#45

 花井律は皿の隅に残ったガレットの切れ端を器用にフォークに乗せると、しばし逡巡した後にぱくりと一口に放り込む。瞬間、案外と口の容量を占めたそれには、ああやはりあと一度切り分けるべきだったなと、早速の後悔に駆られながらもごもごと膨れた頬で噛み潰した。
 真正面でぱちりと視線の合った沖矢昴は、律のその様をじっと見つめていたかと思うと、微笑ましそうに静かに笑む。何だか急に恥ずかしくなった律はぎこちなくそろりと視線を外すと、その最後の一口を良く咀嚼しないままに慌てて飲み込んだ。

「……あの、あまり見つめられると食べにくいです」

 こじんまりとしたテラス席には他に客も居らず、店内に流れているクラッシック音楽もここまでは届かないから、時折揺れる木漏れ日ばかりが二人の間の僅かな刺激だ。心地が悪いわけではないが、隠れ蓑になるものが何一つ無いとどうにも丸裸にされているような気分になるなと、律は遠慮がちに沖矢を見遣る。
 律が沖矢と偶然の再会を果たしたあの日から、またひとつ、季節が変わろうとしていた。可憐な薄桃の花はすっかりと散って、代わりに映える青々とした生命力のある葉桜が目に眩しい。律にとって二度目の春は何だか慌ただしく過ぎ去って、もうすぐそこまで初夏の陽気が迫っていた。

「すみません。あまりに可愛らしかったので」

 まるで謝罪する気のないその言葉には、大して年齢も変わらぬ癖にまるで子供扱いだなと、決して可愛らしいとは言えない引き攣った表情で律は沖矢の言葉を聞き流す。
 沖矢昴。東都大学大学院工学部に籍を置く、米花町在住の二十七歳。かつて赤井と暮らしていたアパートの前で律が号泣している所に出くわし、優しく傘を傾けてくれた人物である。何度思い出しても最悪のファーストインプレッションを与えたように思うが、沖矢はあれからずっとあの日の出来事を話題にはしない。律があの場所に居た理由も、豪雨の中で泣きじゃくっていた理由も、まだ律の胸の中にだけ囲われたままだ。

「このお店、喫茶リーフに雰囲気が似ていますよね」
「ええ。なので、つい足を運んでしまいます」

 一方で沖矢があの場所を通りかかった理由は、律の元バイト先であった喫茶リーフにあった。
 もともとあの街に住んでいた沖矢は当時から店に足繁く通っていたと聞いて、実際店主の葉子や常連客の名も覚えていたものだから律は驚きを隠せなかった。丁度律がバイトを始めた時期と沖矢が米花町に移り住んだ時期が重なるようで、二人は絶妙にすれ違ってしまったらしい。しかし当時は出会う事はなかったと言え、喫茶リーフを媒介してこうしてまた繋がるのだから縁とは面白いものだなと律は思っている。
 そう、真実がふんだんに盛り込まれたその作り話を、律が疑えないのも無理はない。

「あの日は久しぶりにあの店の生姜焼き定食が食べたくなって」
「生姜焼き定食、ですか」
「はい。とても気に入っていたので、残念です」

 指先で弄んだストローは、アイスカフェオレに浮かぶ細かな氷の山を崩す。
 生姜焼き定食と言えば、前に赤井とスマホを買う買わないの攻防戦を繰り広げた際に、毎日のように彼に提供し続けたメニューである。さっさと降参すればいいものを、赤井は赤井で涼しい顔をして間違った注文の品を食べ続けるものだから、引くに引けずにどこまでも延長戦を繰り広げてしまった。今思えば働く社会人の至福のひと時であろうランチタイムを潰し続けた感が否めず、悪いことをしてしまったなと一応の反省をしている。似た者同士故の冷戦だったのだろうか、たとえば降谷相手ならばああはならなかっただろう。
 律は懐かしい記憶と共に、喫茶リーフのキッチンに立っていた頃の事を思い出していた。ブランクがあるとは言え、まだその詳細な調理手順をきちんと覚えている。

「よろしければレシピをお教えしますよ。難しくはないので」
「それは有難い。ですが料理は不得手なので、僕に上手く作れるかどうか」
「独り暮らしでしたよね?いつも外食ですか?」
「ええ。全て自炊で賄おうとすると毎日カレーを食べる羽目になりそうなので」

 沖矢は律の提案に顔を明らめたかと思うと、そうしてまたすぐに眉を下げて難しい顔をする。何でも器用にこなしそうな印象を受けていた律は、その様が何だか親しみ深く反射的に頬を緩めた。しばらくの間本当に何でも器用にこなす降谷と一緒にいたせいで忘れかけていたが、降谷の方が人間離れしたただの超人なのである。
 それは困りましたねえと、律は露骨に他人事のように緩く笑いながら言った。思いの外、自分は沖矢昴という人間に好感を抱いているのかもしれないと、その時思った。
 何せ律は、記憶を喪失してからと言うもの交友関係に大変乏しい。身近な人間と言えばやはり降谷と風見であるが彼等を友人とは呼べず、職場の先輩である三吉とも関係は良好であるがあくまで同僚の域を出ない。まさか毛利蘭や江戸川コナンのような女子高生と小学生に友達になってもらうというわけにもいかず、律は職場と降谷の自宅を行き来するだけの毎日だ。過去のコミュニティとコンタクトを取るモチベーションも今の所は無く、しんみりとした日々にそうして突如現れたのが沖矢だったのである。

