#44

「随分とご執心ねえ」

 耳元で囁くように鳴らした猫撫で声に、弁崎桐平、もとい弁崎に変装したバーボンはぎょっとして身を仰け反らす。鋭意盗聴中のイヤホンが挿さった片耳を反射的に抑えながら、途端に大変迷惑そうな眼差しを不躾に寄越して見せた。ベルモットはその反応に気を良くすると、新妻らしく可愛らしい笑みを浮かべてベンチの隣にちょこんと腰掛け直す。
 何せ、ベルモットは退屈していた。バーボンがどうしてもと言うものだから、FBI捜査官に探りを入れるためにわざわざこうして二人分の変装を施し茶番に付き合ってやってはいるが、正直な所暇で暇で時間を持て余している。赤井秀一の生存など端から信じておらず笑い飛ばしているベルモットにとっては、今日という日がとても無為なものに思えて仕方が無かった。

「普通に声を掛けてもらえませんか?」
「掛けたわよ。バーボン、バーボン、バーボンって、呪文のように三回も」

 困ったと言わんばかりに軽く両腕を上げてポーズを取るベルモットにバーボンは眉間の皺を深めるが、何もそれは言い逃れるためにこさえた即席の嘘ではない。
 ベルモットは本当にそうして、バーボンの名を三度呼んだ。聞こえなかったのだろうか、盗聴に夢中なのだろうか、もしかしてわざと無視を決め込んでいるのだろうか、その名を繰り返す度にそう自問自答を繰り返すベルモットの隣で、バーボンはじっと何かを見つめている。おやおや、これは盗聴どころではない、珍しく完全に心が他の事に囚われてしまっているなと、ベルモットは静かにその視線の先を辿った。

「彼女、今回の件に何か関係があるの?」
「…………、彼女って?」
「ふうん。惚けるのね」

 これはいよいよ面白くなってきたなと、ベルモットは歪に持ち上がりそうになる口角を抑える。
 バーボン。任務の性質上圧倒的に共に過ごす時間が長いと言えるが、この男はベルモットにとって今でも掴み処がない。粗野で乱暴者の多い組織の中では、紳士で教養があり物柔らかな印象の強いバーボンとはわりと親和性が高かったように思うがしかし、どれ程時を過ごした所でバーボンは己の領域への侵入を許さないし、牽制するかのようなその馬鹿丁寧な口調はずっと変わらないままだった。わざと可視化されたその亀裂のような一線に、余白を持たないつまらぬ男だなとさえ思っている。
 しかし一方でベルモットは元来、自分に傅く男と、仕事の出来る男が好きだった。バーボンはこれが仕事のパートナーとなると、なかなかどうして相性が良い。性格に難があると言えど実際この男は卓越した観察眼と推理力を持って大変優秀な探り屋として機能しているし、銃や爆弾の扱いにも長け腕っぷしも強いときたものだから工作員には打って付けだ。抜け目なく、大胆であるのに寸分の狂いなく正確に、その手腕はいつもハッとする程に鮮やかだ。スタンドプレイが目立ち媚も売らないから組織内部に敵は作るが、その軋轢を遥かに凌ぐ実力で批判の声を捻じ伏せている。
 この男は一体何の大義を持ってこの組織に身を置いて居るのだろうと、ベルモットはいつも不思議に思っていた。殺しが好きなわけではない、金が欲しいわけでもない、そうして他に行く当てがないというわけでもない。目的もなく浮草のように人生を漂流しているのかと思いきや、しかしそうして本当はこちらに見えぬ海底にきちんと根を下ろして、着実に進路を取っているような気にさえさせられる。それこそがバーボンをバーボンたらしめる理由であり、それこそがきっと、ベルモットの愛すべき秘密であるのだろう。じっと熱視線を送る先でバーボンは早々に態度を翻し盗聴に集中する素振りを見せるも、残念ながら既に手遅れである。

