#41

「え〜?!じゃあ花井さんって今フリーなんですか?!」

 次第に声量を増していく女子高生らの質問攻めに、呆れたように笑う律を降谷零はカウンターの一角から横目に見ていた。
 平日夕刻のポアロは客足も落ち着いており、降谷は乾いた布でグラスを拭く動作を繰り返しながら彼女らの会話に耳を欹て、そうして自分は考えに耽る余裕がある。そろそろ喧しいと注意するべきだろうかとぼんやりとまたひとつ増えた物患いにはしかし、とりあえずは閉口する降谷もその話題の内容がやや気に掛かっている。
 小五郎の娘である毛利蘭に、鈴木財閥のお嬢様である鈴木園子。律にはあまり安室側の人間達とは関係を持って欲しくはなかったのだがと、降谷は静かに次のグラスを手に取った。

「やっぱり失踪した元彼が忘れられないとか?」
「いえ、そうではなくて。それにその人は彼氏というわけでもなくて」
「……え?でも同棲してたんですよね?」
「同棲ではなくて、同居を」
「……一ミリも好きじゃなかったんですか?」
「一ミリくらいは好きだったと思います」

 警視庁で蘭さんとコナン君に接触してしまいましたと律に聞かされたのは、その日の夜の出来事である。案外世間というものは狭いし、こうなる未来もあるかもしれないとは降谷も頭の隅で思っていたが、それがどうしてこうも早い。律を警視庁の総務部に異動させ復職させてから、数日と経たない内である。
 公安部に戻して大人しくさせていればこうはならなかったはずだが、降谷はこれを転機とばかりに喜々として律を前線から外す事を優先させた。幸い、記憶を喪失した律には公安という職務に執着はなく本人も新しい環境下での復職を望んでいたものだから、珍しく降谷と律の話合いはかつてない位に穏やかだった。降谷のかねてからの悲願は達成されたわけであるし、こうした多少の不都合を甘受してやれる程度には、降谷は結果に満足している。明日お茶をすることに決まってしまったと素直に申告した律には、なら場所はポアロにしなよと、降谷がそう言った。

「え〜……大人の恋愛って奥が深いわ〜」
「……ねえ、園子。この話題、変えようよ」
「嫌よ!蘭だって気になるでしょう?!花井さんの恋愛遍歴!」
「あはは。私は二人の話が聞きたいですね」

 項垂れる園子に、律は多大な余裕を孕ませて淡々とその追及を躱していく。蘭は律のその過去にまだ多少の遠慮があるようであるが、心配無用とでも言うかのように律の声色は明るい。永倉圭、もとい赤井秀一との諸事情を土足で踏み荒らす能天気な園子に降谷は最初の内はどきりとしたものであるが、こちらはこちらで良い傾向だなとホッと胸を撫で下ろしていた。
 随分と長かったなと、降谷は思う。突然記憶を奪われ、恋人だと自称する男が眼前に手を差し伸べればそれに縋るしかなかったとは言え、律は随分と長い間あの男に心を奪われていた。そうして赤井との記憶を言語化し整理して、過去のものとして笑い飛ばせるようになればもう、その心の病の完治は近いと言える。律の新たな生活の基盤は整えたし、あとは適度に日常を忙しなく過ごさせてやれば、律はもう、赤井の事など思い出す事もなくなるだろう。百万歩譲って一ミリ程度の好意ならば、それが消える様を慈悲深く長い目で見守ってやってもいいと思っている。

「蘭のはただの惚気話になりますよ?超ラブラブでメロメロな旦那がいるだけですから……」
「えっ、蘭さんて結婚してるんですか?」
「ち、違いますよ……!もう、園子!」
「えへへ。いいじゃない、いいじゃない。どうせ将来を誓い合った仲なんだからさあ」
「誓い合ってなんかないってば!」