「ですので、今度実際に指導していただけませんか?」
「え?」
「あなたが隣で教えてくれたらとても心強い」
「……、はあ」

 沖矢は何でもない事のようにそうすらすらと言葉を続けるものだから、律は神妙な面持ちでグラスのストローに口付ける。
 料理をするとなればどうしたってキッチンが必要であるが、まさかどちらかの自宅で会う前提で話を進めているのだろうか、律には定かではない。もちろん律は降谷の自宅に他人を招き入れるわけにはいかないし、かと言ってまだ素性も良く知れない沖矢の独り暮らしの家に上がり込むわけにもいかないだろう。蘭や園子の知り合いである彼が全くの赤の他人よりは信用が置けるとしても、それは律の中ではまだほんの僅かの差なのである。
 煮え切らない返事を誤魔化すようにカフェオレを呑み込んだ律に、沖矢はやはり静かに微笑んだ。

「というのは半分口実で、本当は次のデートの約束を取り付けたいだけなのですが」
「げほっ、」
「……おやおや」

 最後の一口を吹き出しかけた律に、沖矢は少しも動じず紙ナプキンを差し出す。
 ――何なんだ?人をからかって反応を楽しむ趣味でもあるのか?と、冗談とも本気とも見透かせぬ言葉を余裕たっぷりに遊ばせる沖矢を、律は今度は恨めしそうに見遣った。
 そう、思えば彼には、前科がある。東都大学院生と昴という名前から律は以前に蘭と園子が話していた浮気未遂事件を容易に結びつけたが、実際は沖矢が家に女を連れ込んでいただけという事件でも何でもない結論があるだけだった。真実は知れないが案外と女遊びをするタイプなのかもしれないし、実際花見の時に律は沖矢の距離感の近さを体感している。まさか自分は次の標的にされるか否かの見極めの瀬戸際にいるのではと、律は動揺に揺らいでいた表情を引き締める。

「友人としてでしたら、いつでも引き受けますよ」
「なるほど。手厳しい」

 そもそも次のデートも何も、今日はデートでも何でもないではないかと、ちらりと脇に置いた紙袋を律は一瞥する。言葉の割に至極愉快そうに笑う沖矢は、手元のグラスに僅かに残っていたアイスコーヒーを飲み干した。
 花見での遭遇時に律が沖矢と連絡先の交換をしたのは、それこそ友人の第一歩でも何でもない。あの豪雨の日に律が沖矢の車に置き忘れていたグラスを、返却したいとの申し出があったためである。律は沖矢の車にグラスを置き忘れていた事にも驚いたが、それ以上にそれを今日まで丁寧に保存していた沖矢自身の方に驚いた。見ず知らずの女の忘れ物など普通は問答無用で廃棄されそうなものであるが、律はまだ沖矢昴という人間が掴めない。

「今日は天気も良いし、散歩がてら街を歩きませんか?」

 すっかり空になった食器に、沖矢はちらりと景色に目を向ける。時刻は午後二時を回っていた。
 律は、米花町という街を良く知りはしない。東都で暮らしていた二十数年の記憶を失った律は、少しでも周辺の街を知ろうと休日はなるべく散策を繰り返してはいるが、米花町ばかりは敬遠していた。この所立て続けに蘭やコナン、そうして沖矢に誘われたものだからこうして足を運んではいるが、律はまだ心のどこかで赤井と遭遇した日の事を引き摺っている。沖矢の提案はやや魅力的ではあるが、やはり律は、赤井に拒絶された記憶が色濃く残るこの街を好きにはなれない。
 赤井の事を忘れると言ったのは律であるし、花井律として生きていくと決めたのも律であるのに、沖矢と出会ってからは薄まりかけていた赤井との思い出が不思議とそっと蘇る。近付いてはいけないと分かっているのに近付きたくなるような、近付きたくはないのに近付いてしまうような、アンビバレンスな感情が律の心ににじり寄っている。

「いえ、今日はこれで。久しぶりに同居人が帰宅するようなので」

 そうしてそれも、嘘ではなかった。
 降谷は異常な程に多忙を極め、思い返せば律は花見の翌日に引っ越し完了の連絡をしてからというもの、降谷と顔を合わせてはいない。時折自宅には帰っていたようであるが、それは律が仕事中の真昼間であったり律が就寝中の真夜中であったりするものだから、同じ家に住んでいるというのに姿すら視認できなかった。何かあれば遠慮せずにメールや電話をするようには言われているが、降谷の時間を奪い取ってまで報告しなければならない何かなど、律の平穏な毎日には発生し得ない。風見には顔を合わせる度に降谷さんに伝える事はありますかと尋ねられるが、律は、特にありませんという定型文をまだ一度も折り曲げた事がなかった。
 その降谷から、昼前に、今日は夕方に帰るとそうメールが届いた。よりにもよって沖矢と約束をしてしまった日だったから律は思わず項垂れたが、約束はランチであったし、早めに切り上げれば多少は手の込んだ夕食でも作れるだろうと律は待ち合わせの店の前でそんなことばかり考えていた。

