#43

 花見客で大変混雑している境内手前の街路を、花井律は心を逸らせながら歩み進めている。春めかしい花見気分に浮かれているからではない。午前の予定が思いの外長引き米花町への到着が遅れ、待ち合わせ時刻を三十分程経過してしまっているからである。先におみくじを引いたりお参りをしているから大丈夫だよと江戸川コナンからは既にメールを受領してはいるが、そうは言ってもそろそろ花見が始まる頃合いだろう。
 別段律自体は居ても居なくても宴の開始に影響はないが、律が近くのスーパーで調達したドリンク類は届けてやらねば乾杯ができない。弁当やらシートやら必要なものは準備していくから手ぶらで構わないとは言われたが、いい年齢した大人である律はそういうわけにもいかずに、せめてもと飲料の準備を申し出た。子供達の好みが分からずやたらと買い過ぎた大量のペットボトルが右肩に重く、律は買い物バッグを再び背負い直す。

「順路はこちらです!押し合わずにお進みください!」

 混雑する行列の中、誘導係が張り上げる声を後方に律はようやく鳥居を潜った。おそらく社まで続いているであろう砂利道を踏みしめながら、律はくるくると物珍しそうに辺りを見回す。規模の大きく立派で荘厳な神社であるが、今は露店を連ねて提灯を吊り、お祭りムード一色だ。沿道に植わった桜は満開で、優しい薄桃の花は風が戦ぐたびにひらひらとその片を宙に舞わせている。
 子供防犯プロジェクト撮影会の際にコナンを始めとする少年探偵団の面々と知り合った律は、コナンや蘭と以前からの顔見知りという関係も助けたのか妙に彼等に懐かれてしまった。あれよあれよという間に一緒に花見に行く話が固まりそうになった時には適当な理由を付けて逃げてしまおうと口を開きかけたが、まだ年端も行かない子供達に律さんの分のお弁当も頑張って作りますねときらきらとした笑顔を向けられてしまっては律も嘘をついてまでは断りづらい。幸い近所の発明家の男性が保護者役を買って出てくれているようではあったし、結局律はあれ程敬遠していた米花町へこうして再び足を踏み入れることに決めた。蘭や園子といい少年探偵団といい、どうも米花町の住人とは縁がある。

「お姉さん、たこ焼き買わない?焼きたてだよ」

 露店商の中年男性は透明なパックに入ったたこ焼きを掲げて見せ、香ばしいソースの香りが鼻腔を擽った。何か降谷への土産になるようなものがあればと店を覗きながら歩くが、適当なものは見つからない。
 今晩家に帰って来るというのならば話は別だが、降谷はこの所特に多忙を極めており律は十日以上顔も合わせていないのだ。当初はスケジュールの申告を求められていたが、律が従順に経験値を積んだおかげで今はそういうこともなく、あえて連絡を取らなければならない用事がないから、一応の同居人でありながら降谷と最後に話したのはいつだったかと首を捻る程である。
 桜の写真でも送っておこうかと悩んで、結局止めた。おそらく寝る間も惜しんで仕事に明け暮れているであろう降谷に、律がそうして遊び歩いている写真など送っても、そのストレスレベルの上昇にしか貢献できない。明日は引っ越し当日であるが当初参加予定であった降谷は来れなくなった事を風見から伝えられているし、その引っ越しを何の問題もなく滞りもなく済ませたという報告が降谷の一番の心休めになることだろう。

「やばいやばい、ほんとに死んでるって」
「犯人まだ捕まってないらしいよ」
「え?まだその辺にいるってこと?」

 そろそろコナンに電話でもと鞄のスマホに伸ばした律の右手が、その時止まる。
 まだ中学生くらいの女の子三人組の冗談のような会話が、すれ違いざまに律の耳に届いた。誘われるように振り返った律の視線のその先で、彼女らは足早に出口に向かって駆けていく。ぱちくりと一度瞼を瞬いたその直後、次第に大きくなったサイレンの警報が、境内に俄かに響き渡った。

「あの、何かあったんですか?」
「すみません、現在調査中ですので。……ああ!ちょっと、外に出ないで!」

 がやがやと騒がしい出入口のひとつである鳥居近辺は、目に痛い黄色の規制線が張られ花見客を囲い込んでいる。面倒事に巻き込まれまいと慌てて出口に向かって行く客に倣い律も再びその場所に舞い戻ったのだが既に手遅れで、しっかりと神社内に隔離されてしまっていた。
 こうして出入口を封鎖するあたり犯人がまだ捕まっていないと言う話は本当なのだろうが、それが殺人犯ともなれば皆この場を離れたい一心なのだろう。律の質問など一蹴されて、警察官らはテープを乗り越えようとする人達らの対応で手一杯である。ここで警察手帳のひとつでも見せることができたのならもう少し詳しい話を聞いて手伝うこともできたのかもしれないが、生憎本日非番である律は手帳など携帯していない。徐々に大きくなる人だかりは混乱に沸き始め、律は押し出されるようにしてひとまずその場を離れた。

