#42

「は?降谷さんが結婚?」

 風見裕也は我が耳を疑って、助手席に座る律を一瞥する。しかしゆるゆると進みだした前の車に気付くとすぐに視線を戻して、右足をアクセルに移動させた。
 繁華街は金曜日の夜に浮かれた人間達で大層賑わっているようであるが、残念ながら風見も律も楽しい週末の予定などない。それどころか風見はこれから業務報告のためにバイト終わりの降谷と落ち合う予定があり、こうして帰宅途中の律を拾ったのはそのついでである。多少の遠回りにはなるが約束の時間にはまだ余裕があったし、丁度、律とは近々予定している引っ越しの日取りの相談をしたいと思っていた所でもあったのだ。

「だから引っ越しの話は少し待ってもらえませんか?」
「え?なぜですか?」

 しかしながらその話を持ち出した風見に、律は神妙な面持ちで予想の斜め上の返事を寄越すものだから風見の頭上には疑問符が浮かぶ。ゆるゆると今度は停車した車列に静かにブレーキを踏んでから、どうにも的を得ない会話運びに風見は律に顔を向けた。
 風見が降谷から引っ越し業者の手配という雑務を奪い取ったのは、十日程前に遡る。当初、律の自宅を引き払う事に関しては両者共納得していたが、その後律が新しい居所へ移り住むのか、またはしばらく降谷の自宅に身を寄せ続けるのかについてはやや争点となった。風見は、いつまでも降谷の世話になるわけにもいかないという律の訴えも分かるし、まだ復職したばかりで記憶障害の治療もなあなあのまま、そう何から何まで急ぐ必要はないだろうという降谷の主張も分かる。板挟みの風見にはしかし何の決定権も無く、話し合いの末に軍配は降谷に上がった。最後は律も納得して自宅の荷造りを始めていたし、あとはその荷物を降谷の自宅へ移すだけだった。

「なぜって、マズいでしょう。風見さんが降谷さんの婚約者だとして、降谷さんの自宅に異性の部下が居候していたらどう思いますか?」
「……、それはブチ切れますね」
「そうでしょう?」

 その例えが適切かどうかについては風見は甚だ疑問であるが、一般常識から鑑みて律の言い分には頷かざるを得ない。
 なるほど、しかし、その大前提にそもそもの歪みがあるのだ。風見はまさか復職したばかりの律の耳にまであの噂話が届いていたのだろうかと、瞬時にその経緯を理解する。

「花井さん。ですが降谷さんに結婚の予定はありませんよ」
「……、本人に確認されたんですか?」
「いえ、していませんが、断言できます」
「なぜ?」

 律は疑いの眼を風見に向けた。その時、丁度信号機の色が変わったようで、風見は前に向き直りハンドルを握り直す。五秒程の沈黙の後で、風見はゆっくりと唇を開いた。

「その噂話の発端が自分だからです」

 隣で律が眉を寄せたような気がする一方で、風見の瞳は死人のように色を失った。俺はただリフレッシュ休暇の代理申請を適当に埋めただけなのに、何故その子供の遊戯のような罪を周りは忘れてはくれないのだろうと、いまだに蔓延る誤報を心底疎ましく思う。
 そもそも、降谷に結婚などしている余裕があるわけもない事は、頭を冷やして考えずとも分かるだろう。ただ婚姻届けにサインをしてやればいいのなら一枚の紙切れくらい他の書類に混ぜ込む事は可能であるが、家庭を持ちまともな結婚生活を送るという話ならば今の降谷には不可能だ。結婚?次の潜入先の相談か?と、大真面目な顔をして首を傾げるであろう降谷の様子が風見には難なく想像できる。

「……、風見さんと降谷さんの間には何かしがらみでもあるんですか?」

 やはり五秒程の沈黙を置いて若干引き気味に尋ねた律には、風見は乾いた笑いばかりを返した。
 過去の律であったのならば、降谷の結婚などという噂話は鼻で笑って流しただろう。へえ?私たちが書類の海を掻き分けている間に降谷さんはバージンロードでも歩くつもりですか?と、キーボードを叩く指の力を強めながら語気を荒くする律を思い浮かべてすぐに、いや、そこまで皮肉屋でもなかっただろうと、風見は己の過ぎた脚色を掻き消しながらずり下がった眼鏡を片手で直した。

