る音が鳴ったのは、その瞬間だった。

「――降谷さん?」

 思わず恐る恐るそう確かめながら玄関に続く扉を押し開けたのは、開錠の音に続いてすぐに、ズサン、ドサンと何らや妙な音が響いたためである。大振りな荷物でも持ち帰ってきたのだろうかと小首を傾げた律の目に、その光景は何の前触れもなく飛び込んできた。
 そこに、降谷は転がっていた。それは別に何の比喩でもない。スーツ姿のままの降谷零が、廊下に顔を突っ伏したまままるで死体でもあるかのように倒れ込んでいるのである。

「……、え?」

 花井律の思考回路は、その時、五秒程機能を停止した。
 しかし次の瞬間サッと青ざめた律は、慌ててその名を呼びながら駆け寄っていく。

「降谷さん?……降谷さん!」

 咄嗟に起き上がらせようとして、しかし下手に動かすわけにもいかないことに気が付き、ひとまず肩口を軽く叩いて意識を確認する。しかし、降谷からはうんともすんとも反応が無い。僅かに上下するその背に、慌てて床に顔を擦りつけて耳を寄せれば浅い呼吸音は拾えるが、やはり降谷の意識は戻らない。体位を変えようにも身動きの取れない狭い玄関先で、そうではなくとも律の細腕で屈強な降谷の身体をどうにかすることなど出来はしない。
 救急に連絡しなくてはと律は思い至って、しかしすぐさま、この家に救急車を呼びつけるのはまずいのではと、かろうじて呼吸の確認が出来た律は思ったよりも冷静である。風見だ。それならば風見に連絡をと、立ち上がろうとした律の背後で何かが動作した気配がした。

「うわっ」

 左腕を軸に上体を起こした降谷は、まるで生まれたての小鹿か何かであるように支点が定まらずぐらりとまた傾くものだから、律は反射的に降谷と床の間に自分の身体を滑り込ませる。一歩出遅れたらまた床に頭を打ち付けていたなと、ばくばくと心臓の大きく跳ねる律の上に降谷は覆いかぶさるようにまた脱力した。

「………る…い、」
「え?何ですか?気持ち悪い?!」

 しかしそうして律の肩口に頭を預けた降谷の口からは、呻き声に似た声が漏れる。
 意識が戻った事は何よりであるが、じわじわと降谷の体重に押される律は少しでも気を抜けばこのまま共倒れるだろう。

「……、むい」
「えっ?」
「うるさい、ねむい」
「……え?」

 ――うるさい?ねむい?
 即座に上手にその言葉を噛み砕けなかった律は、間の抜けた返事に、後ろ手に突いていた右手がずるりと床を滑る。瞬く間に伸し掛かって来る降谷からは逃げ場など無く、結局数秒前に想定した通りに二人して廊下に倒れ込んでしまった。
 ゴツリと床に打ち付けた後頭部は鈍く痛み、冷たい廊下と重い降谷の板挟みになった律は頬をひくりと引き攣らせる。降谷に抱き込まれてしまった右半身はどうにも上手く動かせずに、自由の利く左手でさらりとしたそのスーツの背を叩いた。一層重たくなった身体はきっと、既に降谷の意識が遠のいている。

「降谷さん、起きましょう。ここで寝たら風邪を引いてしまいますよ」

 このまま降谷を玄関に転がしておくわけにはいかないが、ただ眠ってしまっているだけの降谷のために風見に連絡を取る程ではない。しかし律には降谷をベッドまで引き摺っていく事など不可能であるし、出来ることと言えばシーツと布団の方をここまで引っ張ってきてそこに降谷を寝かせてやることくらいだろう。
 期待してなどいなかったが、降谷からは返事のひとつもなく、もう完全に眠りこけてしまっている。全く困ったものだなと、律は布団を取りに戻るために立ち上がろうとして、立ち上がれずに、そうしてようやく肝心な事に気が付いた。布団を敷いてやるどころか、律自身がこの場から動けない。

「え?嘘、」

 降谷はまるで岩のようにずっしりと重たく律に乗りかかり、どうにか転がそうにも纏わりつく身体が邪魔をして、左腕から指先までに与えられた自由ではなす術がない。蹴飛ばそうにも両脚に割るように収まっている降谷の半身に、動かした足先はぷらぷらと宙を遊ぶばかりである。
 ――え?朝までこのままなの?と、律は過ぎった不安に必死になって身体を捩るが、悲しい程に効果はない。むしろどうにかしようと躍起になる程、どうにもならない現実を突きつけられて、数分後、体力ばかりが削られた律は薄暗い廊下の天井を見つめて絶望した。こうなってしまってはもう、律はただ降谷が目覚める時を待つしかない。

「……ううん、」

 余程疲労困憊しているに違いないその様子に、どうにかネクタイくらいは緩めてやろうかと律が背後から腕を回せば、どうにも心地が悪かったのだろうか降谷はくぐもった声を上げて嫌がった。その侵入を阻むかのように余計に律の身体に顔を寄せた降谷の頬が、肌に直に触れる。首筋の辺りに掠めた鼻先からは、規則的な寝息が繰り返されるばかりだ。
 ちらりと視線だけ左方に向けた律の目には、普段の様子からは微塵も想像できないような、無防備に晒されたそのあどけない寝顔が映る。もう何もするまいとそろりと持ち上げた指の先は、降谷の髪に僅かに掠ると、さらりととても心地の良い感触がした。
 どきりと大きく跳ねた心臓が、何に呼応したのか律には定かではない。その鼓動は眠っている降谷になど伝播するはずもないのに、密着したゼロ距離の身体に今更とても動揺して、律はもう、降谷を直視することができなかった。

「あなたは、どうしてそこまで、」

 己を犠牲にして、己の人生を賭けて、そうして降谷はこの国を守るために戦っている。その正義が、その信念が、今の律には手を翳さなければならない程に眩しく見える。しかし、ならばその引き換えに傷だらけになった降谷は、一体誰が守ってくれると言うのだろう。雨曝しになったその身体に、一体誰が傘を差し出してくれるのだろう。まるで鉄製でもあるかのように誤解される降谷の心が、本当はとても繊細であることに律は気付き始めている。
 せめて、その止まった呼吸を思い出せる場所が、近くにあればいいのに。その丸裸の心臓に触れる事を許される誰かが、傍に居たらいいのに。律は何かに縋るような心地であやすように降谷の髪を優しく撫でながら、何度も何度も、同じ事ばかりを繰り返し考えていた。


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