「あ、もしもし?コナン君?」

 何度かコールを鳴らしてようやく繋がった電話に、律は社に向かう足を止めないままホッと心を撫で下ろす。
 行き交う花見客が口々に漏らしていた会話からはどうやら境内奥のトイレ裏で女性が撲殺されたらしい事を掴んだが、その付近でおみくじを引いたりお参りをしていたであろう子供達の安否が気掛かりだった。全く、花見に来て殺人事件に巻き込まれるとは不運な子達であるが、律も律であと三分程遅刻していればこうして神社内に封じ込められるような事はなかったと思うと、なかなかに自分も間の悪い人間なのだろうと辟易とする。

『僕たちは平気だけど、阿笠博士が事件を目撃しちゃって』
「ええ?」
『事件が解決するまでは動けないから、悪いけど律さんもどこかで待っていてくれる?』
「ねえ、もしかして、今現場に居るの?なら私もそこに、――わっ、」

 やや早口でまくし立てるコナンの声音を、ひとつでも正確に掴み取ろうと律の注意はその時右耳に集中していた。
 前も見ずに歩く速度ばかりを早めて、ああまずいと、そう思った時には眼前に長身で白いシャツの男性の背が迫っていた。慌てて足を止めようとしたが、もう間に合わない。むしろその反動で律の爪先は大小の砂利に突っかかり、ぐらりと傾く。衝撃を直視できずに、律は反射的に両の眼を強く瞑った。

「――怪我はありませんか?」

 しかしながら、覚悟したはずの惨事は訪れない。寸での所で振り返った男も反射的に、その広い胸で倒れ込む律の身体を受け止めたからである。
 頭上から降り注ぐテノールの声音は静やかで、支えるように掴まれた両肩から伝わる熱がじんわりと熱い。そしてそれ以上に律は己の不甲斐なさが恥ずかしく、カッと熱の集まる頬に、バクバクと途端にバタつく心臓に、くらりと眩暈に似た感覚すら過ぎる。

「す、すみません。前を、見ていな……く、て、」

 数秒越しに、律はようやく顔を上げた。
 交わる視線には、互いに寸分の誤差なく同時に息を呑む。

『……さん、律さん、聞いてる?今どこに居るの?』
 
 肩を掴んだままの両手の力が少しだけ強くなった気がして、それは律の手中に握られたままのスマホからコナンの声が聞こえたのを合図に、ゆるりと弛んで、そうして離れる。どうぞと穏やかに通話を促され、言われるがままに律は再びスマホを耳に宛てるが、視線ばかりは男から逸らせない。

「……ごめん。後で折り返すね」
『え?いや、ちょっと、』

 まさか、もう二度と会うこともあるまいと思っていた男に、こうして再会してしまうのだから縁とは不可思議なものだ。記憶を喪失してから律史上最悪の一日だったと言っても過言ではないあの日、雨の中動けずにいた律に彼は傘を差し出してくれた。あの時もしもその介抱が無かったとしたら、律はあのままその場を離れられずに、意識を手放すまで泣き続けたかもしれない。
 日光に所どころ透ける薄茶の髪と、優しげなその声色が記憶の底から確かに蘇る。強引にコナンとの電話を切電すると、すぐに律は唇を開いた。

「あなたは、あの時の」
「……ええ。良かった、思ったよりも元気そうで」
「え?」
「心配していたんです。あの時、忽然と姿を消してしまわれたので」

 開口一番、男は律の身を案じる。
 柔らかな物腰と丁寧な言葉遣いには当時と変わらぬ印象を律に与え、律は改めて彼の車から無言で逃げ去った過去の自分の行為を恥じる。

「あの、その節はすみませんでした。お礼も言わずに」
「いえ。気になさらずに。……何か、お辛いことでもあったんでしょう?」
「……ええ、まあ。でも、もう吹っ切れたので」
「……、……そうですか」
 
 男は一瞬何かに言い淀み、そうして何かを言いたげな瞳をするが、結局は当たり障りない相槌に言い換える。顔見知り程度のこの関係性で、それ以上踏み込んだ所でどうしようもないことを互いに分かっている。挿げ替えられる話題がないかと探すが、それこそ初対面と言って差し支えない男との間に共通の話題などあるはずもなく、律は改めて御礼を言ってその場を立ち去ろうとした。
 しかし、それを察知したのか男が声を上げるのが一歩早い。あの、と呼び止められた律は次の言葉を待つが、しかし男は再び言い淀む。

「ああ……いえ、その。……今日は、お花見ですか?」
「え?……ええ、そうですけど。あなたは違うんですか?」
「え?ああ、いえ」

 当たり前だろう?今ここに花見以外の目的の人間などいるのか?と律は幾分明後日の方向を向いた世間話に怪訝な顔をする。
 しかしそれは話を投げかけた当の本人も同じだったようで、突然切り返された律の質問に不意を食らったように動きを止めると、一度視線を投げた後でその焦点を再び律に定めた。