 繰り返される色恋沙汰の内容を、降谷はもうポアロで何度も耳に挟んでいる。他にもっと建設的な話題は無いのだろうかと女子高生の性に呆れ返る一方で、律は、案外と愉しそうに彼女らの話に耳を傾けているものだから、まあそれなそれでと降谷は視線を食器に戻した。
 過去に律と懇意にしていたであろう友人達には事情を説明し、引き合わせるのは折を見てという事で話がついている。律には当時彼等と連絡を取り合っていたスマホも既に手渡してはいるが、本人も記憶の戻らぬ現状では躊躇いがあるのだろう、関係の再構築にあまり積極的ではない。過去の律を知り、かつ今の律と距離を縮めたのは風見くらいのものであるが、それも連絡の取りづらい降谷の緊急避難的措置である。
 だからそうして、過去の自分を知らない人間と関係を築く方が、本人も随分と気楽なのだろう。もちろん人選には再考の余地があることを否めないが、女子高生の繰り出す話題はどこかの眼鏡の少年のような鋭利なそれではない。何か都合の悪い方向に話が転がれば自分がフォローをするもりでいたのだが、この能天気な話が飛び交うだけであればわざわざ場所をポアロに指定しなくとも良かったのだろうとすら思う。

「でも、そういえばこの間、浮気の危機にまで発展して」
「浮気?蘭さんの旦那さんが?」
「花井さん、だから旦那じゃ、」
「そうなんですよ!家に口紅を拭ったグラスがあったり、排水口に長い髪の毛が引っ掛かってたり!」
「……いや、目敏すぎません?良くそこまで気付きましたね」
「わ、私じゃなくて!気付いたのは同級生の世良さんっていう探偵の子で、」

 そう、事は順調に進んでいる。いや、今となってはもう、順調に進んでいたという表現が正しい。
 綺麗に磨き上げたグラスに映った己の眼を、降谷はじっと見つめた。決して晴れた視界でなくとも、白煙に包まれた相貌であったとしても、降谷の眼が捉えた現実は変わらない。

 ――手榴弾!
 ――誰だ!?誰だお前!?

 錆び付いた扉の金具が悲鳴を上げた音と、鉄と鉄がぶつかり合って響いた軽い金属音が、降谷の頭の中で何度も何度も再生される。
 もしもあの男が生き延びているとして、そのトリックを降谷はまだ論理的に示すことができない。それ以上に、何故あの男があの時降谷の前に現れたのか、そうしてリスクを承知で素顔までをも晒して見せたのか、降谷にはそれすら説明することができない。それでも確かに、確かにあの男は、赤井秀一だった。

「しかもそれって、昴さんが連れ込んだ女の人っていうオチだったでしょう!」
「アハハ、そうだっけ?もー、そんな怒らないでよ〜」
「……昴さんって?」
「ああ、今、アイツの家、貸しているんです。東都大学の院生の方に」
「へえ」

 あの憎たらしく持ち上がった口角には、お前など俺の手の内だと嘲られたような気もするし、俺まで辿り着いてみろと挑発されているような気にもなる。どちらにせよあの時迷う事なくトリガーを引いて、無力化するべきであったなと思うが時は既に遅い。
 もしもあの時赤井が降谷の前に姿を現さなければ、降谷は赤井の死を受け入れたかもしれない。FBIの同僚らは勿論、ベルモットがミステリートレインで接触した赤井の妹である世良真澄からも、赤井の生存を仄めかす証拠は得られなかった。ずっと赤井の生存を信じていた降谷であるが、その時ばかりは、どうにも安直にその死を呑み込む事を自分に許した。律と赤井の繋がりが浮き彫りとなり、降谷の方も事情が変わったためである。赤井秀一にはもう、くたばっていて欲しかった。

「でも花井さんも気を付けた方がいいですよ。男は浮気する生き物って言いますから!」
「ハハ。分かりました。気を付けます」
「そういえば、世良さんが言ってたよね?証拠を見つけたら書き留めておくと裁判で役に立つって」
「そうそう、カメラはデジカメよりインスタント。日記ならボールペンを使うといいって」