「それより、そんなことで頭を悩ませるなら、本人に直接確認したら良かったのでは?別に聞きづらい内容でも無いですし」
「……、言われてみればそうですね」
「そうでしょう?」

 風見はおそらく唯一、降谷零と花井律を巡る諸事情をおおよそ把握している人間と言える。しかしだからと言って、それが直ちに律との距離間を縮めたわけではない。
 律が職場復帰を果たす数日前になってようやく風見は律との再会が叶ったのであるが、それは大変他人行儀なひと時であった。律の記憶障害は重々承知であるし覚悟もしていたのだが、数年を共に過ごし大事に育ててきた後輩に、初めましてとやや強張った顔で言い放たれたのには正直風見の心も沈下した。何の事情も知らされないままに当時仮屋瀬ハルに遭遇した降谷の心境は、きっとその比ではなかっただろうなと今になって分かる。

「なぜ私はそうしなかったんでしょう?」
「さあ?自分に聞かれても」

 降谷は風見の気持ちを慮って丁寧に律との橋渡しをしてくれてはいるが、風見自身が消極的では解ける荊も解けない。隣で不思議そうな顔する律に反射的に率直な意見を即答した後で、風見はすぐに自分を省みた。せめて律の話に真摯に向き合ってやり、職場の元先輩としてこちから歩み寄る努力をすべきだろうと、開口した風見の口は、律のそれもそうですねと言った投げやりな言葉に音を漏らさず再び閉口する。しばしの沈黙の後で結局風見の口から零れたのは、それでは引っ越しの日取りを決めましょうかというどうしようもない戯言だった。

「まだ何か気掛かりが?」

 しかし、降谷の入籍疑惑が解消されたにもかかわらず律は口籠るものだから、風見は訊ねる。
 繁華街を抜けて住宅街に進み入れば、喧騒は消え、ひっそりと包む闇は等間隔の街灯が薄く歩道を照らしていた。

「……他の人が受けるはずだった恩恵を横取りしているような気分になるんです」
「……、どういう意味ですか?」

 具体性に欠ける律の言葉は、あてどなく車内を浮遊したまま、風見にはその着地点が分からない。律は難しい顔をしたまま小さく唸ると、そのまましばし押し黙る。
 何やら複雑な話に発展しそうだなと珍しく勘の働いた風見は、大通りに出る手前の路肩に車を寄せた。チカチカと一定のリズムを守るハザードランプが数度瞬いた所で、律は徐に話始める。

「こうしましょう。記憶喪失を境に、それ以前の花井律を花井A、以降を花井Bとします」
「現在のあなたが花井Bということですね」
「ええ。それで、降谷さんが花井Bの世話を焼くのも、優しくするのも、花井Bに花井Aだっという実績があるからです」
「……はあ」
「花井Bが花井Bであることは、そこに何の関係もありません」

 風見は、律の言わんとしていることが分かるようで良く分からない。それが一体引っ越しと何の関係があるのだろうと首を捻ってしまうあたり、生まれつきの生真面目さが仇となっている。
 たとえばその花井Aが花井律だとして、花井Bが仮屋瀬ハルだとすれば、まあ話は分かる。花井律が受けるはずだった利益を何の理由もなく仮屋瀬ハルが教授するということになれば確かにそこに実害が生まれるだろう。しかし、実際花井Aは花井律であるし、花井Bも花井律であるのだ。その等号が結ばれる限り、花井律が花井律である限り、何が不都合であるのか風見には定かではない。律の言葉通り、それは本人の気分というとても曖昧な感覚の問題なのではとすら思ってしまう。律の言葉を損得勘定と数式で分解する風見には、いまひとつもう一歩先への踏み込みが足りていない。

「アイデンティティクライシスの類について言及されていますか?」
「……いえ、そういうわけではないと思います。近しいところではありますがやはり論点がずれます」

 律が記憶を喪失する前後の人格に乖離を感じているという悩みであれば、まだ話のしようもあっただろう。
 しかし律は、最近通い始めたカウンセリングで記憶の復元に大変積極的であると風見は聞いている。仮屋瀬ハルにやたらと執着していた頃からどのような心境の変化があったのか風見は詳細まで知らされていないが、それでも今、律は本来あるべき姿へ戻ろうと努力しているのだ。そこに歪みが生じているとは風見にはどうにも思えない。