「……僕は花に興味はあまり。ここには、失くしたものを見つけに」

 律には、男が何の話をしているのか定かではない。しかしそれよりも、律は自分を見つめるその両の眼の下に沈む暗い隈に、ふと意識を囚われる。まるであの人のようだな――と、それこそ段ボールに押し込んでクローゼットの奥深くに封じ込めた感情があの日の記憶と共にじわりと滲み始める。

 "彼の仕打ちを何かに書き留めておくといい。裁判で有利な証拠になる"
 "大丈夫です。ちゃんと日記をつけているので"

 カウンセリングの影響だろうか、律は断片的ではあるが以前の花井律の記憶を思い出しつつある。揺れる電車に、倒れる傘、ギターケースに、光るナイフ。律は降谷から、夏葉原リセットマン事件に巻き込まれた事を機に記憶を喪失し行方知れずになった事を聞いており、おそらくそれらがまさに当日の記憶だろうと思っていた。それが先日、蘭と園子の恋愛トークに、ふっと写真のように明瞭なワンシーンがフラッシュバックする。その電車内で隣同士に座り笑い合って言葉を交わす、花井律と永倉圭の姿だった。
 どうして、思い出すのはあの人のことなのだろう。思い出したい降谷零と花井律の過去をひとつも思い出せずに、律はそうしてそのワンシーンをひたすら頭の中で繰り返し視ている。カウンセリングの進捗を気に掛けてくれている降谷には、赤井との過去を思い出したなどとはとてもではないが伝えられるはずもない。

「南の鳥居の近くに、遺失物センターがありましたよ」
「……ハハッ。いえ、幸いもう見つかったので」
「はあ、そうですか」

 なぜ笑われたのだろうと再び顔を顰める律を前に、男は随分と可笑しそうに笑って見せる。
 あの時は男から良く知った煙草の香りがした気がしたが、今日は微塵もそれが感じられない。誰かの移り香だったのだろうなと、律はしばらくの間その煙草に火を点すことを止められなかった自分を思い出して、掻き消すようにかぶりを振った。

「でも、でしたら災難ですね。事件があったみたいで、出入口は封鎖されてしまってますよ」
「ああ、そのようですね。あなたはご友人と合流される予定ですか?」
「はい。現場の近くに居るようなので」
「では近くまでご一緒に。荷物をお持ちしますよ」
「えっ、いえ、大丈夫です」
「遠慮なさらず。まだ近くに殺人犯がうろついているかもしれませんし」

 その申し出にぎゅっと肩に掛かった買い物バッグの紐を握る律の前に、男の左手が差し出される。確かにもっともな理由ではあるがその犯人は何も無差別連続殺人犯というわけでもないだろうし、万が一遭遇したところでこの細身の優男が犯人を撃退できるとは思えない。しかも男は知らないだろうが、律はこれでも一応泣く子も黙る警察官なのである。残念ながら記憶障害のため逮捕術等はひとつも覚えていないが、職業上はむしろ律が一般人を守らなければならない身の上なのだ。
 律はもう一度その提案を断ったが、これがどうして、男も引かない。差し出された左手は、律が荷物を引き渡すのを待っている。

「ふむ。困りましたね」
「……それは私の台詞では?」

 妙な攻防はしかし何だか面白おかしく、律と男は顔を見合わせてくつりと笑う。半ば面倒になった律はまあ別に自分に不利益があるわけでもないしと、その手に買い物バッグを託した。
 物腰は柔らかくとも案外強情である。まだ名も知らぬ男は満足したように頬を弛ませて、そうしてふと、視線を動かした。

「――動かないで。桜の花が、」

 その手は、ひとつの躊躇いもなく伸ばされる。視界を覆ったその掌は大きくて、律はいやに時間がゆっくりと経過していくような錯覚を覚えた。
 するりと右頬にかかる髪を一束掬ったその指は、はらはらとすり抜ける髪から一枚の桃色の花びらを摘まむ。ああ、取れたと、言いながらそれを宙に逃がした男は、視線を戻した先で表情を殺した律と目が合った。
 当然である。それこそ名も知らぬ男に、会って数分と経たぬ男に、たとえそれが花びらが絡まっていたからと言え髪を撫でられるなど言語道断だ。二の句が告げぬ律にはしかし男も俄かに顔色を変えて、そうしてハッとしたように顔を強張らせる。

「……すみません……、つい、」

 それは一体何の、つい、なのだろう。どうにも気まずそうに律から顔を背ける男を、なぜか律はじっと凝視している。
 律は平気な顔をして、そうして内心では困惑を隠せない。男の動作に嫌悪を感じたからではない。男の動作に嫌悪を感じなかった自分に、自覚があったからだ。
 なぜ、どうして。律には分からない。顔も声も振る舞いも、何もかもが違うこの男が、律の記憶の底に住まう男と重なる。赤井もそうして、律の髪を梳いた。眠れぬ夜に、寝付けぬ夜に、節くれだった固い指先で、大きな掌で律の頭を撫でていた。なぜ、どうして。やはり律には、分からない。
 赤井秀一の消えない面影に、花井律はどうしようもなく、動揺している。


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