 そもそも何故赤井は花井律を手懐けたのだろうか、その理由がはっきりしない。
 夏葉原リセットマン事件における東都環状線の監視カメラ映像を洗い直した降谷は、律の乗車駅の数駅手前で問題の車両に乗車する赤井の姿を確認している。律のスマホは洗い済だがそれ以前に赤井と連絡を取っているような形跡はまるで無かったし、二人が邂逅を果たしてしまったのは十中八九その電車内であったのだろう。それが神様の悪戯による偶然の出会いであったのか、それとも何らかの赤井の策略によったのかは分からない。分からないがしかし、赤井が律に利用価値を見出したとなれば公安職員であるというその地位に他ならないだろう。降谷とて同じだ。使えるパイプなら何本でも手中に収めておきたい。
 しかし、その律に有用性があったかと言えば、それは否だ。運の悪い事に彼女はその事件当日に、自分が公安職員であったことを綺麗さっぱり忘れてしまっている。赤井はその時、律の使い道を失った、はずだった。

「あと、何だっけ?そうだ、天気とかニュースとかも、信憑性を上げるって」
「世良さんってすごいね。本当に、物知りだよね」
「実は過去に浮気された経験アリだったりして」
「ええ?!」
「やだもう、今度問い詰めちゃおうっと」

 それが一体どうしたら半年以上も手元に置くような事態になる?恋人と偽り偽名を名乗り合ってまま事のような毎日を繰り返したのは何のためだ?
 赤井の思考回路など、降谷に見透かせるわけもない。組織に居た頃から何を考えているのかまるで分からない男ではあったが、なにひとつ論理的でないその行動は、とうとう頭が可笑しくなったのではないかと降谷に思わせる始末である。
 まさか、降谷の正体が露呈し律を皮切りにしたいわけでもあるまい。そうなれば律を盾に降谷に揺さぶりをかけてくるべきだろうが、既にその律は降谷の手元に戻ってきてしまっているのだ。これではカードを切るのが遅すぎる。

「……あの、花井さん?」
「え?」
「どうしました?ぼんやりとして……」
「ああ!もしかして花井さんも過去に浮気の餌食に?!」
「え、あ、いいえ。そうではなくて」

 一際大きくなった園子の声に、降谷は小さく吐息すると水の入ったピッチャーを片手にホールに降りる。
 時刻は午後六時を回っていた。あと十五分もすれば買い出しで店を出ている梓も戻って来る頃だろう。降谷のシフトはそこで交代であり、夜はベルモットとの約束を控えている。ミステリートレイン爆破事件以降の降谷と言えば殊に多忙を極めているが、あまり時間に猶予はない。一刻も早く赤井秀一の正体を暴き眼前に引きずり出さなければ、その手はすぐ背後にまで迫っているような重苦しいプレッシャーすらあるのだ。降谷はピッチャーの柄を握る右手に、ぎゅっと力を込める。

「誰かに、似たような事を言われた気がして」

 律は視線を窓の外に投げると、降谷の瞳にはいつもと変わらない風景をただ眺めていた。
 随分と長くなった陽は窓ガラスから橙の日差しを伸ばして、律の頬を綺麗に色付かせている。机に立てた腕の先に僅かに口許を当てると、そうして瞼がやや左下に下がった。ガラスに映り込んだその物憂げな表情が、不意に降谷の心臓を跳ねさせて、その衝動に、降谷はぎくりとする。

「あの日は窓を叩く雨の音が、すごく煩かった」

 何の話をしているのだろう――と、疑問符を浮かべる蘭と園子を横目に、降谷は目を細めた。反射的に己の記憶を遡るも、降谷に心当たりはない。その誰かは、降谷ではない。
 ふと静まり返ったその空気に、我に帰ったように律は瞼を瞬く。窓に映り込んだ降谷とガラス越しに目が合うと、くるりと降谷を振り返った。

「安室さん、」
「……すみません。お冷を注ぎ足そうと思って」

 律はそうして時折、降谷の知らない顔をする。
 それが律が過去の律を喪失してしまっているせいなのか、はたまた降谷と律が距離を置き始めた頃からの産物であるのか、降谷には定かではない。