「知り合い?安室透の?それともバーボン?もしかしてまだ隠している別の名のあなたの?」
「……話しかけないでもらえます?会話が良く聞き取れない」
「いいわよ。あなたが話してくれないのなら直接彼女と話すから」

 秘密とは、秘密であるからこそ美しい。解き明かされるべき謎への知的興奮とはまた違った、愛でるべき甘美な恥部のような誘惑がある。
 だからベルモットは何も、俄かに沸いたバーボンの秘密を白日の下に晒したいわけではない。そうして自分の指先が触れるか触れぬか程度の位置で、転がす事のできる距離に置いておきたいと思っている。
 常日頃、ベルモットは不服だった。バーボンはベルモットの秘密を二、三握って弄べるというのに、ベルモットはそうではない。せめて同程度のリスクを共有しなければ、仕事上のパートナーとしてはアンフェアだ。もっとも、その人間の本質が滲む秘密自体を、ベルモットが個人的に愛しているという前提は否めないのであるが。

「……、本当に困った人だな」

 何の躊躇いも無く席を立ったベルモットの右手首は、背後から衝動的に強く掴まれる。多大な余裕を孕ませてゆるりと振り返ったその先で、バーボンは大層不満気に表情を歪ませていた。崩れたポーカーフェイスはきっと、ベルモットの強行よりも数分前の己の迂闊さを嘆いている。
 任務中なんだから大人しくしていてくださいと強引にベンチに戻されたベルモットは、お前の方こそ任務に集中したらどうだと心中で反発しながらも上向いた機嫌でご満悦な様子である。深い溜息を吐きながら虚ろな瞳ですぐ脇の桜を眺め始めたバーボンの隣で、ベルモットは飴細工の露天商と言葉を交わしている女の姿に視線を這わした。何が何でも接触すらさせたくないらしいなと、ようやく解かれた右手首の熱がまだ残っている。

「安室透のクライアントですよ。だから少し驚いただけです」
「……クライアントねえ。依頼内容は?」
「ストーカー被害に遭っているとかいないとか」
「遭っているとかいないとか?」
「守秘義務があるので話せません」

 どうやらまともに取り合う気も無さそうだと、ベルモットは一笑に付した。ベルモットは何も冗談などではなく実力を行使できる立場にある事をひけらかしたつもりであるが、まだバーボンはそれを一時の気紛れだろうとでも踏んでいるのだろうか。それとも、そうして気にも留めない些細な問題であるように振る舞えば、こちらが勝手に飽きるだろうと思っているのだろうか。バーボンが嘆くべきは己の迂闊さばかりではない。そうして計り損ねたベルモットの執着心である。
 さてどう攻め崩すべきかと算段を重ねるベルモットの隣で、その時、バーボンの目尻がぴくりと動作した。盗聴器に神経を注ぐその様子は何か動きがあったのだろうが、見失うものかとベルモットが視界に捉えていた女も何やらスマホでのお喋りに夢中だ。――ああ、ぶつかるなと、ベルモットは思った。道中で立ち尽くしている白いシャツの男性に、彼女が真っ直ぐ突き進んでいる事に気付いているのは、今この時はきっと、ベルモットだけだった。

「どうやら面倒な事になりそうですよ。神社の近くで事件があったようです」

 三、二、一。ゼロと、カウントする直前、しかし男性が振り返る。間一髪の所で、彼女はその胸の中へ飛び込んだ。
 思わず安堵に浅く息を吐いたベルモットの視線の先で、しかし数秒、彼等の時間ばかりがまるで止まってしまったかのように、行き交う人の群れの中で二人の姿ばかりが妙に尖る。あっという間の出来事であったような気もするし、長いひと時であったような妙な心地のするベルモットは、何か言葉を交わしているその様子をじっと眺めていた。案外と長く話し込んでいるのは、何かトラブルでもあったのだろうか、こう距離があってはその唇の動きまでは読み取れない。