「そういえば、同居、されていると言っていましたね」
「ええ、まあ。忙しい人でほとんど帰らないので、実質独り暮らしのようなものですが」
「……へえ。もしかして恋人だったり?」
「まさか。ただの職場の同僚ですよ」
 
 やや声色を強張らせた沖矢に、律は徐にその真っ直ぐな瞳から視線を逸らす。
 降谷の事は、あまり深堀されても良くない。同居に関しては隠す程の事ではないが、その相手が降谷零であるということは口が裂けても漏らしてはならない。職務の性質上、降谷の身辺は大変厳重に管理されているが、その自宅に律が転がり込んでいる事を知っているのは、律と降谷の他は降谷の直属の上司と風見に限られる。
 記憶が回復すれば降谷も安心して律を送り出してくれるのだろうが、こればかりは律の努力ではどうともならない。せめて降谷に迷惑をかけずに生活をするということが、残念ながら今の律に出来る最大限の降谷への貢献だと思っている。

「ホォー。ではあなたは、出会ったばかりの職場の同僚とルームシェアをされているのですか?」
「出会ったばかり?」
「ええ。公務員は副業行為を禁止されていますから。警察官になったのはつい最近ということでしょう?」
「……、それは、」
「それに、所属も別ですね」
「……え?」
「あなたはほとんど定時上がりだと言っていましたし、こうして休日もあるようですし。同じ警察官と言ってもろくに家にも帰れない彼とは、そもそも職務が違っているのでは?」

 しかしそうした想いとは裏腹に、実際問題として律は己の基盤が脆弱であることを沖矢の指摘に初めて気付く。
 律は自分が本庁に勤務する警察官であると話したのに、そうして沖矢から振られた喫茶リーフの話題にはつい自分もそこでアルバイトをしていた事を伝えてしまった。まさか降谷のように潜入捜査をしていたからだと嘯くわけにもいかない。コナンの追及には公安職員であった事を隠すために咄嗟にずっと総務部に勤務していたと話してしまったのに、沖矢にはつい最近警察官になったばかりだという事になってしまった。同居人が職場の同僚であると迂闊に答えてしまった事が、芋づる式に律の嘘を剥がすトリガーになっている。

「……、同居人が男性だと言いましたっけ?」
「……いいえ?うっかり口を滑らせてくれるのではと思いまして」
「あはは。それは素敵な性格をしていますね」

 にこりとまた微笑した沖矢に、律は冷めた笑いで受け答える。
 ――そろそろ出ましょうか。と、そうしてその話題から逃げ果せる事ばかりを考えて、律はテーブルの隅に伏せられた伝票に手を伸ばした。 
 沖矢も沖矢で、傍から見れば取り留めもないようなことに、何故そうして重箱の隅をつつくような質問を繰り返すのだろうか、律には不可思議だ。明らかに言葉に詰まってしまった律をそうして矢継ぎ早に追い立てて、まるでこちらが都合の悪いことである反応を見せるのを、確かめているかのようではないか。記憶を喪失し、まだその記憶が戻らない事を話してしまえば多少は沖矢の疑問も解消されるのかもしれないが、知り合ったばかりのこの現況下ではそれは身の上話のひとつとしては重すぎる。困ったものだなと触れた伝票の端に、丁度、向かい側の端を沖矢も掴んだ。

「ここの支払いは、僕が」
「いえ、私が」
「僕はデートに誘ったつもりなんです」
「そうですか。私は御礼に来たつもりなんです」

 沖矢も律も、笑顔のまま互いに伝票を離さない。
 そうして強情な事は以前から知ってはいるが今日ばかりは律も引けずに、双方が相手が譲るのを待っている。

「なるほど。それは困りましたね」
「……沖矢さんって、そう言えば私が折れると思ってません?」

 律はそう言うと、半ば無理やりに伝票を沖矢の手から引き抜いた。沖矢はそこで初めてムッとしたように眉を寄せたが、早々に準備を整え席を立つ律には諦めたように吐息する。

 "永倉さんって、そう言っとけば何でも思い通りになると思ってません?"

 律はそうして、まるでデジャブのような言葉を思い起こしながら、ぼんやりとした様子でレジの前に立っていた。遅れてやってきた沖矢は、お忘れでしたよと、律のスマホを差し出して見せる。数カ月前に置き忘れたグラスを引き渡されたばかりの律はどうにもばつが悪く、受け取りながら酷く苦笑った。鞄から取り出した覚えはないはずなのにと、ふと確かに生まれた懐疑は、店員の呼び声に掻き消えてゆく。沖矢は律の横顔を眺めながら、そうして静かに、微笑んでいた。



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