「安室さん、安室さん!私もお冷のお代わりが欲しいです!」
「はい、園子さん。ですがもう少し声のボリュームを下げましょう。秘密のお話が丸聞こえですよ」

 そっと口許に人差し指を立てた降谷に、勢いよく右手を挙げていた園子のその手はそのまま本人の口許を塞ぐ。蘭に窘められるその様を律はやはり呆れたように笑っているばかりだ。
 もしも律本人に、赤井との関係をもう少し踏み込んで話を聞けたなら、分かった事もあるのかもしれない。当時はまさか永倉圭が赤井秀一であるとは露ほども思わず、降谷はそれを取るに足らない事として律から赤井の目論みや思惑を搾り取る事を怠った。もちろん、今からだって律の口を割らせても遅くはない。遅くはないが、ようやく律が自主的に、赤井を忘れて花井律として生きる事を決心した今、降谷が赤井との過去をほじくり返しては元も子もないだろう。

「そういえば、安室さんもずっとフリーなんですよね?モテるのにどうして?」
「いえ、そんなことはありませんよ。それに、僕は恋愛にはどうも疎くて」
「ええ、まさかあ。絶対嘘ですよ」
「本当に。この年齢になっても分かりません。恋心というのは難しい」

 きょとんとする女子高生二人のグラスに水を注ぎ終えると、降谷はにっこりと笑って見せる。
 降谷が降谷零であれば、その質問には恋愛などしている暇がないと一蹴するのだが、安室透の回答としてはこうして宙ぶらりんにはぐらかしてしまうのが正解だろう。ただし、恋心というのは難しいと、その一言には、どうにも降谷の本音が入り混じったような気がして降谷は胸中で舌打ちする。そんな降谷の心の内など知らずに、ぽかんとしたままだった園子は数秒思考した後で、珍妙な面持ちで口を開いた。

「えー?そんなの、会いたいと思ったらもう好きだし、一緒に居たいと思ったらもう好きだよね?ラブ始まってるよね?ねえ、蘭?」

 刹那、降谷の表情は凍り付く。一方で園子に突然話を振られた蘭は動揺しながらも、その問いかけを肯定した。

 "必ず戻るから、待っていて欲しい"
 "全て知らないフリをして、俺と生きてくれるか?"

 どうして、今。どうしてあの男の言葉が過ぎるのだろう。
 急にピッチャーの水が右手に重たくなったような気がして、きゃぴきゃぴとまた騒ぎ出す高い声が鬱陶しくて、降谷は左手の拳を痛いくらいに握り締める。
 これはそう、だから、奴の十八番のトラップだ。赤井は過去にもそうして敵対組織の女を罠に嵌めて、都合の良いように操っては最後は見殺しにしている。そうやって標的に甘い言葉を囁いて、ハリボテの愛情を与えて、用済みになれば見向きもしない。律だってそう、そうして罠に足を引っ掛けただけだ。それ以上も、以下もないだろう。
 降谷はそうして一辺倒の思考を己に言い聞かせるように繰り返している。ならば赤井が律に何の利用価値を見出したのか、何故ずっとそうして自分の手元で匿っていたのか、先ほどまで確かに考えていたはずの疑問を降谷はもう考えられない。そうしてその疑問に立ち戻れば、辻褄が合わない事に気付いてしまうことを、降谷が既に理解しているせいだ。

「……花井さん?」

 ふらりと視線を戻した先に、律は心此処に在らずで再び視線を窓ガラスに逃がしている。ゆっくりと陽が落ちて薄くなる明かりにつれて、ガラスに反射する律の姿は色濃くなるのに、その視線は再び降谷と交わる事はない。
 たったの一ミリ、しかし律の心に確かに残留してしまった得体の知れない何かを、降谷は本当に見守っていてやるだけでいいのだろうか。降谷の心が、妙な焦燥感に揺さぶられている。


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