「もしかしたらこの弁崎桐平という男は何か事件に、」
「ねえ、バーボン。そのストーカーって、背の高い茶髪の眼鏡なんじゃない?」
「はい?」

 視界の端でバーボンが振り向いたのが分かったが、ベルモットは二人から目を逸らさない。
 彼等は相変わらず何か言葉を交わしており、そうして彼女はその肩に重たく背負っていた荷物を男の手に託した。まさか怪我でもこさえたのだろうかとも思ったが、別段身体を気にするような素振りもない。それどころか次の瞬間、彼女に向かって伸ばされた男の左手はその潤沢な髪を撫でるものだから、ベルモットは眉間に皺を寄せながら首を傾げた。まさか恋人か何かなのか?と、そう邪推する程度には彼等の距離感は危うげにあまりにも近い。
 そうして丁度人の波が二人を上手く隠した頃、ベルモットはようやくバーボンを振り返った。もしかするとあの優男もバーボンの秘密に迫る鍵かもしれないと、揺さぶりをかけるつもりで開いた唇を、ベルモットは静かに閉じる。自分のように眉間に皺を刻む程度であったならばまだ可愛らしかっただろうが、バーボンの表情からは完全に色が消えてしまっていた。まるで無感動な人形であるかのような精巧な気持ちの悪さに、気圧されたベルモットが思わず口を噤んだのである。

「……今、何がどうなって、ああなりました?」
「……、教えて欲しい?」
「ええ。焦らさないでもらえますか?」

 ようやく息を吹き返した仄かな苛立ちの色には、しかしそれを何故かベルモットに八当たりされるものだから、理不尽だと思わずにはいられない。
 つい数分前までは、取るに足らない事でもあるかのように貫き通そうとしていた癖に、それを簡単に覆せる程には事の一部始終を知る事の方が大事なのだろうか。もしもあの男がバーボンの秘密に携わっているのだとすれば、彼女と同じようにその存在をあやふやにしただろうが、バーボンはそれをしない。それはつまり彼がバーボンの射程圏内に居ないという事であって、そうなればその張本人に話を聞こうとしていたベルモットに事情など分かるわけもない。知り合いでなければただのナンパか何かなのではとも思うが、とてもではないがそう言い出せる雰囲気ではない。

「別に、恋人と待ち合わせていただけでしょう?」
「彼女に恋人など居ませんよ」
「……、あなたに申告しているとは限らないわ」
「申告などしてもらわなくても把握しています」

 淡々と語るバーボンに確かに感じた妙な齟齬に、ベルモットは意識的に一度ゆっくりと瞬きをした。数秒頭を真っ白くさせたベルモットは、そうしてまたゆっくりと考え始める。それは探偵として彼女の身辺調査をしたという意味だろうか、彼女が安室透のクライアントであるというのは実は本当の話だったのだろうかと、突如ベルモットを困惑させる程度にはバーボンの言葉には歪みがあった。
 しかし一方で、これは思った以上に闇が深そうだなとベルモットはほくそ笑むのを止められない。そうしてバーボンが固執すればする程に、これまで頑なに守り続けていた城砦の端にぽっかりと穴が空く。決して尻尾を掴ませなかった男に垣間見える確かな人間らしさに、ベルモットは愛が募るのである。

「何のために?」
「……何のために?」
「あなたは何故そうして彼女を支配するの?」
「……、支配などしていません。管理の一環です」
「ハハッ」

 ――ああ、あなたは、そういうこと。
 思わず鼻で笑ったベルモットに、バーボンは口の端を歪めて言葉に詰まる。管理している自覚はあるのだなと、おもちゃを横取りされたような子供にしては、変に聡すぎた事が事態を歪めた原因だろうとベルモットは可笑しくて堪らない。
 さて、そうなればどう転がしてやるのが面白いだろうと、ベルモットは無機質な日傘の柄を緩慢な動作でくるりとなぞった。下手に刺激して反発されればその殻に閉じこもりかねないし、話を聞いて傍観に徹するだけでは子供はいつまで経っても子供のままだ。脳裏に浮かんだ彼女の後姿にもう一度傘の柄をくるりとなぞったベルモットは、静かにその形の良い薄い唇を開く。