「降谷さんも、花井律は花井律だと言ってくれました」

 律はその言葉を想起するように、僅かに視線を宙に泳がした。
 点滅を続けるハザードが、やけに風見の眼に煩い。

「自分もそう思います。花井Aも花井Bも花井律です。花井Aは花井Bなくして存在し得ませんし、逆もまた然りです」
「でもそれは、花井Bが花井Aに成り代われるという話ではないでしょう?埋まらないものはたくさんあります」
「――それはつまり、花井Bは花井Aに成り代わりたいというお話ですか?」

 刹那、律は虚を衝かれたように動作を止めた。風見はその反応を得てようやく、愚直に再び反射的に率直な意見をぶつけた自分に気が付いた。やはりまた、五秒ほどの静寂を伴って、律は質問に答えることをせずに風見から目を背ける。

 "降谷さんが花井Bの世話を焼くのも、優しくするのも、花井Bに花井Aだっという実績があるからです"
 "花井Bが花井Bであることは、そこに何の関係もありません"

 それはつまりと、風見も同じように律から視線を目を背けて車道に拡がる暗闇を眺める。
 彼女はそれを罪悪感だと言ったが、それだけであったのならばその対象に成り代わりたいという話にまでは発展しない。だからそれはつまり、つまり、愛されるべき花井Aに対する憧れや劣等感に因ったのではないのだろうか。そうしてその感情は確実に、降谷零という人間の存在を介在している。
 風見はようやく働き出した己の思考回路が、かなり正答に近いような気がする一方で俄かには信じ難く、口許を手で覆った。まさか、あの花井律が降谷零に?と、あの日会議室で大喧嘩を繰り広げた二人の姿が風見の眼前に浮かぶ。

「……というか、花井Aも花井Bも、花井律ですよねえ」

 そうして次に浮かんだのは、その鮮烈な映像を掻き消す程の仲睦まじい最近の二人の様子だ。
 安室透と仮屋瀬ハルとして関係を築いていた頃の殺伐さは降谷から完全に消え去り、降谷零と花井律として送る日常は大変良好に風見の目に映る。律は降谷の言う事を良く聞くし、降谷もまた律の話を良く聞いている。律の事となると何故か我が物顔で決定権を行使してきた降谷であるが、今や二言目には話し合って決めると言い始めるものだから風見はびっくりだ。仮屋瀬ハルから全てを取り上げた傍若無人ぶりを懐かしく思う程度には、降谷は律に譲歩を見せている。

「私は一体何の話をしているんでしょう」

 そろりと風見が視線を戻した先で、律は虚ろな瞳のまま、やや自嘲気味に呟いた。
 風見も降谷も、花井Bに花井Aを強いることなど決して望んではいない。仮屋瀬ハルではなくて花井律であるということ、花井律として生きるということは本当はただそれだけで良かった。
 だから風見はおそらく、記憶を喪失した律の世界を軽視していたのだろう。風見も降谷も、どうしたって頭の片隅や無意識下で過去の律を引き合いに出すし、比較し、重ね合わせることを止められない。当の本人ばかりが知らぬその過去を知る、周囲の人間の心の機微を敏感に感じ取り律はその期待値に応えようとしてしまう。そうしてそれはどうも、降谷零と花井Aへの羨望が深度を増すに比して。

「引っ越しの話でしたよね。業者さんのご都合の方は?」

 しかし、律は確かに何かを掛け違えているような感を棚上げしてただ前を向いた。
 そうして全てに気付かない振りをして生きてなどいけるのだろうか、結局は時間が解決してくれるのだろうかと、風見はろくに返事も出来ないままにハザードランプを切った。ゆっくりと発進した車は程なくして大通りに立ち入ると、交通量の多い車道に紛れていく。

「来週末の土曜日はいかがですか?」
「土曜は午前にカウンセリングと、午後は、お花見に誘われていて」
「お花見?」
「はい。桜の有名な神社があるらしくて。日曜なら空いています」

 また気の変わらない内にさっさと事を終えてしまおうと、風見はようやく決まった引っ越しの日程を降谷の報告事項に付け加える。もしかするとカウンセリングの進捗についても言い及んだ方がいいのかもしれないと、頭の中では律の心に育ち始めている違和の方ばかりが気掛かりだ。
 来週が丁度花の見頃らしいですよと、既に切り替えられた当たり障りない世間話にはだから、風見は適当な相槌を打つ。美しく咲き誇る花の下で交錯する数多の思惑に、律が絡め取られている事など風見は知る由もない。



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