「彼女が思い通りにならないと不安でしょう?あなたはきっと、そうしなければ自分の心の平安が保てない」

 ひらりひらりと舞い落ちる桜の花びらばかりが、時の移ろいを教えてくれていた。
 バーボンは瞬きすら忘れてベルモットをじっと見つめ、ベルモットは静かにその思考回路が弾き出す答えを待っている。どれ程時間が経っただろうか、ようやく息を吐いて嗤ったバーボンの口から零れたのは、馬鹿馬鹿しいと、たったのその一言だけだった。

「何も知らない癖に、知ったような口を利かないでもらえますか?」
「ええ、そうね。でも知らないからこそ見えるのよ。ズブズブの依存関係が」
「依存?彼女が僕に?」
「逆よ。あなたが、彼女に」

 バーボンは再び、言葉に詰まった。しかしそれも一瞬、確かに何かを反論しようと開かれたその口は、再び静かに閉ざされる。恐らく事態の進展があったのだろう、盗聴器を抑えながら眉間に皺を寄せたバーボンは、小さく舌打ちした。ポケットに収まっていたマスクを取り出しながらちらりとこちらを見遣ると、またふらりと視線を宙へ逃がす。
 目を離した隙に彼女に接触でもされたらたまったものではないのだろうと、二の足を踏むバーボンの様子をベルモットはただ眺めていた。その存在がベルモットに知れた以上、そうして隠蔽し続ける事に意味などない。それよりはその弱点を互いに握り合い、円滑なコミュニケーションのために利用するのが得策というものだ。宙に浮かせたまま闇雲に突つかせては、互いに消費するものが多すぎる。
 程なくして恐らく同じ結論に至ったであろう、バーボンは大変不本意そうに重く吐息した。

「……僕はあなたの大切な人達に手を出さないと約束しました。あなたも同じ約束をしてください」
「ええ、もちろん。彼女があなたの大切な人だと言うのなら善処するわ」

 にっこりと笑った女優の笑みが気に喰わなかったのか、曖昧な努力目標に留めた言葉が気に入らなかったのか、気弱そうな弁崎の面でその瞳ばかりが冷えていく。
 遠くで聞こえる祭りの囃子が酷く滑稽に、二人の間を通り抜けていった。

「――驕るなよ、ベルモット」

 ゆったりと持ち上げた視線の先で、ベルモットはその獣のような眼に囚われる。
 氷のように研がれた声音も、薄い皮膚の上を静電気のように駆け抜けていく殺伐とした空気も、ベルモットは知らない。バーボンでもない、安室透でもない、名の知れぬその男はその双眸ばかりを上手に撓らせて、挑発的と言うにはやや尊大に、蔑むようにベルモットを見下ろした。 

「俺はいつでもお前を葬れる。その辺の桜の枝を手折るよりも簡単にな」

 それはまるで、とても他愛無いことでもあるかのように、つまらぬ世間話の延長のように。決して虚仮威しではないはずのアンバランスな気味の悪さに、言葉を失ったのは、次はベルモットの番だった。人混みに上手く紛れていく背中を眺めながら、そうしてベルモットはベンチで独り、耳に残る男の言葉を繰り返し聞いている。あの男は一体いくつの顔を持っているのだろうと、紳士の皮の下で確かにせせら笑う本性には、咄嗟に何も切り返せなかった自分に辟易としながら、やはりベルモットは傘の柄をくるくるとなぞった。
 ベルモットは既に、それに勝る大変な充足感に包まれている。うっかりとパンドラの箱まで開けてしまったような感は否めないが、今はそれよりも、豪雨のように突然水を吸わせた芽吹きが今後どう育っていくのだろうか、そればかりが楽しみで仕方が無い。愛に振れても、堕ちるところまで堕ちても、いずれにせよ今までクソ程つまらなかったバーボンという男を引っ掻き回すだろう。
 それぞれの多方向に交わる激情に、ベルモットばかりが、あまりに恍惚とした表情でその行く末を眺めている。



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